第60話 明けの明星
前へと進み出たアレクセイは、アネッサの肩へと手を掛ける。
「あんた……」
目の前に広がる光景に、顔を歪めたアネッサが振り返る。
マユを守るかのように現れた怨霊は、いつの間にかその数を増やしていた。当然のようにそれらはみな年若い冒険者の霊たちであり、装備や服装は様々ではあるが、全員が一様に苦し気に顔を歪めている。手足を欠損している者や、マユのように身体に致命傷らしき傷を負った者も多く、それがより一層彼らの悲惨さを助長していた。
アレクセイから見ればまだ幼くも見える、少年少女たち。
そんな若者たちが悲痛に喘ぐ様子は、アネッサならずとも剣が鈍ることだろう。
「痛いよぅ」
「お母さん……」
「助けて、助けてよ先生……」
怨霊たちはマユを守る盾となりながら、しかし口々に助けを求めていた。そして名指しでアネッサを呼ぶ者までいて、とうとう彼女は冒険者の霊たちから目を逸らしてしまう。
「くっ……」
「やはり、君の教え子もいたか」
彼女が単身で迷宮へとやってきた理由も、わかろうというものである。向こう見ずな気性というのももちろんあるのだろうが、アレクセイが思ったよりもずっと情に厚い性格なのだろう。だからといって、このままにしておくわけにはいかないのも事実である。
「なればこそ、我らが救ってやらねばならんのだ」
アネッサとて、若くとも経験を積んだ冒険者であるのだろう。そうでなければ、新人の育成などという職務を冒険者ギルドが与えるはずがない。だからアレクセイが言わずとも、そんなことは百も承知のはずである。
だが実戦とは違う、新たな視点に立ったからこそ生じる想いというものもあるのだ。そして時としてそれは、思いもよらぬかたちで本人の剣を鈍らせる。
アレクセイも、初めから歴戦の戦士であったわけではない。兵士から騎士となり、そして一軍の長となったからこそ、見えてくるものもあるのだ。アレクセイはもう一度、ゆっくりと諭すようにアネッサへと告げた。
「ここは私に任せてはもらえないだろうか、教官殿」
「だけど……!!」
「教官殿」
ジッと見下ろすアレクセイの顔を、アネッサが見上げている。肉の身体である顔はなく、また分厚い兜の前では見えるはずもなかろうが、それでもアネッサがアレクセイの意を探っているのが分かった。やがてアネッサはふぅと息を吐くと、肩から力を抜いた。
「……分かったよ。あんたに任せていいかい?」
「ああ、任されよう」
心なしか、赤獅子の如き彼女の髪が萎れて見える。
「あ~、クソッ!あたしこんなにおセンチじゃなかった筈なんだけどな!」
やけくそのように言うアネッサを、ソフィーリアたちは温かい目で見ている。とそんなところへ、冷や水を浴びせるかのようにカインの冷静な声が響いた。
「あー、イイ話をしているところ悪いんだけれどね。それで実際のところどうするつもりなんだい?アレクセイくんがめっぽう腕が立つことはもう知っているし、まぁ情がどうとかで尻込みするような性格じゃないのも、薄々分かるよ。でも君は戦士だろう?見たところあれらは結構厄介なタイプの怨霊だ。たとえ鋼の剣が効いたとしても、完全に滅しないとまた出てくると思うよ?」
カインはずり落ちそうになる眼鏡を抑えながら、そんなことをのたまった。戦士の情など顧みない冷静な意見に、アネッサはキツい目をカインへと向けるが、確かにその通りではある。
アレクセイは徹頭徹尾戦士、もとい騎士であるから、除霊の術など扱えない。当然の帰結として、カインは神官戦士であるソフィーリアへと視線を向けたが、彼女はそれに対し曖昧な表情で首を振った。
「確かに私は除霊の術を使えますが、その、少々攻撃的なものが多くて……それに、今は事情があってそれらの奇跡は使えないのです」
戦神たるゾーラは炎の女神であるため、それがもたらす奇跡も往々にして激しいものが多い。そのため死者の霊に対しても"救う"より"滅する"向きの方が強いのだ。ゾーラ教の教義で言えばそこに救いがないわけでもないのだが、この場合のアネッサが求めるような"救い"ではないだろう。
とはいえ、彼女とて"白竜の聖女"と呼ばれた英雄である。聖職者として起こせぬ奇跡はほとんどないはずではあるのだが。
「ふむ。とするとどうしたものかねぇ……」
カインが腕を組んで唸る横で、ソフィーリアは傍らのエルサへとちらと目をやっている。
その様子を見れば、アレクセイには更に彼女が言わんとしていることが分かった。おそらく≪ミリア坑道≫でそうしたように、一定以上の力を使う奇跡であればエルサへの憑依が必要となってくるのだろう。
ソフィーリアは闇霊の身ながら積極的に奇跡を行使することで、完全に魔物にならぬよう戒めとしているようである。だが強大な力を持つらしいマユを含む、多数の怨霊たちを穏やかに死後の世界へと導くためには、相応の神力を身に下ろさねばならないのだろう。
しかしそうすると、アレクセイたちが不死の魔物であることを知らないカインとアネッサの目の前で、自らそれを明かすことになる。悪人ではなかろうが、さりとて頭から信ずることもまたできないだろう。
「だから言っている。私に任せてほしいとな」
自身に満ちたアレクセイの声を受けて、一同がこちらを向く。
「ほー、まさかアレクセイくんは聖騎士のスキルでも使えるというのかい?」
カインが感心したような顔でそう言ったが、その聖騎士のスキルとやらがなんなのか分からぬのでアレクセイは否定する。そして困惑しているアネッサの方へと向き直ると、彼女に向けて手を差し出してみせた。
「ん、な、何さ?」
「不躾ではあるが、"明星の剣"を貸してはもらえないだろうか」
アレクセイの唐突な要求に、しかしソフィーリアだけは「あぁ」と納得した顔になっていた。聖職者ならぬアレクセイが穏やかに霊を退散させようと思えば、この場では彼女の持つ大剣の力が必要になってくるのだ。
それを知らぬ一同に向けて、アレクセイはそれを説明する。
「その剣には、聖なる力が込められている。そしてそれは、ただ単に悪霊や魔なる者を害する力を持っているということではない。その剣には、朝日と同じ力が宿っているのだ。生ける者の力を呼び起こし、死者を穏やかな眠りへと誘う力がな」
古代から、夜はこの世ならざる者たちの時間だと言われていた。全ての生命の源である太陽がつかぬ間の眠りに落ちている隙に、現世へとその姿を現すのだ。そして朝が訪れるとともに、彼らは自らの世界へと帰っていく。
故にその力を封じ込めた明星の剣は、退魔でも封魔でもない、"宥魔の剣"と呼ばれていたのだ。
「そしてそれは、持ち手の魂の強さによって力を変える」
「な、ならあたしが!」
咄嗟にそう言うアネッサに向けて、アレクセイは静かに、しかしはっきりとした口調で言う。
「では君に斬れるのか?私の言葉を信じ、あの娘らに剣を向けられるのか?」
「……っ!」
アレクセイの言葉に、アネッサは身を固くする。そんな彼女を見て、カインはまるで理解できないといった様子で言う。
「家族でも友人でも恋人でもない相手に、何をそんなに躊躇しているのか僕には分からないけど……彼の言う通りなのだとしたら、大人しく渡した方がいいと思うよ。君には、無理そうだしね」
「なっ!?」
反射的に食って掛かりそうになったアネッサであったが、カインが続けて言った言葉に動きを止めることになった。
「だってほら、さっきから剣の光が消えているじゃないか」
カインの指摘した通り、アネッサが持つ明星の剣からは、眩いばかりの光が消えていたのである。哀れな教え子たちを前にした、彼女の心情が如実に現れた結果だろう。
それを見たアネッサはしばし逡巡した後に大きく息を吐き出すと、観念したように剣の柄をアレクセイに差し出した。そして先ほどから出したままであったアレクセイの手に、明星の剣が渡される。するとにわかに刀身が輝き始めたのである。
それを見たアネッサが、諦めたように笑いを零す。
「はっ!こんな有様だから、剣に嫌われちまったかな?」
「なに、剣は意思など持たん。道具は道具、なればこそ使い手がそれに見合うようになればいいだけのことだ」
アレクセイはそれだけ言うと、明星の剣を手にマユたちの方へと振り返った。
立ち並ぶ冒険者の怨霊の壁の向こうに、変わらず彼女はそこにいる。先ほどから随分と長話をしていたというのに、彼女らは一向に攻撃を仕掛けてこようとしてこなかった。そしてそれは何故かと言えば、ずっとソフィーリアが目を光らせていたからに他ならない。いつになく闘気を昂らせたソフィーリアが、アレクセイの横に並ぶ。
「ふふ、嫌われているというのなら、私の方がよっぽど嫌われているだろうさ」
「あなた……」
「なに、大丈夫だ。問題ない」
アレクセイは明星の剣を握る右手に、先ほどから凄まじい激痛を感じていた。"宥魔の剣"とは言っても、魔なる者がそれを振るおうと思えばこうなるのだろう。見れば柄と接している籠手の至る所から、うっすらとだが煙すら上がっている。
「さて、では私自身が召されてしまう前に、さっさと終わらせるとしよう」
アレクセイはそう言うとエルサたちの守りを妻へと任せ、ずんずんと怨霊たちへと近づいていった。
「来ナイデ……来ナイデ……」
ここにきて初めて、マユの口から言葉が紡がれる。戦いの最中もずっと虚ろな顔をしていた彼女からやっと発せられた、まともな言葉に聞こえる。だがアレクセイが足を止めることはない。
それを見たマユとその背の老人が、それぞれ腕を突き出した。すると無数の火球と氷柱が宙に現れる。これまでとは比較にならぬ、部屋の半分を埋め尽くす程の数であった。
「なっ!?」
「こりゃあ、なかなかの魔術だねぇ……」
後ろでアネッサたちの驚く声が聞こえたが、アレクセイは意に介さない。彼女らの身は、ソフィーリアが守ってくれることだろう。
「「来ナイデッ!!」」
その声は果たしてどちらのものだったか。マユと老人が腕を振り下ろすと、宙に浮かんでいた膨大な数の火と氷の塊が、一斉にアレクセイへと注がれたのである。
火球による爆風と、氷柱がぶち当たる音と衝撃波が、部屋中に広がっていく。アレクセイたちを遠巻きに囲んでいたゾンビどもは炎に巻かれ、スケルトンたちが氷の破片と衝撃波によって粉砕されていく。
やがて熱くて冷たい、暴力的なまでの風が収まっていく。そこには無残なアンデットどもの残骸が転がっていた。同じようになったであろう人間たちの姿を思い浮かべたのか、マユと老人の顔に笑みが広がっていく。
しかしそれは土煙の中に立ち尽くす巨大な影を見て、驚愕のものへと変わっていった。
「……明けの明星を宿し剣よ。その威光をもって、死者たちに安らかな眠りを」
影、もとい明星の剣を胸の前で垂直に構えたアレクセイは、静かにそう呟くと大きく剣を横に薙いだ。するとこれまでで最も強く輝く刀身から、しかし反対に優しい光が放たれたのである。
それを、斬撃とは呼べぬだろう。暗い夜空を朝陽がゆっくりと照らしていくように、その光は怨霊たちの間に広がっていったのである。
「……きれい」
そう呟いたのは、誰であっただろうか。
"明星の剣"の真の輝きを初めてみるエルサたちであったかもしれないし、かつての記憶を呼び起こされたソフィーリアかもしれない。
あるいは、両手を広げて陽の光を享受するように、穏やかな顔で微笑むマユだったのかもしれない。
そうして光が去った迷宮主の間には、アレクセイたちと、横たわるマユと、その前に立つミオの姿だけが残ったのである。




