Noah/λ - 願いの代償 Ⅱ
天使と過ごす日々は慌ただしく過ぎていった。
惑星規模の大災害によって滅亡しかかっているこの世界で、天使の少女はただひたすらに前を向き続けた。あらゆるものを犠牲にし、ただひとつの願いを叶えるため、神獣という人智を超えた脅威から壊れかけの世界を守り続けた。
自分たちはその「お手伝い」をした。天使のお手伝いだからと言って聖女的な何かを期待するのはこの世界では筋違いだ。もっと現実的で生々しく血生臭い――そう、政務と軍務だ。
やがてこの世界に、奇妙な存在が生まれ始めた。妖精だの精霊だのと呼ばれる幼子の魂を宿した疑似生命体、今で言うところの星涙だ。自分たちと同じく天使が作っているのかと思いきや、そうではないらしい。
「りんりん。お前たちも含めて、元からあったこの世界の仕組みなのね。余は嵐の中からそれをちょっと切り取って、避雷針を立てて、安全な傘の中に入れてあげただけなの」
「嵐……ですか?」
「分からなければいいの。とにかくあれは計画に必要不可欠な存在なの」
疲弊しきった社会は幼女パワーで少しずつ明るさを取り戻していき、やがてリモネは軍務長としてその管理を命じられた。
なぜ自分が、なぜ軍務で、という疑問は当然あったが――今となってはよく分かる。分かってしまう。あの時点で主には見えていたのだ、消耗品の兵器として消費されることになるラクリマの姿が。
やがて第三の転生者であるセイラがやって来た。彼女の願いもリモネ達と似たようなもので、死に別れた恋人との再会だった。その頃にはもうラクリマの管理体制も整いつつあり、三人は特殊なラクリマ「原初の涙」として分類されることになった。政治と軍事と技術開発をそれぞれ分担し、統治組織としての《塔》を運営した。
この頃にはとっくに分かっていたことだが、この世界で初めて目覚めたときに部屋を満たしていたフルーティな香りは、リモネ自身が発しているものだった。これは人間とは異なる存在であることを示す特徴、すなわち忌印だ。
「お前の体液は全部果汁100パーセントなの。血はブラッドオレンジジュースなのね」
「や、あたし何でそれで生きてるんです?」
「りゅふふ、細かいことは気にしちゃだめなのね。ラクリマってそういうものなの」
「でもわたしにはないですよね、忌印……リモネさんやセイラさんにはあるのに」
「りゅん、忌印をつけるのに失敗した試作一号がそのまま動いてるのがお前なの。今からでもつけてみるの? 記憶が保持される保証はないけど、猫耳なりうさ耳なり生やしてあげるの」
「け、けっこうですっ」
ラクリマはまともな生物ではない。生殖を必要とせずにマナの海から生まれ、体が大きく破損するか魂の寿命が尽きれば光に溶けて消える。それはリモネ達原初の涙でも同じであり、身体形状はある程度好きに作り替え可能なのだと、主は言っていた。
体液が柑橘類果汁である自分の忌印種は、シトラス。原初の涙だけの世代番号である「{}」を加えて、リモネリア=ニル=シトラス。それがこの世界での自分の名前となった。
やがて、大災害で失われた人口もある程度回復し、各地に街と呼べる規模の拠点が構築された頃、聖騎士が生まれた。主が才ある人間に天使の力を分け与え、各地の統治を任せたのだ。
「そろそろ計画を進めるの」
笑顔と共に放たれた天使の一声により、過去のラクリマに関する記録の抹消と改竄が始まった。
「これ、本当に……いいんですか」
「りゅん、何も心配することはないの。これが一番、犠牲が少なく済む方法なのね」
「で、でも……ラクリマにだって意識は……」
「それについてはセイラが進めてるの。みんなすぐに気にならなくなるの」
セイラが開発した、寿命を消費して神獣に有効打を与える剣――アイオーン。ラクリマはそれを振るう使い捨ての兵士となり、人権は奪われた。ラクリマの感情発現を抑制して身体能力を戦闘用に改造する「調整」技術も急速に整えられていった。
天使の予言通り、人々はそれを受け入れた。神獣による被害が大きくなりつつある中、人類存続のためには仕方の無いことであると、何か大切なものを捨てて目を逸らしながら受け入れた。その苦しみを後世に引き継がないよう、子供達は嘘を教えられ育てられた。《塔》による情報統制の下で一世代が巡る頃にはもう、ラクリマは意思を持たぬ戦闘人形なのだという新たな常識が人々に根付いていた。
「リモネさん……あたし、まだ死にたくないです……」
「ラクリマに死なんて概念はないですよ。星に還ったらまたすぐ生まれてくるんですから」
「でも、でも……ひぐっ、うわぁあぁん……やだぁ、やだよぉっ……」
「…………連れていってください。24番砲台の三番薬室です」
「はっ!」
「いやっ、やだ、やだぁ! 待って――」
「静かにしろ、この不良品が!」
「かひゅっ――、や、ぁ、…………」
「っ……砲弾とはいえ粗雑な扱いは避けてください。……質が落ちます」
「あ、すみません、つい……気持ち悪くて」
道具としてのラクリマを管理する立場にある以上、ラクリマに同情してはいけない――感情が芽生えないよう調整された個体に対してはその意識も保てたが、時折発生する自然感染個体や、元から人格を持って生まれるギフティア達に対して非情に接するのはひどく心が傷んだ。道具としての扱いを当然だと思っている世代の部下達と接するのも辛かった。
それでも、全ては主を助け親友と再会するためだと、今見殺しにしたのはただの喋る人形だから何も問題は無いと、ずっと自分に言い聞かせてきた。いつしかそんな非情な自分に慣れてしまっている自分がいた。
新たな常識が植え付けられたのは聖騎士達も同じだった。彼らは階級上原初の涙達が聖騎士より格上であることに対する不満を隠さず、作戦遂行に必要な天の階達が《塔》の敷地内を歩いていることにすら文句があるようだった。
不満を受けて原初の涙側が譲歩し、今はもう聖騎士の方が上位の序列に改制されているが、当時は……大変だったのだ。
「ほっとけばいいよ、あいつらはぼく達が元は人間だったって知らないんだから仕方ないって」
「よく我慢できますね。セイラあなた、毎日のようにあいつらと会話してるんですよね?」
「ぼくは通信機越しに報告受けて指令飛ばしてるだけだからね、なんともないよ。それより……」
セイラが目を向けた先、ソファベッドで黒髪の少女が眠っている。元気で明るいアホの子だった彼女の面影はとっくに消え、疲れた表情で苦しげに寝息を立てていた。
彼女にとって、怯えることなく眠れる安全地帯はこの隔離空間だけなのだ。
「あの子、直接聖騎士達と政務してるんでしょ。そんなの耐えられるようなメンタル持ってないはずなのに……」
彼女の素質は戦闘ではない。状況分析力、決断力、頭の回転の速さ、交渉術。そういう政治に必要不可欠な能力を一通り備えていた彼女は、かつては政務長としてこの星の統一に尽力してきた。各地に散らばって神獣から身を潜めて暮らしている人々を円満に《塔》の傘の下に引き込み、《塔》の計画を妨害されるリスクを排除してきた。
しかし人類生存圏のほぼ全てが《塔》の下に統一され、原初の涙の存在が秘匿され、各所の統治を聖騎士が行っている今、彼女は傍から見れば何もしていなかった。
そんな彼女に対する聖騎士達の当たりは強かった。なぜ戦いの役に立たないラクリマが自分たちより重用されているのかと、様々な嫌がらせをしてきたのだ。
「今だって政策のほとんどはあの子が考えてるんでしょ? 何で聖下経由で聖騎士達に下ろしてるんだろうね」
「聖下を通さないと話も聞いてもらえないからですよ。ラクリマの考えた政策なんか、って。……読みもせず目の前で資料破られてるの、この目で見ましたから」
「そんなっ……でもこのままじゃ……」
「……できる限りサポートはしてます」
高圧的な態度の聖騎士に怒鳴られて怯えているのを見かけたら、間に入って追い返す。会議には一緒に出席する。リモネの対人戦闘能力が聖騎士達に匹敵することは周知の事実なので、聖騎士達もリモネにはそこまで強く出られないのだ。
しかし仕事のフィールドが別である以上、リモネが庇護者として立ち回るのにも限界があった。
主たる天使に相談しても、記憶をリセットするとか精神構造を作り直すとか、人ならざる者の意見しか出てこない。あの天使にとってはリモネ達原初の涙ですら駒の一つであり、むしろ重用度で言えば計画に必要不可欠な天の階達の方が上なのかもしれなかった。
「もう少しで、平時ならあたしがいなくても軍が回るようになるはずです。それまで、なんとか……」
心のどこかで、油断していた。
原初の涙は皆、願いを叶えるために天使に仕えていて、その最優先事項のためなら多少の苦難には耐えられると、そう根拠なく思っていた。
セイラと話をした翌日、《塔》の原初の涙の数は二体になった。
――お兄ちゃんに会いに行ってきます。
そんな短い書き置きを隔離空間の机に残して、彼女は行方不明になった。
「……行方不明って何ですか」
「行方不明は行方不明なの。りゅーん、これはちょっと想定外なのね」
「なんっ……あの子を見殺しにしたのは聖下でしょう!? あたし何度も言いましたよね、もう限界だって、聖騎士に注意して欲しいって――」
「りゅわー、待って待ってなの、リモネ、何か誤解してるの」
何が誤解なものか。死に別れた兄に会いに行く、すなわち自らその命を絶ったのだ。それが読み取れないほど子供ではない。
「悠長だったあたしにも責任はありますよ。でも聖下は――」
「りんりん、あの子、死んでないの」
「――は?」
「言ったはずなの、ラクリマは死んだら星に還ってまた生まれるの。そういう世界の仕組みがあるの。でもってお前達原初の涙は、死んだらちゃんとこの部屋で蘇生するように専用線を引いてあるの」
「な……!?」
それは、良い知らせのはずだった。リモネの場合で言えば、神獣と戦って敗れても、少なくとも総指揮官である自分はすぐ戦線復帰できるということだからだ。
しかしその時リモネの胸中に広がったのは、戦慄と恐怖だけだった。
――自分たちは、死すら、逃げ道として許されていないのだ。
「原初の涙の蘇生パスは余に直結してるのね。本当に死んだなら余が気づかないわけないの。きっと、死んだと見せかけてどこかに隠れてるのね。のんびり探してみるの」
主はさほど深刻なことでもないという風に肩を竦めた。
「のんびりって……政務はどうするんですか」
「問題ないの、もう政務に専属の原初の涙が関わる意味もなくなってきたの。あの子の能力は今必要な仕事に対して過剰すぎるのね」
「え……」
「政策はもう聖騎士に任せて余がちょいちょい口出す方針でいくの。あの子が持ってた事務作業は……りゅん、あなたに任せるの。軍も整ってきたみたいだし、できるはずなの。りんりん?」
ちょうど良かった、とでも言いたげなその笑みに、背筋がざわつく。聖騎士の導入や軍の整備も済み、自分たちはもはや簡単に切り捨てられる存在になってしまっていたのだ。
セイラはまだ唯一無二の技術職として明確な存在理由がある。しかしリモネはどうか。ドールの管理、軍の統率、事務作業――どれもこれもリモネである必要のない仕事ばかりだ。
――このままでは、切り捨てられる。
そんな焦燥に駆られたのが、転機だった。
転生してからはサボっていた魔法の研究を再開し、セイラの力も借りながら様々な魔法を生み出し、一人でA級神獣をも仕留められる程度には力をつけた。軍をまとめつつも様々な問題解決のために率先して動き、市民たちからの好印象も勝ち取った。
そしてある日、当時は許されていた民間の調査団に同行してヘルアイユの涙の遺跡を探しに行ったとき。
「ぐ、ぷっ……!?」
周囲の神獣をリモネの力で一掃し、比較的安全で涼しい日陰の洞窟に入り、昼食を摂り終わったとき。
急激な苦しさと全身の痛みに襲われ、血を吐き出した。
――毒だ。
「く……くくっ……ざまぁねぇな! あんな化け物みてえな力があっても、所詮は人間ってことだ!」
調査団メンバーの一人が、自分が犯人ですと騒ぎ始めた。他のメンバーは平然と笑っている。……そうか、みんな共犯か。
しかしなぜ――
「なんで? って顔してやがるな! 教えてやるよ! 俺ら全員、てめぇら《塔》に家族を殺されたんだよッ!」
「そんな、ことっ……」
「そうだろうなぁ! てめぇらにとって! あいつは! 俺の家族にゃ見えねえんだろうな! このッ、お偉い人間様がよぉ!」
「あの子は俺の娘だった! 血が繋がってないから何だ! 忌印があるから何だってんだ! このッ、人でなしめ!」
寄ってたかって腹に何度も蹴りを入れられ、血と一緒に胃の内容物を吐き出しながら――その言葉で全てを理解する。
先日頒布された《塔》の第一回『充電』令、その対象になった不良品ドールたち。この調査団メンバーは全員、そのオペレーターだ。
――ああ、そうか。まだ自分以外にも、ラクリマを大切に思ってくれる人はいたんだ。
むしろ自分なんかよりずっと、この人間たちの方がラクリマのことを考え、愛している。
それに彼らがリモネを恨むのは当然だ。何せ充電令を決行する決議で、最後に承認のサインを入れたのは――ドール最高管理責任者たるリモネなのだから。
サインした理由? 簡単だ。聖下がそれを望むから。切り捨てられないようにするためには、聖下の扱いやすい駒のままでいなければいけなかったから。知らないラクリマの幸せより、自分の幸せの方が大事だから。……本当に、救えない。最低だ。
「何笑ってやがる、このクソガキィ!」
顔に蹴りを入れられ、顎が折れる。
毒のせいか、呼吸をしても酸素が取り込めない。意識が朦朧とし、視界が暗くなっていく。……もうどうしようもない。自分はほとんどあらゆる魔法を使えるが、回復魔法だけは使えないのだ。
前世からずっと、回復魔法には嫌われていた。風魔法は問題なく使えるのに、同じ風のマナを使うはずの回復魔法はいくら練習しても習得できなかった。今はもうその理由も分かっているが、当時は悔しくて悔しくて仕方がなかった。
幼なじみの親友はその真逆で、回復魔法しか使えなかった。いくつか年下で、しっかりもので泣き虫だったあの子。リモネが怪我をしたときは、いつもあの子が治してくれた。まるで自分が怪我したかのように大慌てで、泣きながら癒しの光を呼んでくれた。
あの子はいじめられっ子だった。初めて見たときも、大柄な男の子達に罵詈雑言を浴びせられながら困ったように笑っていた。反応が悪いことに業を煮やしたいじめっ子が殴りかかろうとしたのを代わりに受け、殴り返して追い払ったのが彼女との出会いだった。
ごめんね、ありがとう、リアちゃんは優しいね。泣きながら笑って、殴られた傷を癒してくれた彼女は――今のリモネを見て、どんな顔をしているのだろうか。どんな顔をして、会いに行けばいいのだろうか。
何も見えなくなり、蹴られる痛みも感じなくなり、死を悟ったその時――調査団の面々がどよめいたのが分かった。
「なっ……てめぇ、まさか! おいおい……嘘だろ」
「ラクリマ……まさかこいつも……《塔》、に……」
「やめろ……やめてくれよ、じゃあ俺らは一体……」
……ああ、そうか。
ラクリマはまともな生物ではない。死ぬときは光のリボンとなって空気に溶けて消える。今まさに、自分の体はほつれ始めている。
それを見て驚いている彼らは、リモネのことを人間だと思っていたのだ。聖騎士と同じ、天使の加護で特別な力を得た人間であり、ラクリマのことなど歯牙にもかけない邪悪な《塔》の手先であると。
そして、それはとても正しい。本質的にその通りだ。ラクリマだの人間だの、ガワだけ見て判断することの愚かさを彼らはよく知っているだろうに――何を狼狽えているのだろうか。頼むから、変な誤解を持ち帰らないで欲しい。自分は誤解されて殺される悲劇のヒロインなんて器じゃない、もっと醜悪な何かなのだから。
やがて何も聞こえなくなり、意識が途切れ――
☆ ☆ ☆
――――。
☆ ☆ ☆
――そして、再び目覚める。
いつもの隔離空間、こちらを覗き込むセイラの顔。
「あ、おはよリモネ。具合はどう? いろいろあったみたいだけど、記憶はどこまで残ってるの?」
ほら、ね。
殺されても復活するなんて、相当タチの悪いバケモノだ。
「あは……ははは、ははっ……はははははははは」
「ちょ、リモネ!? 聖下ちょっと、リモネ壊れてますよー! やっぱり部分適用は無茶だったんじゃ」
「りゅ? そんなわけないの、ちゃんと還る前の状態に戻って――りゅわ? リモネ……泣いてるの?」
小さな手が頭を撫でようとする。冷たく残酷な指先を振り払い、リモネはただ笑い続けた。涙が枯れるまで、心無い怪物に成り果ててしまった自分を嘲り続けた。
……どうすればよかったんですかね。
あなたにまた会いたいと願ったことが、間違いだったんですかね。
ねえ、トスカナ……




