陽だまりに抱かれて
ぽつ、ぽつ。
雨が降っているようだ。
やまない雨が頬を濡らしていく。
温かい雨だ。
「ひぐっ……なつき……ぐずっ、なつき……にゃーの……にゃぁ……」
泣き声が聞こえる。
雨と共に、光が染み込んでいく。
「ニーコ……それ以上やっても……」
「ちぁう! にぁー!」
「五分は経ってますから……さすがにもう……」
「生き返ったら奇跡っすね……」
「にゃーなの! にゃなことにぁーないで! にーこは、にーこはっ……ぐすっ、にゃぁぁああぁあぁ……」
悲しそうな声。守りたかった声。
泣かないで、大丈夫だよ、と言おうとしたが、声が出ない。声どころか指一本動かない。何も見えないし聞こえない。なのに皆の声が分かる。顔が分かる。不思議な感覚。
へたりと力なく座り込み、大きく泣き声を上げるにー子。その横に、目を閉じてぴくりとも動かない自分の体がある。胴体が真っ二つになったはずだが、綺麗に元通りに修復されていた。
ああ……そうだ、ようやく思い出した。自分は死んだのだ。認識外からの圧倒的な力でもって、胴体の半分を消し飛ばされて。それをさっぱり忘れて、随分長いこと花畑を彷徨っていた気がする。
……花畑。そう、花畑だ。自分は花畑に立っていた。
しかしそれ以外が思い出せない。ただ……何かに惹かれていくのを、何かに引き留められた、そしてそれを温かく赦された……そんな感覚だけが残っている。
「アイシャお姉ちゃん、どう? 天使さんは……」
「……だめなのです、何も答えてくれないのです。でも……ニーコちゃんが何かをすれば大丈夫だって、言ってたはずなのです」
「何か……って?」
「分からないのです……天使さんの言葉、難しくてよく分からなかったのです……うぅ……」
アイシャがナツキの体に触れる。触覚はない、その様子を俯瞰的に感じている。
「気の循環路が……真っ暗なのです。やっぱりもう……」
「まっくら……あっ! それ、ナツキお姉ちゃんが見せてくれたやつかも! ハロにも見せて!」
ハロが言っているのはカイの妹ヒルネのことだろう。今の状態は確かに幽体離脱に似ているが、少し違う。魂が肉体から抜けかけているのは同じだが、抜け出すのではなく、抜け落ちようとしている。
肉体を循環する気の流れが根源の窓へと引き抜かれる死の瞬間、ほんのわずかな間だけ、魂は肉体の束縛から解放された状態で現世に存在できる。走馬灯やら臨死体験やら、そういう類の不思議な現象はそのタイミングで起きるものだと言われている。今はきっとその状態なのだ。
……何故かそれがずっと続いているようだが。
ハロはナツキの指先を握り、探り始めたが――他人の気の循環路をスキャンして根源の窓を見つけるというのは、練気術の中でもかなりの高等技術だ。昨日ナツキ経由でヒルネの循環路の様子を見せたときとはわけが違う。やがて一人では上手くいかないことに気づいたか、ハロはしゅんと肩を落とした。
その様子を見てアイシャとハロは何も出来なさそうだと思ったか、にー子はリリムの下へと走った。
「ぐすっ、りりむ……なつきなおすの、てつだって」
「っ……ニーコちゃん」
「りりむ、おいしゃさん!」
「うん……でもね、お医者さんは……死んじゃった人は……」
「にぁー、ちぁう! しんでないもん! ふあふあしゃん、はいるもん! ほら!」
光が染み込んでいく。その度に意識を引き寄せられる感覚がある。
上級回復魔法だ。致命傷をも修復できるその力を、にー子は無詠唱で使っている。
しかし……足りない。引き寄せられた意識が、また元の位置へと戻っていく。
致命傷を治せるというのは、死者を蘇生できるという意味ではない。肉体が死に、抜け落ちかけている「死にかけの」魂を、本当に死んでしまう前に肉体に引き戻せるという意味だ。
気の循環を丸ごと根源の窓からこちら側へ引っ張り戻すためのエネルギー、一度死んだ体に気の循環を再度定着させるためのエネルギー、体の生命活動を再開させるためのエネルギー……それらは全て、時間経過で指数関数的に増大していく。気の循環が全て窓の向こう側に抜き取られた段階でそれは無限大となり、死が確定する。
そして……上級回復魔法でもどうしようもなくなるまでの猶予は、肉体の死からおよそ10秒と言われていた。
「なんで……ぐすっ、なんで……りりむもきーるも、おきたのに……なつき、にゃーの……おきて、なつき……っ」
リリム達はきっと致命傷を負ってすぐ治癒を受けられたのだろう。先程リモネちゃんが言ったとおり五分も経っているなら……もう手遅れのはずだ。肉体を修復できても魂が戻れなければ意味が無い。
「ねーリモネ、手伝ってあげないのー? ちょっとかわいそうかも……」
「キルネ……知ってるでしょう、あたしは回復魔法は使えないんです」
「もーそうじゃなくて、マナ増やしてあげれば、ってこと!」
「原初の涙用のパスに繋げろってことです? ……無茶ですよ、ただのギフティアじゃ耐えられません」
マナは《塔》のサーバから送られてくる、とリモネちゃんは言っていた。しかし無尽蔵にマナを得られてもそれを処理するための回路がなければ意味がない。無理やり流そうとすれば回路からマナが溢れてマナ中毒になってしまう。
そんなことは知らないにー子は、手伝ってくれるかもしれない雰囲気のリモネちゃんの下まで駆け寄った。
「りもね! あのね、にーこがんばる! だからてつだって!」
「ニーコちゃん、頑張るとかそういう話じゃなくてですね、死んじゃうんですよ。あなたが」
「いいの! なつきはにーこがなおすの!」
「いいわけがないです。ナツキさんはあなたを助けにきたんでしょう?」
「っ……に……でも……でも!」
食い下がる。その真剣な眼差しに何かを感じたか、リモネちゃんは一つ溜息をついてにー子の手を握った。
「なぅ?」
「しょうがないですね、あたしが中継します」
「ちょっと、リモネ!? 何する気?」
「大丈夫ですよー、危なくなったらあたしが弁になりますから。……あたしだって諦めたくないんです。リリムさんだってそうでしょう」
「それは……もちろん。でももう……」
「完全に手遅れ、ではないですよ」
リモネちゃんの言葉に、俯いていたリリムは顔を上げた。
「マナがナツキさんの体に吸い込まれたってことは、まだ治癒を受け付けられる状態ってことです。ニーコちゃんの言うとおりまだ死んでません。マナが足りないんです」
「マナ……」
「一般人向けの説明でいくと、天使の力。ニーコちゃんの言葉を借りれば、ふわふわさんですよ」
「ふあふあしゃん! りもね、ふあふあしゃんよべる? いっぱい、いっぱいいないとだめなの! すこしだと、すぐきえちゃうから」
腕を大きく広げ、いっぱい、と連呼するにー子に、リモネちゃんの眉が上がる。
「この子……感覚で何が問題なのか理解してますね」
「にぁ……?」
「行きますよ。リリムさんはニーコちゃんの脈の監視を!」
「え!? わ、分かった……いや分かんないけどっ、本当に大丈夫なの……ってうわぁ!?」
リモネちゃんとにー子の身体が明るい黄緑色に発光し始めた。咄嗟に飛び退いたリリムは、すぐ迷いを払うように首を振ってにー子の手首を押さえた。
「あーもうっ! 後でちゃんと説明してね!?」
「にぁ……ふあふあしゃん、いっぱい! すごい!」
「むぅ、こうも簡単に転換しますか……やはー、嫉妬しちゃいますね」
「何も分からないけど、呑気なこと言ってないで二人とも集中して!?」
にー子の体からマナの粒子が溢れだしてくる。その全てがナツキの身体に染み渡っていき、意識が引き寄せられる。
先程より格段に量が多い。が、まだ足りない。
「りもね、もっと!」
「マジですか!? いや確かに抵抗全然ないですけど……え、息苦しかったりぼんやりしたりしてません?」
「しない!」
「大丈夫、脈も顔色も異常はないよ!」
にー子とリリムからの返答を受け、リモネちゃんは訝しげに目を細めた。それはそうだろう、術を受けているナツキですら、すでに一般的な人間の魔力回路の限界を超えていると把握出来る。まるで、勇者として魔力回路を超強化されたトスカナが戦場で数百人を一度に癒す範囲回復を使ったときのように。
「……ちょっと回路見せてください」
「に?」
リモネちゃんが繋いでいないほうの手をにー子の頭に載せる。そのまま無言で集中すること数秒、はっと目を見開いた。
「まさか……嘘ですよね?」
「なぅ? にーこうそついてない!」
「や、そうではなく……これは……」
「リモネ? 大丈夫なの!?」
ふ、とリモネちゃんはどこか懐かしそうな微笑みを浮かべ、はっきりと頷いた。
「……ええ、問題ないです。もっと出力上げますよ!」
にー子の身体から滝のようにマナが溢れだしてくる。
それが全て体に染み渡っていくのを感じる、その最中――
『頑張ってください、ニーコちゃん!』
光に乗って、ひどく懐かしい声が聞こえた気がした。
そして――何も見えなくなった。
しかし声は聞こえる。頑張れ、頑張れ、とアイシャ達がにー子を応援している。それが、鼓膜を震わす音として聞こえる。誰かの小さな手が指先を握っている。
そうか、何も見えないのは……目を閉じているからだ。魂だけの存在ではなくなったからだ。
――ナツキの魂が、肉体に戻って来られたのだ。
「に……っ、ふあふあ、しゃん……」
「そんな……やっぱり手遅れなんですか……?」
だと言うのに何故かにー子の声が悲しそうに小さくなる。リモネちゃんまで悔しそうにしている。何だ何だ、勝手に殺すな。
「どうしたのさ、にー子」
瞼を開けると、涙と鼻水でぐちゃぐちゃのにー子の顔が見えた。
「にぅ……あのね、ふあふあしゃん、はいらない……なつきに、はいらにゃい……っ、にゃぁあぁああ……」
「あーそういうことか……大丈夫だよ、回復魔法って死んだ人だけじゃなくて、元気な人も素通りしちゃうものだから」
「に……ほんと?」
「ほんとほんと。だってほら、生きてる」
片手を持ち上げてそっとにー子の涙を拭ってやると、にー子はぱちくりと目を瞬かせた。ようやく気づいてくれたようだ。
「……なつき?」
「うん」
「ゆめ、ちぁう? ほんもの?」
「夢じゃないよ、本物だよ。だからほら……おいで、にー子」
「にぁ……!」
体を起こして両腕を広げてやると、にー子は涙を溢れさせながら飛び込んできた。まるでようやく親を見つけられた迷子のように、一目散に。
「ぅ……うぇ……にゃつき……にゃあ……にーこ、こわかった……」
「うん……うん、ごめんね、すぐ助けに来られなくて」
「ちぁうの、さみしいの、にゃーなの……なつきとばいばい、にゃー……」
「うん、大丈夫、ボクはここにいるよ。にー子が魔法をかけてくれたおかげでちゃんと生きてる。ありがとね、にー子……それにリモネちゃんも、他のみんなも、うわっ!?」
にー子を抱きしめながら、皆にも礼を言わねばと周囲を見上げたその瞬間、何かが飛びついてきた。……リリムだ。
「ナツキちゃん、無事でよかった……ほんとによかった……!」
「大げさ……って言いたいところだけど、今回ばかりはボクも死んだと思ったよ。……いやほんと、何でボク生きてるんだろ」
「そんなのどうでもいいのです!」
リリムとは逆側から、今度はアイシャが飛びついてきた。
「ナツキさんが生きていてくれれば……理由なんて、何でもいいのです。ぐずっ、ナツキさん……よかった、えぐっ、死んじゃわなくて……うぅっ……」
「アイシャ……ごめん、心配かけて……っていうかアイシャもよく無事だったね」
アイシャはナツキの退場と入れ替わりに飛び出してきたはずだ。そうだ、あの後一体何があったのか――
「ナツキお姉ちゃぁあん!」
「わっ、ハロ!?」
「ハロだって、お姉ちゃんのことは大好きだもん! 元気になって、とってもうれしい! だから、ぎゅー!」
ハロが横から飛び込んできたのを皮切りに、ずっと遠慮がちに見ていた周囲の面々もわらわらと近づいてきた。
「どさくさに紛れてあたしも抱きついていいですか、ナツキさん。ありがとうございます」
「紛れられてないし、まだ何も言ってないよ!」
「あはっ、じゃあついでにキルネもー」
「あ、じゃあウチも一応、流れ的に。ほんとにちっちゃいっすねー」
「キルネとボクってそんな距離感じゃなかっ……待って、知らない人いるんだけど!?」
「ワイは……絵面的にあかんなぁ」
「スーは……つめたいから」
「あーもう! 二人とも来ればいいじゃん! みんなありがとう、ボクは幸せ者だよー!」
もはやヤケクソ気味にその場の全員の抱擁を受け入れ、巨大な団子となる。その中心で押しつぶされないようナツキが守るにー子は、
「にぅー……ぽかぽか」
陽だまりに抱かれて眠る子猫のように、気持ちよさそうに目を細めていたのだった。
ここから第一章終了まで、毎日更新になります。