貴族特区への潜入 Ⅰ
リモネちゃんに出会ってから数時間後――
ナツキは暗闇の中でガタガタと揺られていた。
「ナツキしゃん……これ、へんらにおいがするれす……」
アイシャから辛そうな囁きが届く。彼女もナツキと同じく、この狭くて異臭のする暗闇に詰め込まれているのだ。
「こんなことになるなら、感覚遮断も教えておけばよかったね……」
異臭とは何かといえば、濃密なアルコール臭だ。今ナツキとアイシャが詰め込まれているのは、先程までなみなみと酒が入っていた大きな酒樽なのである。
二人で向かい合って体を折り、互い違いに抱き合うような形でぎゅうぎゅうに押し込まれており、なるほど確かにリモネちゃんの身長ではいくら体を曲げようと蓋が閉まらないのだな、と納得する。
その点に納得はしても、この状況にはあまり納得したくはないのだが。
リモネちゃんから下された軍の指名依頼は、なんともおあつらえ向きなことに貴族特区の潜入調査であった。曰く、魔武具を作る異能を持つギフティアを違法に購入し奴隷としている貴族がどこかにいるので見つけ出し、そのギフティアを確保せよ、と。
まさかナツキの目的がバレているのかと思いきや、どうやら軍は軍でこのポンコツ魔武具騒動について調べているらしかった。
『《塔》への信仰促進効果とかどーでもいいんですよ、反乱の芽は無害なうちに摘み取らなきゃいけないってことをお上の連中は分かっちゃいないんです。ってかギフティアの違法所持はくろくろ真っ黒の犯罪ですよ、犯罪。全く……』
リモネちゃんの口ぶりから察するに、《塔》や軍も一枚岩ではないらしい。無害どころか《塔》にとって有益なのだから放っておけ派と、ポンコツとはいえ魔武具を作る能力のあるギフティアを危険分子兼即戦力として回収すべき派がいて、リモネちゃんは後者のようだった。
しかしリモネちゃんの場合、その派閥にいる理由はそれだけではないようだった。
『貴族共はいろいろと特権やら癒着やらがあるせいで、軍権の及ばない無法領域があります。特にラクリマの扱いに関しては……レンタドール社なんか奴らに比べたらかわいいもんです。貴族みんなそんなんってわけじゃーないですけど……ナツキさんなら、あとは分かりますね?』
つまり、奴隷として囚われて酷い扱いを受けているだろうそのギフティアを助け出して来いと、彼女が言っていたのはそういうことだ。
結局《塔》にギフティア部隊のメンバーとして囚われることになろうとも、現状よりは格段にまともな生活ができるだろうということは、リモネちゃんの口ぶりから察せられた。
やはりリモネちゃんは、ラクリマの置かれている現状を憂慮している。立場上表立ってそれを主張できずとも、その立場を最大限使ってラクリマ達のために立ち回ってくれているのかもしれない。
『いいですか、ギフティアが《塔》の検査をすり抜けるなんてことは原理的にありえません。逆説的に、回収対象の子に首輪はついてないってことになります。忌印が見えなければただの人間と区別はつかず、その上忌印は不明……という感じなので、戦略としては――』
『まずはその子じゃなくて、魔武具の流通ルートを探す。それを遡ってその子を見つける』
『……その通りです。簡単な依頼ではないですが……引き受けてくれます?』
ナツキに断る理由は無かった。にー子のように匿ってあげることはできずとも、貴族に飼い殺しにされている今よりはリモネちゃんに委ねた方がいい。アイシャもそれに頷いてくれた。自分の魔剣を作ってもらえるかどうかは、そのギフティアを助け出してから考えればいいのだ。
そして何より、リモネちゃんが侵入の手筈を整えてくれるというのが頼もしかった。
そういうわけで二つ返事で承諾した……のだが、
「まさか酒樽に詰め込まれるとは思わなかったよね……」
「はぅ……せまいのです……」
なるべくアイシャが苦しくないように端に寄ろうとはしているが、それでもお互いの体がぴったりぷにっとくっついていて、全身でアイシャの体温と鼓動が感じ取れるような状態である。
「でもナツキさんとぎゅーってできて、わたしはちょっと嬉しいのです」
「い……いくらなんでもポジティブすぎない?」
「ナツキさんの心臓の音、安心するです」
「う、なんか恥ずかしいんだけど……」
アイシャは何故か満更でもなさそうにこの状況に適応してしまっていた。匂いにももう慣れてしまったようだ。
――で、そもそも何故こんな状態になっているのか、だが。
まずフィルツホルンにおいて貴族以外が貴族特区に侵入するには、《東屋》のみが知っている極秘ルートを使うのが通例なのだそうだ。主な利用者は貴族お抱えの密輸商である。密輸商はフィルツホルンの外から来る者がほとんどだが、正規のゲートからは貴族特区に入れないので、わざわざ闇市を経由していくというわけだ。
密売される違法物品は様々だが、その中の一つに密造酒がある。《塔》に税を払っていないものを筆頭に、ヤバい薬が混ぜられているもの、アルコール度数が高すぎてフィルツホルンでは規制されているものなど様々な種類がある。
そして、得てして酒というものは人が入れる程度の大きさの酒樽に入れて運ばれるものである――少なくともこの世界においてはそうらしい。そこで酒をひと樽法外な高値で買い取ることで、酒の代わりに自分を運んでもらうという潜入方法が横行し始めた。それに目をつけた《東屋》は、貴族特区に不法侵入したい平民と密売人との間の仲介業を始めたというわけだ。
それを目当てに来たリモネちゃんだったが、今日は生憎彼女が入れるサイズの酒樽が無く、どうしたものかと思っていたところで小さなナツキと出会ったのだという。
そして密輸商の男に怪訝な顔をされながら――幼女二人だけで貴族特区に侵入など前例がないらしい――樽に押し込まれ、今に至るというわけだ。
「それにしても、軍の人でも貴族特区には堂々と入れないんだね」
「平民の軍人さんと貴族の軍人さんは別々に働いてる、って聞いたことあるです」
「うーんなるほど、階級社会か……あれ、でもリモネちゃんって全ドールの最高管理者のはずだよね」
「なのです」
それなのに堂々と入ることのできない区域があるのは非合理的というか、不可解な制度のような気がする。リモネちゃんの言っていた「特権やら癒着やら」が悪さをしているのだろうか。
考えを巡らせていると、急に揺れが止まった。
「(止まったです?)」
「(着いたかな)」
会話を《念話》術に切り替えて息を潜めること数秒、ふわりと浮遊感に包まれたかと思うと、重めの衝撃が体を貫いた。
「っ……」
どうやら酒樽ごと乱雑にどこかに投げ落とされたらしい。少し遅れて、ガランガギン、と金属が投げ捨てられる音が響く。
しばらく息を潜めた後、《気配》術を展開し周囲を確認する。ナツキとアイシャの他に人はいない。二人を運んできてくれた密輸商人も既に姿をくらましているようだ。
「さて……アイシャ、どこか打ってない? 大丈夫?」
「大丈夫なのです」
ギ、と酒樽の蓋を薄く開け、罠がないことを確認しつつ、アイシャと共に外に出た。
屋内のようだがほとんど明かりは無く、天井近くの謎の隙間から少しだけ光が漏れ出しているのが光源の全てだ。ずっと暗闇にいたおかげで目は慣れているが、それでも数メートル先に何があるかは分からないほどの暗さである。
「えーと……あったあった」
とりあえず、酒樽の近くに放り捨てられていたアイシャのアイオーンとナツキの剣を素早く拾う。先程の金属音はこれだろう。
「アイオーンはともかくボクの剣は持ってかれちゃうかと思ったけど、案外約束守ってくれるもんだね。リモネちゃんの言ってた通りだ」
酒樽に詰め込まれる際、アイシャのアイオーンとナツキの剣(ヘーゼルからまたレンタルした品)が邪魔で蓋が閉まらなかったのだ。密輸商人は快く預かって一緒に運ぶと言ってくれたが、ナツキの剣はアイオーンのように《塔》の監視もないただの剣だ。最悪そのままパクられるかもしれないと覚悟していた。
リモネちゃんと密輸商人によれば、最近は武具の闇取引も盛んに行われていて、人を運ぶ酒樽の他に武具を隠す箱も常備されているのだと言う。それをペラペラと語るリモネちゃんの姿はどう見ても闇の世界の住人だった。あの密輸商人も、まさか目の前の少女が軍人のお偉いさんだとは思わなかっただろう。……もしかすると、彼はこの後逮捕されるのだろうか。
「その剣、もし盗られちゃってたらどうしたです?」
「うーん、特に何も。ヘーゼルさんには申し訳ないけど、別に化け物と戦いにきたわけじゃないし、いざとなったらこれもあるしね。はい、アイシャ」
アイオーンをアイシャに渡す。「ありがとうです」と受け取ったアイシャは少し心配そうな声色で、
「ナツキさん……そんなこと言ってると、またこの間の《迅雷水母》みたいなのに襲われちゃうですよ? 自分の武器は大事にするです」
「う、ごもっとも……っていうか本当は、そういう突発イベントにしっかり対処できるようにするために魔剣を探しに来たわけなんだけどね……」
最大の敵は化け物ではなく人間。それはオペレーター試験のときに確かに身に染みたことだった。それに貴族特区ということは、例のエルヴィートとかいう化け物じみた聖騎士と同じような者が何人もいてもおかしくない。もっと気を引き締めて行くとしよう。
「ま、盗られなかったわけだし結果オーライってことで。とりあえずアイシャ、そのアイオーンを松明にしよう。暗くて何も見えない」
「言ったそばから武器の使い方が雑なのです! はぁ……回路展開、門再接続」
「ごめんごめん、大丈夫、ボク達以外に気配はないから……おっ」
アイシャがアイオーンを起動し、すぐさま回路を根源の窓に接続した。一瞬出かかった寒々しい氷色の燐光はすぐに霧散し、代わりに茜色の燐光が溢れ出す。刀身強化の練気術の固有光による即席松明というわけだ。
最初にアイシャが門再接続に成功したときは《転魂》術の固有光が消えるまで数秒かかっていたのが、今や一瞬だ。アイシャの成長速度はやはり凄まじい。
「慣れてきたね、アイシャ」
「はいです! もうらくらくなのです」
「ほんと? じゃあもうちょっと出力上げてみよう。根源の窓を押し広げるイメージで」
「ふぇ!? え、えっと、う……うんにににににっ……」
アイシャが奇声を上げながら念じ始めたが、茜色の燐光は不安定にゆらゆら揺れるだけで明るくはならない。代わりにアイシャの尻尾が膨らんで大きくなっていた。
気の流量の拡張は、ラグナの並の練気術士なら一生かけて取り組み、どこかで才能の壁にぶつかることになる大変な修行だ。ナツキとてかなりの苦労(ゴルグのスパルタ特訓)をしているのだ、そう簡単に習得できるものではない。
「身体に力を入れても窓は開かないよ」
アイオーンを握るアイシャの手に手のひらを添え、適当な量の気を一緒に流し込んでやると、アイオーンの輝きはすぐに倍増した。
「はわぅ……すごいのです」
「アイシャならすぐできるよ……さて」
突き当たりまで見通せるほどには明るくなった空間をぐるりと見回す。
「洞窟……倉庫……いや、違うか」
壁面が岩壁のようなので洞窟の内部かと思ったが、地面と天井は石材で綺麗に均されており、等間隔で柱が立っている。明らかに人工建築物の内部だ。
そして空間の中央には多種多様な鉄くずや木片、よく分からないガラクタが山になっており、その真上の天井に開いた四角い穴からうっすらと光が差し込んでいる。
そしてちょうど今、その穴から新しい鉄くずが降ってきた。ガチャガチャガゴン、と大きな音を立ててゴミ山を転がっていき、アイシャが驚いて耳を伏せた。
「び、びっくりしたです」
「これは……ダストシュートの下、なのかな?」
貴族特区でも、闇市に繋がる抜け道は当然地下にある。それは下水道だったりシェルターだったり、様々な地下構造物がアリの巣のように連なってアングラネットワークを形成しているのだ――というのがリモネちゃんから聞いた話だ。
「えっと、リモネちゃんさんの言う通りなら……わたしたちが下ろされる場所はチューデントさんの家の下のはずなのです。この部屋はチューデントさんのゴミ箱なのです?」
貴族はゴミ箱も大きくてすごいのです、と変なところに感心しているアイシャは置いておいて、《気配》術を天井の向こうへと伸ばしていく。
程なくして地上に達したか、人々の気配が術に引っかかった。
「ん……うわ、結構いるね、人」
ざっと30人以上はいる。時間的には昼前のはずだが、貴族らしくホームパーティでも開いているのだろうか。
「な、ナツキさん」
人の気配が散るまでゴミ山に隠れて時間を潰してもいいが、そもそも地上に出る方法が分からない。まずは出口の確認を――
「ナツキさんっ」
「わ、どしたの、アイシャ」
切羽詰まった声でアイシャに呼ばれ、思考の海から現実に引き戻された。
見れば、アイシャは何かを恐れるようにゴミ山の方向を指差していた。
「あそこ、何か落ちてきたです……」
「何かって、またゴミじゃ……え?」
ダストシュートに物が落ちてくるのは当然だろう、とゴミ山と天井の穴に視線を向けたナツキは、目に飛び込んできた物体の予想外っぷりに一瞬硬直してしまった。
――ロープだ。
しかもまだ落ちきっていない。天井の穴からぶら下がり、ゴミ山に触れた部分から先はとぐろを巻いている。
そして――すごい勢いで穴の奥から降下してくる、人の気配。
「(っ、アイシャ、隠れて!)」
「(どどどどこにです!?)」
「(とりあえずそこの柱! アイオーンも接続解除!)」
二人バラバラに、等間隔に並んだ柱の後ろに飛び込む。
それとほぼ同時に天井の穴から人が落ちてきて、ゴミ山に着地――
「ぬおっ――」
――着地し損ね、ドンガラガッシャーン、と派手にゴミ山を転がり落ちた。