Noah/* - 裏側
スーニャ=クー=グラシェは、震えていた。
今まさに、自分が何もしなかったせいで、友達の記憶が奪われようとしている。そのことを考える度に心が突き刺されるように痛む。
しかしあの時助けてしまっていれば、自分はメルクポット――天使の胎であるメルク=ウナ=リネアの胎内に閉じ込められ、死ぬより辛いお仕置きを受けることになっていた。そう考えると体がすくみ、動けなかったのだ。
本気を出せばニーコを助けた上で逃げることは可能だった。《塔》を裏切り、帰る場所を捨て――自分やニーコが助けるはずだったあらゆる命を捨てれば、それは可能だった。それらを捨て去ることに躊躇はなかった。
ただ単純に、恐怖に負けたのだ。天使はあまりにも強大で、その天使にとって自分は重要な存在らしいということは知っていた。メルクから逃げられても天使からは逃げられないかもしれない。もし捕まってしまえばきっとメルクの胎内送りだ。そう思うとどうしても足を踏み出せなかった。それはそうだろう、仕方なかったと、スーニャの心は自己の判断を今も正当化しようとしている。
……たった今、ニーコはメルクの胎内で苦しんでいると言うのに。
「ちがう……スーはわるくない……スーは……っ」
「よーやっと見つけたで、こないなとこおったんか」
突然声が響いた。
ここは聖窩地上五階、《塔》関係者以外は立ち入ることのできないエリアだ。その廊下の片隅で、次元断層を開いて閉じこもっていたと言うのに、何故気づかれたのだろう。
「あれ……なんで」
断層が閉じていない。誰が開けたのだろう。
……そんなの、自分しかいない。
無意識のうちに……誰かに見つけてもらえるのを待っていたのかもしれない。
「友達ちゃうんか。それでええんか」
その人間は、何度も何度も、スーニャの心を突き刺してきた。
それでいいかなんて、わからない。わからないけど、どうしようもない。だからこうして時が過ぎ去るのを待つしかないのだ。
自分の力があれば助けられる相手を、他の大勢の幸せのために助けないでおく。これまで何度も繰り返してきたことだ。
……なのに、何故か今回はズキズキと心が痛む。この人間の言う通り、「友達」だからかもしれない。
「……ま、ワイも似たようなもんやけどな。ついさっきまで、ずっとどっちつかずやった。友達を取るか、主を取るか――そないなくだらんこと、ずぅっと考えとった。でもな、ようやっと分かったんや。――アホらし。ほんなら選ばにゃええねん。どっちも諦められへんなら、どっちも取ったれや。……ってな」
《塔》の聖騎士達がスーニャに人間と関わらないようにと厳しく言うのは、この苦しみを知っているからなのかもしれない。情が移れば別れが辛くなる。ならば関係性を持たなければいい。そういうことだ。
しかしもう、知ってしまったのだ。友達の温かさ、心を通わすことの楽しさを。後のことなど考えずにどちらかの手を取れと言われれば、スーニャは迷わずナツキ達の手を取るだろう。
今からでも遅くない、助けにいけと心の奥が叫んでいる。このままでは後悔することになると。恐怖に打ち勝て、後のことは後で考えろと。
しかし……
「てか自分、忠誠なんか無いやろ? ワイなんかよりよっぽど単純やん。何を迷うてんねん」
「……スー、きっともう、ともだちにはもどれない」
ニーコを助けるという点ではまだ遅くはないだろう。しかし、ナツキ達との関係性はもう決定的に崩れている。だって自分は、恐怖なんかに負けて彼女たちを裏切ったのだから。
でも、でも……もしも……
「ふぅん? ほんならもう答えは決まっとるやんけ。……自分でも分かっとるはずや。安心しとき、それはほんまに正しい道やで。ワイが保証したる」
「……ほんとに?」
ごめんなさい、って謝ったら、許してくれるかな?
また友達になれるかな?
断層から顔を出して、人間の顔を見る。
人間はにっと笑って、大きく頷いた。
「ほな、行こか。ゆーても、どこにおるんかは……」
メルクがどこにいるのかは、スーニャもよく知らなかった。前にお仕置きを受けた時は、気絶させられてから運ばれたのだ。
首を横に振ると、人間は困ったように頬をかいた。
「……ま、せやろな」
その時――電子音が響いた。通信機だ。
「……誰や」
聖窩内は外からの電波を遮断しているが、内線は機能している。他の職員だろうと思っていたら、その通信機から発せられたのは――
『こちらステラ05よぅ。聞こえるかしらん、コメット05?』
「っ、マスター!? どないしたん……待てや、コメット05やて?」
『そうよぅ、そのまま殴り込みにいくんでしょぅ? ならアナタは05、その子は06ねぇん』
「……ナツキの計画にゃワイは組み込まれとらんはずやで。そもそも何でこいつが見えとるん――」
『はいはい、細かいことは後回し。鶏が目覚めたのよぅ。このままだとあの子たち、死ぬわよぅ?』
「んな……!? 気づかれよったんかあのアホ!」
『電力が戻ったのよぅ! 説明は後、いいからアタシに従いなさい! 流れ星を拾いに行くのよぅ!』
知らない野太い声。変な喋り方だ。
「んなこと言うても、どないしてあいつらんとこまで」
『聖窩の地図、手に入れちゃったのよぅ! 最短経路でナビゲートするわぁん』
「! ホンマかいな!」
『まずはその後ろの本棚を引きずり倒すのよぅ! コメット06、やっちゃってちょうだい!』
「は!? 本棚て……」
『アナタじゃなーいわよぅ! コメット06、天使の剣、スーニャ=クー=グラシェ! 聞こえているんでしょーう?』
突然話しかけられびっくりする。自分の姿が見えているのだろうか。周囲に人の気配はないが……
『きょろきょろしてんじゃなーいわよぅ! ナツキちゃん達助けに行くんでしょーう? いいからそこの本棚ひっぺがしなさいな!』
「わ、わかった」
こんなカジュアルに力の行使を命じられたのは初めてだが、それでナツキ達が助かるなら……やってやる。
「うおっ……!?」
視線を向けた先、壁に整然と並んだ本棚を、メキメキと押し潰していく。やがて密度が臨界点に達したところで、本棚は全て時空の穴へと消えていった。
「これでいーい……?」
『い、いいわよぅ……ほ、ほら、さっさと先に進むわよぅ!』
本棚が消え去った後ろの壁には、奥へと続く暗い廊下がその口を開けていた。
☆ ☆ ☆
「ね、ネイお姉ちゃぁん……」
「は、はは、ハロちゃんは後ろに下がってるっす!」
照明のついたエレベーターホールで、ゆっくり開いていくエレベーターの扉。これまでの情報を総合すれば、ここで現れるのはナツキを捕まえに来た聖騎士に違いない。
対してこちらは犯罪者集団に唆されて聖窩に侵入した一般人。不本意だろうと完全に大罪人だ、言い訳の余地もない。
だがしかし、たとえ勝ち目が無かろうと、卑怯な手を使おうと、自分の後ろで怯えている子供を守って戦わずして何が正義の味方か!
「うおおおおおぁらぁっ!」
開いた扉から出てきた長身の男、その顔目掛けて回し蹴りを放つ! 聖騎士とて人間、不意打ちができればダメージはきっと通る――
「ま、まってネイお姉ちゃんっ!」
「へっ……」
「おぶっ!?」
待ってと言われても、これだけ全力で繰り出した蹴りを途中で止められるわけがない。男の顔面にクリーンヒットした蹴りは、そのまま振り抜かれた。
「……およ?」
「ぶへっ……、じ、自分いきなり何さらすんじゃボケェ!」
ずべしゃ、と呆気なく地面に蹴り倒された男は、頬を擦りながらネイを睨みつけた。……これが聖騎士?
「ん……この人間さん、敵?」
『違うわよーぅ。一応殺さないでおいてちょうだい、《古本屋》がうるさいから』
「ん」
後ろから出てきたのはぬいぐるみを抱えた小さな子供……ラクリマだろう。頭に角が生えている。その子と通信機越しで会話しているのは、あの謎の図書館で会話したマッチョオネエの声だ。
ということは――
「もしかして……聖騎士じゃないっすか?」
「ちゃうわ!」
「ま……まあ確かに、本当に聖騎士ならウチの蹴りなんかで無様にひっくり返らないっすよね……」
「なんや自分喧嘩売っとんのか!」
「まってまって、ラムダお兄ちゃん! ネイお姉ちゃんはハロを守ろうとしてくれたの! 怒っちゃだめだよ!」
ハロが間に割って入り、ネイを庇って男を制した。どうやら知り合いらしいが……これでは立場が逆転してしまっている。
「うぅ……情けないっす……」
「んで自分、ナニモンやねん」
『一応仲間よーぅ。今はそんなことはいいから、さっさと先に進むのよぅ! コメット全員天使の剣に拾わせてさっさとおさらばよぅ!』
コメット。今回の作戦における、侵入部隊のコード名だったはずだ。そういえば自分は番号が割り振られていないが、助けてもらえる対象に入っているのだろうか。
「……ん?」
天使の剣、だって?
「え、まさかこの子あれっすか、《塔》の最終兵器……」
「ん。スーニャ=クー=グラシェ。なつきとあいしゃとにーこの、ともだち……だった」
「友達!!?!!?!?」
「わぁ、じゃあハロもお友達! スーニャちゃんっていうの? ハロはね、ハロっていうの!」
「あ、う……でもスー、今は……」
『時間が無いつってんのよぅ、こんのお馬鹿さん達!』
マッチョオネエがキレ散らかし、なんとなく場がまとまる。天使の剣だというぼんやり眠たげな少女の力で全員が謎空間に吸い込まれ、アイシャが向かった方へと向かいかけ――ふと、思い出した。
「ちょっと待ってくださいっす、もう一人……」
自分が正しいと思うことをしろ。アイシャはそう言っていたはずだ。
☆ ☆ ☆
目が覚めた時、目の前には同僚の顔があった。
いつも眠たげで何を考えているかわからない、やろうと思えば世界を滅ぼすこともできる異能を持つ、現状では最も主たる大天使聖下に重用されている天の階。
別に恨みがあるわけでもない、自分が勝手に対抗心を燃やしているだけ。でも重要な場面であの子だけ何度も仕事を与えられているのを見ると、悔しくて悔しくて……
……あれ、そんなこと、最近は考えてなかった気がする。もう何十年も前、聖下に直談判に行ったきり、ずっと《塔》のことだけ考えてたような……?
「きるね、きるね!」
「……スーニャ……あれ、キルネどうしてぇ……はっ!?」
そうだ、こんな所で寝ている場合じゃない!
侵入者だ、自分の異能が全く通じない侵入者が来たのだ。それで負けて、負けたということは任務失敗、おしおき……!
「ひっ、や、やだっ、メルクポットはいやぁっ、ごめんなさい聖下、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……っ」
「きるね、だいじょうぶ。スーもいっしょ。いっしょににげよ?」
「ふぇっ……?」
恐る恐る目を開けると、スーニャは優しい顔で微笑んでいた。よく見れば周囲はあの地下闘技場ではなくなっていて、謎の光に満ちた空間で……
「え……ここ、どこ?」
「ん、スーのぬいぐるみの中……ここならだれにも見つからない」
「あの謎ぬいぐるみの!? え、誰にも見つからないって……」
ぐるりと周囲を見回す。見知らぬ人間が二人、ラクリマが一体、こちらを見下ろしている。
「見つかってるけど!?」
「だいじょぶ。なかま」
「仲間って……」
「スーニャちゃん、この子、お知り合いなんすか?」
「ん、きるね。天使の眼」
「天使の眼!?!!?!?」
「ホンマかいな!?」
キルネの正体を知った人間二人は、飛び上がって一歩後ろに下がった。ちくりと心が痛んだ。
……?
心が痛んだ? そんなことあるわけない。キルネが天使の眼だと知った人間が恐れをなして逃げ惑うのは正常な反応だ。自分はそれを見るのが一番の快感だったはず。なのに……
「きるね、みんななかま。ころしちゃだめ」
「う、うん……」
殺しちゃだめなんて、狭い檻の中に閉じ込められたにも等しい束縛の文句……のはずだ。だと言うのに、何故か素直に従う気になれた。まるで今までの自分が狂気に堕ちていて、ようやく正気を取り戻した、みたいな……
「きるね……? ないてる?」
「へっ!? あはっ、泣いてなんか……あれ? あれっ……?」
気づかないうちに涙が溢れていた。拭っても拭っても零れてきて、まるで今までずっと封じ込められていた何かの箍が外れて決壊したような、そんな勢いだった。
☆ ☆ ☆
リモネの目を覚ましたのは、騒がしさだった。
「今すぐ外に出して! ナツキちゃんとアイシャちゃん二人だけで最深部に行かせるなんて有り得ない!」
「だめ……あなたじゃめるくに勝てない。あいしょう、さいあく。足手まとい」
「それでも盾くらいにはなれるッ!」
「なれない」
あの温厚なリリムが、怒っている。相手は……天使の剣、スーニャ=クー=グラシェ。
彼女の天の階としての要求仕様は機密事項だが――世間一般には、あらゆる神獣を一撃で仕留められる《塔》の切札として認知されている。
「まあまあ落ち着き、ここで喧嘩してもしゃーないやろ」
「キルネもー、大人数であの子と戦うのはオススメしないかもぉ」
「あんたら何でそんな平然としてるわけ!? 天使の眼はともかく――」
「ワイは何も出来ひんこと自覚しとる。ナツキがめちゃ強いことも知っとる。ほなあとは信じて待つだけや」
憤るリリムを取りなしているのは、端末λと天使の眼、キルネ=セス=リリス。
キルネの要求仕様は、有魂体特化の対軍瞬時殲滅能力。高指向性スペクトロギー束の照射によって魂を振動させて肉体から引き剥がすとかなんとか、セイラが難しい話をしていた。
……なんだろう、この組み合わせ。接点があるようであんまりないはずの人達が、同じ場所に集まって騒いでいる。何があったんだっけ。
そもそも、キルネはもう星に還ってしまったんじゃなかったっけ……?
「めるくは……スーも、にがて。つぶしてもけしても、すぐふえる」
「キルネの異能も全く効かないしぃ、最悪って感じ。ぷくー」
「なら尚更!」
「でもナツキちゃんは勝てるかも? キルネの異能全然効かなかったしぃ、あの子の体液にも対抗できると思うなー」
「体液って……」
「そ。ハカセ特製のお薬……あはっ……うぇ、思い出しただけで吐きそう」
「ハカセ……って、まさか……! アレを忌印に組み込んだの!? 正気じゃない!」
天使の胎、メルク=ウナ=リネア。その天の階としての要求仕様は――
「任意の有魂体の、記憶改竄能力。融通の効かないギフティアを《塔》に忠実な下僕にするための初期設定装置……そんなの自然発生するギフティアじゃ賄えないんですよ」
言いながら起き上がると、リリム達の視線が一斉にこちらを向いた。
「リモネ!」
「忌印だけじゃない、メルクは素体からして人工ラクリマなんですよ。あたし達より上位の生命体としてデザインされてるあの子に正攻法で勝つのは不可能だと思った方がいいですねー。リリムさん……あなたじゃ無理です。盾にもならない、むしろ人質に取られて盾にされますよ」
「……っ」
スーニャの判断は正しい。そう伝えると、リリムは唇を噛んで俯いてしまった。
さて……ようやく頭も冴えてきた。一体これはどういう状況なのだろうか。
「えーと……あたし、確かナツキさんと戦って、最後にリリムさんの毒メスが……ん? それで負けた……んです、よね……およ? およよ?」
「り、リモネ?」
「ちょお、どないしたんや、頭抱えよって」
何かがおかしい。そもそも自分は何故ナツキ達と戦っていた?
「あたしは……だって、天使の血の記憶処理を止めるために……セイラの足止めまでして、聖下に直談判しにきて……ッ!?」
そこから先の記憶が、部分的に飛んでいる。
気がついたら聖窩最下層でナツキが来るのを待ち構えていて、それで、天使の血の記憶処理の時間稼ぎをしつつ、全力でナツキとリリムを、殺そう、と……
「い……いや……なんでですか、あたし……っ、そんな!」
何の疑問も持っていなかった。ニーコからあの幸せを、笑顔を奪うのは人としてやってはいけないことだと、まだ時間はあるのだからもっと他の道を考えるべきだと、そう上申しに行ったはずなのに。まず考えるべきは人類の未来、聖下の計画の一刻でも早い成就であると、認識が上書きされていた。
ナツキの言葉も、ニーコの笑顔も、全部全部、覚えていたはずなのに!
「あ、あぁ……っ」
「リモネ!」
強く、抱きしめられた。
いつの間にか目の前まで来ていたリリムが、大丈夫、大丈夫だからと、背中を優しく叩いてくれていた。
「リリム……さん」
「ナツキちゃんがさ、言ってたんだ。天使の眼……キルネちゃんもリモネも洗脳されてたんだって。だから気にしすぎちゃダメ」
洗脳されていた? 一体誰がそんなことを?
……決まっている。リモネに対してそんな芸当ができる存在など、この世に一人しかいない。
「聖下……ッ!」
もう嫌だ。心を上書きされて忠誠心を植え付けられて、人として大事なものを失ってまで、はるか数百年前に死に別れた親友と再会したいとは思わない。もう《塔》なんか抜け出してしまいたい。
しかしそれは叶わない願いだ。原初の涙や天の階達の魂はスペクトラムネットワークで《塔》と繋がっている。誰がどこにいるかも聖下や他の天の階達には筒抜けだ。現に今も、自分の聖痕から伸びるネットワークを追ってみれば――
「……あれ?」
無い。
数年前、忠誠の証として刻みつけられたはずの聖痕が、心のどこを探しても見当たらない。
そういえば、戦っている時に……
『信じられないなら、リモネちゃんのも外してあげよっか?』
ナツキが言っていた。キルネの聖痕を殺さずに外したと。
「き、キルネ!」
「ん? なにぃ?」
「聖痕っ……どう、したんですか」
「あはっ、それはねぇ――」
キルネは証言してくれた。ナツキとの戦いはナツキの圧勝で、というかナツキは何もしていないのにキルネが無茶をして自滅し、その治療ついでに聖痕も取っていったと。
そんなめちゃくちゃな話があるかと思うが、事実として聖痕がなくなっているのだから、本当のことなのだろう。
「ナツキさん……あなたは本当に……」
もはや溜息しか出ない。
自分達は今、《塔》から解放されて自由になったのだ。
☆ ☆ ☆
「ナツキさん……」
腕の中に意識のないニーコを抱え、アイシャはエルヴィートとナツキが戦うのを見つめていた。
先程攻撃が空振りに終わってから、エルヴィートの動きは明らかに悪くなった。脅威だった光の剣も使わずに、まるで能力を封じられてしまったかのように。
そして何故か、エルヴィートはずっとアイシャとニーコを見ている。いや、注視しているのはナツキだが、視界内に必ずアイシャ達を収めるように立ち回っている?
何かを企んでいるのかもしれないとナツキに《念話》術を飛ばしかけ、
「(だめ)」
あの謎の声に制止された。
「っ……どうして、なのですか」
「(すぐわかる)」
やがて、ナツキがエルヴィートに対して世界とニーコならニーコを取ると啖呵を切ったその時、それは起きた。
「……え」
「やっと、できた」
周囲の空気がほつれ、白くぼやけていく。
その奥から現れたのは――
「スーちゃ……むぐっ」
「しー」
スーニャに口を塞がれる。何が起こっているのかも分からないまま、次の瞬間には周囲の景色が完全に切り替わっていた。
それを確認したスーニャは手を離し、ほっと息をついた。
「……えるびーと、てごわかった」
「す、スーちゃん、これなんなのですか……わっ!?」
スーニャに気を取られているところに不意に後ろから抱きつかれ、慌てて振り返る。
少し桃色がかった金髪がふわりと揺れた。
「よかった……無事でよかった、ほんとに」
「リリムさん! 無事だったです!? どこいってたですか!?」
「ごめん、ごめんね……一番大変な戦いについて行けなくて」
「だ、大丈夫なのです! ほら、ニーコちゃんも取り返してきたですよ!」
「っ!」
ニーコを見てリリムは一瞬笑顔を見せたが、ニーコに意識がないと見るや、すぐに医者の顔になって触診を始めた。
「この匂い……クソっ、どこまで非道なの……まだこんな……小さな子に……」
「り、リリムさん、ニーコちゃん大丈夫なのです……? 星に還っちゃったりしないのです?」
「……うん、大丈夫、命に関わるような薬じゃないから。でも……トラウマは残るかも……。あたしに治せるかな……」
「(あいしゃ)」
リリムの声に重なるように、謎の声がアイシャを呼んだ。
「(そろそろ。いとが……ほどける)」
「え……」
顔を上げる。
この空間にはリリム以外にもいろいろな人がいた。ハロ、リモネ、キルネ、ネイ、それにラムダまでいる。
全員、空間の端に寄って何か――もやもやした部分をじっと見ていた。今、ラムダがそのもやもやに首を突っ込んで何かを叫んだ。リモネがそれを引っ張り戻している。
もやもやを見に行くと、そこには先程までアイシャとナツキのいた部屋が見えていて、スーニャとナツキがエルヴィートと何かを話していた。
「あはっ、おじさんってばスーニャが天敵なのに、見栄張っちゃっておもしろーい」
「キルネお姉ちゃん、てんてきってなぁに?」
「んー、ぜぇったい勝てない相手ってこと。おじさん、加護使ってるときはまっすぐにしか動かないからぁ、空間曲げられるスーニャには不意打ちできなきゃ勝てるわけないのにさぁ」
「ふーん……? くうきを……まげるの?」
「天使の剣の要求仕様は時空の歪曲と切断……まあ平たく言えば重力をねじ曲げる力なので、エルヴィートの光の加護じゃ手玉に取られて終わりですねー」
「? うぅ、ハロよくわかんない……」
「大丈夫っす、ウチも全く分かんないっすよ!」
自分のいない場所で散々な評価を下されているとも知らず、エルヴィートがナツキとスーニャに背を向けた。
「ほーん、聖騎士、思ったより物分りええやんけ。これで終いやな」
「まだこれからですよー。どこに逃げるつもりなんです?」
「知らん。ナツキに聞き」
「あはっ、キルネも付いてっていーい?」
「いいよ! キルネお姉ちゃんもいっしょ!」
「あ、ならウチもウチも! ここまで来たらもう死にたくないっす!」
「いや、あなた誰ですか。何で一般人がここにいるんです?」
「ウチが聞きたいっすよー……」
明るい雰囲気。皆、これで作戦成功だと信じている。
「(あいしゃ、ごめんね)」
「取引なのです。謝ることじゃないのです」
「(でも……つりあってない)」
「釣り合ってるですよ。むしろわたしの方が、もらいすぎなのです」
「(……そんなこと、ないんだけどね)」
ナツキとスーニャが向かい合い、空気がほどけ始める。
「(あいしゃはいつか、わたしといっしょに天罰をうける)」
ほどけていた空気が元に戻り、スーニャが首を傾げる。
「(そのかわりわたしは、あいしゃのちからになる)」
ナツキが何かに気づいて天を振り仰ぎ、
「(いつかくるその日まで……ずっといっしょだよ)」
ナツキの上半身がちぎれ飛んだ時にはもう、アイシャは外へと飛び出していた。