Noah/θ - 超越者たち
――何故、こんなことになってしまったのか。
セイラは考える。
自分は考えうる限り最適な行動をし続けてきた。主に仕え、《計画》の成功を目指して動いてきた。そのはずだった。なのに。
「リモネ……どうして? ぼく達の目的は同じだったはず……」
聖下に直談判しに行く、と言って出ていったリモネは未だ帰って来ない。去り際に彼女から放たれた一撃で生じた外部との通信エラーを一日かけて修復し終え、システム復旧を報告しようとした矢先に謎の停電が起き、今外がどうなっているかも分からない。リモネと違って自分はこの空間から一歩たりとも外に出られないのだ。
この空間は電力で動いているわけではないが、空間内外の連絡手段は電力頼りだ。こうなってしまうともう思索にふけるくらいしかやることが無い。普段なら次の発明について考えるところだが、今はリモネが最後に見せた悲しそうな顔が脳裏に貼りついて剥がれなかった。
「どうしてリモネは怒ったのかな……」
天使の血――重要回収対象のラクリマのうち一体の発見。それはよく考えずとも吉報のはずだった。
《計画》の遂行に必要なラクリマ群、秘匿呼称《天の階》の一角。天使の加護ではどうしようもなく、天然のギフティアとして発見されるのを待つ他なかった、回復薬と同様に生命科学を無視して傷を治癒する能力を持つ存在だ。
主はとても喜んでいた。《計画》の遂行にあたって不要な犠牲を減らすことができると。回復薬は製造コストが非常に高く、天使の血は理論上そのコストをほぼ0にすることができるのだ。
「いい事ばかり、のはずなんだけど……」
セイラとしても完全に主の意見に賛成である。同じ目的を達成できるのなら犠牲者は少ない方がいいに決まっている。
神獣の攻勢が激化している今、天使の雫が確保でき次第天使の血は諦め、多くの犠牲が出ることには目をつぶって最終段階に移るしかない――という苦渋の決断をしたばかりのタイミングで、それが覆ったのだ。これが吉報でなくて何だと言うのか。
だと言うのに、リモネは激昂した。天使の血が見つかったと聞いた時には「ほんとですか!」なんて嬉しそうな顔をしていたのに、それがあのナツキという少女に関わりのあるラクリマだと聞いた途端、目の色を変えて狼狽し出したのだ。
「ナツキ……か。あの子に何かされた、のかな」
リモネは度々あの少女と接触している――そう、いくらデータベースを漁っても関連情報が見つからないあの謎の少女だ。彼女は身体の特徴的にラクリマではなく人間のようだが、この世界の一般的な人間では有り得ない身体能力を持ち、恐らくはギフティアの異能のような特殊な能力も有している。それくらいはこれまで監視・収集してきたデータから容易に推測できることだ。
それだけ見れば、別世界から記憶を保持したまま転生してきた、と考えるのが自然だ。同じ別世界からの来訪者として、異世界人の存在そのものには何の違和感もない。しかし――今現在、それは原理的に有り得ないということをセイラは知っている。
「……確保優先度、上げるか」
《計画》に必要不可欠な能力を持っているわけではなさそうで、明確に《塔》に敵対しているわけでもなく、神獣との戦いでもそこそこ活躍している。各方面で手が足りない今の状況で早急に確保する必要はない――という判断の下でずっと泳がせてきたが、リモネに何か悪影響を及ぼした疑いが出てきた以上、一度確保して調べてみた方がいいかもしれない。停電事件が片付いたら着手しよう。
「リモネのことは考えてもよく分かんないし……はぁ、せめて端末にアクセスできれば……」
ひとりごちながら、最近ナツキやリモネと接触した端末達を思い出す。λ、δ、χの三人だ。δはまともに情報を引き出す前に任務続行不能になってしまったが、他の二人はナツキともリモネともかなり深く関わっている。
「あー、そういやχからの報告ももらい損ねたんだった」
ナツキの行動を報告するように命じておいたのだが、指定した時刻に丁度リモネが壊したシステムの復旧をしていたせいで聞き逃してしまったのだ。リモネが現地にいたはずなので普段なら彼女に話を聞くところだが――そのリモネも今はいない。
「端末システムを電子回路とのハイブリッドにしたのは失敗だったかなー。でも《塔》の電力系統が丸ごとダウンするなんて想定してないし……」
「りゅーん、インフラはいつか落ちるものなのー。今度からはフォールトトレラントな設計を心がけるといいの」
「えー、いやそりゃ分かるけどさ、発電機八つも別口で並べてる時点でかなり頑張ってると思わな、ぃ……、…………っ!?」
背後から辛辣なアドバイスが降ってきて、いつものように反射的に愚痴を零しかけ、気づく。リモネの声ではない。リモネはフォールトトレラントなんて概念は知らない。
この空間はかなり特殊な条件を満たす者しか入れない。今となってはもうセイラとリモネのシェアハウスと化しているこの空間で、リモネ以外の返答が返ってくるなんてことは――ごくごく一部の例外を除き、有り得ない。
恐る恐る、振り返る。
「らんららん。調子どうなの? 寂しがってるかなーって思って来てみたけど、案外平気みたいなのね。りゅふふ」
ガラスの鈴を転がすような澄み切った声が、波紋となって空間に広がる。それに合わせて揺れる大きな極光色の翼と、艶めいた黒髪の頭上に浮かぶ瑠璃色の欠けた光輪。100センチあるかないかくらいの背丈から放たれる、存在としての格が違うと一瞬で分かるオーラ。
「せ……せせせっせ」
「せっくす?」
「違います! 聖下!? な、な、何でここに!?」
「それはさっき言ったの。寂しがってるかなーって」
目の前に立っていたのは、《塔》の最上位存在でありセイラの主――大天使聖下その人だった。
慌てて姿勢を正す。
「ごご、ごめんなさい! ぼくの不手際で大規模な障害が発生してしまったようでっ!」
「りゅん? いいのいいの。余は別に処罰に来たんじゃないの。……というか今更取り繕っても遅いの。発電機の冗長化は頑張ったし想定外の事態なのね? るんるん、わかる、わかるのー」
「んぐっ、その、えっと」
「りゅふふ」
おろおろするセイラを見て、主はころころと楽しそうに笑った。その姿だけ見ればあどけない少女のようだが、その内面は見た目とはあまりにもかけ離れている。子供っぽくフレンドリーな言動は存在の超越性を包み込むためのカモフラージュだと思った方がいい。
「だいじょーぶなの、停電のことでお前を責める気はないの。お前まで処罰したら《塔》の運営に支障が出ちゃうの」
「ぼくまで……って、まさかリモネ……」
「りんりん、まだイエローカード。今日の結果次第なのね」
「今日の結果?」
「なの。失敗したらなんとびっくり一ヶ月メルクポットの刑なの!」
「いっ……!?」
あまりの内容に一歩後ずさる。それはかつて興味本位でセイラが《塔》のデータベースをハッキングしてしまった際に受けたお仕置きだ。しかしセイラの刑期は一時間で、それだけでも発狂しかけたと言うのに――一ヶ月とは。
「し、死んじゃいますよ、リモネ……」
「りんりん。殺すの。今回は酷使しちゃったの、最期くらいは気持ちよくイかせてあげるのね」
「あ……リセット、ですか」
「りゅん。お前と違ってあの子は素材が未成熟個体だから、壊れやすいのね。特に今回は無理な部分リセットもあって、思考回路に欠陥が目立ったの……りゅる、お前の言う通り、どこかに無茶があったの。次は気をつけるのね」
透明な声で淡々と語られたのは、リモネの「今日の結果」が失敗に終わることを前提とした言葉だった。一応挽回の可能性を与えてはいるが、全く期待はしていないのだ。
「…………」
「りゅ? 不満なのね?」
「い、いえ、昨日のリモネは明らかにおかしかったので、初期化は仕方ないと思います。ただ……」
「ただ?」
とてとてと近づいてきた小さな主が、セイラの顔を下からじっと覗き込む。不思議そうにきょとんとした顔をしながら、その瞳はセイラの一挙手一投足を仔細に観察している。背後のオーロラの翼がゆらゆらと揺れた。
見た目と内面のちぐはぐさは、高次の存在である彼女が人間の姿を模していることによるものか。それとも天使とはそういうものなのか。それは分からずとも、今ここで下手なことを口走るわけにはいかないという事だけは分かる。
「……ただ、ぼくの記憶とリモネの記憶がまた食い違うことになるので……最近ようやく戻ってきたのにな、と少し、なんと言うか……んん、寂しかった、でしょうか」
天使に嘘は通用しない。心の中にあるもやもやを整理しながら、なんとか言語化を試みていく。すると意外にも、合点が行ったという風に頷きが返ってきた。
「記憶の齟齬によるコミュニケーションの障害、なのね。りゅん、あの子も何度か言ってたの。当事者の意見が一致してるなら後回しにはできないかもなの……りゅーん……あ、じゃあこうするの」
ぴ、と短い指先がセイラを指す。
「お前からもあの子の記憶を消すの」
「――えっ」
「お前が寂しいのは、あの子に忘れられるからじゃなくて、お前だけがあの子と一緒にいた時間を覚えているからなの。りんりん?」
「そ、れは」
確かにそうだ。自分もリモネのことを忘れてしまえば、リモネと自分が共に過ごした時間は無かったことになり、寂しさを感じることもなくなる。
しかし何故か、素直に受け入れることを拒む気持ちがあった。信頼関係を一から構築し直すのが面倒だからだろうか? ……いや、記憶が消えてしまえば「一から」「し直す」なんて考えることはなくなる。もっと何か根源的な……おかしい、何かを忘れている気がする。
「ほら、今ちょうど血にしてる処置と同じなの。《計画》の邪魔になる記憶は消しておかないとなの。……あ、もちろんお前の研究や発明、前世の記憶は消えないから安心してほしいのね。余に任せるの!」
研究や発明は自身のアイデンティティであり、前世の記憶は生きる理由、主に仕える理由だ。それがしっかり保持されるということは、これまで何度もリモネの記憶が初期化されるのを見てきて理解している。何も問題は無いはずだ。
なのに、何故――こんなにも迷うのだろうか。天使の血の記憶処理を止めようとしたリモネの顔が思い出される。あの時自分はそれを一笑に付したというのに――
「りゅ……でも、血の処理が終わらないとお前が入れるスペースがないの。明日まで待ってほしいのね」
「あ、はい、それはもちろん……」
「りゅん、とりあえず問題はなくなりそうでよかったの」
嬉しそうに微笑む。《計画》のためとはいえ、セイラやリモネのような下々の存在の悩みにまで心から気を配ってくれているのだ。彼女の目的それ自体に興味はなくとも、その姿勢には答えたいと思う。
明日までに謎のもやもやを払拭しておかなければ。そう心に留め、頭を下げてお礼を返した。
「……ところで、お前がメルクポット一時間したときのことは覚えてるの?」
「ふへっ!? き……気が狂いそうになったことしか……」
「りゅるん、ならいいの」
急に何を聞いてくるのか。あの時のことは――思い出したくもない。何か機密情報を見てしまったことは覚えているが、その後のおしおきで全て忘れてしまった。そもそも何故わざわざ機密情報など見に行こうと思ったのかすら謎だ。サーバのクラッキングなど、明らかに絶対なる主に対する背信行為ではないか。
「……よく効いてるの。しばらくはこのまま運用できそうなのね……」
主が小声で何かを呟いていたが、よく聞き取れなかった。
「あ、それより聖下、急ぎの問題は停電ですよ。何があったのか……」
「りゅわ、そうだったの。外の様子をお前にも軽く教えておくの。簡単に言うと集団テロってやつなのね」
「っ……テロ!?」
「血の匂いを嗅ぎつけてきたのね? りゅふふ、欲まみれのこどもたちなの、嫌いじゃないの」
主はさらりと言うが、《塔》に対するテロなどこの世界の時間でもう百年以上は見ていない。ましてやシステムダウンまで成功したことなど過去に一例もない。
「大変じゃないですか! こんな所で呑気にお喋りしている場合じゃ……」
「りんりん。対応は聖騎士長に任せてあるの。どうせ停電が解消されるまで動けないお前と、どうせ動く必要もない余、何をしてたって構わないはずなの。りゅふふ、えっちでもするの?」
「しませんよ! ……それで、現在状況はどんな感じなんですか?」
「りゅーん、こどもたちは聖窩に入ろうとしてるの。でもなんだか警察が他の仕事で忙しいみたいなのね、聖騎士長がわざわざ外に出向いて鎮圧してるの。りゅふふ、久しぶりのてんやわんやなのね……島のこどもたちにはいい刺激なの」
「島の警察が忙しい? そんなことって……まさか」
ピュピラ島に常駐している警察官の数は、普段の事件の発生頻度に対して過剰だ。彼らが忙殺されているなど、それだけで既に尋常な事態ではない。
「陽動なのねー。聖騎士長を外に引きずり出した隙に、別のこどもたちが侵入する作戦だと思うの。りゅるん、かしこいこどもたちなの」
「てことは……わざわざ敵の作戦に乗ってあげてるんですか?」
「りゅん。よそのこどもたちに遊びに誘われたんだから、うちのこどもたちも遊ばせてあげなきゃなの」
強者の余裕。いや、超越者の余裕と言ってもいいかもしれない。島全体を巻き込むほどのテロ攻撃を、下等存在の戯れとしか考えていない。
事実、主は圧倒的な存在だ。一対一で彼女に敵う人間などこの世にはいないだろう。しかし油断は禁物だ、いくら主や聖騎士が強くとも――
「りゅん? 多勢に無勢、って思ってる顔なの。だいじょーぶなの、眼に勝てるこどもなんてこの世界にはいないのね」
「き、キルネも来てるんですか!?」
「りゅるん。一応なの」
《天の階》の一柱、天使の眼ことキルネ。天使の剣ことスーニャが対神獣最終兵器だとすれば、彼女は対人間最終兵器であり、本業は《塔》の処刑官だ。彼女に敵意を向けられたが最後、意識を持つ生命体は死に至る――その理不尽極まりない異能の前ではいかなる武装も意味を為さない。抵抗できるのは神獣や聖騎士くらいだ。
彼女の存在は天使の剣と同様に公にされている。外見や異能の詳細は伏せられているが、《塔》に反逆した者に死をもたらす存在として市井にも知られているのだ。
「それに、停電してたってセキュリティゲートやスペクトラムネットワークは動いてるの。心配する方がどうかしてるのね」
セキュリティゲートは電力非依存だ。その情報伝達経路が電力依存なので作動状況は確認できないが、よほどのことがない限りは侵入者を分厚い壁で阻んでくれる。神獣のコアを原材料に含むため、その強度はアイオーンと同等。すなわち破壊するには少なくともアイオーン以上の力が必要になる。
しかしラクリマの首輪はもちろん、アイオーンも電力非依存のネットワークで主の意識と繋がっていて、異常があれば遠隔操作が可能だ。人間にも扱える聖石兵装ではアイオーンほどの出力は出せない。
以上から、侵入者はそもそも天使の血どころか特殊調整室を含む機密区画にたどり着くことができない。主の言う通り、完璧な防備と言えるだろう。
「そう……ですよね。レジスタンスと接触させてる端末なんていないし、セキュリティカードが渡る可能性もない……。首輪のない未調整ラクリマがアイオーンを振れるわけがない……ん?」
端末と接触。首輪のないラクリマ。――何かが引っかかる。何か大変なことを見落としている気がする。
「りゅーん、こどもたちのお遊びなんて今はどうでもいいの。暇なら余と一緒にパーティするの! 今日は《計画》が一歩前進する素晴らしい日なの、飲みまくるのー!」
「わ、ちょ、引っ張らないでください聖下!」
《計画》に必要な《天の階》は残り一体。不可欠にして最大のピースである天使の雫が未発見の状況ではあるが、主は上機嫌だった。
――まあ、いいか。何かあっても聖下がなんとかするだろう。久しぶりに見た聖下の天使みたいな笑顔、わざわざ崩しに行くのも憚られるし。