追う者たち 退魔官マリア
大陸東部の山中。
深い森の更に奥に、朽ちた砦があった。かつてエルフが築いたであろう砦はいまや森の木々に覆われて、見る影もない。それだけならば森の住人でもある彼らにとっては、むしろ喜ばしいことであろう。
だがその砦を覆う木々は奇妙に捻じ曲がり、その地全体を不気味な瘴気が包んでいる。そんな邪悪な遺跡と化した砦に、激しい剣戟の音が鳴り響いていた。魔物らしきいびつなシルエットと、大勢の人間らしき影が見える。だが実際に剣を交えている人間は一人だけだ。
それはまだ若い、とても美しい娘あった。
貴婦人も羨むような綺麗な黄金色の髪を、無造作に短く切り詰めている。動きやすさを重視してのことなのだろうが、髪と同様にその体躯も男のようなズボンと上着に包まれている。だがそのマントに記された剣と太陽の紋章と、両の手で振るわれる二本の刀を見れば、彼女が特異な仕事に就く者だと分かるだろう。
ソラリス教会所属退魔捜査官、マリア・シルヴィス。
それが、青い瞳に激情を滾らせて戦う少女の名前であった。
対する相手は半人半獣の魔物、サテュロスである。かつて魔界の戦士であったという魔物がこの砦に住み着いたため、退魔官であるマリアが派遣されてきたのだ。
「はああああああああ!!」
マリアは裂帛の気合を込めて立て続けに斬撃を放った。聖なる言葉が刻み込まれた特注の刀が、白刃を煌かせてサテュロスに迫る。相手もさるもので先程からマリアの攻撃を防いでいるが、彼女の勢いに押される一方であった。
「……すげぇ!」
「いけるぞ!」
「これが中央の退魔官の力なのか」
マリアの戦いぶりを見ていた聴衆たちから感嘆の声が漏れる。彼らは近隣の街から派兵されてきた教会兵士たちだ。マリア同様に神の敵を屠るために遣わされた彼らは、しかしその多くがサテュロスと配下のレッサーデーモンによって倒れることなった。度重なる討伐の失敗によって中央から召還されたのがマリアというわけだ。
すでにサテュロス以外の魔物は全てうち滅ぼされている。残るはその首魁だけだ。力の劣る彼らでは余計に被害が増すばかりと思われたので、マリアは兵士たちを下がらせたのである。
「どうした魔界の戦士!貴様の力はそんなものか!」
マリアは相手を挑発しながらも手を止めることはない。魔界の戦士は答えこそしなかったが、歪められたその顔を見れば声を聞かずとも相手の焦りが分かった。
(ふん、古に伝わる魔界の戦士もこんなものか)
マリアは少しばかり落胆していた。数多の教会兵を殺し、他の退魔官を二人ばかり返り討ちにした魔物がいると聞いて、勇んで来てみればこれである。確かに強いことは強いのだろう。膂力も魔力も、およそ通常の人間の比ではない。だが見るべき技も、警戒するような魔法もなかったのだ。
「さて、そろそろ終わりにさせてもらうぞ!」
マリアは大きく飛びのくとサテュロスから距離をとる。そして刀を振りかぶって屈みこむと、くるくると回転しながら天高く飛び上がった。
「はあっ!!」
そして刀に聖気を纏わせると、文字通り宙を蹴って強烈な斬り下ろしを放ったのである。同時に振り下ろされた二本の刀が、違うことなくサテュロスの右腕を肩から両断する。
「ほう!?避けたのか!やればできるじゃないか!」
マリアは思わず喜びの声を上げてしまった。数多の魔物を一撃で葬ってきたマリアの大技を、相手は辛うじてではあるが回避したのだ。先ほどの評価は撤回しなければなるまい。
「ガアァァァァァ!!」
すると相手は、噴水のように血が噴き出す傷口をこちらに向けてきたのである。何をするつもりだとマリアが訝しんだのもつかの間、真っ黒な血しぶきが鋭い針のように固まると、まるで矢の如くこちら目掛けて殺到した。それを見たマリアは歯を見せて笑う。
「面白いっ!」
そうして今度はサテュロスの方が驚愕に目を見開くことになった。
マリアは二本の刀を縦横無尽に振り回し、迫りくる血の矢の雨を全て叩き落としてみせたのだ。常人なら血の針に全身を貫かれているであろうところを、恐るべき反射神経である。
「ッ!?」
そして動揺する相手に生じた隙を、マリアは見逃さない。両の刀を引いて突きの構えをとると、間髪入れずにサテュロス目掛けて突進した。音が遅れて聞こえるほどの、神速の突きであった。両の刃は寸分違わず相手の胴体を貫いた。
「さぁっ!今度こそこれで終わりだっ!」
マリアが両手の刀を横薙ぎに振るうと、サテュロスの体が上下に分断される。その勢いのあまり、切り離された魔物の上半身が地面をバウンドして転がっていく。やがて瓦礫にぶつかって動きを止めると、魔物は力なくマリアの方に頭をもたげ、しかしそのまま息絶えてしまった。
「ふぅ……」
ようやっと全ての敵を駆逐したことで、マリアは安堵の息をついた。そして誰にも見られぬよう、僅かに頬を綻ばせた。だがそれは別に、この辺境の地に平和が戻ったことを喜んでいるわけではない。
(よかった。これでアルフレート様の顔を潰さずに済む)
マリアは中央の地にいる上司のことを思い浮かべていた。自分にサテュロス討伐を命じた人物である。と同時に、不甲斐ない前任の退魔官たちに対する怒りが沸いてくる。
(退魔官でありながら、あんな程度の魔物に後れを取るなど)
太陽神ソラリスの威光を示す執行者たる自分たちが、魔物などに敗れることなどあってはならぬのだ。そんな風に考えていたのが、顔に出ていたのだろう。気づけば教会兵の一人が、話しかけにくそうにマリアの傍に立ち尽くしていた。
「……なんだ?」
「あの、退魔官殿。聖都より連絡が入っております。任務を終え次第、至急戻るようにと」
そう言って兵士が告げたのは、聖都にいるマリアの上司、アルフレートからの言葉であった。
聖都ガリウス。
そこはソラリス教の聖地にして、帝都と並ぶリーヴ帝国有数の大都市であった。
大陸の中心部に位置するこの都市は、全体を高い壁に囲まれ、さらにそれ以上の高さを持つ尖塔が複数立ち並び、荘厳な雰囲気を醸し出していた。
都市の中央にあるのがフィラーハ大聖堂である。教皇や高位の聖職者が集うこの広大な建物の中を、マリアは足早に進んでいた。
(アルフレート様直々の呼び出しとは、なんだろう?)
マリアは心中で首を傾げていた。
時刻は夕暮れ時。
敬虔なソラリス教徒であれば、ちょうど沈みゆく太陽に祈りを捧げている頃だろう。
サテュロス討伐を終えてすぐに聖都へと舞い戻ったマリアは、休む間も惜しんでアルフレートの執務室へと向かっていた。もとより直属の上司からのお達しである。至急とのことであったし、断ることなどできるはずもない。
(もっともアルフレート様にお会いできるのなら、その理由もないがな)
そうしてマリアは頬が緩みそうになるのを堪えた。こんなところを他の聖職者どもに見られれば、またどんな嫌味を言われるか分からないからだ。
やがてマリアはとある部屋の前で足を止めた。なんとなく髪を手で梳いた後、一度深呼吸をしてから扉をノックする。
「入りなさい」
涼やかな、若い男の声が響く。マリアはそれに返事をしてから扉をくぐった。
部屋の中では夕陽に照らされた一人の男が、机の前でペンを走らせていた。その光景を見たマリアは、思わず扉の前で立ち止まってしまった。
非常に眉目の整った男である。
マリアと同じ金色の髪は、自身と違って綺麗に切り揃えられている。彫りの深い顔立ちだが、決して濃すぎるということもない。しっかりと男性的でありながら、どこか中性的にも見えるような美男子である。
そんな彼が夕陽を受けて執務を行う様は、さながら名画のようであった。なので、自分が柄にもなく目を奪われてしまったのも仕方のないことなのだ。
我に返ったマリアは自分にそう言い聞かせると、部屋の中央まで進み出た。そこにきてやっと男が顔を上げる。
「……私の顔に何か付いていたかな?シルヴィス退魔官」
「い、いえ!その、アルフレート様がお仕事をされているご様子が、あまりにも絵になっていたので……ってああ!私は何を言っているんだ!も、申し訳ありません!」
つい正直に口を滑らせてしまい、マリアはしどろもどろになってしまう。自分でも顔が熱くなっているのを感じる。
(いつもこうだ!アルフレート様を前にすると、なんだか平静でいられないのだ。全く、こんな自分が嫌になる)
しかし幸いなことにアルフレートは自分の無様な様子には触れずにいてくれた。彼は書き物をしていた手を止めると、顎の下で指を組んで静かに微笑んだ。
「いやなに、謝るのはこちらの方さ。遠方まで派遣しておきながら、こちらの都合で呼び戻してしまってすまないね」
「そんな、アルフレート様が謝るようなことではありません!正しきソラリスの信徒であれば、当然のことです」
申し訳なさげに目を伏せた上司の表情を見て、マリアは慌てて手を振った。そして自分も居住まいを正すと「それに」と続けた。
「アルフレート様の方こそ、ついこの間までデーモン退治に赴かれていたではありませんか!それなのに帰ってきて早々にそのような事務仕事などなされて……ここにはそのための者たちもいるでしょうに」
太陽教会最大の戦力とも言われるアルフレートの執務机には、たくさんの書類が積み重なっていた。退魔官の長たる彼も、マリアと同じように魔物の討滅に赴いていたはずだ。そんな彼に休む間も与えず書類仕事をさせるなど!
(きっと教皇派の指金に違いない。連中はこんなことしかできない、卑怯者だからな!)
マリアが心中でそう毒づいたが、アルフレートは諦めたような顔で首を振った。
「人を率いる立場なのだ。仕方がないさ。それに我ら退魔官もなかなか人材不足だからね」
「そうですか……私にも何かできることがあればよいのですが」
肩を落としてそう言ったマリアを見て、なぜかアルフレートは少しばかり焦ったように手を振った。
「いやいや、君の手を煩わせることはないよ。それに君はエドガールとユーリエの仇を取ってくれた。それだけで十分だ」
「ありがとうございます。そのお言葉だけでも、彼らは救われることでしょう」
先日は魔物の前に倒れた同僚をこき下ろしたことなどすっかり忘れて、マリアは神妙に目を伏せた。
アルフレートと二人、しばしの間亡くなった彼らの冥福を祈ってから、目の前の男は「さて」と口火を切った。
「早速だが本題だ。帰ってきたばかりで悪いが、君に仕事を頼みたい」
「はっ!何なりとお申し付けください!」
正直疲労は感じているが、アルフレートの依頼とあらば何ほどのこともない。それにこうして直接呼びつけるのだから、相応の用事なのだと思われた。
「魔物の調査依頼だ。君には南に向かってほしい。彼の地にデーモンが現れたのだそうだ」
「デーモンですか」
流石のマリアもその魔物とは戦ったことがない。それはデーモンが強力であるからではなく、単純に目撃事例が少ないからである。
デーモンは基本的に神話の時代の産物であり、その発端は魔王より古い。彼の魔族の王が配下に従えて行使したせいで人々の記憶に新しいが、そもそも滅多に現れるようなものではないのだ。それがいまだ瘴気の濃い北ではなく、平和な南に出るなど。
だがマリアの心は密かに踊っていた。先の魔界の戦士はそこそこ楽しめたが、デーモンならば更に相手にとって不足はないだろう。
(なにせアルフレート様が直々に相手をなさるほどの魔物だからな!)
だが上司から告げられた任務の詳細は、そんなマリアの期待とは裏腹なものだった。
「何やら楽しそうなところに水を差してすまないのだが、君に頼みたいのはデーモンの討伐ではない。奴は既に何者かによって討たれているのだからね」
聞くところによると、南のとある迷宮にてデーモンの死体が発見されたらしい。見つけたのはギルドの人間で、迷宮内で真っ二つに両断されたデーモンの死体を見つけたのだという。
「ついでに言うなら、迷宮主の間にはサテュロスの死体もあったそうだよ。つまり魔物たちは何がしかの目的を持ってその迷宮に現れ、そして何者かに倒されたということさ」
「冒険者がやったのではないですか?」
マリアは特に考えることなくそう発言した。自分から見ればそこらの冒険者など雑魚ばかりだが、中には腕の立つ者もいる。パーティを組めばデーモンを倒せる連中もいなくはないだろう。
だがそんなマリアの考えはあっさりとアルフレートによって否定される。
「いや、そこは駆け出し向けの迷宮らしくてね。冒険者ギルドの名簿にも、それほどの高位冒険者が潜った記録はないそうだ」
「それでその調査を私に、というわけですか……あ、いえ!別に不服があるわけではないのです!」
つい落胆した気持ちをそのまま出してしまい、マリアは慌てて訂正した。剣を振ることにかけては自信がある。だが正直なところ、調査とか謎解きとかいった頭を使うことは苦手なのだ。
目の前の上司もそこのところは把握しているのか、マリアを安心させるように優しげな声で言葉を続けた。
「なに、不安に思うことはない。闇の魔物の生態や神話に詳しい聖職者をつけよう。君には彼の助言を参考にして、調査を進めてほしい」
アルフレートからの依頼を一人で遂行できないのは忸怩たる想いだが、彼が自分のことを慮ってくれたことは素直に嬉しかった。
「あと元冒険者で教会に所属している者がいる。彼も同行させるから、迷宮のことはその男に聞くがいい。君をリーダーとし、その三人で事件の調査に当たってもらいたい」
「はっ!」
こうしてアルフレートの命を受けたマリアは、翌朝すぐに聖都ガリウスを出発した。
この若き聖剣士がアレクセイたちの前に立ちはだかることになるのは、いましばらくの時を待つことになる。




