null/ν - むすびめ
色のない花畑に、ひとり佇んでいる。
灰色の空には大きな入道雲がずんぐりと蹲っていて、ゆっくりとその形を変えていく。
そよ風がさらさらと花々を揺らし、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「……今回はまたやけにくっきりしてるね」
久しぶりだな、と周囲を見渡す。
モノクロの花畑に呼ばれる夢はこれで三度目だ。毎回起きると忘れてしまっているのだが、夢の中にいる間は前回のことも昨日あったことのように思い出せる。
ただの夢ではない、という根拠の無い直感があった。
夢の登場人物はナツキを含めて二人。
そう――また会いに来て、と言われていたのだった。
「アリアー、いるー?」
呼びかけても返事はなく、見える範囲に彼女はいない。
少し歩いてみようか。
どれだけ進んでも花畑には終わりがない。無限に連なる丘の上をあてもなく彷徨いながら、あの真っ白な少女を探す。
「……ん?」
ふと、何かに後ろへ引っ張られたような気がした。
しかし、振り返っても何も無い。
「気のせいか」
そのまままっすぐ進もうとして、……できなかった。やはり何かに引っ張られている。
まるでそちらへ行ってはいけないと引き止めるように、誰かがナツキの影を踏んでいる気がした。
「何なのさ、この先に何かあるの……って」
遠くに目を凝らそうとして、ふと気づいた。誰かがやってくる。
真っ白なワンピースに、真っ白な髪。にー子と同じくらいの背丈。ずっと探していた――
「アリア!」
――なつき、きてくれたんだ
「約束したからね。……まあ、ボクの意思で会いに来れたわけじゃないと思うけど……あれ、そういえばボクいつ寝たんだっけ?」
眠る前は何をしていたんだったか。
記憶を辿ろうとして、ふと、こちらを見つめるアリアの雰囲気が以前と違うような気がした。
「アリア? ……どうしたの?」
純真無垢な笑顔はどこかに消え、代わりにどこか不満げに大人びた、しょうがないなぁ、みたいな呆れ顔がそこにあった。
――ほんとはもう、ほどけてるのに
――ずるはよくないんだけど……
――まあいっか。みのがしてあげる
――どうせいまは、ごめんなさいできないし
――まだ、こどもだもんね
「へっ? ずる? 子供って……アリアの方が子供だよね」
――えへへ、なつきには、ありあがこどもにみえてるんだ
――なつきがいつも、ちいさなこのことをかんがえてるからかな
「ちょ……誤解を生みそうな発言だけど、まあ間違ってはないね」
――んーと、じゃあ、こどもっぽくないかんじにかえてみるね
――むむむ……
――ふおっふおっふおー! これでどうじゃ!
「おおっ!?」
突然絵に書いたような老人口調に変わったかと思うと、アリアの口元に漫画のような白いちょびひげがにゅっと生えた。
……それ以外は何も変わっていない。
「えーと……」
――おとなっぽくなったのじゃ?
――ないすばでーにみえてるじゃ?
どうやらアリアには、自分の姿は見えていないらしい。
小さな体で腕をぶんぶん振り、つぶらな瞳を輝かせ、怪しい老人言葉を連発するその姿は――紛うことなく、おヒゲのパーティグッズを身につけてはしゃぐ幼女そのものだ。
「うーん……かわいいよ」
――むー、そのはんのーは、しっぱいっぽいじゃ
――でも……むかしはみんな、ありあのこと、こわいっていってた
――なつきはこわがらないから、ありあうれしいよ。えへへ
「怖がる? アリアを? あはは、そんなことあるわけないじゃん」
こんな小さくてかわいい女の子が怖いなんて、思うわけがない。
にへ、と子供らしい笑みを浮かべたアリアは、とてとてと近づいてきたかと思うと、ナツキの顔を下から覗き込んだ。
――なつき、とってもがんばったね
――ありあ、ずっとみてたよ
「えっ、見てたって?」
――なつきのむすびめはね、ちゃんとみえるんだ
――ほかのむすびめはみえないのに。ふしぎだね
「ボクの、結び目……」
何のことかはよく分からないが、アリアの言葉は柔らかく、そして……寂しそうだった。
――むかしはね、どんなむすびめもみえてたんだ
――みんなも、ありあがみえてたの
――でも……おおきなのがほどけて、ちいさなのがふえてって
――だんだんね、ありあとみんなははなれていったの
「……そうなんだ?」
――うん
――ありあはね、ここにとじこめられてるの
「ふんふん……え!? 閉じ込められてる!?」
いきなりの新事実に思わず聞き返すと、アリアはびっくりしたのかぱちくりと目を瞬かせたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
――えへへ、ありあはだいじょうぶだよ。なつきはやさしいね
――むすびめがね、まどをあけて、たくさんこっちにきたんだ
――それはね、もうありあはいらないってことだから
――ちゃんとやくそくもしたから、いいんだけど……
――ちょっとだけ、さみしいの
「アリア……」
言っていることは要領を得ない。共有していない別次元の概念が、少ない語彙に射影されて流れ出しているような――そんな一方的な発話。
それでも、アリアが辛さを堪えて気丈に振舞っているのは分かった。
――なつきはね、とってもとっても、あいしょーがいいみたい
――むすびめのかたちが、ありあのおうちのかぎにぴったりなんだ
――これはね、とってもとっても、めずらしいんだよ
「鍵……ボクがこの世界にやって来れるのが、そのおかげってこと?」
――うん
――でも、かってにそんなかたちになるなんて、へんだから……
――むすびめのかたち、だれかにかえてもらったこと、ある?
「え、どうだろう……そもそも結び目ってのが何のことなのかよく分かってないんだけど」
――えっ? むすびめは……んーとね
――いとをね、きゅってしてね
――ほどけないようにしたらー、できあがり!
「あはは……うん、それはわかるけど」
――そうなの? あのね、いろんなむすびかたがあってね
――おんなじむすびかたでも、みんなちがうの
――みんな、ちょっとずつ、かたちがちがうんだよ
形。容姿なら大幅に変えられてしまったが、そういうことではない気がする。
ならば内面、魂のことだろうか。気の循環路を糸に見立てれば、魂は結び目と言えなくもない。
しかしそれだと「結び目の形を変える」の解釈が難しい。人によって異なる魂の形、つまり指紋のようなものは確かにあるのだが、それは原理的に不変であって、生まれてから死ぬまで変わらないものだ。
――んー、わかんない?
「うーん、ちょっと難しいや」
――そっかー。こっちにきてないとわからないのかな
――でもだいじょうぶだよ
――なつきのむすびめは、ありあがちゃんとみてるから
「そういえば、ずっと見守ってくれてたんだっけ。アリアが見てくれてると何かいいことでもあるの?」
――あるよ!
――ありあがね、たのしい!
「あはは、それは大事だね」
――えへへ
この「おうち」に閉じ込められているというアリアの暇つぶしになるのなら、いくらでも見てくれて構わないと思った。何を見ているのかはよく分からないが。
――でも、ありあだけたのしいのは、ふこーへいだね
「そう? 別にいいよ、ボクは何もしてないし……」
――うーん、でも……じゃあ、そうだ
――ありあにあいにきてくれたときに、ぷれぜんとをあげるね
「プレゼント?」
――うん! いいことをひとつ、おしえてあげる
「へえ、いいこと?」
――えへへ、うれしい?
――じゃあねー、こんかいのいいことはねー
うーん、とうなり始める。何を教えてくれると言うのだろうか。
アリアは腕を組んでしばらくうろうろぐるぐると歩き回り、やがてナツキのすぐ目の前で足を止めた。
そして――ぎゅ、とナツキの胴に手を回し、胸に顔を埋めてきた。
「あ、アリア?」
――いまね、いとをたどってるの
「そ……そうなんだ」
すぐ顎の下に、絹のような白髪がさらさらと流れている。
アリアの体はあまり子供らしい体温を感じなかったが、心の芯が暖かくなるような、母親に抱かれて眠るときのような、本能的な心地良さがあった。
――んー……
ぐりぐりと顔を押し付け、アリアは「いとをたどる」。
――わぁ……すごい、なつき、すごいよ! えへへ……
何やらすごいらしい。何をされているのかはよく分からないが、かわいいのでまあ問題ないだろう。
しばらく謎のはしゃぎっぷりを見せていたアリアだったが、やがて集中するようにぴたりと動きを止め、
――んーとね、だいたいみえたよ
「見えた?」
――うん
顔を押し付けたまま、
――ごるぐはげんきみたい。りしゅりーといっしょにあそんでるよ
「……!?」
もう聞くことはなくなったはずの名前が聞こえた。
ゴルグ、ナツキの練気術の師匠。リシュリー、ナツキの教え子の帝国第一王女。
「なんでアリアが師匠達のことを!?」
――えへへ、なつきがいれば、こんなかんたんにみえるんだ
――やっぱり、いっぱいあそびにきてほしいな
「ボクがいれば……ってどういうこと!?」
――とすかなとぺひろはね、あるるのおしろにあそびにいってるよ
――えくせるはきょーかいにあそびに……
「ちょま、待って待って!」
――どうしたの?
「どうしたのはこっちの台詞なんだってば」
――?
頭を上げ、ナツキが何を慌てているのか分からない、とでも言いたげなきょとん顔で首を傾げるアリア。
……ああ、やはりこれは、自分が作り出した都合のいい夢なのだろう。
「未練は捨てられたって……思ってたんだけどな」
この世界で新たな人生を歩むと決めた一方で、心の奥底ではやはり気になっていたのかもしれない。残してきた仲間たちが元気に元の生活に戻れているのかを。
「そういえば……もう転生してから数ヶ月、か」
ナツキにやたら懐いていたリシュリーは、きっと訃報で悲しませてしまったことだろう。教えたいことはまだまだたくさんあったが、もし本当にゴルグが面倒を見てくれているなら安泰……いや、ナツキが受けた様々なスパルタ特訓を思い返すとあまり楽観的にはなれないが――さすがにゴルグも手加減はしてくれるだろう。
トスカナとペフィロがアルルのお城――魔王城に遊びに行っている、というのはまさに夢ならではという感じだ。そもそもあの寒がりのトスカナが、ただ遊びに行くだけの用事で、そろそろ冬に突入するはずのラグナで、氷点下の洞窟を抜けられるわけがない。……まあそれでも、一番打たれ弱いトスカナが元気なのであれば、それは願ってもないことだ。
ペフィロは人の生き死にに頓着するタイプではなかったので、あまり心配はしていないが……魔煌国に行くならちゃんと服は着ておいてほしいものだ。服を着せようとする現地の警備員と争いになって城を消し飛ばし、二次大戦が勃発しかねない。
エクセルが教会に遊びに、は現実なら有り得ないだろう。というのも、誰に対しても紳士的に飄々としている彼だが、教会の面々にはあまり良い印象を持っていなかったはずなのだ。「前世の話だから筋違いなんだけどね」と照れたように笑っていたのを覚えている。
仲間と過ごした数々の思い出が走馬灯のように脳裏を巡っていく。それだけで目頭が熱くなるほど、本当にいいパーティだった。
――なつき? だいじょーぶ?
「ん……ありがと、アリア。元気出たよ」
――ん!
――あ、あとねー
「うん?」
――あきは、とってもがんばってるよ
「……うん!? え、秋葉!?」
――うん。なつきのかぞくの、あきは。おぼえてる?
「そりゃもちろん……アリア、どこまでボクの前世のこと知って……あ、いや、夢なんだから当然か」
どうやら、ラグナの仲間たちの記憶に引っ張られて日本での記憶まで呼び起こされてしまったらしい。
めちゃくちゃ甘えてくる割にやたら頭のいい妹、秋葉。両親を早くに亡くした自分達にとって、お互いは唯一の肉親と呼べる相手だった。
あの交通事故で死に別れてもう二年半、流石に心の整理はついている。なんたら財団からの援助もあったはずなので、何事もなければ今頃秋葉は中学生になっているはずだ。……後追い自殺とかしていなければ。
「秋葉がちゃんと前向いて生きられてるなら、それは……うん、本当に嬉しいよ」
――ん
――だからね、もしそのときがきたら
――なつきは、ありあをおこっていいからね
「え、それってどういう……」
――きゅーねも、ずっとずっとがんばってるから
――ごめんなさいしなくていいように、たすけてあげて
――はーねは、みえないや。こっちにいるみたい
――あかねとしげるは……ちょっととおすぎるかな
「ちょーい待って待って、母さん父さんまで行くともう十年以上前だしボクもちゃんと覚えてないよ!」
巡路茜、母親。巡路茂、父親。そんなところまで掘り進んでいくとは思っていなかった。夢は記憶の整理時間だなんて説があった気がするが、こんな年末の大掃除みたいなやつではないだろうに。
「ってかキューネとハーネって誰……いや待てよ、ハーネはなんか聞き覚えあるな。誰だっけ……あ、そうだ、あの時の天使!」
ラグナに転生したとき、別れ際に名乗っていたはずだ。他の勇者パーティの面々もその名前を口にしていた気がする。
しかし今アリアが言ったもう一人、キューネという名前には聞き覚えがない。
――え? なつき、きゅーねのことわすれちゃったの?
「え、ボクが知ってるはずの人なの? うーん……、っ!?」
使命を果たせ。
使命を果たせ。
使命を果たせ。
――なつき?
使命を果たせ。
使命を果たせ。
「あ、あ……なん……っ」
使命を果たせ。
――……!
――ごめんね、ごめんね、なつき!
使命を果たせ。使命を果たせ。
「ち、ちが、アリアは悪くな……っ」使命を果たせ。
使命を果たせ。
――あ、わ、あわぅ……
――ごめんね、ありあね、ごめんね
「いやだからアリアのせいじゃなくてっ、これ前からたまに――」
使命を果たせ。
使命を果たせ。
使命を果た「だから使命って何だよ! クソっ!」
使命を果たせ。
使命を果たせ。
使命を果たせ――――
天国の門をこじ開けろ、終幕と共に再会は果たされる。
全てはただ、あなたの幸いのために。
「……え」
世界が歪む。
唐突にやってくる、終わりの合図。
――ごめんね、ひぐっ、ごめんね……
アリアの嗚咽混じりの声が、姿が遠くなっていく。
アリアのせいではないと、ちゃんと伝えたい。
なつき、なつき、と呼ぶ声が聞こえる。
アリアの声ではない。もっと聞きなれた声。
世界の端からねじ切れて、空間ごと暗闇へと落ちていく。
「アリア!」
破れかけの世界に、想いを込めて――
「またね!」
黒に覆われ、微睡みの水面へと浮かんでいく。
体を包む温かさは、アリアの抱擁の余韻と――癒しの光が染み込む感覚。
あれ……そういえば、自分は死んだんじゃなかったっけ?
――夢の終わり。