天使の胎 Ⅰ
妙に甘ったるい、花のような香り。気化した花の蜜にねっとりと魂を絡め取られているような、ピンク色に煙った狭い部屋。
――そこに、それは存在していた。
「にー、子……?」
《気配》術がにー子の位置として示す場所に、にー子はいなかった。
そこには、透明なようで不透明な桃色のゲルが、名状しがたい形状を成してべちゃりと鎮座していた。ナツキの半分くらいの高さのそれは、心臓の鼓動のようにプルプルと脈打ち、妖しげな光を放っている。
「いや……いやです、ニーコちゃん……こんな……」
「っ……」
アイシャがぺたんと膝をつく。
まさか本当に、これがにー子なのか――
『ん……うふ……うふふふふ』
「っ……」
「誰だ!?」
空気と同じくらい甘ったるい、それでいて無機質な声が、突如部屋に響き渡った。それは断じてにー子のものではない――今の一瞬だけ《気配》術が何者かの意識を捉えた。
『だれ……だれ? うふふ……うふふふふふふふふふふ……だれ……うふふふふだれ? うふふ! だれ、だ? うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ』
「ひっ……な、ナツキさん……!?」
「大丈夫、落ち着いて!」
壊れたおもちゃのように、生気の感じられない笑い声が木霊する。これは実音ではない、テレパシーだ。どくん、どくんとゲルが脈打つ度、空間全体に何者かの意識が見え隠れする――
「あなたが最後の番人ってわけだね」
『だれだ? うふふふふ、さいご、ふふふふ』
間違いない。にー子の魂に絡みついている得体の知れないナニカが、こいつだ。
『ふふふだれ? ふふ! ふふふううふふふ』
「そのゲルの中ににー子がいるなら……返してもらうよ!」
剣を構え、ゲルを外側から削ぎ落とそうとした、その時。
『なつ……きー』
「っ、にー子!?」
「ナツキさん、違うです! それは――」
『うふ、うふふふふふふふ……なつ、きー……うふ……にーこ……うふふふふふふ……だいすき! うふふにーこ、ふふ! なつきにーこ、にーにーにーにぁーにーにぁー』
「っ! やめ……やめろ!」
アイシャの言う通りだ、これはにー子ではない。にー子がナツキ達に気づいて何かを伝えようとしているわけでもない。ただこのナニカが、取り込もうとしているにー子の魂を模倣しているだけだ。
『うふふふ……ふ……ふぁ……あぁー……むにゃ?』
にわかに、《気配》術が捉える魂の輪郭が形を成し始めた。
にー子ではないナニカが、何者かになっていく。
「ナツキさん、煙が……」
「……うん」
部屋に充満していた甘ったるい煙が中央のゲル状物体に流れ込み、吸収され、視界が明瞭になっていく。
ゲルは煙を吸い込んでどんどん大きくなり、やがてナツキより一回り大きな柱状となった。
『うふ……ふふふ……こんにち、わぁ~』
ゲルの柱が脈打ち、形を変えていく。接地部が二つに分かれ、上部が三つに分かれ――見覚えのある形に変わっていく。
「まさか……」
『うふ……もう~つぎのごはん~……? まだぁ~終わってないよぉ~……?』
それは腕を持ち上げ、大きく膨らんだ腹を愛おしそうに撫でた。
「人の形に……なっちゃったです」
色や質感こそ最初のゲルと同じ桃色不透明のゼリー体だが、そこに立っているのは完全に一人の少女だった。
何よりも目を引くのは、その巨大な腹だ。体の大きさと比べて明らかに不釣り合いな、まるで幼児を一人丸呑みしたかのような風船腹を、しきりに撫でさすっている。
『この子ぉ~、けっこうしぶとくてぇ~……うふふふふふ』
「にー子を、食べたのか……!?」
『うふふふふ……ちがうよぉ~……めるくはぁ~……おにくは食べないのぉ……うふ、ふふふふふ、たべるのはぁ~……おもいで……きもち……うふふ……そう……あなたのことが~……だぁいすきなぁ、にーこちゃんの……きおく~! うふふふ、ふふふふふふふ! おいしいよぉ~!』
「な……お前ッ!」
――こいつは、敵だ。一刻も早くこの化物の腹を切り開いてにー子を救出しなければ!
剣を構え、
『あぁ~、自己紹介がぁ、まだだったよ~。めるくはねぇ、天の階が一階ぃ~、天使の胎ぁ~。うふ、個体名はぁ、メルク=ウナ=リネア……だったかなぁ~。うふふふふふふ』
「っ……!?」
ラクリマ。つまりこのメルクという子も、聖下とやらに操られて――
「ナツキさんっ!」
「え――ごぽっ!?」
一瞬硬直し、アイシャの叫びを聞いた直後――身体が水中に沈んだ。
(え……何が、起きた?)
息ができない、気がする。
何も見えない、気がする。
何か温かく柔らかなものに包まれて、運ばれている。
(なん、だ……これ……)
全身が痺れたように動かない。
しかし不快ではない、むしろ心地よい感覚。
やがて何かの入口に到達し、中に押し込まれ――
『んっ……ふたりはぁ、ふぅ、ちょっとくるしい、かもぉ……』
「……――! ――……っ!」
メルクの声は鮮明にテレパシーで届き、アイシャの叫びはくぐもって聞き取れない。
(にー子と同じように食べられてる、のか……!?)
脱出しようにも暴れられず、声も出せない。
狭い穴を抜けた先、甘ったるい液体の海にどぽんと落ちる。メルクの胃袋の中だろうか。
(くそ、ミイラ取りがミイラになってたまるか……!)
記憶のみを食べるという彼女の言葉が本当なら、体が溶かされてしまう心配はないが――記憶だって一片たりともくれてやるものか。
即座に精神防御を何重にも発動する。どういうメカニズムで記憶を奪いに来るのかは知らないが、この全力の防壁を抜けられる精神系魔法などラグナには存在しない。
「奪えるもんなら奪ってみやがれ! ……って、あれ」
声が出た。
いつの間にか体も自由に動かせるようになっている。手足を振り回すと、ねっとりした水面がぽちゃぽちゃと音を立てた。
――体が動く? あんな小さな子に丸呑みされて、お腹の中に詰め込まれているのに?
「何がどうなって……っ!?」
目を開けると、天井が見えた。
光など入ってこないはずの体内で、数十メートルの先に、小刻みに蠕動する桃色の柔毛がずらりと並んでいるのが見えた。触手系モンスターの群れのようで少し気持ち悪い。
天井はシームレスに壁面へと繋がっている。ちょっとしたプラネタリウムくらいの広さはある、ラグビーボールのような形の空間だ。その半分は粘性の液体で満たされていて、自分は今その海に仰向け大の字で浮かんでいる。
……そんな馬鹿な話があるか。
「俺を飲み込むために巨大化でもしたのか……まあいい」
何にせよ、動けるなら胃壁を突き破って脱出するだけだ。剣だって手放してはいない。だがその前に――
「にー子! にー子聞こえる!? 助けに来たよー!」
にー子もナツキと同じようにメルクに呑まれたのであれば、ここに囚われているはずだ。
そう思って呼びかけつつ《気配》術で探ってみるが――さっきまであったにー子の反応がない。返事もない。それどころか何故かメルクもアイシャも引っかからない。メルクの胃壁が結界の境界のように探知を阻んでいるのだ。
「……にー子とは違う場所に閉じ込められた、か」
ならば、にー子の待っている結界を探しに行くまでのことだ。
「せー、のっ」
気を通した手足で無理やり水面から跳び上がり、天井の触手じみた柔毛を掴んでぶら下がる。ぬめりけが強く、ずっと掴み続けるのは無理だ。
「よっ……」
懸垂の要領で身体を振り、勢いよく壁へと飛び出す。起動した剣の一突きで胃壁ごと結界を――
「……うおっ!?」
突如壁の柔毛が蛇のように伸び、ナツキの手足に絡みつこうとしてきた。辛うじて躱すも、また別の柔毛が襲いかかってくる。
「ちょ、嘘、だろっ、マジで触手かよ! そんなん聞いてな、やべっ」
柔毛の先端を掴んで振り子運動で回避、別の柔毛を踏んで跳躍、すれ違いざまに切り落とし――そんな曲芸みたいな戦い方を五分は続けただろうか。
『そろそろぉ~、お遊びはおしまいにしよっかぁ~……』
「なっ……んっ!?」
突然メルクの声が聞こえたと思うと、ぐらりと視界が揺れた。
身体が熱い。息苦しい。腹の奥底から登ってくる切なさは、完全に未体験の感覚だ。前世で似たような気分になったことがないわけではないが、これは恐らく別種の、そう、女の子としての……
「なん、で……っ」
『うふふふふふふ、ナツキちゃんは今、めるくのおなかの中にいるってことぉ~……忘れない方がいいよぉ~うふふふふ』
「はぁ、はぁっ……やべっ!?」
ついに避けきれなかった柔毛が一本足首に絡みついた。体勢を崩したところでもう三本が他の手足を捉える。
「くそっ……うおおおおっ!?」
伸びていた柔毛が一気に縮んでいく。当然ナツキの体も一緒に胃壁へと引き寄せられ、大量の柔毛に正面から受け止められた。
「んむっ……う……これ、まさか」
蠢く柔毛が体の前面を這い回っている。あまりの気持ち悪さと望まぬ快感に触覚をシャットアウトするが、それで事態が好転するわけではない。
「ぐ……こんなエロ同人みたいな状況、まさか自分で体験することになるとは……いや、こないだもあったなこんなん」
《迅雷水母》に締め上げられて電撃を浴びせられながら胃袋に卵を産み付けられたことを思い出す。今度は人型スライムに丸呑みされて強制発情の触手責めか。
ワンピースの中に入ってきた柔毛が、ナツキのあれやこれやを目掛けて動き出す。
「……ま、この流れならそうなるよな」
しかし当然、それを大人しく待ってあげるほど自分の体の貞操に無頓着ではない。
「この世界ではボクは女の子で……あいにく、出会ったばかりのスライム触手娘にめちゃくちゃにされる趣味は持ち合わせがないんだ」
腕に絡みつく柔毛に、指先で触れる。
意識ある生物が練気術士に直に触れることがどれだけ危険か――思い知らせてやるとしよう。
☆ ☆ ☆
『んっ……ふたりはぁ、ふぅ、ちょっとくるしい、かもぉ……』
「ナツキさん、ナツキさんっ!」
床を這ってきたメルクの体の一部が、突然どぷんとナツキを呑み込んでしまった。ナツキは抵抗する素振りも見せず、膨らみは徐々にメルクの本体へと運ばれていき、やがて口を通って腹の中へと押し込められてしまった。
『うふふふ……メルクのおなかぁ、ぱんっぱんだぁ~』
ニーコとナツキを収めたその腹は、もはやメルク本体よりも大きかった。彼女の体が変形可能なゲル状でなければとっくに裂けているだろう。メルクは恍惚としながら両手でそれを撫でている。
「っ……ナツキさん! どうして動かないです!? わたしの声、聞こえてないのですか!?」
何度アイシャが呼びかけても、ナツキは全く反応を返さない。《念話》術も何かに弾かれてしまって届かない。
『あたりまえだよぉ~。だってぇ……ニーコちゃんもナツキちゃんもぉ、すやすや気持ちいい夢の中なんだからぁ~』
「夢……!?」
微動だにしないのは、眠らされているからか。
『うふ、夢の中ではねぇ、ふたりとも元気だよぉ~? ニーコちゃんはしぶとくてぇ、ずぅっと抵抗してたけどぉ~……、そろそろつかれてきちゃったみたいだねぇ~……。うふふふ、やーっと消化が始まるよぉ~!』
「っ、ニーコちゃんに何をしたですか!」
『うーん? まずねぇ~……きもちよ~くなるおくすりをあげてねぇ……あ、ほらぁ、ナツキちゃんもそろそろ始まるよぉ~?』
「始まるって……」
『今ねぇ~、夢の中でナツキちゃんをつかまえようとしてるんだぁ~……。これからい~っぱいきもちよくして、こころの鍵を開けてもらわなきゃねぇ~』
何を言っているのか分からない。気持ちよくしてくれるならそれはいいことのはずだ。
『知ってるかなぁ~……快感におぼれてるとき~、ヒトのたましいはむぼうびになるんだよぉ~? うふふふふ……ニーコちゃんはまだちっちゃすぎて~……すっごくじかんかかっちゃったけどぉ~』
「……よく分からないのです。でも、このままじゃナツキさんとニーコちゃんが大変なのはなんとなく分かるです! 返してもらうですよ!」
『おぉ~……めるくとたたかうのぉ~? うふふふ、めるくはねぇ~、けっこうつよいんだよぉ~』
アイオーンを構えると、メルク本体からにゅるりと何本もの触手が生え、首をもたげて応戦体勢に入った。
その内の一本が勢いよくアイシャの体を突き刺しに来るのを、アイオーンで切って捨てる。べちゃりと落ちた触手は瞬時に蒸発して消えた。
――速いが、見えない速度ではない。
『ほらほらぁ~……いつまでよけられるかなぁ~!』
次々と襲いかかってくる触手を、続けざまに切り裂いていく。たまに背後からも飛んでくるが、《気配》術でメルクの意識の流れは見えているので、後ろを見なくとも避けられる。
『へぇ~……不良品にしてはぁ~、いい動きだねぇ~。うふふふ、ナツキちゃんもねぇ、今ちょうどがんばってるよぉ~』
痛覚は存在しないのか、体の一部を切り裂かれ続けているはずのメルクはずっと涼しい顔だ。
『アイシャちゃんはぁ~……めるくの意識をよんでるんだねぇ~。うふふ……でもギフティアじゃないからぁ~……フェリスの変異種とかなのかなぁ~?』
「……あなたに教えることなんて何も無いのです」
『うふふふふ……そっかそっかぁ~……そういう相手はねぇ~、めるくはとぉっても得意なんだぁ~! だってほらぁ~……まだ気づいてない』
「え……いぎっ!?」
それは突然だった。視界外、メルクの意識も向いていなかったはずのアイシャの足元から、触手が生えてきて――体に突き刺さった。
「あっ、ぐ……はな、れるです!」
即座に刺さった触手を断ち切り、体内に残った部分を引き抜こうとした時――
――にゅるん、
「ひぁうっ……!?」
アイシャの伸ばした手を掻い潜るように、切り離したはずの触手がアイシャの体内へと潜っていった。
まさか体の中を食い破って進む気かと青ざめるが、何故か痛みはない。血も出ていない。確かにお尻の間に突き刺さったはずなのだが。
それを不思議に思う間もなく痛みの代わりに襲い来るのは、腹の中に張り巡らされた管を巨大な芋虫が這い回っているような、得体の知れない気持ち悪さだ。
「ん、やっ……の、のぼってくるです……っ、この、このっ」
ぐねぐねと波打つ自分の腹を殴りつけても、自分の体を傷つけない程度の力では何の効果もない。
『その子たちはねぇ~、めるくの意識とは関係なく動いてるからぁ……めるくの意識を読んでもむだなんだよぉ~』
「……そんなっ」
『うふふふふ……はぁい、というわけでぇ~……』
「あっ!?」
再びメルクの意識外、アイシャの死角から伸びてきた触手がアイシャの足に絡みつき、空中へと引っ張りあげた。同時に四肢を拘束され身動きが取れなくなる。見ればその触手達はどれもメルクには繋がっていない。
『ナツキちゃんの方がちょっとしぶといからぁ~、めるくはそっちに集中するねぇ~』
これまでナツキと戦いながら片手間でアイシャと遊んでいたが、想像以上にナツキが強かったので、アイシャは子分の触手に任せて放置することにしたと……そういうことなのか。
「――っ!」
不甲斐ない。何がナツキを死の運命から救うだ。自分一人の力ではこんな意識も持たぬ触手さえ倒せないのか。
唇を噛み締めるアイシャの心中など気にもとめず、体内に入り込んでいた触手はついに上腹部まで登ってきた。
ここまでくればもう分かる、触手が今いるのは胃袋の中だ。胃より下に何があるのかはよく知らないが、胃とその周辺だけはこれまで散々練気術で強化してきたのだ。分からないわけがない。
しかし――いくら胃袋を強化しようとも、中にいる触手を押し潰して退治することなどできはしない。せいぜい胃酸で弱ってくれるのを期待するしかないか。
『あ~……言い忘れてたけどぉ~、その子ねぇ、酸に触れるとはじけて死んじゃうんだぁ』
「……? それなら、好都合なのです」
『うふふ……そうだといいねぇ~……』
メルクの言葉通り、胃の中で触手がバシャリと弾けたのが分かった。燃料が弾けるのに似ているが、燃料ほど大量の中身が出てくるわけではないようで、特になんの問題も――
「……っ?」
体が、熱い。
まるで、レンタドール社の管理人に温かくなる薬を飲まされた時のようだ。鼓動が早くなり、おへその奥から身体中へと切ない疼きが浸透していく。意識が朦朧として、喉が渇く。
「はぁっ……んっ……」
全身が何かを求めているが、何を求めているのかが分からない。何かを解放したいが、どうすれば解放できるのか分からない。息はできているのに胸が苦しい。――あの管理人はよく、こうして苦しむアイシャをしばらく眺めた後、満足気に頷いて去っていったものだ。
『うふふ……めるくの体液はねぇ~……ハカセ特製のおくすりがたっぷり入ってるんだぁ~……』
しかし触手たちはアイシャを放置するつもりはないようだった。革鎧の中に潜り込み、体の表面を舐めていく。得体の知れないぞくぞくとした悪寒が背筋を這い上がる。
「ゃ、ぁ……やめ、るです……んっ」
嫌なはずなのに、何故か何かが満たされるような感覚があった。このまま身体を任せれば、全身を苛む疼きから解放されるような予感があった。ナツキとの「修行」で、最後に根源の窓を解放したときのように――
「んぁっ……ぁ」
触手が一本、太ももの間を這っていく。
ハロの報告によれば、その先には謎の穴があるはずだ。もしかすると、最初の触手はそこから入ってきたのだろうか。
「だめ……なのです……っ」
一体だけでこの有様なのに、二体目まで体内に入れてしまったらどうなってしまうのか。絶対にいい結果にはならない、受け入れてはいけないと強く思っても、謎の疼きに痺れた体は言うことを聞かなかった。
力の抜けた右手からアイオーンが滑り落ち、茜色の燐光を仄かに散らすのが、涙でぼやけた視界の端に映った。