Noah/* - 水面下 Ⅰ
同時刻、フィルツホルン外れの廃坑にて――
幾重にも枝分かれした洞窟の奥深く、電子的な音が繰り返し鳴り響いていた。
「……んだよ、るっせぇな」
暗がりにただ一人、壁に体をもたれさせていた男が、しつこく鳴り続ける音の発生源に手を伸ばした。
――ガチャリ。重い金属音が響く。
それは電子音の発生源ではなく、男の身体から聞こえた。
「叩き起こしやがって……何か分かったのかよ」
拾い上げたそれ――通信機らしきものを耳元にあてながら、男は不機嫌そうに小さく呟いた。
「あァん? ラクリマァ? それがなん……あァ、へェ、なるほどな」
通信機の向こうからもたらされた情報が吉報だったのか、男の口元にニヤリと笑みが浮かぶ。
「いいのかよ? アンタ釈放されたばっかなんだろ、下手すりゃ処刑……ん? ほォ……それはそれは……ククッ、そりゃいい、罪も絶望も二倍ってワケだ」
男は笑いながら立ち上がり、廃坑の出口へと歩き出した。
一歩男が歩くたび、ガチャリ、ガチャリと重い金属音が静かな空間に反響する。
「俺ァどうする、もうアンタに言われた通り《東屋》の仕込みは済んだぜ? 奴ら俺が丸腰だとでも思ったのか、ナメたこと抜かしやがって……ちぃと痛い目見させてやったがなァ。……あァ心配すんな、しくじっちゃいねェ。あとは奴が乗ってくるかどうかだ。もう四日は経ってる、そろそろ《神の手》から……あァ、だろうな、なら決行は今晩か……」
満足げに頷いていた男だったが、しばらく通信相手の言葉を聞いているうちに顔を歪めていった。
「おい、ざけんなよ? ぶち殺すのは俺だっつってんだろ、せっかくの機会、《塔》なんざに奪われてたまるか……あ? あァ、まそりゃ俺ァそれでいいけどよ、テメェの目論見は……ってオイ、まさか俺がしくじるとでも思ってんのか、あァ!?」
通信機に向かって激昂しながら、男は怒りのままに廃坑の壁を殴りつけた。ガシャァン、と派手な破砕音が鳴り響き、拳が着撃したところから壁に亀裂が入り始める。生身の人間では有り得ないだろう衝撃を受けた廃坑が大きく揺れた。
「うぉ、やっべ、死ぬ死ぬ死ぬ」
そのまま崩落していく廃坑から走って逃げ出していく男は、言葉とは裏腹に余裕の表情を崩していなかった。
当然だろう。男の駆けるスピードは廃坑が崩落していくスピードを遥かに凌駕していたし、たとえ生き埋めになったとしても余裕で生還できる確信とそのための能力が男にはあった。否――元々は無かったが、彼はそれを身につけたのだ。全てを犠牲にして、ただ一つの目的のために。
「まァいい、テメェと馴れ合う気なんざ元からさらさらねェんだ。テメェがそれでいいってんなら有難く殺らせてもらおうじゃねェか。……あァ、それでいい。ビビる必要なんかねェ、俺ァ今――人類最強なんだからよォ!」
男はそう叫びながら廃坑から外へと飛び出す。もう通信相手のことなど彼の眼中には無かった。利用するだけして切り捨てる、男が今までずっと繰り返してきたスタイルだった。
フィルツホルンの壁面に備え付けられた空間照明は、こんな人気のない外れも外れの地区にも光を届けてくれる。今は夕刻、橙色の光の下に露わになった男の体は、およそ通常の人間と呼べるような代物ではなかった。
どこもかしこも赤黒く変色した体躯は異常なほどの筋肉を纏い、心臓の拍動に合わせてズクンズクンと脈打っている。さらにその四肢は全て金属で組まれた戦闘用の義手義足であり、男が動く度にガシャリと耳障りな金属音を響かせていた。
目は血走り、片方だけ瞳孔が開ききっている。正常な精神状態とはとても思えない、違法薬物でも摂取してきたかのような風体でありながらも、男の頭は冷徹に冴えていた。
「さァ……ぶち殺しに行くか」
男は鼻息荒く、フィルツホルン地下へと続く別の坑道へと歩みを進めていく。
それを見送る者は誰一人としていなかった。
☆ ☆ ☆
「リモネ、聞こえる?」
『はいほいこちらリモネちゃん。どうかしましたかっと』
セイラはまず、リモネが普通の呼び出しに応じてくれたことに安堵した。普段は忙しすぎて緊急連絡しか手に取ってくれないのだ。
「今リモネが当たってる件、ぼくも調べてみてるんだけど。なんか……きな臭いよ。気をつけて」
『んー何ですかそのなんとも言えない忠告は。セイラらしくないですね』
リモネは今、闇市にある事件の調査に赴いている。ついこの間あったあの子のエロ本騒動とは無関係の、少し前からちらほらと火の粉が舞い始めていた案件だ。
情報収集のスペシャリストとして、ふわっとした情報を投げるのはセイラのポリシーに反する。らしくないと言われるのも道理だったが、それを押してでも迅速にこの不安を共有しなければ大変なことになると、そんな嫌な予感がしたのだ。
「ごめん、ぼくにもまだよく分からなくて。とりあえず闇市の深いところが関わってるのは確実なんだけど……」
『そりゃそうでしょーよ、ギフティアの違法売買、しかも能力が能力ですよ? 裏の人間でもまともな神経でできることじゃないです』
「うん、そうなんだけど、それがこうも開けっぴろげに平民まで広まってるっていうのが……いや、有り得なくはないよ。今までもそういうことは何度もあったんだよね。でも今回のは、情報の流れがなんというかこう、異質なんだ」
言語化できない「嫌な感じ」がそこかしこに見え隠れしている。何か表出していない凄まじい悪意のマグマが奥底に眠っていて、噴火の時を今か今かと待っているような……
『ん……あたし達をおびき寄せるための罠、とかです?』
「その可能性もある、かな……。とにかくリモネは気をつけて。たぶんまだ特区には入らない方がいいと思う。何なら聖騎士に」
『奴らに頼むくらいならあたしが突撃して死んだ方がマシです』
感情のない声が食い気味に返ってきた。彼女のその台詞が本気だということは、セイラが誰よりもよく分かっていた。
リモネのそれは公私混同の類だが、今のセイラやリモネに公私の区別など存在しないのである。不和は解消すべきだと思うのだが、リモネの気持ちも大いに分かってしまうがゆえに、セイラは言葉に詰まった。
「……リモネ」
『はぁ……安心してください、突撃はしませんって。ちょうど今頼れる偵察兵を送り込んだので、どうせ二日ほど様子見ですよ』
溜息混じりに返ってきたのはそんな近況報告だった。
「偵察兵? 言ってくれればぼくの端末貸したのに」
『や、そう思って一度退散しようとしていたところで、運命の出会いってやつをやっちゃいまして』
何やら意味不明なことを言い出した。と思いきや、続いた言葉で全て察する。
『軍令出すまでもなく二つ返事でしたね。さすがあたしの天使ちゃんです』
リモネの天使ちゃん、すなわちあの子――ナツキという名の、謎の少女のことだ。あれやこれや規格外の能力を持っているらしい彼女なら、貴族特区に潜り込ませているセイラの端末では分からない情報を手に入れられるかもしれない。確かに良い人選のような気はするが、それはともかくとして、
「うわ……あの子またリモネに絡まれたんだ」
『うわ、とは何ですかうわ、とは! 今回は全くの偶然ですよ』
「どうだか……」
自分の預かり知らぬ理由でなんやかんや散々リモネに付きまとわれている少女には同情しかない。この世界の年齢でまだ8歳だというのに、よくリモネを拒絶してしまわないものである。
とその時、空間に大きな不協和音が鳴り響いた。
「あー、ごめん。緊急通知」
『みたいですねー、お疲れ様です。んじゃまた後ほど』
モニタに緊急を示す赤い表示が大きく出現したのを確認し、セイラはリモネとの通話を切った。
開いた通知の種別は、通報。
内容を確認したセイラは、そのとんでもない偶然に目を疑った。
しかし、それだけだった。その「対象」についてリモネは一言も話していなかったし、そもそもこの案件を捌くのは聖騎士の役目だった。あれだけ聖騎士を嫌っているリモネがチームに加わることはないし、セイラはただの情報伝達役である。二人に関係のある出来事とは思えなかった。
ゆえに、セイラがその内容をすぐリモネに話すことはなかった。
セイラはリモネのことをよく分かっているようで、その実何も分かっていなかった。彼女が何を好み何を大切にしているのか、文言としては理解し理論的な同意と共感はしていても、心の底から同じ思いを共有してはいなかった。
セイラにとって最も大切なのはペフィロとの再会である。同様に、かつて存在したもう一人の同僚は最愛の兄との再会を、リモネは親友との再会をそれぞれ切望し、それを叶えてくれるはずの「聖下」に無条件で仕えていた。それが変わることなど有り得ない、だって自分がそうなのだから――そうセイラは信じていた。
この時点でもう、何もかもが遅すぎたのだ。
誰にも気付かれることなく、《計画》の歯車が軋みを上げていく。
☆ ☆ ☆
「――以上、《塔》より命が下った。聖下直々の命である」
「…………」
「貴様が檻に封じられておらぬのは、聖下の温情によるものと深く心得よ」
「…………」
「決行は本日夕刻。本任務において抗命ありし場合、貴様の帰る場所は天使の胎の中である」
「…………」
「返答をせよ、天使の剣!」
「…………ん」
「……よろしい。聖下の御心を尊び良き判断を為すことを期待する」
「…………」
「……ごめんね、なつき……あいしゃ……にーこ……」