第85話 神竜の鱗
≪竜潜り≫
それはゾーラ神官戦士団に伝わる秘儀である。元来、この一団に入れるのは女性のみとされていた。術者の精神を竜へと移しその肉体を操るこの奇跡は、一般的に男性に対し筋力で劣る女を、無敵の兵士へと変えた。
ただ、この業が実際に戦場で使われたという記録は少ない。彼女ら自体が、前線に立つこと自体が少なかったのだ。
炎神ゾーラは、愛と戦いを司る神である。そこに男女の別はなかったが、ヴォルデンの騎士たちは単純に"男"としての矜持として、彼女らを矢面に立たせることを由とはしなかった。
またもうひとつの理由に、この奇跡の習得の困難さが挙げられた。竜は肉体ばかりではなく精神も強靭であるため、それをねじ伏せられるだけの力量を持つ者が少なかったからである。簡単に調伏させられるような弱い竜では意味がない。しかしまた強力な竜は、人の手には余った。ゆえに多くの場合において、この奇跡を実戦で頼るようなことにはなり得なかったのである。
「だが使ってみれば、なるほど強力な奇跡なのだな」
力なく眠る白竜を横目に見てから、アレクセイは妻の方へと向き直った。いま彼女は横たわるフリアエへと癒しの奇跡を施している。
デーモンらの追撃を振り切った一行は、迷宮内の一角に身を潜めていた。手配人であるフリアエと白竜を連れて、迷宮の入り口に向かうことはできない。また彼女の傷の深さから、その時間もなかった。
そうして空の上を飛んでいたときに丁度森が開けた場所が見えたので、そこに降り立った次第である。灰色の木々の中にぽっかりと浮かぶ沼は目立ってはいたが、常に靄がかかっているため地上からは見つかりにくい。逆にアレクセイたちは≪生命探知≫で相手の接近が分かる。あつらえ向きの場所であった。
「そちらの傷の具合はどうだ?」
アレクセイは木にもたれて座るクレアに声を掛けた。青い顔をしながらも、彼女は気丈に笑って返してくる。
「痛いし、気分は良くないよ。けれどあっちよりはマシさ」
「すまんな、後回しにしてしまって」
「なに、私のは完全に自業自得だからね。いたた、こんなことなら真面目にあの短剣の使い方を聞いておくんだったよ」
エルサは職業柄、治癒や解呪といった品にも詳しい。そんな彼女が見たところによると、確かにクレアが持っていた治癒の短剣は、刃にその効果が秘められていた。だが動けなくなるほど深く差し込む必要はなく、指を傷つける程度でいいのだという。
「いや、君がデーモンとなるよりは、遥かにマシだったと思うぞ」
武器もないあの状況でもし彼女まで魔物化していたら、流石にああはいかなかっただろう。あの紫の騎士の言葉を信じるなら、変化後の強さは元になった人間の力量に左右されるらしい。となれば、デーモン化した彼女の強さは三つ目のものの比ではあるまい。
そんなことを話していると、こちらにエルサがやって来る。どうやらフリアエの治療が終わったようだ。アレクセイはクレアを彼女へと任せると、妻の方へと近づいていった。
こちらを見上げるソフィーリアの顔はだいぶ青白い。≪竜潜り≫を終えてからすぐに≪治癒≫の奇跡を使ったのだ。フリアエの傷は命に関わるものであったから、その疲労も大きいだろう。
「あなた」
「ご苦労だったな。君も少し休め」
アレクセイがそう言うも、ソフィーリアは首を振った。そして目の前で眠るフリアエの前髪に触れた。
「本当にフェリシアさんにそっくりですわね」
「ああ」
こうしてまじまじとその顔を見てみると、やはり妹とよく似ている。フェリシアは騎士ではなかったし、ヴォルデン人としては珍しいほどに穏やかな気性をしていた。性格というのは自然と顔に出るものだから、そう考えたら彼女も本来は優しい女性なのかもしれない。
そんなことを考えていると、静かに眠っていたフリアエが目を覚ました。伏せられていた彼女の瞼がゆっくりと開いていく。紫の瞳はしばし焦点を失っていたが、やがて自分を見下ろすアレクセイたちのことに気が付くと、驚きに目を見開いた。
「っ!!」
それがさっきまで自分が戦っていた相手と気が付いたようだ。フリアエは素早く身体を起こすと、脇に置いてあった自身の剣を手に取った。
だがそれでアレクセイたちが動じることもない。切っ先を突きつけられても表情を変えぬ二人に、フリアエも面食らっているようだ。
「お加減はいかがですか?」
それには答えずに、フリアエはこちらを気にしながら周囲の状況を確かめている。そこに騎士レックスやデーモンらの姿がないことを確かめると、ゆっくりと剣を下げた。
「貴方たちが、助けてくれたの?」
フリアエはソフィーリアの顔を見、次いで貫かれたはずの自分の腹を擦りながらそう問い返した。
「君の友人に頼まれてな。昔馴染みを救ってやってくれと」
アレクセイがそのように答えると、フリアエは俯いて「そう、リーデルが……」と呟いた。そして何かに気が付いたように慌てて自身の身体をまさぐった。
「鱗なら、あそこの少女が持っている」
「!!」
フリアエが領主の館から盗み出した神竜の鱗は、今はエルサが所持している。高い聖性を帯びているが故に、アンデットであるアレクセイとソフィーリアでは触れることが敵わないからだ。先の戦いでアレクセイの全身が発火したのもこのせいであった。鱗本来のものもそうだが、かつてソフィーリアが掛けた守りの奇跡に寄るところも大きかったのは、なんとも皮肉なことだ。
「心配せずとも、あれは後で君に返すつもりだ。但し、我々も君に尋ねたいことがあってね。それ如何では変わるかもしれん」
「……何を知りたいのですか?」
こちらを警戒するような声色だが、彼女の表情にはそれほど敵対心は見られない。そしてアレクセイたちが聞きたいことと言えばもちろん、彼女が鱗を持ち出した理由、その全てだ。
「君が領主の良からぬ企みを耳にし、義憤に駆られたことは先程聞いた。そしてそれが魔王の復活だともな。では具体的には?我々が知りたいのはそこだ」
魔王の復活とは、確かに穏やかではない。だがそう簡単なことではないことも事実だ。クレアが述べたように、そういったいかにもな企みは話が上ると同時に潰えるのが常だ。
フリアエはしばし迷うような素振りを見せたが、意を決したような表情で面を上げた。
「リーデルが貴方がたを信用したのですから、私もそうしてみたいと思います。それに、あの時そちらの方は自分は敵ではないと仰っていました。その言葉も、私は信じてみたいと思います」
「こちらから尋ねておいて何だが、随分あっさりと信用するのだな?」
「白竜を倒し、多頭竜を倒し、デーモンすら退けた貴方たちを前に、私にできることはありません。それに私の傷を癒してくれたそちらの方、あなたもゾーラを信じるお方なのでしょう?その鎧の紋章と同じものが、私の家の暖炉にもありますから」
ソフィーリアは驚いたように自分の胸に手を当てた。そこには確かに、火を象ったゾーラ神官戦士団のシンボルが描かれている。
そういえばバルダーの街で騎士レックスに会った際に、リーデルと共にいた老人もソフィーリアを見て手を組んでいた。あの老婆が持っていたのもゾーラ教の首飾りであった。太陽教なる宗教が幅を利かせているこの時代であるが、やはりこうして信仰の火は未だに残っているようだ。
「では同じ炎の信徒として聞こう。君は何を聞いたのだ?」
アレクセイの問いかけに、フリアエは静かにその時のことを語り始めた。
「結論から言えば、本当のところは分からないんです。それでもよければお話しますが……ある日の、領主の屋敷でのことです。私と同じ帝国騎士のレックスが、とある部屋から出てきました。バルダーの街の重役たちと共に」
彼女もまたレックスと同じようにあの街の出身である。街の名士の娘である彼女にとっては、彼らの顔はいずれも見知ったものばかりであった。とはいえフリアエたちは街の人間と商談をするような役職ではないし、そのような会合があることなど、フリアエは知らされてはいなかった。
「そしてレックスが見慣れぬ包みを持っていることに、私は気が付きました。そのとき直感で気が付いたんです。それが神竜の鱗だって」
神器と呼ばれるものはある種の空気を持つ。ときに一般人ですら感じ取れるそれを、竜使いとして竜に馴染みの深いフリアエが察したのは道理だろう。
「私はレックスに問い質しました。街の秘宝がなぜここにあるのか、それをどうするつもりなのかと。でも彼は煩わし気な顔をしてはぐらかしました。街の人間から領主への、献上の品だと言っていましたが……私はそれは嘘だと思いました」
レックスの言動に不審なものを感じたフリアエは、その動きを探ることにした。彼と密会をしていた街の人間を問い詰めたりもしたが、そこから有益な情報を得ることはできなかった。手に入ったのは、彼らが金に目がくらんで鱗を売り渡したということだけだった。
そうして釈然としない日々を過ごしていたところに、フリアエは伯爵から"客人"が来るということを知らされた。そしてフリアエに命じられたのは客人の応対でも館の警備でもなく、領地の遠方への視察であった。
あからさまに彼女を遠ざけようとする処遇に、いっそう不審を深めたフリアエは密かに舞い戻って館に忍び込んだ。
「そうして私は、"客人"の使いと伯爵が話しているところを聞いたのです」
「それが魔王の復活だと?」
「はい。そして彼らは国家の転覆を狙っていました。その暁には、伯爵には相応の地位を約束すると」
「……悪事を企む者が、よく言いそうなことだな」
魔王の復活に帝国の崩壊とは、いかにもな策謀である。だがそれ故に得心もいく。よくあるものというのは、総じてそれだけ得られる利益が大きいからだ。
それに長く平和の続いた今の世の中では、騎士や貴族が成り上げるのは難しい。代々受け継いだ土地を延々と守り通すだけの生涯に、伯爵が変化を求めたというのも理解はできる。
だが神竜の鱗は強力な神器であるが、それはフリアエが用いたように神竜の眷属たる竜族に有効なわけであって、死者を蘇らせたり封印を解除したりといった力はないのだ。ではそんな品がどうして魔王の復活に関係するのか。彼女の言葉が騙りでないのなら、気になるのはその点である。
「お察しの通り、神竜の鱗に死者の復活といった力はありません。ですがあらゆる竜に対して強制力を持ちます。そこで彼らが狙ったのが、あの聖竜バルムンクだったのです」
"あの"と言われても、アレクセイはその名を聞いたことがない。首を捻って顔を見合わせるアレクセイとソフィーリアを見て、逆にフリアエの方が驚きの声を上げた。
「知らないのですか?迷宮の勇者ディーンですら倒し得なかったという、伝説の迷宮主ですよ」
強大な力をもつというその竜は、この世界に存在する迷宮の中でもとびきり強力な存在であるらしい。
「バルムンクの心臓は、どんな死者でも蘇らせることができると言われているんです。なにせかの竜は、遥か昔に滅び去ったという"古竜"なのですから」
「なんと」
バルムンクなる竜は知らずとも、古竜であればアレクセイでも知っている。太古の昔、世界が光と闇に別れて戦っていた時代に生きていたのが古竜である。神竜は神の四肢から生まれ落ち、その神竜が自身の眷属として更に生み出したのが古竜である。彼らは今日の竜たちの祖先と言われており、人語はおろか魔法すら操る強大な存在であった。
そしてその心臓が癒しの力を持っていたことは、当時のヴォルデンにも伝えられていた。魔王登場以前の記録がほとんど残っていない現代ではあるが、どうやら古竜に関する伝説はそうではなかったらしい。かつての大いなる戦いにおいて、古竜はすべからく滅びたと聞いていたが生き残りがいたようだ。
そしてここまで聞けば、伯爵たちの狙いが分かるというものだ。
「つまり連中は神竜の鱗を使ってその古竜を隷属させ、心臓を奪おうという腹積もりなわけか」
「彼らの会話を盗み聞いた私は、すぐさま宝物庫へと走りました。彼らに神器を渡してはいけないと思って……」
フリアエの話を聞いたアレクセイは、腕を組んで考える。
神竜の鱗と魔王復活が、どのように関係しているかということはこれで理解できた。些か早計な感は否めないが、しかし彼女の行動が連中の計画を挫いたのは事実だ。バルムンクなる竜の心臓が、本当に魔王を復活させられるかは分からない。だがその可能性が僅かでも残されているのならば、芽を摘み取っておくことには大きな意味がある。
「その客人というのは、あの紫の騎士なのでしょうか?」
「私は客人の姿を見たわけではありませんが、恐らくは……」
順当に考えれば、その正体は魔族の残党か何かだろう。かの騎士は禍々しい気を纏っていたし、王の復活に種族の再興を賭けるのも納得がいく。無論真実は、実際に問いただしてみなければ分からないだろうが。
すると考え込むアレクセイらを見ていたフリアエが、意を決したように声を上げた。
「それで、あの、私からも聞きたいのですが……貴方がたは何者なのですか?こんな時代でありながらも、ゾーラの信徒であること。多頭竜さえ退けるあの強さ……そして何より、聖なる炎に巻かれるほどに、神竜の鱗に拒絶されていること。普通の冒険者では、ないのでしょう?」
フリアエは訝しみながらも、その瞳には何か期待じみたものが隠されていた。それに対しアレクセイは答えることができない。
妹そっくりの、その血を受け継ぐフリアエに嘘をつきたくはない。だがそんな一時の感情で真実を告げてよいとも思えないのだ。追われる身である彼女が教会に駆け込むとも思えないが、死霊遣いでもないフリアエがどのような反応をするかは分からなかった。するとそんな悩めるアレクセイの手の上に重ねられるものがあった。ソフィーリアである。
「あなた」
「……うむ」
その澄んだ瞳を見ていると、不思議と心の内のざわめきが治まった。
アレクセイは真っすぐにフリアエの方を見やると、自身の兜の縁に手をかけた。そして一息にそれを脱ぎ去る。こちらを見るフリアエの目が、これでもかとばかりに見開かれた。
「私の名はアレクセイ。五百年前、神竜から鱗を奪ったのは、この私だ」




