Noah/* - 天使の雫
ナツキが一撃で殺された。
反応する間も与えられずに、胴の中ほどが弾け飛び、胸から上が宙を舞っていくのを、誰もがただ見ていることしかできなかった。
「な……なっ……」
「ナツキさん!? そんな――」
「嘘やろッ……ってオイ、アイシャ、待ちや!」
アイシャが飛び出していく。取り乱しているのかと思いきや、その目は冷静だった。まるでこうなることが分かっていたかのように。
宙に放り出されたナツキの上半身が、アイシャの腕の中に収まる。胴から溢れ落ちる赤がアイシャの体を染めていく。
「『止まるのです』」
アイシャは小さくそう呟き、ナツキの上半身をその場に横たえた。
そして、高い天井を見上げる。
「最悪なの」
天使が宙に浮いている。
オーロラの翼を携え、頭上に瑠璃色の半分欠けた光輪を浮かべた小さな天使が、アイシャ達を見下ろしている。
「……聖下、申し訳ありません、この度は大変な失態を」
「黙れなの。今は役立たずのこどものことなんか考えたくもないの。あとで適当に処分するから消えてろなの」
「はっ」
跪いたエルヴィートは、天使に無慈悲な言葉を投げつけられながらも、覚悟していたとばかりに潔く姿を消した。
「ほんっとーに最悪なの。最高の気分でお昼寝から起きてみたら血も胎も眼も二号も行方不明? 剣は寝返って聖騎士長はあの体たらく? りんりん、冗談じゃないの! 余の計画全部めちゃくちゃなの。どうしてくれるの?」
「あ……ぅ……」
天使に睨みつけられ、スーニャはへたりと座り込んでしまった。
「行方不明連中はどうせお前のぬいぐるみの中なのね。まさかお前が裏切るとは思ってもみなかったの。お仕置きは1ヶ月コースなの。それで」
ぎょろり、その両目がアイシャを見据える。
「お前……ただのドロップスがなんでこんな所にいるの。目障りなの、とっとと還るの」
天使が指先をちょいと動かすのが見えた次の瞬間、ナツキを襲ったのと同じ強烈な衝撃がアイシャの腹部に直撃した。
死んだ、誰もがそう思った。当のアイシャでもすぐに分かった、これを避けるのはナツキでも不可能だと。
「『……いたいのです』」
しかしアイシャの体は千切れ飛んではいなかった。腹部の装備や服は消し飛んでしまっていたが、肌には傷一つ付いていなかった。
「……!? あ、有り得ないの! お前一体――」
「『お返しなのです』」
アイシャが指を天使に向けると、天使は空中でふらつき、
「りゅわ、わ、な、なの、なのなのなのーっ!?」
そのまま一直線に落下し、頭を盛大に床にぶつけた。
「『正々堂々、地面で戦うですよ、■■■■』」
「!? 余の名前……まさかお前、■■■■なのね!?」
二人の会話は、周囲の人間やラクリマ達には一部聞き取れない部分があった。
この時点でもうスーニャやリリム達には確信があった。今天使と戦っているのはいつも通りのアイシャではないと。
否――会話を聞かずとも皆分かってはいた。アイシャが今正常な状態ではないことは、見れば分かった。
「天、使……」
「なんやねん、アレ……そっくりやんか」
「……わっか?」
アイシャの頭上に浮く、真紅の半円。
《塔》の天使が持つ瑠璃色の半円とちょうど対になりそうな形で、チカチカと明滅している。
「あは、は……なるほど、ラムダが見つけられないわけです」
「は……アレがそうなんか!? ……ちゃうで、忌印はあるやんか!」
「ちょっと二人とも、あれが何か知ってるの!?」
「知ってるも何も……」
やがて輪の光が安定し、一際強く輝いた瞬間――アイシャの猫耳と尻尾が、光に溶けて消えた。
「忌印のないラクリマ。500年前に大災害で行方不明になって、あたし達《塔》がずっと探し続けてきた、大天使聖下の魂の片割れ。最優先・最重要回収対象の天の階――」
アイシャの指の動きに合わせ、天使の体が空中に持ち上げられ――壁に叩きつけられる。
「――天使の雫。世界救済の最後の1ピースですよ」
☆ ☆ ☆
久しぶりに、L波を介さない電気信号として光と音を認識した。
とりあえず、ナツキから引き抜かれようとしている魂を「止めた」。損傷を修復することもできるが、もったいない。後でいいだろう。
なんて思っていたら、■■■■が攻撃をしかけてきた。かなり痛かったので仕返しをする。地面に叩きつけ、ついでにナツキのぶんもと壁に叩きつける。
「い、いたいのー!」
この程度では自分も相手も大したダメージにはならない。それは分かっているが、気分の問題だ。
「りゅーん! 500年も逃げ回って、今更のこのこ余の前に出てくるとはいい度胸なのね! りゅふふ……今日は最悪の日だったけど、お前を捕まえて最高の日にしてやるの!」
ヒビの入った壁から空中へ舞い戻ってきた■■■■の周囲に、バチバチと攻撃的な光が舞い始める。攻撃性W波の固有光だ。先程と同じようにW消滅波を体表面に張り巡らせておきつつ、こちらも攻撃発現用のW波を練り始める。
もう保身は捨てたのだ。どうせ天罰に焼かれるなら、これまで通りちまちま非効率的なLx波で攻撃するのは馬鹿らしい。Ψ波はもう見えなくなってしまったが、問題ない。
どうも地上で戦うつもりはないようなので、こちらも飛び上がり――ああそうだ、忘れるところだった。■■■■に射すくめられて動けないスーニャを逃がさないと。Lo波を探ってL波を飛ばす。ナツキを連れて次元断層に逃げておけ、と。
……待つです、自分が何を考えてるのか全く分からないのです。何なのですかこれ? というか何でナツキさんを後回しにするですか!? 治せるなら早く治さないと死んじゃ……わない。Lo波の終端はこちらで握っている。ニーコが起き次第α-δ-ε正相のLx波を浴びせれば問題ない。今はエネルギー節約が最重要だ。わけがわからないのです! あいしゃ、ちょっとしずかに。
自分の中に二つの意識が混在している。気持ち悪い。そうか、だからこれまで体を貸すときはアイシャ側の意識を飛ばしていたのか。そうだよ。
隣の意識からイメージが流れ込んでくる。
L波、気。Lx波、マナ。Lo波、魂。
W波、■■■■。Ψ波、■■■■■。
知らない言葉と知っている言葉が脳内で結び付けられていく。ただ正式名称があるだけ。でも最後のふたつはよくわからない。あいしゃにはわからないよ、これは天界の力だから。そうなのですか。……あなた、天使だったです? そうだよ? いってなかったっけ。聞いてないのです!
■■■■が光速で飛ばしてきたW発現波を、W消滅波で相殺する。何をしているのか分からなくても、それができて、結果どうなるのかが分かる。首輪の外し方を教えてもらった時と一緒だ。
「りゅ……お前……500年前はそんな風に戦えなかったはずなの! 何をしたのね!?」
「『500年も何もしてない方がおかしいのです。ヒキニートも大概にするですよ。どうせ今日も人間に仕事を丸投げしてぐーすか寝てたから出遅れたのです。ばーかばーか』」
「りゅっ……ふ、ふふ、捕まえたら一回メルクポット送りにしてやるのね」
……わたしの体で勝手に変なこと言って挑発しないで欲しいのです! ひきにーとってなんなのですか!?
「とにかく……こんな中途半端な状態じゃ、計画を進められないの! だからその力、さっさと余に渡すのッ!」
「『それはこっちの台詞なのです。さっさと諦めてほしいのです! わたしだってやらなきゃいけないことがあるですよ! それに……』」
「りゅーっ、さっきからなんなのね、その喋り方! ですですうるさいの!」
「『依代の意識に引っ張られてるだけなのですよ! そっちこそりゅんりゅんなのなのうるさいのです!』」
「余は500年前からずっとこうなの!」
言葉と共に攻撃性のW波の応酬が続き、部屋の床や壁がズタボロになっていく。一応発動した《気配》術に反応はない。スーニャはちゃんとナツキと共に退避してくれたようだ。
「『何度も言ったはずなのです、望みは薄いと! というか、はっきり言って可能性はゼロなのです! 今力を注ぐべきは神獣対策なのですよ! ママさえいれば、きっと平和的に解決でき』」
「ふざけるななの! 元はと言えばお前のせいでこうなったのに、よくそんなことが言えるのね! 余の計画の次の段階さえ成功すれば、あとは余の力でどうとでもなるの! そこの突破にお前が持ってる力が必要だって言ってるのね、■■■■!」
「『っ……天使の力をそんなことのために使うのは許可されないのです! ねーねもママもいつも言ってたのです、私利私欲のために使っちゃだめだって!』」
「規則なんて知ったこっちゃないの! それにお前の母親は私利私欲のために使ったのね、忘れたとは言わせないの!」
その言葉を聞いて、脳に血が上るのを感じる。それは、それはお前が……!
落ち着かなければと思うのに、内なる天使の憤りが伝染して鎮まらない。そもそも自分が何を話しているのかすらよく分からないのに!
このままじゃダメだ。心の中で目を閉じ、集中――
「『ならその結末も覚え』二人ともやめるのですっ!!」
割り込みに成功する。《換気》術――以前ナツキがちらっと話してくれていた、自分の意識を乗っ取ろうとする別の意識を追い出すための術だ。
「うっ……」
かなり無理をしたからか頭がズキズキと痛い。しかし無理をした甲斐はあった。驚きのあまり内側の天使の怒りが引っ込んでいるのが分かる。
目を開けると、《塔》の天使も鳩が豆鉄砲を食らったような顔でこちらを見ていた。
「お前……依代の方なのね。■■■■を押しのけて余の前に出てくるなんて、量産型のくせに見上げたど根性反骨精神なの。よっぽど変な魂が入って……りゅ? お前、まさか……そうなのね? よく見たら見た目も……」
「ふぇっ……? と、とにかく、けんかしてもいいことないのです! よく分からないですけど、お二人ともやりたいことがあるなら、どうして二人で協力してできないですか! 力を奪い合う必要なんてないと思うのです! 同じ天使さん同士、仲良くするですよ!」
その叫びを聞いた天使は暫しきょとんと目を瞬かせたが、すぐにアイシャを小馬鹿にするように小さく笑い、肩をすくめた。
「そんなことができれば苦労はしないのね。そいつは余と違ってぎちぎちかちこちの戒律に縛られてて、何もしない何もできない役立たずなの」
戒律、規則、決まりごと。自分もずっと数多の行動原則に縛られてきた。首輪すら外した今でも本能的に縛られている部分は多い。
でも、例えそうだとしても、そんな言い方はないだろう。
「こっちの天使さんは何度もわたし達を助けてくれたです! 役立たずなんて言わないでほしいのです!」
「りんりん、話のスケールが違いすぎるの。不良品ドールをたまに助けるくらいこどもたちだってできるの。天使にしかできないことができないなら、それは立派な役立たずなのね! 非本質的な時代遅れの慣習なんかに縛られて、情けないったらありゃしないの!」
「そんな――『だいじなことだよ』」
内なる天使の意識が前に出てくる。今度はアイシャの意識を上書きすることなく、声帯だけを動かして。
「その大事なことのせいで、悲劇が起きたの。500年もかけて自覚してないとは言わせないのね」
「『……わかってるよ。でも、戒律がなかったらもっと大きなひげきがおきてた。たくさんのせかいがほろんでた』」
「他の世界のことなんてどうでもいいの!」
「『……■■■■ちゃんにとってはそうでもね、ママやねーねはちがうの。わたしも、ちゃんとまもらなきゃいけないの』」
「っ……お前だって、帰りたいはずなの! こんな世界でいつまでもそんな状態で生き続けるつもりなのね!?」
「『うん……かえりたいよ。ねーねにあいたい』」
「だったら――」
「『だからね、』」
空白。何かを言い返そうとしていた声帯が止まった。
「『……あのね』」
「……。何なのね」
逡巡している。続きを言っていいのかどうか――恐らくは己の内にある戒律と戦っているのだ。
そして――
「『かくれんぼしようよ、■■■■ちゃん』」
出てきたのはそんな、友達を遊びに誘う子供みたいな台詞だった。
「……意味が分からないの」
「『むかしみたいにね、かくれんぼするの。ばしょは、このほしぜんぶ!』」
「それじゃ今までと同じなの。また逃げるつもりなのね!」
「『おなじじゃないよ。るーるをつくるから。そのるーるでもしわたしがまけたら、■■■■ちゃんのけーかく、てつだってあげる。やくそく』」
「……、言うだけ言ってみるの」
促しを受け、アイシャの体から攻撃的ではない「W波」が飛んでいく。少し経って、天使からも「W波」が返ってくる。
会話だ。《念話》術と同じ、天使たち同士にしか聞こえない会話が行われている。内容が気になるが――天使の意識から申し訳なさそうに拒絶が返ってきた。
しばらく無言の会話が続き、やがて《塔》の天使が呆れ顔で口を開いた。
「りゅる……お前、本気で言ってるの?」
「『これなら、どっちがかっても、■■■■ちゃんはうれしいでしょ』」
「お前の勝ち目がないの。……ま、いいの。その条件、飲んでやるのね」
「『あれ……いいの? なにもきかなくて』」
「余が何かを聞いて、お前が何を答えたところで、余は余の構築した《塔》を信じるの。聞くだけ無駄なのね」
そう断言して肩を竦めた《塔》の天使は、「でも」と続けた。
「お前、血を使って何をするのね。理由によってはさすがにこのまま逃がす訳にはいかないの」
「? 何もしないのです『なにもしないよ』」
「りゅ?」
エルヴィートもこの天使も、ナツキ達はニーコの力を悪用するためにここまで乗り込んできたのだと思っているようだ。……まあ、処刑レベルの罪を犯してまで奪おうと考えるような輩はそういう手合いが多いのかもしれないが。
「ニーコちゃんは家族なのです。だから助けに来たですよ。誰もニーコちゃんの力を使って何かしようなんて考えてないのです。ニーコちゃんの力はニーコちゃんのもので、ニーコちゃんが使いたいときに使うものなのです」
「っ……家族、なの」
表情が変わった。驚き、訝しみ、憐れみ……それだけではない、複雑な感情が漏れ出てくる。
「……? あの、《塔》に誓って、ラクリマのわたしから最上位の大天使聖下にお伝えする言葉として、本当のことしか言ってないのです」
「……嘘ついてるかどうかくらい、魂を見れば分かるのね。……りゅーん、ずいぶん入れ込んでるみたいなの。お前にしては残酷な慈悲なの。それとも余に対する当てつけなのね? 不愉快なの」
「ふぇ、あの、えっと……?」
会話が成り立っているようで成り立っていない。
困惑するアイシャなど見えていないかのように天使は溜息をつき、
「もういいの、血がやるはずだった仕事は後で全部お前がやるの。その条件で血は回収しないでおいてやるの」
「ふぇっ、わ、わたしがなのです!?」
「りんりん、お前じゃないの! ■■■■の方を出すの」
「はわぅ、なるほどなのです……あれ、天使さん?」
「何なの」
「あ、いや、こっちの……」
「りゅーん、紛らわしいのね!」
「ご、ごめんなさいです!?」
そんなことを言われても、二人とも名前が全く聞き取れないのだ。
そしてそんなことより、こちら側の天使の反応が返ってこない。声帯や意識を奪おうとする気配もなくなってしまった。
と思いきや、
「(あいしゃ)」
「ふぇっ!?」
予想外の方法、今まで通りのテレパシーで声が届いた。
「(ごめんね)」
「な、何がなのです?」
「こっちが聞きたいのね!」
「はわっ、違うのです、今のは」
「(えねるぎーぎれ。あとよろしく……)」
「ふぇ、えっ!? ……あっ」
消えていた耳と尻尾がしゅぽんと生えたのが分かった。
隣にあった意識が薄れていき、いつも通りの自分に戻っていく。
そういえばそうだった、こちらの天使はアイシャの食事の過剰摂取分を溜め込んだエネルギーで動いているのだった。いつまでもその力を振るえるわけではないのだ。
ところで今自分は天使の力で空中にいるわけで、当然――
「お、おおお落ちるですうううーっ!?」
上書きされていた物理法則がふと我に返ったかのように元に戻り、アイシャの身体は下向きに加速していく。
激突の衝撃に備えて慌てて身体強化をしようとしたその時――世界が、歪んだ。
「……え」
周囲が白みはじめ、空気がほどけていく。ついさっき見たのと同じ――スーニャの世界に取り込まれようとしているのだ。
対象が誰かに見られていたら発動できないはずなのに何故、と《塔》の天使を見上げ――
「返事はいらないの。……せいぜい今の家族との最後の時間を大切にするのね、アイシャ」
こちらに背を向けた天使の、
「……また会えて、ちょっぴり嬉しかったの」
少し寂しそうな後ろ姿が、ほどけて消えた。
《塔》の天使ちゃんの雑なイメージラフ:
https://twitter.com/dimpanacot/status/1540765485113163776