巣立ち
「現時点をもって俺、シンギ=チューデントは、ハロ=クト=ペロワの所有権を破棄する!」
朝食が並べられ工房の全員が集められた大広間で、シンギが「大事な話がある」と前置きして宣言したのは、そんな一文だった。
沈黙が場を支配する。そこに渦巻いている感情は驚愕ではなく、困惑だ。
この場にいる誰もが昨晩何があったのかを大体把握していたし、誰もが先程の一幕を見ていたし、誰もが「ハロを《塔》に提出するなどとは一言も言っていない」というシンギの言葉を聞いていた。
だからこそ、分からない。所有権の破棄などハロを捨てると言っているようなもの、いやそれそのものではないか。捨てられた首輪付きのラクリマは見つけ次第《塔》に届ける決まりになっているのだから、《塔》に差し出すのと何も変わらない。
「ししょー……ハロ、ひぐっ、やっぱり……すてられちゃうの? ぐすっ……」
ハロが泣き出してしまい、非難の視線がシンギに集まる。
しかしただ一人、カイだけは呆れたような視線を向けていた。
「……父上、まさかそれだけで全て伝わると思っているわけではあるまいな」
「うるっせえ! こういうのは苦手なんだよ、知ってんだろが。ちったぁ待ちやがれ」
「このまま待たせては一分も経たずに暴動が起きるぞ。……もういい、オレが説明しよう。父上は補足を頼む」
「お……おう」
どうやらシンギは、真面目な話をするのは苦手なタイプらしい。ラグナのダメ王子イヴァンとその侍従が似たようなコントをよくしていたことを思い出し、なんとも言えない顔になる。
シンギを押しのけて中央に出てきたカイは大広間を一度見渡し、すぐに話し出した。
「まず誤解を解いておこう。ハロを《塔》に引き渡す、あるいは《塔》に回収されるような状態に置くことはない。これは絶対にない、何があろうとオレが阻止する。首輪がついている以上ハロはギフティアではない。よって提出する理由はなく、逆に提出しない理由は大いにある。……だから泣くな、ハロ」
「カイお兄ちゃん……」
ぐしぐしと涙を拭き、ハロはカイを見つめた。大広間にも安堵が広がる。
「それから《塔》の視察も来ないそうだ。正式に通達があったわけではないが、信頼できる筋からの情報だ。魔武具騒動はどうやら内々で解決したらしいな」
信頼できる筋、はリモネちゃんだろうか。カイがいろいろ上手く立ち回ってくれたのだろう。……よく見ると目の下に隈がある。昨晩あれから徹夜していたのかもしれない。
「今日は全員休暇だそうだ。この後は各々帰ってくれて構わない。勘違いで拘束してすまなかったと父上が平謝りしていたと家族に伝えるといい」
「あん? 平謝りはしてねえよ、あの時点じゃ当然の措置だ」
「ああそれと、皆も知っての通りだが、父上は素直ではない」
「てめえ!」
笑いが起き、張り詰めていた部屋の空気は完全に霧散した。大した手腕だが――次に続く言葉で場は再び凍りつくことになった。
「一方で、今後ハロがこの鍛冶場で武具を打つ光景は見られなくなるというのも、また事実だ」
「え……」
「先ほど父上が宣言したように、ハロはもう父上の所有物ではない。一度弟子と認めた者を、師匠である父上が手放したのだ。これがどういうことか分かるか、ハロ?」
ハロは理解できない、理解したくないと言うようにふるふると首を横に振った。その目から再び涙がぽろぽろとこぼれ落ち始める。
しかしその涙はきっと早とちりだ。何せ、弟子が師匠の下を離れる理由など二つしかない。ひとつは破門だが、もう一つは――
「免許皆伝だ」
カイの後ろから放たれたシンギの言葉は、静かになった部屋に重く響いた。
「……えっ?」
「一度しか言わねえぞ。いいかハロ、てめえの鍛冶の腕はもうとっくに俺を超えてんだ。知ってっか? てめえの打った武具はチューデント工房の最高級品として売られてんだぜ。特に剣だ、買ってく奴ら全員、俺が打ったと勘違いしてやがる」
どこか悔しげなその言葉を聞いて、ハロはぽかんと口を空けたまましばらく固まっていた。
「……そっ、そんなことないよ!? だってハロ、まだたくさんおべんきょうしないといけなくて……ほ、ほら! きのうだって、かざりのしゅるいとかししょーにおしえてもらって」
「違ぇよ、そりゃ俺とてめえの引き出しの数の差、経験と生きた時間の差だ。んなとこまで俺の真似してどうすんだよ、それで出来上がんのはてめえの剣じゃねえ、俺の剣だ」
「え……でもハロはししょーの弟子だから……」
「だから何だ、てめえの夢はそこじゃねえだろ。引き出しは自分で増やせ、中身も自分で詰めやがれ。こんな狭っ苦しい工房にいちゃできねえことだ」
「え、えっ? ゆめ、って……」
「あぁん? 弟子んなった時自分で言ってただろうが」
ハロの夢。バンドマン四人組には秘密にしていたという、夢。
それをシンギは、記憶をなぞるように語った。
「『すごい剣を作れるようになって、世界中に笑顔を届けに行きたい』んだろ」
「っ……」
ハロがぴたりと固まる。その顔に浮かぶのはどこか複雑な表情だ。期待と恐れが混ざり合い沈殿してしまったような、そんな感情が伝わってくる。
「剣関係ねえじゃねえかっつったら、てめえはこう答えやがった――『皆が笑っていられる世界を取り返すために剣を打つんだ』ってな」
「……どうして、おぼえて……それにハロは……」
「フン、弟子の語った夢も覚えてられねえで師匠が名乗れっかよ」
小さくざわめきが起きる。その源泉はハロの抱く夢の眩しさか、一度聞いただけのそれをしっかり覚えていたシンギに対する感嘆か、あるいは――その夢は自由に外を出歩けないラクリマには決して叶えられないという理不尽への怒りか。
しかしたった今、その制限の一部が解かれた。シンギが所有権を放棄したことにより、ハロはチューデント工房に縛られずに行動できるようになったのだ。
「もうてめえはウチの奴隷でも俺の弟子でもねえ。このシンギ=チューデントが認めた一人の鍛冶師だ。世界を見てこい、夢を追え」
「ししょー……ハロ、お外に出ていいの? ほんとに?」
「フン、二度も言わせんな。もうてめえの主は俺じゃねえんだ、好きにしろ」
「えへへ……そっかぁ……」
ハロは心から嬉しそうにはにかんだ。好奇心旺盛な彼女にとって、未知の世界の扉を自由に開けるというのは、巣立ちの寂しさに勝る幸せなのだろう。
……とはいえ、シンギが所有権を放棄しただけでハロが完全に自由の身になるわけではない。
「あれ? でもハロ、ラクリマだから、ご主人様がひつようだよ……?」
全ての首輪付きラクリマには主たる人間が存在する。主がいなくなれば《塔》に回収され、新たな主が割り当てられる。それはこの世界の常識としてハロにも刷り込まれていたようで、ハロはこてんと首を傾げた。
それに対するシンギの回答は、清々しいまでにシンプルだった。
「フン、知るか。めんどくせえこと考えんのは俺の仕事じゃねえ」
「そ、そんなー!? えっ、えーっと……どうしよう、カイお兄ちゃあん……」
突然突き放されたハロがおろおろと慌て出し、助けを求められたカイが苦笑する。
「とまあ父上は最近こんな感じでな、ハロを一人前の鍛冶師として巣立たせたいと、事あるごとにぼやいていたのだ。さてこれについてどう思う、ナツキ、アイシャ?」
「え、ボク!? えっと、気持ちは分かるし、ハロも外に出たいみたいだから巣立ち自体には賛成だけど……ラクリマに関する社会の仕組みを先に変えないと、ハロはただ捨てられただけになっちゃうし……もしハロが人間だったとしても、こんな小さな子を一人で放り出したら何も出来ずに死んじゃう、と思う」
「ナツキさんの言う通りなのです。私たちラクリマが一人で旅をするなんて、できるわけないのです……」
少し考えれば分かることだ。この世界では現状、ラクリマの「巣立ち」は不可能なのだ。
「うむ、その通りだ。ラクリマが自由に動くためには、それを許可し監督する主が必要だ。しかもハロはドールですらない手工業用の感染ラクリマだ、主になりたいと願う者は極めて少ないだろう」
「悲しいけど、そうなんだろうね。……そこまで分かってて、何でハロの所有権を破棄なんてしたのさ? 受け入れ先に心当たりでもあるの?」
「…………」
「……?」
カイは質問には答えず、こちらをじっと見つめ返してきた。
「……!」
アイシャが何かに気づいたようにハッと顔を上げ、ナツキをどこか縋るように見つめた。
「えーっと……まさか」
……ナツキが引き取って帰れと、そう言いたいのか。
「察したようだな」
「待って!? カイ、ボクのこと何だと思ってるの!?」
「まあ待て、別に押し付けようというわけではない。これは取引だ、もちろん断っても構わんぞ」
「取引って……断ったらハロはどうなるの?」
「…………」
「対等な取引みたいな顔して実質ボクに拒否権ないやつだねこれ!?」
「……お前の優しさを利用しているのは重々承知している。だが――頼む。ハロを外の世界へ、工房の中にいては分からない世界へ連れて行ってやってはくれないか」
カイはバツの悪そうな顔を見せ、ナツキは溜息をついた。
「ハロの夢を叶えてやれ、ってこと? ……あいにく、ボクに世界を救う予定はないよ。ボクなんかよりもっと、世界を救うために戦ってそうな人に任せようとは思わなかったの?」
「これまでオレが出会った数多の剣士の中で誰よりもナツキ、お前に任せるべきだと思ったのだ」
カイは真顔だった。本気で言っているのだ。
「いや、正気? ボク、ただの8歳の女の子だよ?」
「そう父上が言って聞かぬから、先程一芝居打たせたのだ。権力のある大人に脅されようとも翻らん一貫した主義主張、喉元に剣を突きつけられてなお微動だにせず挑発までする胆力、挙句の果てに剣を奪い取って脅し返す実力――安心しろ、お前が『ただの8歳の女の子』などではないことはオレも父上も、この場にいる全員がよく知っている」
「う……」
「さすがナツキさんなのです」
それを言われると返す言葉もない。周囲を見回すと、皆何とも言えない顔で頷きを返してきた。
「はぁ……いいよ、ボクは構わない。ダインがうるさそうだし、ラズさんの負担も増えるけど……部屋もまだ余ってるし、みんなも歓迎してくれると思うし、ハロは鍛冶のスキルでも働けるから問題はないと思う」
「ナツキお姉ちゃん、ほんと!?」
「うん、でも……ボクが住んでるのは平民区だからね、貴族特区のこの工房にはそうそう戻って来れないよ。外の世界って言ったってせいぜいフィルツホルンの周りくらいだし、この大陸から出ることなんて無いだろうし……ハロはそれでもいいの?」
別にナツキは旅人ではないのだ。ハロの夢が世界中を回って自分の剣を広めることなら、期待には沿えないだろう――と思ったのだが、
「わぁ、フィルツホルンのお外に行けるの!? すごいすごい!」
たったそれだけのことでハロは無邪気に飛び跳ねて喜んだ。
そうか――ハロにとっては、フィルツホルン周辺の砂漠も海の向こうの大陸も等しく未知の世界なのだ。
ナツキについてくることで広がる世界が実は世界のほんの一部でしかないと知った時、ハロはどうするだろうか。ナツキの下から旅立ちたいと願うだろうか。それを叶えてやることはできるのだろうか。
「まあ結局ボクに拒否権はないわけだし……後のことは後で考えればいいか」
「ナツキお姉ちゃん?」
「うん、いいよ。あとは……ものすごい顔してる皆をハロが納得させられれば、ボクは何も言わない」
「え? ……わーっ!? なんでみんなないてるの!?」
周囲を見れば、いつの間にか大勢の大人たちが大号泣していた。
否、大人だけではない。ハロ以外の4人のラクリマが、涙を散らしながら誰よりも先に駆け寄ってきた。
「うぇええええんハロ先輩行っちゃやですぅぅぅうう!」
「ムースお姉ちゃん!?」
「ハロー、私たちと世界、どっちが大事なのさー……?」
「ニアちゃん、えっと、それは」
「もう! ハロさんが困ってるじゃないの! メンキョカイデンはすごいことなんでしょう? だったらちゃんとお祝いして送り出して……あげないと……そんなの、やだぁ……っ」
「わーっ、ビルマちゃんなかないでっ……」
「あ、あたしは応援するよ! だから……だから、たまには帰ってきて……じゃないとあたし、泣くから! 泣いちゃうから! うわあああん!」
「し、シアおねーちゃん、くるし……わ、わーっ!?」
ムース、ニアリー、ビルマ、エクシア。ムース以外とはあまり話せなかったが、皆ハロと同じように優しい子達だった。
寄ってたかって羽交い締めにされ、しまいにはひっくり返ってしまうハロ。周囲の大人たちはさすがにそんなことはしないが、自制心を取り外してしまえばすぐにでも同じように飛びつきそうな顔をしていた。
「う、うぅ……ハロも……やっぱりハロもさみしいよ……」
説得するどころか、ハロもぽろぽろと泣き出してしまった。
これほどまでにハロはこの工房で愛されていて、ハロも工房の仲間たちのことが大好きで、自分はそんなハロを外に連れて行ってしまうのだと考えると、少し罪悪感を覚えてしまう。……いや、自分のせいではないはずなのだが。
「ねえ、カイ……たまにはハロを連れてきてもいいよね?」
「これじゃハロちゃんがかわいそうなのです。まだ小さいのに……」
ハロのミドルネームは4だ。今年が6の年であることを考えれば、ハロが《塔》に登録されたのはたった二年前で、二年前にアイシャより小さい見た目で体の成長が止まったということは――ハロの精神年齢は恐らく、10にも満たない。親の元を離れるには早すぎるだろう。
ナツキとアイシャの視線の圧を受けたカイは、仕方ないな、とひとつ息をつき、
「これを持っていけ」
「へ?」
再入場許可の代わりに何かをこっそり渡してきた。
トランプ大の銀色のカードだ。クレジットカードのような固い材質で、表面には何も書かれていない。
「《東屋》のフリーパス、のようなものだ」
「……ええっ!?」
「静かにしろ。本来譲渡できるようなものではない。オレが持っているもののスペアだ」
「そ、そんな大事なもの……」
「貸すだけだ。いつか不要になったら返しに来い」
いつか不要になったら。
いつかハロが寂しさを乗り越え、新しい一歩を踏み出せたら。
「分かった、それまで借りておくね。ありがと、カイ」
「…………」
「カイ?」
急に黙ってしまったカイの顔を覗き込むと、何やら難しい顔をしていた。
「……覚えておけ。そのカードは……〈クラスⅡ〉だ」
「へっ?」
「それだけだ」
それ以上伝えるべきことはないと言うように首を振ったカイは、泣きながら抱き合うラクリマ5人の下へ歩いていった。
ハロが望めばいつでも工房に顔を出せるということを伝えているのだろう、ラクリマ達の表情が目に見えて明るくなるのを視界の端に捉えながら、ナツキはカイが最後に告げた言葉を反芻する。
〈クラスⅡ〉――《東屋》の会員グレードか何かだろうか。それだけにしてはカイの表情は複雑に過ぎたように思うし、何故詳細をぼかしたのか。
「そのカード……どこかで見たことある、ような気がするです、けど……」
しばらくカードを見つめていたアイシャだったが、結局何も思い出せずに首を傾げていた。