天使の胎 Ⅱ
世界が、止まった気がした。
否、止まったのは――目の前で動いている全ての触手だ。アイシャの体の上を這い回っていたものも、まさにアイシャの体内に入り込もうとしていたものも、メルク本体から伸びて手持ち無沙汰にうねうねとしていたものも、全てが静止した。
『ぁ、ぎ……っ!?』
苦しげな呻きがテレパシーに乗って飛んでくる。と同時に、アイシャを拘束していた触手が全て霧となって溶けた。
「わわっ……、と……」
疼きが収まらない身体をどうにか動かし、落としてしまったアイオーンを拾い上げる。
「なに……が……?」
朦朧とする視界の中、全ての触手が消えただの少女のような形になったメルクが、巨大な腹を抱え、床に仰向けに倒れていた。
『や、やめ……て……ぐぎぎぃっ』
「め、メルクさん……!?」
苦しげに痙攣している。まるで毒を盛られたかのような苦しみ方だ。
『っ、それ、はっ、できな、ぎいっ、だってぇっ、聖下が、ぁっ』
「……!」
誰かと会話しているようだ。話し相手は……考えるまでもない。今の状況でメルクにこんな攻撃を加えられる者など一人しかいない。
『まっ!? それはっ、ぐ、もんだい、ない、けどぉっ、だめ、でちゃだめぇ……っ、あ』
メルクの腹が突然不自然に動き出し、一瞬の後に――
――ぶちゅん、
トマトを潰したような音を立てて、弾けた。
そして殻を破った鳥の雛のように、金色の頭が飛び出してくる。
やっぱり、ナツキだ。ナツキがメルクを倒してくれたのだ。
☆ ☆ ☆
柔毛触手経由で放った《乱気》術の効果は覿面だった。
『ぎが、が……っ、なに、を……めるく、の、たましい……がっはぁっ!? や、やめ……て……ぐぎぎぃっ』
「魂への攻撃ってことは分かるんだね。ボクとにー子を外に出してくれたら、止めてあげるよ」
かつてチャポムを苦しめた、相手の気の循環路をぐちゃぐちゃに掻き乱す攻撃だ。放置すれば地獄の苦しみの中でやがて死に至る、魔法防御の知識を持たない相手に対しては劇毒にも等しい効果を発揮する術である。
『っ、それ、はっ、できな、ぎいっ、だってぇっ、聖下が、ぁっ』
「そっか、じゃあ自分で破って出るよ。今干渉して分かったけど、ここってボクの夢の中なんだね」
これが夢なら、わざわざ結界を壊す必要も無い。ナツキを睡眠状態に固定しているメルクの術を解除すればいいだけだ。
即座に実行し、目覚めると――真っ暗、窮屈、息苦しい。当たり前だ、メルクに呑み込まれているのだから。
口の中が甘ったるいのは……何かを飲まされたか。先程から身体を苛む疼きはそのせいか。
「スライムだし、おなか破っても問題ないよね」
『まっ!? それはっ、ぐ、もんだい、ない、けどぉっ、だめ、でちゃだめぇ……っ、あ』
気を通した全身で周囲を押し広げると、あっさり破けた。比較的新鮮な空気が肺に入ってくる。
「……ぷはっ! やっと出られた! う……ねとねとする」
「ナツキ、さん……!」
アイシャの声。さぞ心配したことだろう。
「ごめんアイシャ、ちょっと出るのに手間取っ……て!?」
謝りつつその姿を目に留めた瞬間、全てが吹き飛んだ。
「アイシャ、無事!? 何されたの!? そんなボロボロで……!」
ボロボロというか、ねとねとしていた。服はあちこちが破け、色々な場所からピンク色の液体が垂れていて、息も荒い。
「だ、大丈夫……なのです! 体がへんな感じになる、お薬を飲まされて、触手に捕まっただけなのです……。お薬はたぶん、あの管理人さんが何度も、くれたものと同じですから、待ってればおへその奥がじんじんするのも治るです」
「ぜ、全然大丈夫じゃない! ボクが飲まされたのと同じかな……クソっ」
メルクめ、外は外でアイシャと戦っていたのか。
「ナツキさん、そんなことより、ニーコ、ちゃんを」
「……うん、まずはにー子!」
アイシャの体も気がかりだが、ずっとナツキと同じ状態に置かれていたにー子の方が今は緊急度が高い。
「にー子……!」
自分が出てきたメルクの腹に手を差し入れ、中にある小さな体を抱き上げる。いつの間にかメルクは気を失ったようだが、《乱気》術は解かないでおく。
ぶちゅ、ぶち、と、メルクの体組織から引きちぎられながら、見慣れた明るい黄緑色の頭が現れる。しかし――自分の顔が、どんどん険しいものになっていくのを感じる。
「にー、子……」
「ナツキさん……?」
ナツキが取り上げたのは、確かにニーコだった。
やっと再会できた、と喜ぶべきなのだろう。しかしそれはあまりにも――悲惨だった。
「にー子、こんな……こんな……っ」
「え、うそ……ニーコちゃん……っ」
息はある。当然だ、息がなければラクリマは星に還る。
しかしその息はとても細く、不規則だ。これも当然だろう――こんなに腹が膨れていては、練気術もなしではまともに息なんてできやしない。
……こぽっ、ごぷっ。
意識のないにー子の口から、毒々しいピンク色の液体が溢れ落ちる。
色でわかる、これはメルクの体液――きっとナツキとアイシャが飲まされたものと同じ薬だ。それを、にー子は腹の限界まで飲まされたのだ。
「アイシャ、手伝って! 全部吐き出させないと」
「は、はいです……!」
喉の奥に指を入れ、破裂してしまわないようゆっくり腹を押すと、にー子は滝のようにピンクの薬を吐き出し始めた。
やがてにー子の呼吸が正常に戻り、ほっとしたその時、
『うふ、ふふふ……もったい、なぁい。せっかくぅ~入れたのにぃ……』
「お前……ッ!?」
気絶したはずのメルクの声が、突如脳内に響いた。にー子を抱えて即座に飛び退る。
『だめだよぉ~……めるくがぁ、聖下にぃ……おこられちゃうぅ~!』
破けたメルクの腹が再生し、ぬるりと体が起き上がる。
《乱気》術はまだ解いていない。まさか――自分で気の流れを調律したとでも言うのか。
『たましいにちょくせつ攻撃するなんてぇ~、ひどいことするよねぇ~……』
「お前が言うな! にー子の魂を散々弄んだくせに……!」
『ん~……なんかねぇ~、おくすりいっぱいいれたのにぃ、ぜぇんぜん忘れてくれなくてぇ~……まだ途中なんだぁ~。だから~……返せぇ~!』
「ふざけるな!」
伸びてきた触手を切って落とす。これ以上にー子に触れさせてなるものか!
「ナツキさん……メルクさんも、操られてるです?」
「いや……確認したけど、こいつはこれが素だよ。素で狂ってるんだ」
「……なのですか」
さっき《乱気》術がてら気の循環路を探ったが、気のわだかまりは無かった。むしろ、不自然なまでに整った流れだった。どこにも曲がった部分がない、基板上の回路を見ているような違和感。
何にせよ、メルクを今すぐ鎮圧するなら正気に戻すという選択肢はない。しかし……
「体を斬ってもおなかを破ってもダメージにならない、練気術も効果が薄い、気の循環路が人のそれじゃない……たぶん、魔法生物の類だ」
「魔法生物、です?」
「ボクら練気剣士には相性最悪の相手ってこと!」
『うふふふ~……せいかぁい! めるくのからだもぉ~たましいもぉ~……《塔》があるかぎりぃ、なんどでもぉ~……よみがえるぅ~!』
四方八方から触手が飛んでくるのを、アイシャと背中合わせになって切り捨て続ける。同時に《気迫》術を溜め、隙を見て解放してみるも、
『うわぁ~……びっくりしたぁ~! うふふふふふ、キルネちゃんみたぁい……うふふふふふふ』
「やっぱりだめか……!」
メルクの魂は殺気を恐れるべきものと見なすようにできていない。自然に生まれた生物の魂ではないのだ。《乱気》術が駄目なら《侵食》術も意味が無いだろう。先程のように一時的にダメージを与えられる可能性はあるが――二度同じ手が通用するとは思わない方がいいだろう。
「ナツキさん、どうするです!?」
「主体意識のない魔法生物なら術者を叩くのがセオリーだけどっ……こいつ多分、そういうのでもない……!」
魔法で生み出された生物にしては意識が人に近すぎる。まるで人の魂をすり潰して魔法生物の型に流し込んだような、不自然な存在。
『うふふふふ……むだだよぉ~……めるくのごしゅじんさまはぁ、聖下ただひとりぃ~! 原初の涙の子たちやスーニャちゃんだってぇ、めるくにはさからえないんだからぁ~!』
あの「切札」たるスーニャが逆らえない存在。それが本当なら、メルクは《塔》における最強のラクリマということになる。だとすると……
「……アイシャ」
「はいです」
「このまま戦っても勝てない。逃げるよ!」
「ふぇっ、は、はいです!」
にー子を抱えあげ、セキュリティゲートへひた走る。勝ち目のない戦いを続ける余裕はないのだ。
しかし、メルクがそれを黙って見逃してくれるわけも無い。
『逃がさないよぉ~! うふふふふふふふ』
メルクの声と共に、目の前でゲートが閉まる。同時に流れ出すのはもう何度も聞いた機械音声だ。
「緊急〈クラス0〉命令ニヨリげーとヲろっくシマス。命令発行者〈クラスⅠ〉天使の胎ハ直チニ事後承認申請ヲ――」
「クソっ……おい、開けろ! ボクも〈クラスⅠ〉だぞ!」
「警告。権限ガアリマセン。当エリア管理権限ヲ申請ノ上――」
セキュリティクラスとは別に、メルクには扉の緊急ロック権限があるらしい。……この部屋の主というわけだ。
『うふふふふ、申請はあとでやるよぉ~』
「くそっ……ここで終わりなのかっ……」
「……? ナツキさん……?」
「アイシャ、にー子をお願い」
「は、はいです」
にー子をアイシャに預け、片手で剣を抜く。
扉を背後に、ゆっくり近づいてくるメルクを睨みつける。
「……回路展開」
剣の中心に茜色の光が通る。
『うふ、それが例のぉ~……へんないろにひかるアイオーンかぁ~。めるくのからだはぁ~、アイオーンで切ったってむだだよぉ~……うふふふふ』
「……。例のって……これ、噂にでもなってるの?」
『しらないよぉ~……うふふふ、ニーコちゃんのきおくはぁ~あちこちあいまいだからねぇ』
「ボクがアイオーンを振ってるのを見た記憶を……食べたんだね」
『その通りぃ~! うふ、うふふふ……ナツキちゃんがいくらつよいおひさま剣士でもぉ~、めるくにはかてないんだよぉ~!』
「…………そうだね」
「ナツキさんっ!?」
『うふふふ……あきらめてぇ、めるくのおなかにもどりなよぉ~。めるくといっしょにぃ~……いーっぱいきもちよくなろうよぉ~……』
ゆっくり追い詰めるのが楽しいのか、メルクは徐々に触手を近づけてくる。それは油断しているようでいて、メルクの背後に回ろうとすれば必ずどこかしらの触手に絡め取られる――じっとりと狡猾な、獲物を狙う蛇のような構えだ。
「ナツキさん、ナツキさん!? 諦めちゃうですか!?」
動かないナツキに、にー子を抱えるアイシャが慌てた声を上げる。
それがまた――ナツキ達にはもう為す術が無いという状況の信憑性を、上げる。
「メルク。キミは……《塔》からエネルギーをもらって動いてるんだね」
『うふふふふ、そうだよぉ~……停電でどうにかなると思ったのかなぁ~? めるくをうごかしてるのはぁ~……セキュリティゲートと同じぃ、《塔》のスペクトロギーサーバなんだよぉ~! うふふふふふふふふ、ざんねんだねぇ~!』
よく喋るものだ。このまま色々と《塔》の情報を引き出してやりたいとも思うが……今はそんな余裕はない。
そろそろ終わりにしよう。
「メルク、悪いけど……ボク達はもう行かなきゃいけないんだ」
『うふ……?』
「門再接続」
気の力を、手のひらから注ぎ込んでいく。
「この剣はね、アイオーンじゃないんだよ。ハロが作ってくれた、真に練気剣士のための剣だ」
『……?』
「起動するのに、回路展開なんて必要ないんだ」
手のひらから流れ出た気の力は、何に邪魔されることもなく気巧回路を満たしていく。そう、さっき回路展開してからずっと解析を続けていた、背後のセキュリティゲートの回路をだ。
ナツキの指令は正しく受理され――接続の再構成が始まる。
『……、なにぃ~……してるのかなぁ……?』
「ゲートがさ、さっき言ってたんだよ。天使の胎が寝起きだとか、占有率がどうとか……。で、その天使の胎ことメルクはさっき自分の意思でゲートを閉じたし、動力源はゲートと同じなんちゃらサーバだって今自分で言った」
『それがなにぃ……ぁ、ぁっ、これ、なんっ……!?』
「つまり、キミとセキュリティゲートは入出力のできる気巧回路で繋がってるってことだ」
ナツキの根源の窓から、ものすごい勢いで気の力が流れ出していく。それはセキュリティゲートへと流れ込み、広大なエネルギーネットワークの片隅を通り――メルクへのエネルギー供給を上書きする。
「そこまで分かれば、キミの動力源をボクに差し替えるくらい簡単なんだよ。魔術具を使った召喚術が簡単に乗っ取られちゃうのは、ラグナじゃ常識だったんだけどね」
メルクの場合、《塔》のなんちゃらネットワークとそのエネルギー源が魔術具ということになる。動力の供給源が意思なきモノであるならば、その接続を書き換えるのは容易い事だ。
現にナツキはそれを利用して、オペレーター試験での《迅雷水母》との戦いを乗り切ったのだ。
『んぁっ、ぁ、あぁっ――ぁ、れぇ……?』
元々の供給源との接続を完全に絶ったら、次は流量を意図的に絞っていく。メルクの周囲に展開されていた触手がエネルギー不足で霧散していく。メルクの体がふらつく。
『う……やめ……てぇ~……、めるく、くら、くらぁ、す……る』
「人間的に言えば、貧血状態だからね」
『やめ、て……なんでぇ、こんなことぉ……』
「にー子がキミから受けた仕打ちに比べれば、ボクは優しい方なんじゃないかな」
やがて人の形を保てなくなり、メルクの手足がばしゃりと崩れ落ちる。
『やだぁ……なんでぇ、めるくは聖下の……ため、にぃ……』
「……ナツキさん、もう……」
「……うん。接続解除」
アイシャに袖を引かれ、出力を絞っていくのをやめ――メルクとの接続を完全に切る。
『ぁ――――』
ぱしゃ、と軽い水音を立てて、メルクだった物体は霧に溶けた。
最後に床に残ったのは、小さなピンク色のガラス玉。
「…………」
拾い上げ、薄く気を通して中を探ってみる。……緻密な気巧回路だ。
「それ……メルクさん、なのです?」
「うん……多分これがあの子の本体なんだ」
これを叩き割れば、もうにー子のような被害者が生まれずに済むのだろうか。
……いや、違う。討つべきはメルクではない、メルクを生み出した何者かだ。
そう分かってはいるが……まだ怒りは収まらない。このまま持っていたら、勢いのままに割ってしまいそうだ。
「……アイシャ、持ってて。根源の窓に繋いだりしなければ起動はしないはずだから」
「ふぇ? わ、分かったです」
アイシャからにー子を受け取り、代わりにガラス玉を渡す。アイシャはしばらくじっとそれを見て、そっと腰のポーチにしまった。
「にー子……助けに来たからね、もう大丈夫だよ」
ナツキの腕の中で、にー子は穏やかにすぅすぅと寝息を立てている。しかし体を揺すっても目を覚ます様子はない。
「ニーコちゃん、大丈夫なのです……?」
「……気の循環は問題なし、洗脳もされてない。けど……記憶領域についてはボクも全く分からない。ボクのいた世界でも、記憶に関してはまだまだ研究が進んでなかったんだ」
「なのですか……」
「まだ終わってないってメルクも言ってたし、大丈夫だって信じたいけど……」
胃に溜まった薬は吐き出させたが、吸収されてしまった分はどうしようもない。それがどんな影響を及ぼしているのか……
「とにかく今は撤退しなきゃ……の前に、アイシャは大丈夫? アイシャもなんか薬飲まされちゃったんだよね」
「大丈夫……なのです。へんな感じがするのも、だんだん落ち着いてきたです」
そう言ってさするのは、下腹部の中央。……メルクは一体、媚薬なんかを飲ませて何をするつもりだったのだろうか。
「あの、ナツキさん、このへんな感じ、なんなのか知ってるです? いやなはずなのに、なんだかちょっと……この辺が、ぞくぞくって」
「へっ!? そ……その話は後で! 聖騎士に見つからないうちに逃げるよ!」
「は、はいです!」
アイシャの精神年齢は14歳。性の目覚めには遅すぎるくらいではあるが、とりあえず掘り下げるべきは今ではない! そしてできればそのまま忘れてくれ!
「あの、ナツキさん」
「その話は後で!」
「じゃなくて、その、セキュリティゲート……どうやって開けるです?」
「ん? ……あっ」
言われて気づく。メルクに閉じられたままだった。
「メルク倒したし、命令リセットされてたりしない?」
「警告。権限ガアリマセン。当エリア管理権限ヲ申請ノ上――」
「だめかー……」
もう電気は通っている。無理やり通れば警報が鳴り響くというのがリリムの談で、もしそうなれば聖騎士にわざわざ位置を教えるようなものだ。
「メルクさんを起こして、開けてもらうです?」
「うーん……それしかないか」
アイシャがポーチに指をかけ、ナツキがガラス玉を受け取るべく腕を伸ばそうとした――その時だった。
――閃光。一瞬遅れて、轟音。
「ひぁ……!」
「っ!?」
アイシャとにー子を庇い、飛んでくる瓦礫を全て弾き返しながら、ナツキはそれを見た。
粉々に砕け散ったセキュリティゲートの向こうに、それは立っていた。
今、最も出会いたくないその顔は――静かな怒りに満ちていた。
「はは……メルクに開けてもらう手間が省けたよ。ご親切にどうも、……聖騎士様」
「フン……子供と侮っていたようだな。よもやここまでとは……だが」
聖騎士エルヴィート。
出会ったら作戦失敗とリリムが断じたその男が、細剣の切っ先をこちらに向けていた。
「終わりだ、小娘。聖なる裁きを受けるがいい」