天使の眼
個室の壁に万年筆を突き立てたナツキとリリムは、ゲートの開通を待たずにトイレを出た。今は数分のロスも致命的になる。聖騎士に出会うまでに剣を手にしていること、というのがあの謎の声が提示した「前提条件」なのだ。聖騎士を地上に縛り付けられている以上、今ここでアイシャ達を待つ必要はない。
長い螺旋階段を駆け下りていき、最下部の扉を抜けて行き着いた先は、円形の広い空間だった。平らな中心部を囲むようにすり鉢状の観客席が設えられた、石造の闘技場のような場所だ。
その中心部には何故か場違いな可愛らしいテーブルと椅子が置かれており、脇にはオレンジ色の光を放つランタンが添えられていた。非常灯だろうか。
そしてテーブルの上には山盛りのカラフルなキャンディ、椅子の上には――女の子。
「あはっ、やっと来た! もー待ちくたびれちゃった。あなた達が侵入者ぁ?」
ナツキとリリムに気づいた少女はとても嬉しそうに笑い、両手で顔を覆うように頬杖をついたまま、視線だけをこちらに向けてきた。
「キミがここの番人かな。にー子を返してもらいに来たよ」
「ふぅん? ニーコって……天使の血のことー?」
聞いた事のない固有名詞が飛び出してきた。リリムに視線を向けるが、首を横に振られる。
「あれぇ、知らないの? じゃあ教えてあげよっか。大天使聖下の計画にはねー、特殊なギフティアが何体も必要なんだ。天使の雫、天使の剣、天使の胎、天使の眼、天使の血、あとねー」
「待って!」
少女の言葉を遮ったのはリリムだった。心なしか顔が青ざめている。
「《天の階》……いつの間にそんなに増えてたの」
「あはっ、お姉さんはちょっと詳しい人? でもざぁんねん、必要な《天の階》の数は何百年も前から一緒だよー? うふふー、セキュリティクラスⅢくらいの人かな? 天使の剣と天使の眼だけだと思ってたのぉ? あはっ、おもしろーい! そんなわけないじゃーん!」
少女はけらけらと楽しそうに笑う。対するリリムは悔しそうに奥歯を噛み締めた。ナツキには何の話かさっぱり分からない。
「何でもいいよ、ボク達は家族を取り返しに来ただけ。邪魔するって言うなら……力ずくで押し通るよ」
「あはっ、くそざこ人間が何か言ってるぅ! 戦うのはいいけどー、んー、ちょっと絶望感が足りないかも?」
「何を……」
少女はぴょんと椅子から飛び降り、テーブルからキャンディをひとつ取って口に含んだ。
挑発的な目でこちらを見る少女は、身長的には12歳くらいだろうか。真っ白なツインテールを大きな赤リボンで留めている。いわゆるサキュバスのような、露出度の高い扇情的な衣装を身にまとっているが、体躯が未発達なせいで子供が無理して大人の階段を上ろうとしているかのようなミスマッチ感がある。風邪をひくからちゃんと服を着ろと言いたくなるが、隣のリリムが似たような露出度合いなので何の説得力もない。
しかしその一方で、サキュバス衣装は彼女によく似合ってもいた。なぜなら――
「改めましてぇ、キルネ=セス=リリスでーす。《天の階》が一階、天使の眼……『処刑官』なんて呼ばれることもあるけどぉ、キルネのことは、キルネ、って呼んでくれると嬉しいな♪」
そう自己紹介しながらくるりと一回転する彼女の背には蝙蝠のような羽が生えていたし、腰から伸びる真っ黒な細い尻尾の先端はスペードの形をしていた。その人ならざる姿は、まさにサキュバスの子供だ。
「まあうん、ラクリマだよね……ボクはナツキ、よろしく、キルネ」
「あはっ、よろしくぅ♪」
こんな場所にいることからして普通の子供ではないことは予想していた。しかし天使の剣ことスーニャと同列の存在となると、かなりの強敵であることは間違いない。
と思っていたら、リリムがナツキの手を強く握り締めた。……震えている?
「《塔》の……処刑官……そんな」
「リリムさん?」
「ダメ、勝ち目がない……逃げるよナツキちゃん!」
「え!? なんで――」
「逃がすと思う? あははははっ!」
何故かナツキの手を引いて逃げ出そうとしたリリムの目の前で、入ってきた扉が閉まった。ガシャンガシャンと扉の奥で何かが落ちる音が響く。シャッターでも下りているのか。
「ふぅん……ナツキちゃんはキルネのこと知らないんだ? ちょっとざんねーん……でもそっちのお姉さんは、あはっ、いいねその顔、んっ、キルネぞくぞくしちゃう……」
「ナツキちゃん……ごめんね」
「リリムさん!? 諦めないで、あの子まだ何もしてないよ!」
「あはっ、あたりまえでしょー? キルネが何かしてたら、今あなた達が生きてるわけないもーん」
キルネはひたひたと余裕の表情で歩み寄ってくる。《気配》術で見ても、特に変わったところはない。何をしてくるにしても、舐められきっている今が好機――
「じゃ、死んで♡」
ナツキが飛びかかるより一瞬早く、ガリ、とキルネがキャンディを噛み砕いた。途端――視界が血色の稲妻で覆われる。
――とんでもない量の殺気!
「殺す、壊す、殺す、殺す殺す殺す殺す壊す壊す殺すッ! あははははははははっ、んぁっ、気持ちぃ、いぃーッ!」
「っ――!」
気の力で精神防護壁を全力展開する。リリムと手を繋いでいてよかった、生身では殺気だけでショック死しかねない強度だ。ナツキが全力を出してギリギリ対抗できる、ラグナでも経験したことのないレベルの殺気――只者ではない。これで行動を阻害してから殺しにくる魂胆か。
「っ、ナツキちゃん……」
「大丈夫、ボクが支えるから、気をしっかりもって!」
ナツキの防護があるとはいえ、これほどの殺気と相対した経験など無いだろうリリムの顔は真っ青だった。リリム側の防護を厚くしておく。
精神防御のおかげで足が竦んだり発狂してしまったりすることはないが、二人まとめて守っているせいで物理防御に回す気の力がない。このまま本命の一撃を受けたら確実に死んでしまう。回避に徹するしかないが、いざとなったら《転魂》術を――
「んっ、あはっ、あははははっ、ざぁこ、ざこざこ人間! 死ね、死ねぇ! んんっ、あ、だめっ、もうイっちゃ……あれ?」
一人で腰をくねらせていたキルネが、ふと不思議そうに首を傾げてこちらを見た。
「えっとー……もしかして、まだ生きてる……?」
「は?」
何を言っている? まさかもう攻撃を仕掛けてきたのか?
「ちょ……っと待って、タンマ! そこから動かないこと!」
殺気を収めて一方的にそう告げ、キルネはテーブルへと駆け戻っていった。キャンディをひとつ口に入れ、ガリッとひと噛みし、
「死ねぇ!」
再び血色の稲妻が場を満たす。二度目なので驚きはないが、やはりものすごい威力だ。練気術を知らない人間ならこれだけで発狂して死んでしまいそうな――
「ん?」
「もしかして……」
リリムと顔を見合わせる。これはまさか、そういうことなのか。
「うそ、なんで……? だってキルネの異能は……どんな人間だって……」
信じられない、という表情で目を泳がせながら後ずさるキルネに向けて、一歩を踏み出す。
「えーっと、今のがキルネの異能? すごいね、初めて受けたよあんな量の殺気」
「さっ……!? ち、違う! キルネの異能は質量のスペクトロギー変換! どんな人間だって見ただけで殺せる、一番強い大天使聖下の力で――」
「何でもいいけど、殺気に本来殺傷力はないよ。強い殺気を受けた人が勝手に発狂してショック死してるだけ」
「そんな、そんなことないっ! だってキルネはずっとこの力で! んぐ、死ね、死ねぇっ!」
キルネは続けざまに三つキャンディを頬張り、一気に噛み潰した。一瞬殺気の量が増幅し、緩みかけていた防御を固めるが――
「もし任務に失敗したらっ、キルネは、キルネはきっとメルクに、そんなのやだ、やごぷっ……!? っ……ぁ、ぇぅ……」
「っ!?」
殺気はすぐに減衰していき、キルネは大量の血を吐いてよろめいた。
「キルネ!」
咄嗟に地面を蹴ってキルネの脇に飛び込み、倒れていく体を支える。と同時に気の糸をキルネの体内に潜り込ませ、
「っ――酷い」
思わず声に出てしまうほど、彼女の気の循環路はズタボロだった。キャンディが何かのトリガーなのだろうが、恐らく三つ一気に噛み砕いた最後の一撃は彼女の身体の許容量を超えていたのだ。あちらこちらで循環路がちぎれ飛び、そこから熱エネルギーとして顕出した気の力が内臓を深く傷つけている。
「ぁ……ぃだ……ぃ……ぇぽっ、いゃ……ぁ」
「リリムさん! 回復薬! このままじゃ死んじゃう!」
戦闘に備えてリリムに調達してきてもらった回復薬にはまだ余裕がある。それを使おうとリリムを呼んだが、リリムは警戒するように目を細めた。
「……それはお人好しが過ぎるんじゃない、ナツキちゃん? その子はあたし達を」
「リリムさん」
そうだとしても、罰するべきはキルネではない。彼女を殺戮機械として「任務」とやらに縛り付けている《塔》が全ての元凶なのだから。
「……そうだね」
ナツキがじっと見つめると、リリムは複雑な表情で回復薬を渡してくれた。いろいろと裏側を知っているリリムのことだ、何か思うところがあるのかもしれないが――ナツキにとってはキルネもスーニャも同じ《塔》に縛り付けられている子供であり、決して殺すべき敵ではない。
「ごめんキルネ、時間が無いから荒っぽくなるけど、我慢して!」
「ぇ……んきゅむっ!?」
キルネの口に回復薬を流し込みつつ、全身に気の糸を張り巡らせていく。穴だらけの気の循環路をナツキの気で応急修復するのだ。
「っ! ……うわ、こりゃひどいな。キルネ、よく今までこんな……」
「ぁ、んっ、ふぁあぁっ、なん、ら、らめぇっ、やらっ、んひゅぁっ……、っ!」
「え、ちょ、ナツキちゃん、何やってるの!?」
「気の循環路の調律と……あと、解呪。はい、終わり」
「ふぁっ……、はぁっ……らに……これぇ……」
終わった後もエビのように体を反らせてしばらく痙攣し続けていたキルネだが、やがて薄く目を開けた。痛みが無くなっていることに気づいたか、きょとんとして自分の腹をさすった後、ナツキに不信の目を向けた。
「なんで、助けたの……? ……殺せばいいのに」
「キミを殺す理由が無いよ」
「あはっ、キルネの任務は……侵入者を殺すことだけどー?」
「それは本当にキルネがしたいこと?」
「? そう、キルネはぁ……壊して、殺して、気持ちよくなって、もっと殺して、殺して……あは、あはははは、そう、したいこと、キルネのしたいこと……あれ?」
ふとキルネの表情がなくなった。恍惚の代わりにじわりと浮かんでくるのは……困惑。
「なんでキルネ、そんなこと……したいんだっけ……そう、聖下がキルネにそう望んで……」
「それはその『聖下』のしたいことだよね?」
「え……あれ……? でも……キルネはそういうラクリマ、のはず……」
心の拠り所を失ってしまったかのように視線が泳ぐ。
「混乱してると思うけど……まずはゆっくりお休み、キルネ」
「へ……」
《眠気》術で数時間は目を覚まさない程度の眠りに落とし、壁にもたれかけさせた。穏やかな寝顔だけ見れば年相応の子供だな、なんて思っていると、少し離れてメスを構えていたリリムが歩み寄ってきた。
訝しげな顔をナツキに向け、
「ナツキちゃん……今、何したの?」
「何って、さっきまでと一緒だよ。数時間くらい眠ってもらっただけ」
「そうじゃなくて! ……天使の眼って言ったら、人間を殺すことしか考えてない、狂った処刑用ギフティア……のはず。いつナツキちゃんの首を締めに来るかずっとヒヤヒヤしてたんだよ。なのに今のその子はまるで……正気に戻ったみたいな……」
「ん、やっぱり……今日だけじゃないんだね」
「……どういうこと?」
キルネの気の循環路をスキャンして発見したのは、力の使いすぎによる損傷だけではなかった。
それは――あまりにも人道に反していた。怒りより先に、そこまで道を踏み外すのかという悲しみが湧き出てきた。
「自己規定領域のアクセスルート改竄……いわゆる洗脳、かな。キルネの気の循環路に噛み合わない気のわだかまりが、無理やり差し込まれてた。ずっと……すごい負担だったはずだよ」
「っ、洗脳……!?」
「こういう時に自分ならこうする、っていう判断基準だけを書き換えてるから……自分じゃ気づけない。まさか実用化されてるなんて……」
気の循環はそれ自体が魂だと言い換えてもいい。その一部、自身の思考基準を規定する部分の流れに恣意的に干渉することで、理論上は洗脳が可能とされる。しかし実行にはかなりの経験と技術、未だ論文上にしか記述のないような知識が必要で、実用レベルで行使できる者はほぼいないと言っていい――少なくともラグナにおいては。
仮に術を受けたとしても、拒否する意思さえあれば簡単に跳ね除けられるとされるが――この世界のラクリマには「拒否する意思」を持つことがまず高いハードルなのだ。
「……行こう。早くにー子を助けなきゃ」
「……そうだね」
闘技場の奥、反対側の扉を睨みつける。《塔》は重要なギフティアすら道具のように扱うということが分かってしまった以上、もはや一刻の猶予もなかった。