集結
一方その頃ナツキは、早くも危機に瀕していた。
「嗚呼ナツキ、我が天使よ……儂は……儂は幸せじゃあ~!」
「や、なん……やめ、くるしっ……ヴィスコおじいちゃん、分かった、分かったから! ちょっと恥ずかしいよ! ……え、何その顔……え!? ちょま、キスは待っ、待て、おいやめろ!!!」
「なんじゃぁ、もうしばらくご褒美を堪能したってよかろう……? 儂は……儂はこのためにこれまで生きて……うぅっ」
「え、なんっ、えぇ!? 泣かないで!」
大勢の人々の目の前で、ヴィスコに羽交い締めにされ吊るし上げられ、何故かキスを迫られていた。
「今は一刻を争うんだって……ラムダ! ラムダ助けて! ってかヴィスコおじいちゃんになんて言ったの!?」
《子猫の陽だまり亭》で姿を消していたラムダは、ナツキやリリムが言い争っている間に、ナツキが出すであろう結論を先回りして《同盟》に協力を申し入れに行ってくれていたのだ。何を言われようとナツキが諦めるわけがないだろうと。もしかするとリリムの「人手が必要」という結論を既に聞いていたのかもしれない。
ナツキが《同盟》本部へ駆け出そうとしたまさにその時、いつの間にかアイシャの服に挟み込まれていた小型の通信機が着信音を響かせ、《同盟》全員が行動を開始した旨がラムダの声で伝えられたのだ。一分一秒を争う今、これ以上のファインプレーがあるだろうか。
しかしよくナツキ本人が頼みに行ったわけでもないのにヴィスコが動いたものだ、と思っていたのだが――
「あー……なんやその、成りすましメールをな、ちょちょいと……来てくれたら好きなだけギューしてチューしてええで、みたいな?」
「……、えっ」
成りすましメール? 天使様翻訳システムの誤訳だろうか。はは、まさかそんな、ラムダが勝手にナツキの身体払いで報酬を設定するわけ――
「つまりや、あー、交換条件っちゅうワケや。ベートの兄貴がな、親父はちょっとやそっとじゃあ動かん、ナツキがおじいちゃん大好きモードフルバーストで帰ってこなテコでも動かんゆーてな。せやからその……《同盟》のトップを顎で使うんやからまあ……時間も無かったことやし、必要な犠牲やんな?」
ふいっ。ラムダが視線を逸らした。
「うわぁぁああん! ラムダ嫌い! 大っ嫌いっ! ファインプレー取り消し、レッドカード退場っ!」
「……すまん。正直、親父がここまで壊れとるんは想定外や」
「おお、我が天使よ……今こそ愛の口付けを……」
「ぎゃああああああ!? せ、せめてほっぺで、ね!?」
ファーストキスだけは死守しようとナツキが必死になっている傍らで、
「ああ、僕は何を見せられているんだい、これは」
「……ごめん」
この場所――大量の本棚に囲まれた隔離結界、通称「書庫」を提供してくれた《古本屋》と、彼を仲間に引き入れに闇市まで全力疾走してくれたリリムが、呆れ顔で言葉を交わしていた。
☆ ☆ ☆
「――作戦は以上。みんな分かった?」
ヴィスコの魔の手から「成功報酬だから」と言い張ってどうにか逃げ出してきたナツキは、リリムと共に改めて作戦の全容を伝えた。
「うす! 任せてくだせえ姉御!」
「とりあえず暴れりゃいいってことは分かったっす!」
「細けーことは分かんねーっすけど、男見せます!」
「ケンカなら任せてくださいっす!」
全然分かっていなさそうな《同盟》の下っ端共、総計約150名。こいつらは全容など分かっていなくていい。むしろ分かっていない方が彼らのためでもある。いざ《塔》やら軍やらに捕まった際に、上に命じられるままに意味のわからない謎の仕事をさせられたと言い張れるからだ。
「お、おい、マジで殺さないでくれよ……? 俺、ただの八百屋だからな……?」
「キールてめえ今更何、お、怖気付いてやがる! お……俺らも男、みみ、見せてやんだよ!」
「あ、ああ……いや、てめーだって震えてんじゃねーか!」
「うるせえ! これは武者震いだ!」
リリム以外の《子猫の陽だまり亭》の常連客達は、《同盟》の下っ端達と組むことになる。まさかあの悪名高き《同盟》のチンピラ共と共同戦線を張ることになるとは思っていなかったらしい(それはそうだが)彼らはかなり戦慄していたが、見るからに一般人である彼らの存在は、実は作戦上かなり重要な位置にある。
「姉御……これ、マジでやるんですかい」
アレフが複雑そうな顔を見せる。
十人の《同盟》幹部が率いる特殊部隊、少数精鋭五人ずつの総計50名。彼らにはかなり重めのミッションが課せられている。彼ら《同盟》のポリシーに則り、一般人に死者が出ないようにはしているが、仁義を貫いているかと言えば怪しいところだ。
「大変だよね、ごめん……でもお願いアレフ、ボク、大好きな家族にもう一度会いたいんだ……!」
「っ! フッ……なぁに、任せてくださいよ。俺らにかかりゃこんなの赤子の手をひねるようなもんですって」
瞳を潤ませて上目遣いで裾をつまむと、渋り気味だったアレフは途端に頼もしい笑みを見せてくれた。他の幹部も同様だ。
うむ、やはり幼女は強い。
「で、と……俺らの目標はここ……んでもってダレットとギメルの班がこっちで……」
アレフが真剣な視線を向けたのは、机に広げられた大きな地図だ。描かれているのは真円形の島――作戦目的地、ピュピラ島。その外周に沿って八箇所に赤いバツ印が付けられている。アレフはそれを一つずつ指差しながら、作戦の流れを反芻していた。
「アレフ、来い。話しておく事がある」
「親父? なんですかい……」
ヴィスコに手招きされて去っていくアレフを横目に、ナツキの視線は島の中央、分厚い壁に囲まれた円形領域へと移る。その外周と内周にいくつかバツ印が付けられており、さらに内側は真っ黒に塗りつぶされている。これは後から塗りつぶしたのではない、地図が最初からそのように印刷されているのだ。
「聖窩……」
「ごめんなさいねぇん、その中のことは本当に何も分からないのよぅ」
「ああ、だからこその……甘い果実というわけだ」
「んーん、ありがとう、マスター、《古本屋》さんも……他の情報やこの結界だけで十分過ぎるくらいだよ」
《酒場》のマスターも《古本屋》も詳細は何も知らないという、ピュピラ島中心部の領域、聖窩。公にはそれは巨大な地下遺跡であり、数百年前に初めてラクリマが生まれた涙の遺跡であったとされる。ジーラ大陸屈指の聖地として有名だったらしいが、現在は《塔》が建てた巨大な建造物――通称「蓋」によって入場を固く禁じられてしまっているため、真偽の程は定かではない。……というような事を、マスターは語ってくれた。
ただ一つ分かっているのは――調整される感染個体はこの聖窩に運び込まれる、ということだ。
「にー子……すぐ、助けに行くからね」
届かないと分かっていながら、地図の中央に向けて呟く。
もうにー子は聖窩内に運び込まれてしまっていると考えた方がいい。
記憶が消されるまでにどれほどの猶予があるのか、あるいはもう消されてしまっているのか――それを考えることに意味は無い。ただ全速力で助けに行くのみだ。
「《古本屋》さん、準備は」
「ああ、間もなくだ。今、固定している」
フィルツホルンからピュピラ島までは、車で半日ほどの距離がある。音速で走れるナツキはともかく、他の面々は今から車を手配して追いかけても到底間に合わないだろう。
しかしそれは今、問題にはならない。なぜなら――
「ああ、完了したよ。計12ゲート、指定の位置に展開済みだ」
「ありがとう、《古本屋》さん!」
「全く……ああ、僕の書庫を車代わりに使ったのは君達が初めてだよ」
そう、隔離結界は距離という概念を簡単に飛び越えてしまうのだ。ナツキや常連客たちは《子猫の陽だまり亭》から、《同盟》の面々やマスター達は《酒場》から、それぞれ本棚の魔法陣に触れてこの書庫に入場した。そしてこれから、はるか南の別の街へと一瞬で転移する。
もちろんそんな美味いだけの話はなく、制限はあるのだが――少なくとも書庫から外へ出る分には何の問題もない。
――準備は整った。さあ、始めよう。
「みんな、いい!? 作戦開始は正午ちょうど! キールさん達『おひさま』チームは無理しないで! アレフさん達『おつきさま』チームは各小隊間の連携を密に! ヴィスコおじいちゃん達『おほしさま』チームの無線指示には全員必ず従うこと!」
「任せろナツキちゃん!」
「男見せます!」
綺麗に整列した面々から威勢のいい返答が返ってくると同時に、彼らの正面に本棚の絵が浮かび上がっていく。その一歩先はもう、ピュピラ島だ。
「で、ボクたち『ながれぼし』チームは……」
隣に立つリリムを見上げると、力強い笑みと共に頷きが返ってきた。
「絶対に、諦めない」
「ん、当然。絶対に……取り戻すよ」
二人の目の前にも、本棚の絵の魔法陣が現れる。
「それじゃみんな……行動開始!」
魔法陣に手のひらで触れ、視界が暗転する。
再び世界が光を取り戻すまでの数秒間、脳裏をかすめたのはアイシャの顔だった。
『ながれぼし』チームの残り二人、アイシャとハロは今ここにはいない。《子猫の陽だまり亭》で重要なタスクをこなしてくれている。
いや――それが本当に重要なのかどうか、実はナツキには判断できていない。
『あの不思議な声が……ずっと、言ってるです。ナツキさんを引き止めろ、その選択は間違ってるって。運命の糸がちぎれちゃうって』
リリムが《古本屋》に渡りをつけにいってくれている時、アイシャはナツキの袖を引いてそう伝えてくれた。
不思議な声。アイシャに首輪の外し方を教えてくれた謎の存在。
つい昨日も、磔のラクリマ達で足止めを食らったナツキとアイシャに干渉してきた。このままでは間に合わなくなるから、ここは自分に任せて先に行けと。……一体、何に間に合わないと言っていたのだろうか。
あそこでナツキが去った後、アイシャは何故かすぐ意識を失い、気がつけば目の前には綺麗に治療された十人のラクリマが並んで横たわっていたのだと言う。
そして今、「運命」などという胡散臭いものを理由にナツキを引き留めようとしている。
『でもわたしも、ニーコちゃんを助けたいのです。ナツキさんもニーコちゃんもわたしも、みんなで帰ってきたいです。わたしは運命じゃなくて、ナツキさんを信じるです』
だからその不思議な声の頼みは断ったのだと、アイシャは笑った。
『その上で、お願いがあるです。わたしとハロちゃんを、陽だまり亭に残して欲しいのです』
ハロは当然残すつもりだが、アイシャはもう足手まといになるほど弱くない。連れていかない理由がないと訝しむナツキに、アイシャはどこか逡巡しながらその計画を教えてくれた。
しかし、なんの根拠もない予言書をベースに立てたかのようなそれは、およそ計画と呼べるようなものではなかった。それもそのはずで、その計画はアイシャに語りかける不思議な声にナツキに伝えるように言われたものらしかった。どうしてもにー子を助けに行くというのなら、せめてこれだけはと。
『理由は……ごめんなさいです、話せないみたいなのです。でも、ナツキさんが大好きな気持ちはとっても伝わってくるです……わっ、なんなのですか! え? えっと……大好きなんかじゃない、ちょっと好きなだけ、だそうなのです……どうでもいいのです!』
不思議な声は現在進行形でアイシャと話しているらしいが、《気配》術にはアイシャの意識しか検出されず、アイシャの額に触れて探っても異常は見当たらない。アイシャが洗脳されているようなこともない。《念話》術は使っていないという。ナツキと直接話すことは、したくてもできないそうだ。
しかし少なくともアイシャの幻覚ではないということは、これまで不思議な声が何度も現実に助けてくれたことから明らかだ。
『アイシャは、信じられるって判断したんだね』
『はいです』
アイシャは力強く頷いた。その眼差しは真摯で、迷いはなかった。
不思議な声はまだ信用ならないが、アイシャが信じるなら、アイシャを信じよう――そう思った。
アイシャとハロは《子猫の陽だまり亭》に残り、ある「準備」をして、後でナツキやリリムと合流する。その準備はたった数時間でできるとは思えないものだったが、話を聞いたハロはやってみせると答えた。
リリムが立てナツキが整えた作戦にはいくつか修正が加えられたが、特に不都合は生まれなかった。むしろアイシャたちと別れて書庫に着いてから判明した数々の不安要素が、その修正のおかげで自動的に解消された。まるで最初からそういう作戦だったかのように、運命に導かれるように……