第71話 北の系譜
「さて、そいじゃあ何を聞きたいってんだ?」
そう言って宿屋"白竜の鱗亭"の主人は、アレクセイたちの卓へとやってきた。そして酒瓶を片手にどかっと椅子に座り込んだ。
その向かいではエルサが腹を押さえて天井を仰いでいる。
アレクセイたちは彼の娘を助けた礼として、大量の料理を馳走になったのだ。スライムのミューの協力を得たアレクセイも多くの皿を片付けたが、エルサもまた折角なのでと頑張っていた。
アレクセイが思うに、彼女は歳の割に少々やせ過ぎである。ヴォルデン的価値観で言えば、よく飲みよく食べる者こそ魅力的とされているので、食べ盛りである彼女には丁度良い機会であったかもしれない。
宿屋の主人もそう思ってくれたのか、支払いはあちらであるはずなのに実に気前よく料理を振るってくれた。ただ聞けば最近は客の数も少なく、仕込みが無駄になることも多いらしい。なのでそれらを使ってしまうのにかえって具合がよかったとのことである。
「しかしよいのかな?宿の主人がこうしてここにいても」
「表に今日は店じまいの札を出しといたから大丈夫だろ。それにあんたら以外の唯一の客も、もう上に行っちまったからな」
確かに先ほどまで遠くの卓にいた客も、いつの間にかいなくなっている。あまり余人に話を聞かれたくはないアレクセイらとしてはかえって都合がいい。
アレクセイはひとつ息を吐くと、主人に向かってまずは単刀直入に聞いてみることにした。
「ではお聞きしたいのだが、貴殿は"ヴォルデン"という国を知っているかな」
自身の横ではソフィーリアが固い顔をして主人の答えを待っている。もし自分にも肉の顔があったとしたら、同じような表情をしていることだろう。
固唾を飲んで待つアレクセイたちに返ってきたのは、実にそっけない主人の言葉であった。
「ヴォルデン、ヴォルデンねぇ……いや、悪ぃが知らねぇな」
「そうか……」
いかなアレクセイとて、落胆の声を上げずにはいられなかった。
見るからに北部の色の濃いこの街の宿屋の主人が、ヴォルデンの名を知らないと言う。アレクセイにはそれは、故郷の名が完全に失われているかもしれないということの証左に思えた。
そんなアレクセイたちの失望を知る由もなく、主人は銀色の顎髭を擦っている。
「国って言うからには、そりゃあ帝国がひとつになる前のことだろ?大昔に魔王が現れる前の出来事はほとんど伝わってないって話だからな。俺もここで方々の旅人の話を聞くが、大抵は帝国が統一された後の話ばかりさ」
それはアレクセイもエルサから聞いている。
とにかくあの頃世界は混沌を極めていたようで、記録や伝承といったものはほとんど残っていないらしい。
また魔王が勇者とやらに討たれてからも、"迷宮"という大いなる不思議がこの世に出現したことで、人々の関心はそちらに移ってしまったようなのである。確かにそんな状況では、過去のことに拘泥している余裕はないだろう。
「では、この街の成り立ちについて教えてはいただけませんか?」
そう言ってソフィーリアは縋るような視線を店の主人へと向けた。アレクセイもそこに、僅かな希望を見出していた。
ヴォルデンについては知らなくとも、宿屋の主人が街の歴史について知らないということはないだろう。特にこの街の住人は特異な外見をしているから、旅人などに尋ねられることもあるはずだ。
今度の質問には、店の主人も頭を悩ますこともなく素直に答えてくれた。
「おお、それなら答えられるぜ。このバルダーの街は、もともとは難民が作った街なんだ。魔王が暴れまわったせいで、あちこちの国や街が滅びたって話はあんたらも聞いたことがあるだろ?ここはそんな故郷を追い出された連中が流れ着いた場所なんだとよ」
「故郷を、か」
「あぁ。北の方から来たって話だけは、伝わってるがな」
それならば、やはりここの住人たちはヴォルデンの血筋で間違いあるまい。あの当時大陸の北部一帯はヴォルデン王国の領土であったので、自然とそういうことになる。
アレクセイはちらと傍らのソフィーリアの横顔を盗み見た。僅かではあるが安堵している様子である。亡国の騎士であるアレクセイとしても、かつての臣民たちの子孫がこうして生き続けてくれていることは、素直に嬉しいことと思えた。
たとえ自分たちのルーツを忘れてしまっていても、である。
「もともとこのあたりは川が流れているだけの、ロクに村もないような辺鄙な土地だったんだそうだ。だからそんなとこにできた難民の村なんて、魔王の軍勢も用はなかったんだろう。細々とではあるが、なんとか暮らしていけたらしいぜ。そうこうしているうちに魔王が勇者サマにぶっ殺されて、無事めでたく平和な世の中になったんだと。だが話が変わったのはこっからだ」
主人は酒瓶を豪快にそのまま呷って口を滑らかにすると、さらに話を続けた。
「村の真ん中に、いきなり迷宮への入り口が現れたのさ。今は拡張されちゃいるが、当時は何の変哲もない井戸だったらしい。そんで勇気ある一人の村人が、井戸の底に飛び込んだって話だ。そしたらそこには、見たこともないような亜竜の怪物たちがうようよしてやがったんだ」
村人は命からがら返ってきたという。だが井戸が使えないと日常に困ることになる。川から水を引こうにもそんな金はどこにもない。
となれば井戸の底の怪物を退治しよう、という流れになったらしい。
怪物たちを倒せば井戸が元通りになるという保証はどこにもないのだが、まぁ学のない村人たちにそんなことなど分かるはずもない。当時はまだ迷宮という概念もなかっただろうから、あまり深く考えての行動ではないと思われる。
というかアレクセイに言わせれば、そのような浅慮で力任せの行いこそヴォルデン人らしいと思えた。
ヴォルデンは他国から"脳筋国家"などと呼ばれることもあったので、村人たちの意味不明な蛮勇には奇妙に納得できたのである。
「んで見ての通り俺らは"がたい"だけはいいからな。ご先祖様たちは薪割りの斧やら鍬やらで、亜竜と戦ったって話だぜ。そんで見事ぶちのめしたってんだから、全く大したもんだ。そしてそんなところに運よく商人が通りかかったってのが、運命の分かれ道だったんだな」
そうして村人たちが井戸の底より持ち帰った亜竜たちの素材に、商人は目を付けたのだという。
まだ魔王との戦が終わって間もない頃のことである。人も物資はあちこちで不足しているし、特に戦で傷ついた人々には薬が必要であった。
その話を聞いて、歴戦の騎士でありかつて"竜狩り"と呼ばれていたアレクセイは合点がいった。
「……なるほど、龍涎香か」
「おぉ、流石は冒険者だな。知ってるか」
龍涎香とは、竜種の魔物の体内から取れる結晶体のことである。独特の香りを持つこの石は、古来から香水の原料として多くの者たちに愛されてきた。
またこれは良質の霊薬を作るための材料として、戦人からも需要のあった素材なのである。その香りや効能の程は取れる竜の種類によって異なるが、長い年月を経た強力な竜であればあるほどその効果は高いとされていた。
騎士の国ヴォルデンには、"竜に挑んでこそ騎士の誉れである"という考え方があった。それゆえにアレクセイもまた幾匹もの竜と剣を交えたものである。
「その井戸の底、今は≪ヴァート湿原≫と呼ばれてるが、そこから獲れた亜竜どもの素材は大層いい値で売れたらしいぜ。少なくともロクに戦い方を知らなかった村人たちが、その命を張るくらいにはな。こうしてバルダーの村は総出で亜竜を狩って狩って狩りまくったわけだ」
そうして井戸から得られた亜竜たちの素材は、長らくバルダーの村を潤すことになったそうだ。それは冒険者ギルドという組織によって、各地の迷宮が管理されるようになってからも続いたのだという。
「しかし龍涎香を始めとして、竜の素材は強いものほどより上質のものが獲れるはずだろう?一口に亜竜と言っても色々いるが、総じて本家の竜種には劣ったはずだ。戦後であればそれでもそれなりに需要はあろうが……今のような太平の世でもまだ売れるものなのか?」
アレクセイとしてはそのような疑問を抱かずにはいられない。
良い物というのは、そう簡単に手に入らないからこそ価値があるのだ。ましてやいくら勇猛なヴォルデン人とはいえ、戦士ならぬ村人たちでも狩れるような亜竜からそれほどのものが獲れるとは思えない。
だがそんなアレクセイの言葉を、宿屋の主人は笑い飛ばしたのである。
「普通はそうなんだがな!ここがウチの迷宮のいいところなのさ。なんせ大して強くもない亜竜だってのに、質はそこらのまともな竜よりよっぽどいいんだからよ!」
主人はそう言って一度席を立つと、店の奥からナイフと小瓶を持って返ってきた。そして何をするかと思いきや、ナイフで自分の指先を斬りつけたのである。アレクセイたちが目を丸くする中、主人は小瓶の中に入っていた液体を一滴、指先へと垂らした。
すると赤い血が滴っていた指先の傷が、たちまち塞がったのである。
「どうよ、こいつが≪ヴァート湿原≫の鎧トカゲの龍涎香から作った、霊薬の威力よ!どうだい、下手な治癒魔法より効くだろ?」
自慢げな主人の顔を見るまでもなく、なるほどこれならばあちこちから求められるのも納得である。
五百年前にも、薬に魔法による付呪を施した魔法薬というものがあった。魔法を忌避し、神官戦士による治癒が主であったヴォルデンでは出番もなかったが、この魔法薬というものは非常に高価な代物であったのだ。この霊薬の効能はその魔法薬にも劣ることはないだろう。
聞けばこの龍涎香の霊薬は、一般的な二ツ星冒険者であれば十分買える値段であるのだという。ほとんどの傷はたちどころに治してしまうこの薬は、戦いに身を置くものであれば必ずひとつは持っていたいものだろう。
そう考えると数多くの冒険者がいるこの時代であれば、大陸中に客がいることになる。
「なるほど。つまりこの街は、そうして迷宮の恩恵を受けて成長してきたわけなのだな」
「ま、そういうことだな。この街の成り立ちについてはこんなモンだが、どうだいこれで良かったのか?」
「ううむ……」
アレクセイは腕を組んで考える。
ヴォルデンの民がことごとく滅びたわけではない、ということが知れたのはまずは僥倖と言えるだろう。エルサやラリーのような放浪の個人ではなく、きちんと集団でその血を繋いでいてくれたことは嬉しく思う。
だが実際に知りたかったのは、ヴォルデン王国そのものの話である。王や仲間の騎士たち、そして何より妹フェリシアや息子のウィルの消息が一番であったのだ。そう考えると、主人の話から収穫があったとは言い難い。
すると考え込むアレクセイの横から、意を決したようにソフィーリアが声を上げた。
「ひとつお伺いしたいのですが……あなた方のご先祖の故郷は、どうなったのでしょうか?」
「ソフィーリア……」
震える声で主人にそう問いかける妻の姿を見て、アレクセイは思わず卓の下のその手に、自らの手を重ねた。実体なき霊の身であっても、その手が震えているのが分かったからだ。
主人はそんなアレクセイたち夫婦の不安を知る由もなく、実にあっけらかんと答えた。
「う~ん、聞いたことねぇな!ここに流れ着いてからも迷宮が現れてからも、当時は生きることに必死だったらしいからな!だが北の方はそれはひどい有様だったらしいからなぁ……ご先祖様たちの中でも、故郷に帰ろうとする奴はついぞいなかったらしいぜ」
「そうですか……」
沈んだ声で俯くソフィーリアを励ますよう、アレクセイはその手を握る手に力を込めた。
魔王が討たれても帰る気にならないということは、もはやその価値も見いだせないほど荒れ果てているということだろう。
そういえばエルサが目指す≪霧の都レズラヘム≫がある地域は、人を寄せ付けぬ魔境であるという。この時代では色々なことがあったのでつい忘れそうになるが、北には魔王の残党らしき連中がいまだに居残っているという話なのである。
であれば自分たちの故郷についていつまでも執着していられないのも、おかしな話ではないのかもしれない。
さすがの主人も落ち込むアレクセイたちの空気を感じたのか、酒で赤くなった頬をかいている。すると厨房から顔を出したその娘が、父親の頭をはたいた。
「おいクソ親父!勝手に薬を持ってくなって言ったろ!ったく、旅人に話す度に指切って見せやがって……ってどしたん?なんでこいつらお通夜みたいになってるわけ?」
「いやぁ、俺にもなんだか。俺はただこの街の昔のことを話しただけなんだがなぁ」
「ふ~ん、昔のことねぇ……ってそういえば、フリアエの奴が、家にそんな本があるって言ってたっけ?」
リーデルがそんなことを呟くのを聞いて、アレクセイとソフィーリアは思わず頭を上げた。
「リーデル君、何か知っていることがあるのか?」
「リーデルさん、どうか教えてください!当時のことを記した本か何かがあるのですか!?」
思わぬ食いつきを見せる冒険者二人にリーデルはたじろいでいたが、アレクセイらとてここで引くわけにはいかなかった。たとえ藁のようなものであろうとも、僅かな情報に縋るほかないのである。
リーデルはあまり話したくはなさそうであったが、命の恩人の勢いに負けてか、しぶしぶ口を開き始めた。
「あたしの友達が、この街の名士の家の出でさ。ここの持ち主は領主の貴族だけど、そいつの一族が来る前、故郷からこっちに移ってきた当初はその子の一族が村長をやってたんだって。その当時の記録が家にあるって、聞いたことある」
その言葉に、アレクセイとソフィーリアは顔を見合わせた。もしそのようなものがあるのなら、そこに故郷のことが書かれている可能性は十二分にある。ここまで来たのだ、それを見ないで帰ることはできないだろう。
「どうかその者を紹介してもらうことはできないだろうか」
「リーデルさん、お願いします!どうか……!」
無頼の冒険者であるアレクセイたちが直接訪ねても、相手がそれを見せてくれる保証はない。であれば自分たちは、友人だというリーデルの伝手を頼るほかないのだ。
だがリーデルの顔色は明るくない。そればかりか、先ほどまで酒で陽気にしていた父親までもが眉根を寄せていた。するとリーデルはアレクセイたちから顔を背け、小さな声で言ったのである。
「……それは無理だよ」
「なぜ、どうしてですか!?」
そうしてしばし黙り込んだ後、彼女はこちらを見て悲し気な瞳でこう言ったのである。
「あの子はもうここにはいないんだ。今は追われる身だから……領主の館から盗んだんだ。"神竜の鱗"をね」
"神竜の鱗"
それはかつて"竜狩りのアレクセイ"が打ち倒した、邪神竜グロズヌイの鱗であった。




