シトラス
闘技場の扉の奥に進むと、《気配》術に新たに二つの反応が現れた。うち一つはすぐ近く、廊下をまっすぐ進めば出会うであろう位置に。もう一つはそのさらに奥、下方に。さらなる結界は存在しない――きっとここが聖窩の最奥だ。
裏口ワープゲートでも存在しない限り、いずれの反応も聖騎士であるはずはない。となるとどちらかがにー子だ。
どうか近くの反応であってくれ、と祈りながら歩みを進めるも、近づくにつれ分かってしまう。この意識はにー子のものではないと。
しかし――この意識のこともナツキは知っている。知ってしまっている。
「…………」
その在り方にずっと違和感を覚えながらも、あえて掘り下げないようにしていた。
敵対関係になることなど、考えてもいなかったから。
「……どうして」
廊下を抜けた先、巨大な立方体の内部のような空間でぽつんと一人、その少女は待っていた。
――ふわり、漂ってくる……爽やかな柑橘系の香り。
「およ、来ちゃいましたか……残念です」
「リモネちゃん……!」
いつもの明るい色の軍服に身を包み、しかしその手に見慣れない錫杖を携えた彼女は――ナツキとリリムを見て、悲しそうに微笑んだ。
「だめですよー、聖窩は一般人立ち入り禁止なんですから」
普段通りの口調。しかしその表情は何か大事なものを諦めてしまったかのように固い。
「リモネちゃん……ボク達はにー子を取り戻しに来たんだ」
「ええ、知ってます」
「にー子は大切な家族なんだ」
「はい」
「ギフティアだろうと、天使の血なんて大層な二つ名があろうと……にー子を《塔》に渡すつもりはない」
「そうでしょーね。ナツキさんならそう言うと思ってました」
「……それでも、リモネちゃんは」
「ここを通すわけにはいかないんですよ。あのラクリマは聖下の、あたしたちの計画に必要な……大切な駒ですから」
「っ……!」
空気が冷えていく。
にー子を指して「駒」と呼んだリモネちゃんの目にはもう光がなかった。
「リモネちゃんも……ラクリマより《塔》を優先するの? 本当にそれが正しいって思ってる!?」
「正しいかどうかなんて関係ないんですよ、ナツキさん。聖下の仰ることは絶対であって、疑う余地なんてないんですから」
「そんっ……そんなの、意思を封じ込められて人間に盲従してるラクリマと同じだよ! 目を覚まして、リモネちゃん!」
「…………」
軍ではなく《塔》の人間だったのかとか、戦えるのかとか、そんな問いは投げるまでもない。薄々分かってはいたことだ。全ドールの管理者権限を持っているのがごく普通の14歳の女の子だなんて、普通に考えて有り得ないのだから。
しかしそれでも、リモネちゃんはナツキと同じ、道具のように扱われるラクリマの現状を憂慮している側の人間だと思っていた。なのに――
「戦うしか……ないの?」
「そーですね」
無表情に即答され、胸の奥がズキリと痛む。言葉を返しあぐねていると、
「……リモネ」
リリムが一歩、ナツキの前に出た。
「本当にそれでいいの? だってリモネ、あなたは……」
「何か問題でもありますか? ないですよね。だってあたしは……あなたの記憶の中にいる、あたしの知らない誰かさんじゃないんですから」
「っ……」
「幻想に縋りすぎですよ。記憶消去は記憶喪失とは違います。あたしにはもう、あなたと過ごした日々の記憶なんて一切残っていません。忘れてしまったという感覚すらないんです」
「……あたしがあの後どれだけ泣いたか、どれだけ皆が悲しんだか……それすら、想像もできないの!?」
「え、ちょ、リリムさん? リモネちゃんも一体何を……」
話が掴めない。突然何を言い出すのかと問おうとして――リリムの真剣な瞳に、続く言葉を飲み込んだ。
「ほら、ナツキさんも困ってますよー?」
「はぐらかさないで! あなたは強くて見栄っ張りで、そのくせ寂しがりの泣き虫で、でも心の底から優しくて……記憶を失ったって、根っこのところは変わってない。別人なんかじゃないっ……そうでしょ、シトラ!」
リリムの言葉に、息を飲む。
シトラ――それはかつてキール達に可愛がられ、リリムと友情を結び、《同盟》にトラウマを植え付け、そして《塔》にその全ての縁を引き裂かれた、《子猫の陽だまり亭》先代看板娘の名だ。
「はて。あたしはみんなのアイドルリモネちゃんですよー。あなたにそんな名前で呼ばれた記憶はないですね」
「あたしにはある。あたし達みんな、諦めただけで納得なんてしてない。だから……二度と同じ過ちは繰り返したくないの」
「……全く、めんどくさい人達ですねー。あなた方が前のあたしとどんな関係を結んでよーが、今のあたしには関係ないんですよ」
《塔》に連れ去られたという話だけ聞いて、帰らぬ人となってしまったのだと勝手に思っていた。
シトラは殺されたわけでも、被検体として囚われているわけでもなかったのだ。ただ大切な記憶を抹消され、《塔》の手先として、「リモネちゃん」という別人として働かされている。
記憶を失ったシトラと再開した時、リリム達は一体どれだけの絶望と悲しみの海に沈められたのか、想像もつかない。
「ダインやラズさんがリモネちゃんを見て変な顔してた理由がやっと分かったよ……」
「ナツキちゃん……ごめんね、ずっと黙ってて」
「んーん、大丈夫。ありがとう、黙っててくれて」
かつて「シトラ」だった時代の彼女を知らないナツキにとっては、今のリモネちゃんはただのリモネちゃんだ。今の彼女と良好な関係を築いているナツキに対して「そのリモネちゃんは偽物だ」なんて伝えるのはエゴでしかないと、そう考えてくれたのだろう。
「みんながにー子を守ろうとしてくれる理由もよく分かったよ。もしにー子が今のリモネちゃんみたいになっちゃったら……ボクはきっと耐えられない」
別の名前を付けられたにー子に、「お前ににー子などと呼ばれたことは無い」なんて言われてしまったら、正気を保っていられる自信がない。新しくにー子と出会った人が、そのにー子を本物として扱っているのを見て、リリム達のように自制できる自信もない。
「だから……そこをどいてもらうよ、リモネちゃん!」
戦う道しか無いと言うのなら、もう問答は終わりだ。先手必勝、亜音速でリモネちゃんに肉薄する。
「――《閃光》ッ!」
峰打ちで振り抜いたアイオーンが、驚いた顔で固まるリモネちゃんの――幻影を引き裂いた。
「なっ――」
「残像ですよー」
「!?」
リモネちゃんの声が、ナツキのすぐ耳元で響く。
と同時に紫色の燐光がちらりと視界の端をよぎり、シャン、と鈴の音が聞こえ――
「《ライトニング》」
――雷マナ系の初級速攻魔法!
「くぁっ……!」
避けきれず、放電音と共に全身を痛みが貫く。瞬時に痛覚を遮断しその場から飛び退る。
「ナツキちゃん!?」
「大丈夫、リリムさんは下がってて!」
心配するリリムに叫び返している間に、リモネちゃんは元の位置に戻っていた。手に持つ長い錫杖で地面を一突き、シャン、と鈴の音が聞こえ、薄水色と黄緑色のマナの燐光がリモネちゃんの周囲に巻き起こり、
「《フリージア》」
「っ――!」
大量の燐光一つ一つが鋭利な氷の棘となり、身を刺すようなな冷風と共にナツキとリリム目掛けて飛んでくる。氷・風複合系の一般的な攻撃魔法だ。
「幽剣流、破の五――」
アイオーンをぶらりと下段に構え、
「《雨蜘蛛》!」
射線上に自分やリリムが重なっている氷の棘を全て、正確に切り捨てていく。視覚の強化とアイオーンの強度ありきの防御技だ。相変わらず魔法発動前の魔力反応が無いせいで後手に回ってしまうのが厄介だが、この程度の攻撃なら受け切れる。
傷一つついていないナツキを見て、リモネちゃんは感心したように溜息をついた。
「……話には聞いてましたけど。ナツキさんあなた、べらぼーに強いですね」
「どーも。この世界のどんなラクリマよりアイオーンを上手く扱える自信はあるよ」
「ただの人間がアイオーンに触れて無事なだけで異常なのに、光の色までおかしくなってることについても要調査ですねー」
「……そんなことよりその杖の方が気になるかな、ボクは。まさかどんな魔法でも発動できるの?」
この世界では、魔法を自力で使えるのはギフティアだけだ。魔法を放つ度に鈴の音を響かせているあの錫杖が何らかの聖片なのだろう。
リモネちゃんはナツキの問いには答えずにただ不敵に笑い、再び錫杖で地面を突こうとした。
「させないよ!」
すかさず、ずっとチャージしておいた高出力の《気迫》術を放つ。
「っ!?」
恐らく何かしらの精神防御魔法もかけているのだろう、リモネちゃんが気絶することはなかったが、それでも一瞬身体が強ばり、錫杖の動きが止まった。
その隙を見逃してやるわけがない。一瞬で距離を詰め、錫杖をアイオーンで弾き飛ばす。
「今のは……キルネの……!」
驚愕に目を見開くリモネちゃんの手から離れた錫杖は、空中で回転しながら真っ二つに折れた。それを視界の端に捉えながら、距離を詰めた勢いのまま体当たりするようにリモネちゃんを押し倒す。
「あぅっ……」
「終わりだよ」
カシャアン、と大きな音を立てて、地面に叩きつけられた錫杖の鈴が四方へ飛び散る。大層な効果の割には脆いな、ちょっともったいないかも、なんて思いつつ、リモネちゃんの両腕を地面に押さえつける。あとは《眠気》術で眠らせるだけ――
「……ん?」
視界の端、リリムが何かを叫んでいる。その表情は切羽詰まっていて、ナツキに何かを必死に伝えようとしているようだ。
しかし何故かその声は聞こえない。まるでナツキとリリムの間に不可視の防音壁があるかのように――いや、実際にあるのだ。リリムが何も無い空中をドンドンと叩いている。
――結界だ。誰が、何のために?
錫杖は壊した。《気配》術で検知できる範囲に新手はいない。となるとフィールドトラップの類か。では何故リリムはあんなに慌てている?
「ふむ、幼女に押し倒されるのもオツなもんですねー」
ナツキの体の下、特に抵抗することもなく床に倒れていたリモネちゃんが、余裕の表情でそんな冗談を言ってくる。嫌な予感――
「あの杖……ハリボテにしてはよく出来てたと思いません?」
「っ!?」
「《シュレッダー》」
押し倒すナツキと押し倒されたリモネちゃん、二人の間に突如として風のマナが湧き出たかと思うと、その一つ一つが鎌鼬となってナツキに襲いかかった。
「っ、ぐっ……!」
すぐさま飛び退くも、全ては避けられない。ワンピースのあちこちが破れ、身体強化が間に合わなかった腕や脇腹が浅く裂けた。血が飛び散り、ワンピースが赤黒く染まっていく。リリムが見えない壁を叩きながら心配そうに叫んでいるのが見えるが、やはり声は聞こえない。
「何で……杖じゃないなら一体……」
「やれやれ……いいですかナツキさん、魔術師にとって、杖はイメージを補助する道具に過ぎないんですよ」
「そうじゃなくて! この世界の人間には魔法は使えないはずじゃ」
「ふむ、せっかくですしその辺りのお話をしましょうか。あたしも本気を出したいですし、っと」
立ち上がったリモネちゃんがぴょんと飛び跳ねる。そしてそのまま着地することなく、闇のマナを薄く散らしながら浮き上がっていった。
「な……!?」
――物理法則の限定改竄による飛行魔法《ゼログラビティ》、無詠唱発動。
トスカナ曰く、詠唱にはイメージの強化以外の効果はなく、熟練した魔術師は長ったらしい詠唱文を捨てて魔法名のみ唱えるか、何も唱えず脳内イメージのみで魔法を発動するらしい。
トスカナは基本的に毎回魔法名を唱えているが、回復魔法ならば省略しようと思えば無詠唱も可能だと言っていた。無詠唱魔法というのはそれほど高い熟練度が求められるということだ。
「魔法というのはですね、マナを様々なエネルギーに変換する技術です。ええ、ナツキさんの言う通り、一部のラクリマにしか使えない力です」
リモネちゃんが胸の前で広げた掌の上に、赤い燐光が舞い始める。火のマナだ。
「ラクリマの総数は全世界でおよそ100万、うち0.1パーセントほどがギフティアですが……ところでナツキさん、ラクリマのクラスっていくつあると思います?」
「へ?」
説明モードに入ったかと思いきや、続けて飛んできたのはそんなオペレーター認定試験で出題されるような問いだった。
ラクリマの分類方法はいくつかあるが、「クラス」による分類はその中でも最も大きな括りだ。すなわち、異能があるかないかの違い。ドロップスかギフティアか、だ。
「二つ、だよね。コロニーマザーを別クラスにするみたいな話もあるって聞いたけど……それが?」
「はい、満点です。それこそ《塔》が一般人に求める模範的な回答です。ぱちぱち」
リモネちゃんの掌の上の光が増えていく。大量の赤い火のマナの中に、時折紫色の雷のマナが弾ける。
「ちなみにマザーのクラス化はつい先日棄却されましたよ、あれはドロップスの自然感染個体か無自覚なギフティアのどちらかですから。知ってます? ギフティアって元々感染個体しかいないんですよ。めんどくさいことになるんで《塔》は絶対明言しませんけど、長年やってるシーカーの方々は薄々気づいてるんじゃないですかねー」
さらりと重要な情報が聞こえた気がするが、今は――
「リモネちゃん、悪いけど時間稼ぎに付き合う気はないよ」
「じゃあ手短に。さっきの問題、本当の答えは『四つ』です」
「……!?」
もう片方の掌の上に、光のマナが一つ、闇のマナが三つ現れる。火のマナがドロップス、雷のマナがギフティアを現しているのだとすれば、光と闇のマナが意味するのは――
「無能力の堕ちし者、異能持ちの授かりし者、そして……この世界で初めて生み出された三体の原初の涙と、未捕獲の最重要ラクリマ天使の雫。分類基準は魂の由来。ここまで答えられたらパーフェクト、晴れて口封じの処刑台行きです」
知らない方が良さそうな情報が次々と投げつけられ、聞いたからには死んでもらうと結ばれた。理不尽極まりない。どうせ禁忌事項ならもっと深掘って聞いておきたい部分が大量にあるが――
「だから何だって言うのさ。答える気がないならもう――」
「あたしが魔法を使える理由が聞きたいんですよね? わかってますよー、今のは前提知識の共有です」
掌の上のマナの塊が弾け、リモネちゃんの周りをぐるぐると飛び回り始める。光、闇、火、氷、風、雷、土――あらゆる属性のマナが一度にリモネちゃんの意識に従って動いている。熟練した魔術師である証拠だ。その理由を話すにあたっての前提知識が、ラクリマのクラス分類?
首を捻るナツキに、リモネちゃんは呆れたように笑った。
「……ナツキさん、さっき言いましたよね。聖下の命じるままに動くあたしは、意思を封じられて人間に盲従してるラクリマみたいなものだって」
「言ったよ」
「その通りですよ。あたし達ラクリマというのは、そういう存在なんです」
「そう決めたのは《塔》で、人間でしょ! 人間とラクリマが手を取り合える未来だって絶対――え?」
今、なんて?
「改めて、自己紹介でもしましょうか」
リモネちゃんはクスリと笑い、キャスケット帽を外して一礼した。
「はじめまして、ナツキさん。あたしは《塔》序列第五位、人民解放軍参謀本部長、ドール最高管理責任者、端末部隊指揮官、《子猫の陽だまり亭》初代看板娘、みんなのチュートリアル美少女にして永遠の14歳――」
次々と並び立てられていく知らない肩書き、知った肩書き。その全ては、続く内容に吹き散らされて消えてしまった。
「――原初の涙クラスが一雫、リモネリア=ニル=シトラス。個体IDはN-2、成長度14、稼働年数396年。現在受けている厳重命令は――侵入者の抹殺です」
その顔に浮かぶのは、悲しげな微笑み。
「あたしはもう不良品なんですよ、ナツキさん。あなたを殺せなければこのあたしは廃棄されます。あなたが死ぬか、あたしが星に還るか――そういう戦いを、始めましょう」