Noah/* - 夜の訪れ Ⅰ
ピュピラ島第一街区、すなわち聖窩の蓋に隣接する富裕層向けの住宅街は、その高貴な佇まいに似合わぬ下品な喧騒に包まれていた。
「どこ見て歩いとんじゃボケェ!」
「なっ――てめぇがぶつかって来たんだろ!?」
「んだと……!?」
「ンテメェ! なにすっとンじゃゴラァ!」
「ひっ、ご、ごめんなさいごめんなさいぃっ!」
「お、おう、泣かんでも……じゃねぇ、謝って済むと思ってんのか、あァ!?」
「ぐっ……た、助けてくれ、急に……なんかとんでもない腹痛がッ……」
「おいどうした? 誰か、おい、誰か来てくれ! そこのあんた、この辺の警備員だろ、何とかしてやってくれ!」
「え!? いや、すみません、今は取り込み中で――」
「はぁ? 目の前に苦しんでる奴がいるのに手も差しのべられないのかよ!?」
「ねえお巡りさん、道を聞きたいのだけど……なんだか騒がしいわね?」
「え、ええ。何やら血気盛んな観光客が島に来ているようで……すみませんお嬢さん、小官も鎮圧に向かわないと」
「あら、それは困るわ……私、この島に来たのは初めてで……怖いわ、一緒に居てくださらないかしら……」
「そっ、それはっ……」
あちらこちらで大小様々な問題が偶発的に多発し、第一街区にいる警備員や警察官達は対応に駆けずり回っていた。
それらの問題のいくつかはガラの悪い者達を発端とする喧嘩であったが、彼らが全ての問題を引き起こしていると思いきや、小さな問題のほとんどは彼らと何の関係もなさそうな一般人に起因するものだった。
「クソっ、何なんだ今日は!」
運悪くその日の当該区域の担当だったある警官の男は、おろおろと混乱に陥りながら毒づいた。こんな状況でどうすれば良いかなど研修では教わっていなかった。この島は基本的に平和で、警官の仕事など迷子探しや道案内くらいのものだったのだ。
目の前でガラの悪い男と商人風のひょろ長い男が何やら言い争っている。止めるべきだというのは分かるが、ろくに戦闘訓練などしていない自分では取っ組み合いになった時に勝てそうにない。
「と、とにかく俺一人じゃどうしようもない、助けを呼ばないと……こちらB班、第一街区3-4-1にて問題発生! 誰でもいい、至急応援を!」
島にいる警官全員に届く広域通信機で救援要請をし終えた所で、
「埒が空かねえ! おいあんた警察だろ!? このバカどうにかしてくれよ!」
「はんっ!?」
目の前で喧嘩をしていた男の片方に肩を掴まれ、変な声を上げて跳び上がってしまった。
「ふっざけんな! ぶち殺されてぇか、ぁあ!?」
「おっ恐喝か? まだ罪を重ねるたぁいい度胸だな!」
「最初に手ぇ出したのはテメェだろうが」
「ま、まあまあ……落ち着いて……ねっ、お願いですから……」
ゴーン、ゴーンと正午の鐘が鳴るのが遠く聞こえる。今日は昼休み返上だな、というか場合によっては命まで無くなりそうだ、なんてこった。
ゴーン、ゴーン……ドォン……ズガァン……
絶望からか、鐘の音がまるで爆発音のように聞こえる。というかいつもより鳴る回数が多いような気がしないでもない。
……と、ふいに周囲が暗くなった。
「……は?」
見上げれば、街灯の明かり、家々の窓から漏れる光が全て消えている。さながらゴーストタウン、廃墟のようになった街並みのあちらこちらから、悲鳴や怒号が聞こえてくる。しかし目の前の二人はそれに気づいていないのか、口論を続けている。
「こ……これは一体……」
「おい、何突っ立ってんだ、動け!」
放心状態から引きずり戻してくれたのは、同じ班の先輩警官だった。自分の班は第一街区担当だが、その先輩は街区の端にある「蓋」の入口前が持ち場のはずだ。
「え、先輩? 蓋の警備は……」
「馬鹿野郎、誰も入りやしない《塔》の施設より今起きてる問題の方が一万倍重要だろうが! やべえぞ、どこもかしこも停電してる!」
「そ、そっか、そうですよね、混乱に乗じて聖窩見に行こうとする奴がいるかもしれないってちょっと思っちゃいましたけど、そんな命知らずなバカさすがにいないですよね」
「当たり前だ! ほら、島民の皆様の安全確保だ、急げ!」
「はい!」
蓋は《塔》の施設であるが、基本的には「天使の力」ではなく電力によって稼働している。停電していては入口で目を光らせているはずの侵入者の検知・遮断・撃退システムも使い物にならなくなってしまっているのではないか、という心配も少しあったが、そもそも蓋が消費するエネルギーは合計八基もの風力発電機によって高い冗長性をもって供給されているのだ。この辺り一帯が停電なのはそのうちの一つの不調か何かだろうが、八基全てが沈黙でもしない限り、主要な機能が停止してしまうことはないだろう。
そう判断し、その警官は深く考えるのをやめた。
彼は新米ながら島外出身であり、警備業務で勝手に持ち場を離れることのリスクや、陽動を含む攻撃者側の策略についても座学で一応学んでいた。しかし彼は常識的な人間であったため、蓋入口の警備は一般市民に対して境界線を明示するためのものであって、まさか《塔》の施設に侵入して悪事を働くような者が存在するわけがないと思っていた。増してやそのために島の全ての発電施設を破壊するなど、可能性として考えることもできなかったのだ。
この日、彼はその認識を改めることになる。
☆ ☆ ☆
聖騎士エルヴィート=ラツィエ=メービゥスはその瞬間、優雅に紅茶を嗜んでいるところだった。
香りを楽しむために目を閉じ、再び瞼を上げた時、世界は闇に包まれていた。
「む……」
「あはっ、停電? きゃーこわーい」
聖窩の深層には大量の電力を必要とする設備が多く設置されている。恐らく、突然予定にねじ込まれたラクリマの特殊調整について知らされなかった誰かが電力配分を間違え、ブレーカーが落ちたのだろう。
「フン、これだから聖窩に留まるのは好かぬ。……おい貴様、何を呆けている。早急に復旧せよ」
「えー、めんどくさーい。おじさん行ってきて? お、ね、が、い♡」
「早急にと言ったはずだ。星涙の調整には電力を要すること程度、貴様の足りない頭とて理解はしているな?」
「はぁ? えらっそーに……キルネのこと召使いか何かだと思ってるぅ?」
「だからどうした。立場を弁えろ、星涙風情が」
「あはっ、出たぁ、『立場を弁えろ』! 『星涙風情が』! 言ってて虚しくならないのー? おじさんじゃキルネに傷一つも付けられないくせにぃ!」
耳障りな甲高い声が暗闇に響く。エルヴィートは盛大に眉を顰めた。
この不愉快極まりない肉塊の言っていることは、非常に遺憾ながら事実だ。この星で最高位の人間である聖騎士であってもこの肉塊を黙らせることはできない。
それは断じて彼我の戦力差、実力差の問題ではない。今この瞬間に跡形もなく蒸発させてしまうことすら可能だ。それを実行に移せないのはただ一点、この肉塊が主の《計画》に必要不可欠であるからだ。
「理解出来ていないようだな。現在貴様の監督官は我である。貴様の一挙手一投足は全て私が聖下にご報告差し上げ、聖下が貴様の評価と処分を下されるのだ。最悪の場合――」
「はいはーい、何度も聞いたってばぁ。『天使の胎に送られることになる』でしょー? あはっ、バッカみたぁい。だって聖下はお仕事の結果でしかキルネ達のこと評価しないしぃ、もちろんおじさんはお仕事の結果について嘘の報告はできないわけでー……はぁい今期もキルネの評価は満点! 残念でしたぁ、ぷっぷくぷー!」
エルヴィートには処断できないのをいい事に増長の一途を辿る肉塊だが、任務だけは完璧にこなして帰ってくるのでタチが悪い。そのせいで天使の胎――いわゆるお仕置き部屋に放り込むことすらできないのだ。
「そういやおじさん、こないだもスーにオシオキされちゃったんだってぇ? あはっ、かわいそー。頭撫でてあげよっかー? そ・れ・と・もー、キルネが……ぎゅーって、してあげよっか……?」
「……先に貴様の述べた通り、聖下が貴様を評価しているのは貴様が任務だけは完璧にこなすからである。そうだな?」
「あれれぇ、無視はキルネちょっと傷ついちゃうかもー……」
「そ・う・だ・な!?」
「はぁ……そうだけどー?」
「貴様に任務を命ず。早急に、迅速に、無駄口を叩かず、停電の原因を突き止め復旧せよ!」
「……。……はぁい」
不満そうな吐息を残して、肉塊が暗闇の中を駆け足で遠ざかって行った。
今日の任務は、どうせ誰も妨害になど来ない、感染ラクリマの特殊調整作業の警備だ。普段の激務から離れてリラックスできると思って高級茶葉まで持参したと言うのに、現地に着いてみれば最悪の「協力者」が待っていた。まさか主は聖騎士である自分一人では侵入者の撃退すらできないと考えているのだろうか。
「いくら重要な個体とはいえ……まさか我一人では対処不能なほどの徒党が攻めて来るとでも言うのか」
呟いてすぐ、馬鹿馬鹿しい、と首を横に振る。確かにあの目障りな肉塊は、対人かつ対軍の性能だけ見ればエルヴィートをはるかに凌駕する。しかしそれほど大勢のテロリストがこのジーラ大陸に残っているとは考えにくい。仮にそんな集団が存在したとして、《計画》を破綻させたいならば攻勢に出るタイミングは今ではない。今回確保したラクリマは確かに重要だが、天使の雫や天使の剣に比べれば幾分かプライオリティの低い存在だ。
主の考えは常に正しい。しかし加護を少し与えられた程度の人間では、その深遠なる思考を垣間見ることすら適わない――
「おじさん、おじさん!」
耳障りな声によって、思索の海から無理やり引き上げられた。目を開いて周囲を見渡すが、依然として暗いままだ。
「ブレーカーを上げる程度の雑務すら満足に出来ぬとは驚きであるな。聖下にご報告を――」
「もー、違う違う! そうじゃなくて、ブレーカー落ちてないし、深層どころか聖窩全体がダウンしてるっぽいよー? あはっ、大変大変♪」
「……そのような大事であれば我に連絡が来るであろう、適当なことを申すな」
手探りで机上に置いてあった通信機を取り上げ、表面に浮かび上がる表示を見る。当然取り損なった着信など無い。しかし――
「む……」
目に入った文字列に眉を顰める。実機では初めて見る表示だが、当然意味は分かる。
「あはっ、信じてくれたー?」
「圏外……フン、成程な、そういう事か」
聖窩の内外は電波的に隔絶されている。境界を跨ぐ通信は聖騎士など一部の《塔》関係者のみ可能であり、その中継は内外を隔てる蓋に組み込まれたシステムが担っている。
それが機能していないということは、停電しているのは聖窩だけではない。蓋への電力供給が途絶えている。それすなわち、ピュピラ島のあらゆる発電・送電設備が一度に障害に見舞われたということだ。
そのような事態が自然に発生するわけがない。明らかに人為的なものだ。
「我が出る。貴様は残れ」
「えー、キルネも行きたーい! だめー……?」
「我々のうち少なくとも片方はこの場を離れるわけにはゆかぬ。その程度説明せずとも分かるであろう!」
「あはっ、じゃあキルネが行くからぁ、おじさんは優雅に待ってればいいでしょー? はぁ、壊したーい……キルネもっともーっと、殺したいなー……? それでぇ、壊して、はぁ、もっと、殺して、あはっ、んっ、ころして、こわしてぇ、はぁ、あははっ! もっと、もっとぉっ」
「却下する! 島に住まうあらゆる命を奪い去る気か、この考え無しの殺戮人形めが!」
荒い息と共に濡れた声で「壊したい、殺したい」と繰り返すその肉塊は、狂っているのではない。そのように主によって定められたのだから、このラクリマにとってはそれが正しく常なる姿なのだ。
「あらゆる命を……あはっ、そんなすごいの考えちゃったら、キルネ……んぅっ……ぞくぞくしちゃうぅ……っ」
そして、これを今のような状態で市街に解き放てば、ものの一時間でその一帯は死の静寂に包まれるだろう。比喩や誇張ではない、過去の事実に基づく確度の高い予測だ。
「任務を命ずる。貴様はこの広間に留まれ。侵入者がここまで降りて来た場合、全力で殺せ。貴様の命に代えても、ここより先に進ませるな。以上である」
「はぁ、はぁ……っ、しょーがない、なぁ、いいよー、んっ、たーくさん取り逃してぇ、くれて、いいからぁ……あっ、ん……っ」
「……貴様が未だに外を出歩いていられるのは、貴様が任務だけは完璧にこなしているからであること、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
返答はなかった。代わりに聞こえてきたのは耳障りな喘ぎ声と、クチュクチュと何かを弄る水っぽい音。
盛大に顔を顰めながら、エルヴィートは地上へと飛んだ。