コールドゲーム
「ではな、寄り道せずにさっさと帰るがいい」
「うん、送ってくれてありがと、カイ」
「はいおいーひゃん、まはね!」
「……挨拶くらいちゃんと言ったらどうだ」
「やっ、ら、らって、ここ、くしゃいよ……」
涙ながらのお別れを済ませたハロは今、ナツキ、アイシャ、カイと共にスラムの入口に立っていた。……顔を顰めながら。
「ペロワ種のラクリマは人間さんより鼻がいいのです。最初は仕方ないのですよ」
「ああ……まあ確かに、オレも最初はそうだった。次会う時までには慣れているといいな」
「うぅー……」
闇市でも上流側までしか来たことのなかったハロにはスラムの悪臭はかなり堪えたようで、ずっと鼻をつまんでいた。
「ほら、早く行け。こんなところでたむろしていては襲われてしまうぞ」
「このスラムにボクにちょっかい出すバカはいないよ。……でも、そうだね。早く帰らなきゃ」
完全に朝帰り、というかもう昼前だ。《陽だまり亭》にはラムダが伝えてくれているはずだが、にー子はきっと寂しがっていることだろう。
カイに別れを告げ、フィルツホルンの上流へ、上層へと向かう。
「わー……ナツキおねーちゃん、あれ! あれなぁに? ……わわっ」
「あーほらハロ、ちゃんと足元見て歩いて! 落ちちゃうよ!」
興味津々な様子でずっときょろきょろと周囲を見回しているハロは、はぐれたり足を踏み外したりしてしまわないようにナツキと手を繋がせている。ついでにアイシャとも繋ぐかともう片方の手も差し出したが、そちらは丁重に断られてしまった。
「そういえばナツキさん、ギルドには寄らなくていいのです? ヘーゼルさんが貸してくれた剣……」
「う……そ、それはあとで行くよ……」
またもヘーゼルから借りた剣を折ってしまった。今回はナツキが悪いわけではないとはいえ、こうもハイペースに折りまくっているとさすがにそろそろ怒られそうだ。
「そ……そうだ! ハロ、ボクの剣を作ってくれない?」
「ナツキお姉ちゃんの剣!? やったぁ、ハロがんばるよ! えへへ……」
「あっ、ナツキさん、話を逸らしたです! ちゃんとヘーゼルさんにごめんなさいしなきゃだめなのですー!」
「わ、分かってるよ、ちゃんとお昼に謝りに行くってば。でも……」
話を逸らしたというのは確かに指摘された通りではあるが、ハロに剣を打ってもらいたいというのは本当だ。そう――魔剣の噂を調べ出した当初の目標通り、刻印能力を持つハロに、オーダーメイドで打ち上げてもらいたいのだ。
「あれ、でもハロ、もう工房にいないから……どうしよう、材料がないよ? 道具やかまども……」
「大丈夫、道具はハロが納得いくものを買おう。かまどもなんとかなると思う」
「ほんと? やったぁ!」
「あと材料と、ついでに要求仕様なんだけど……ハロ、ちょっと耳貸して」
「? なぁに?」
ナツキの側にある大きな垂れ耳が少し持ち上がった。アイシャやにー子の猫耳と同じく、自分の意志でも動かせるらしい。
「実はね……」
「…………。え? ……えぇーっ!? で、でもそれってんむっ!?」
「しーっ。内緒だよ?」
「……! う、うん! わかった……ハロ、すっごくがんばるよ!」
ナツキの耳打ちを聞いたハロは驚愕に目を見開き、やがて真剣な顔で何かを考え始めた。今までずっと気を取られていた周囲の景色には目もくれず、少し下に目線をやって無言のまま歩く様子は、さながら新しい理論を脳内で構築している学者のようだったが――その後ろでは、ワクワクを隠しきれないとでもいうようにフサフサの尻尾が大きく揺れていた。
「ナツキさん、ハロちゃんになんて言ったです?」
「ふふ、《陽だまり亭》についたらアイシャにも教えてあげるよ」
「き、気になるですー!」
事件は解決、ハロという家族も増え、待望の剣も手に入る。万事順調だ。またしばらくは何も気にせず《子猫の陽だまり亭》でゆっくり過ごせるだろう。
――そう、思っていた。
「ナツキッ、自分……どこ、行っとったんや……!」
《子猫の陽だまり亭》の敷地前に立っていたラムダに、見たこともないような形相で胸ぐらを掴まれるまでは。
その背後、《子猫の陽だまり亭》の壁に開いた大穴から、怒気を揺らめかせたダインが姿を見せるまでは。
「え……これ、は……なん」
「ナツキィ……俺ァ何度も言ったはずだぜ。テメェは《塔》の理不尽さを何も分かっちゃいねェ、ギフティアなんざ店に置いておけるかってなァ!」
「は……?」
何を、言っている?
「やめな、ダイン! ナツキは悪くないよ!」
「そうだよダインさん、悪いのはあたし達全員で」
「うるせェ! 何人死んだと思ってんだ! こいつのせいで――」
「落ち着いて! 誰も死んでない、怪我ひとつしてないよ、ダインさん!」
ダインを追って出てきたラズとリリムが間に割って入った。
……死んだ? 死んでない? ナツキのせいで、誰が?
「ハッ! 死んでないだァ? 生き返っただけだろうがッ!」
「ダイン、いい加減黙りな!」
パァン、と高い音を立て、ラズのビンタがダインに炸裂する。
「あんただって結局なあなあに認めてただろうに! ナツキだけ責めるのは筋違いだよ! 八つ当たりも程々にしな!」
ラズの怒声が響く。ダインは一つ舌打ちをし、その場で地面に腰を下ろしてナツキを睨みつけた。
静かになった場に、コツコツとリリムが歩く音だけが聞こえる。こちらへと歩み寄ってくる。
普通に歩いているはずなのに、何故かとてもゆっくりな歩みに思えた。
「……ナツキちゃん、ごめん。あたしの力じゃ……守れなかった」
何を。
問う言葉は声にならなかった。声に出して聞くまでもなく、もう分かってしまっていた。
リリムは、全身ボロボロだった。
白衣は下半分が破れ落ち、下に着ている服も穴だらけだった。穴の周りは焼け焦げていた。
だと言うのに、リリムの体には傷一つついていなかった。服のそこかしこに焼け焦げた円形の大穴が開いているにもかかわらず、その奥に見えるのは綺麗なままの肌だった。
まるで――誰かが魔法で傷を癒したかのように。
「ごめん……ごめんね」
悔しさの滲む声で何度も謝りながら、リリムは棒立ちのままのナツキを抱きしめた。
続く言葉を聞いてはいけない。聞きたくない。しかし――聞かなければならない。
「聖騎士様が、ね。……ニーコちゃんを、回収しに来たんだ」
――全てが、繋がる。
チャポムの勝ち誇ったような表情。
「何時間も前にナツキはもう負けている」という言葉。
裏に見え隠れする何者かの影。
何故チャポムはわざわざハロを人質に選んだ?
何故わざわざナツキを貴族特区に行かせるような計画を立てた?
今なら、分かる。
チャポムの計画それ自体が時間稼ぎだったのだ。
裏で糸を引いていた者の真の目的は、にー子の回収。そのために邪魔なナツキを遠ざけるために、チャポムを利用した。
チャポムとの戦闘から、一体何時間が経った? あの時すでににー子は連れ去られていたなら、一体何時間を無駄にした?
一連の事件に関わった人間、どこまでが黒幕の手先だった? 回収に来たのが聖騎士なのだから《塔》に近い者は怪しい。軍籍のリモネちゃんは? リモネちゃんと親しいカイは?
――否、今考えるべきはそんなことではない。
「助けに、行かなきゃ。……離してよ、リリムさん」
「…………」
「リリムさん、離して――」
「ナツキちゃん、聞いて」
リリムはナツキを強く抱き締めたまま離さず、押し殺したような声で語りかけてきた。
「ニーコちゃんの異能は治癒能力だから、ギフティア部隊でも後方支援になると思う。回収に来た聖騎士様も言ってたんだ、本当にすごく貴重なギフティアだって」
「…………」
「だからね、ニーコちゃんは危ない目には遭わないし、待遇もいいはず。それにきっと、たくさんの人の命を救う」
「……リリムさん」
「大天使様直々の回収令なんだってさ。ギフティア部隊に配属されるまで、大陸中の聖騎士が集まって護衛するんだって。すごいよ、ニーコちゃん大出世だよ」
「リリムさん」
「だからさ、助けに行く理由なんて、ないんだよ。生きてさえいればまた会えるんだからさ……ほら、Sランクオペレーターになったらギフティアと契約できるって噂あるでしょ? ここだけの話、あれ本当なんだ。ナツキちゃんならきっとすぐ」
「リリムさんッ!」
訥々とにー子を助けない理由を語り続けるリリムの腕を振りほどき、両肩を掴んで引き離す。
「ナツキちゃん……」
リリムの言っていることは嘘ではないだろう。にー子が後方支援員として部隊に加われば、生存率が大幅に上がるのは間違いない。それは確かに喜ばしいことだ。
聖騎士達が護衛に付くと言うなら、正面から取り返しに行ったとしても返り討ちに遭うのが関の山だ。自分の戦闘能力の限界は自分が一番よく分かっているし、勇敢と無謀は大きく異なる。今は退いて力をつけ、真っ当な手段で取り戻すべきだという主張は筋が通っている。
――しかしそれなら、何故。
「……だったらどうして、リリムさんは泣いてるの」
目の前に現れたリリムの目元は真っ赤だった。
「どうして、死ぬって分かってて聖騎士に抗ったの」
リリムの服の左胸、丁度心臓の位置に一際大きな大穴が空いている。
「あちこち刺されて、それでも反抗したから、殺されたんでしょ」
他の穴は全て致命傷にはならない位置に空いている。わざと殺さずに痛めつけ続け、戦意を削ごうとしたのだ。
それでもなお歯向かったから、見せしめに殺された。先程のダインの台詞からして、きっと他の常連客達の一部も同じように聖騎士に敵対して同じ目に遭ったのだろう。
「リリムさんが今言ったこと、本当にそれだけなら――リリムさんは逆らわない。逆に泣いて嫌がるにー子を諭してくれる。にー子が《塔》でひどい扱いを受けないように、いつかまた会えるからいい子で待っててって、そう言ってくれる。それがボクの知ってるリリムさんだ」
「ナツキちゃん、お願い……やめて……」
「何を隠してるの、リリムさん!」
「…………っ」
「リリムさんッ!」
ナツキが何度問いかけても、リリムはふるふると首を横に振るばかりで、頑なに答えようとしなかった。
もはやそれが答えだった。今すぐ助けに行かなければ取り返しのつかないことになる、それが分かってしまった。
「ダイン――」
「…………」
「ラズさん!」
「…………」
「ラムダ! ラムダなら……え、どこ、どこ行ったの、ラムダ!?」
ダインもラズも口を開かない。振り返ってもラムダはおらず、ナツキの豹変ぶりに怯えるハロと、その手を握るアイシャだけが残っていた。
「……アイシャ」
「はっ、はい……です」
「にー子は《塔》でドールとして調整されるんだよね。調整って、具体的にどこで何をするの?」
「お、覚えてないのです……気づいたら終わってて、軍のジャンクドール置き場にいたです……」
「……ハロは?」
「は、ハロ、わかんない……ごめんなさい……うぅ……っ」
何も分からない。まさか精神負荷が高すぎて逆に記憶に残らないほどのことをされるのか――
「それはワタシが答えて差し上げましょう!」
場違いに明るく陽気な声が、空気を引き裂いた。
二度と聞きたくないと思っていた、二度と出会うはずのない男の声。
「お前は……!」
「ひっ、……っ!」
「え、えっ、アイシャお姉ちゃん……?」
「近づいちゃだめなのです!」
ナツキは睨みつけ、アイシャは怯えて後ずさりながらもハロを後ろに庇った。
「えぇ、えぇ……覚えていて下さったとは恐悦至極! お久しぶりですねぇナツキさん、まだのうのうと生きているとは思いませんでしたよ49番! それから……えぇ、いい釣り餌でしたよぉ、鍛冶屋のメス犬ゥ! あひゃひゃひゃひゃ!」
違法ギリギリのドールプロバイダー、レンタドール社の管理人。
オペレーター試験で事故を装ってナツキを殺そうとし、逮捕されたはずのその男が、ナツキたち三人を見下して下品に嗤っていた。
「お前が……黒幕かッ!」
「黒幕? はてさてなんのことやら……ワタシはただ善良なる一般市民として、ギフティアの発見報告を二件《塔》に上げただけですよねぇ? えぇ、それを責められても困りますねぇ。……ああ、未登録ギフティアはですねぇ、発見次第まずピュピラ島に送られます。えぇそうです、ここから南、ラクリム湖の真ん中の島に――」
「リリム、喋らせるなッ!」
ダインの鋭い叫びが最後まで聞こえるより早く、数十本のメスが管理人の男を刺し貫いた。心臓、頭、両目、喉、およそ急所という急所全てに寸分の違いもなく飛来したメスは――そのままの速度で真っ直ぐ飛んで行った。
ジジ、と微かな音を立て、管理人の男の姿が揺れる。
「おやおや、危ないですねぇ。ワタシの後ろに誰かがいたら死んでましたよぉ? それでですねぇ、感染個体の調整って難しいらしいんですよ、えぇ。感情がね、本当に邪魔なようで――」
「映像通信……!」
「クソっ、どこからだ!?」
「ナツキ、聞くんじゃないよ!」
ラズがナツキの目と耳を塞ごうと駆け寄ってくる。
「ただ一度感染したラクリマはですねぇ、もう元には戻らないんですよぉ。えぇ、なので次善策を取るんですねぇ。つまり――」
「喋るなァッ! ウォオオアアアアアアッ!!」
「ッ見つけた、投影機――」
「ナツキ!」
ダインの大声がフィルツホルンに木霊し、アイシャとハロが耳を塞ぐ。
リリムの投げたメスが、視界の端で光った何かへと飛んでいく。
ラズの体が視界を覆い、何も見えなくなる。
ナツキの最も信頼する大人たちが、絶対に聞いてはならないと、ナツキを守ろうと、全力で行動している。
だから――気の力を全て、聴覚に回した。
「――記憶の初期化。それが感染ラクリマの《調整》第一フェーズですよぉ!」