第55話 墳墓の中の墓
「あら、エルサさん。もうよろしいのですか?」
本を読み終えたエルサが小屋の外へ出てみると、そこにはスライムに囲まれたソフィーリアの姿があった。
といっても、彼らに襲われているわけではない。彼女は手に革袋を持っており、そこから煌く粉のようなものを摘まみだすとそれをスライムたちの頭上に振りまいた。
「ソフィーリアさん、それは?」
不思議に思ったエルサが尋ねる。
光る粉を振りかけられたスライムたちは、みな一様に体の表面を波立たせている。そうやって粉を体内に吸収しているらしい。
たくさんのスライムたちが一斉に体の表面を波立たせる光景は、なんとなく見ているこちらの肌までぞわぞわするものだ。だがソフィーリアはどうにもそれが楽しいようで、彼女にしては珍しい無邪気な笑顔でそれを繰り返している。
エルサが微妙な顔になってしまっているのに気が付いたのか、ソフィーリアは僅かに頬を染めながら先の質問に答えた。
「これは魔石をすり潰したものらしいですよ。この子たちの餌替わりなのだそうです」
ソフィーリアによると、そもそもこの場所は迷宮全体に巣くうスライムたちを管理・統制する場所なのだという。といっても言葉ほど大仰なものではなく、普段は放し飼い状態のスライムたちを呼び寄せてその様子を見るための施設なのだそうだ。
そしてスライムたちは基本的に迷宮内のゴミを食べて生きている。スライムはアンデットではなくれっきとした生き物なので、何かを吸収して栄養分を補給しなければ生きてはいけない。そのため食い扶持を見つけられなかったスライムたちのために、こうして餌替わりの魔石の粉をやっているらしい。
冒険者が魔物を倒し、魔物が冒険者を倒す。それらの死体をスライムが食べ、増え過ぎればまたそれは冒険者によって駆逐されていく。
この墳墓を作り上げた魔術師とやらがどこまで図っていたかはわからないが、なるほどうまくできているものだ。
「そういえば迷宮でも外界と同じように食物連鎖というものが成り立っているのだと、どこかで聞いた覚えがありますが……こういうからくりもあるわけですね」
「しょくもつれんさ?」
ソフィーリアが可愛らしく小首を傾げた。
それも当然のはずで、食物連鎖の概念は最近になって高名な魔術師が発表した自然の摂理であるからだ。曰くこの食物連鎖の環は全ての迷宮に当てはまっており、不完全なまでに完璧なそれが構築されているからこそ、迷宮は何者かによって造られたのだという説が広まったのだ。
この間訪れた"ミリア坑道"のゴブリンどもも、冒険者を襲うことで生計を立てているのだという。
「それでお爺さんたちはどうしたんですか?」
そういえば先ほどから、エド老人とマユの姿が見当たらない。聞けばマユは老人に頼まれて、少し遠くまでスライムを迎えにいったのだという。随分とぶーたれていたようだが、ソフィーリアに諭されてしぶしぶ向かっていったらしい。この辺りはスライム以外入ってこられない造りになっているそうなので、一人でも大丈夫なのだそうだ。
ではエド老人はどこに行ったのだろう。するとちょうどいいタイミングで、どこからか老人の声が聞こえてきた。
「ワシならここにおるよ」
エルサが周囲を見回すと、小屋の裏手からエド老人が姿を現した。その後ろから一匹のスライムが付いてくる。スライムはソフィーリアが仲間たちに魔石の粉をやっているのを見ると、ぽよんぽよんと跳ねてその輪に加わった。
「小屋の裏手で隙間に詰まっていたスライムを引っ張り出してきたんじゃが、なんとも現金な奴じゃのう。それにワシがやるときより喜んどるとは、面食いなヤツじゃ。誰に似たのやら」
エド老人のぼやきをなんとなく聞いていたエルサであったが、次に老人が言った言葉に思わず固まってしまう。
「ほっほ。それともやはり、強い魔力を持つ魔物に惹かれておるんかいの」
エド老人があっけらかんとそう言い放つのを聞いて、エルサは思わずソフィーリアの方を見てしまった。彼女は少しも動じずにスライムたちに粉を与えながら、うっすらと微笑んでいる。
「い、今なんて……」
「エドさんは初めから気づいておられたようですよ。私が人ではないこと、"闇霊"であることを」
エルサは驚きに目を見開きながら今度は老人の方を見た。彼はこともなげに手を振ると「当然じゃ」と頷いた。
「ここにはスライムしかおらんがの、そもそもこの迷宮には腐った死体や骨ども以外にも、幽霊の類も出るんじゃぞ?それにそのほとんどはかつてのドラン王国の連中じゃからな。中には見知った者もおる。そんな奴等と何百年も暮らしておれば、まぁ人と幽霊の区別くらいつくようになるわい」
エド老人はそう語ったあと、あるいはこれも自分が人ならぬ存在だからかもしれないとも付け足した。
「こんだけ立派な霊を連れておれば、いくらワシでも邪険にはできんよ。正直おんしらが小屋の外に来たときは肝を冷やしたわい。何せ石壁の向こうからものすごい力をビンビンに感じたんじゃからの」
随分好意的だなと思っていたが、どうやら実際のところはそれなりに警戒されていたらしい。ところが扉を開けてみれば、そこにいたのは礼儀を弁えた娘と少々跳ねっ返りだが根は悪人ではなさそうな娘、そして強大な力を持ちながら善なる自我を備えているらしい闇霊の娘であったのだ。そしてこの老人にはソフィーリアの真の姿すらも、うっすらとだが見えているのだそうだ。
「ワシはこれまで、この世で一番美しいのはヴァン王のお姫さんだと思っとったんじゃがな。随分と背は高いが、こんな別嬪を見たのは初めてじゃよ」
エド老人は再び抜け歯を見せて笑った。
ソフィーリアの正体が知られていたのには驚いたが、それでも今となっては脅威には感じていない様子だ。エルサとしても、気のいいこの老人と敵対するようなことはできればしたくなかった。
「それでお目当ての情報は分かったんかいの?」
「はい。あの子がああなった理由も、なんとなくですが」
エルサは頷くと鞄からあの本を取り出した。
「それで、その本には何が?」
「これは日記です。その昔この迷宮で亡くなった、とある冒険者の」
エルサはそこで言葉を切ると、スライムたちの前に屈みこんで世話をしている老人の背中に問いかけた。
「あの……お爺さんにひとつ聞きたいことがあるんですが」
「なんじゃいの?」
エルサは意を決して、あの本を読んでから考えていたことを老人にぶつけてみた。
「あなたは全て分かっていたんじゃないですか?あの幽霊スライムについても……それにもしかしたら、いまギルドで話題になっている冒険者行方不明事件についても」
「……それを聞いてどうするつもりなんじゃ?」
こちらを振り向かぬまま、エド老人がそのようなことを言う。対するエルサの答えも決まっていた。
「助けてあげたいと思います。あの子を、あの子達を。私は、霊魂使いですから」
それを聞いたエド老人は立ち上がると、ゆっくりとこちらを振り向いた。その顔、その目にはエルサの真意を図ろうとする真摯な光があった。
それはちょっぴり軽くて気のいい好々爺ではなく、長い年月を生きた、深みのある老人の顔であった。
エド老人はエルサの決意に満ちた顔をしばし眺めると、小さく「お人好しじゃな」と呟いた。そしてエルサたちに付いてくるよう促した。
エルサはいまいち事態が飲み込めていないソフィーリアを連れて、老人の後を歩いていく。
そうして彼が向かったのは、なんてことのない、管理小屋の裏手にある広場であった。そこでは地面に様々なものが突き立てられていた。剣であったり、槍であったり、中には魔法使いのものらしき、杖などもある。
「これは……」
「墓じゃよ。おんしら、冒険者のな」
エド老人は静かにそう言うと、その中の一つのもとへ歩いていった。そこには今までどこにいたのか、あの幽霊スライムの姿もあった。
「なんじゃ、ここにいたんか。お前が呼んだんじゃから、客人の相手をワシにさせるんじゃないわい」
エド老人はそう言うとスライムの頭をポンと叩いた。
するとどうしたことだろう。
スライムは体を泡立たせると、その形を変化させ始めたのである。
「これは……」
ソフィーリアが驚きに口を抑え、そう零す。
そこにいたのは、あたかも人のような姿に変化した幽霊スライムの姿であった。僅かに膨らんだ胸部や、髪を頭の後ろで束ねたような頭部の形状から、エルサにはそれが思春期の人間の娘のように見えた。そしてあの日記を読んだ後であれば、その思いはより間違いのないもののように思えた。
「……これが、この日記の持ち主の姿ですか?」
エルサが静かに問いかけると、老人は頷いた。
「今から百年ほど前のことじゃったか。こ奴がある冒険者の死体を食ってきてのう」
そうして老人は語り始めた。
「ワシはいつものように、スライムどもの世話をしとった。何百年と続けてきた仕事じゃ。昨日と同じ今日。今日と同じ明日を、延々と繰り返す日々じゃった。じゃが不思議と苦痛でもなくてな、なにせ毎日のようにおんしら冒険者たちがスライムに食われてくるからの。死体とはいえ、いろんな人間を見るのは意外と面白いもんじゃ……これ、そんな顔をすな」
エド老人は一度咳ばらいをすると、話を続けた。
「スライムは個体によって消化能力が異なるからの。綺麗さっぱり跡も残らん奴もおれば、中途半端にスライムどもの腹ん中に残る奴もいるんじゃよ。まぁそれ自体は見慣れておるからいいんじゃがな、あるとき帰ってきたこいつの体の中に、その本を見つけての」
老人はエルサの手の中にある日記を指さした。そう言われても、不思議とエルサにはこの本が汚いものだとは感じなかった。
「本だけ残すというのも妙に思ってな、こ奴に訊ねてみたらほれ、この通り、人の姿をとりおったんじゃ。こんなのは、長いことスライムに触れてきたワシにも初めてのことじゃったわ」
エド老人はそう話しながら、傍らに立ち尽くす幽霊スライムの腕を叩いた。腰の曲がった老人と比べれば、人間の姿に変化したその背はいくらか高い。それに変化してから時間が経ったからか、先ほどよりもその姿が鮮明になってきている。輪郭はよりはっきりとしたものになり、その美醜まで見分けられるほどにまでなっていた。
今はその面相にはなんの表情らしい表情も浮かんではいないが、生きていればさぞ溌剌とした少女であっただろうと思わせる顔立ちだ。それに首から下も、より分かりやすいものとなっている。エルサが見たところ、それは軽装の鎧か何かを纏っているような姿であった。無論もとはスライムであり、いまもその色は薄い青色だ。鎧のように見えても、実際は半固体のままなのだろう。
ともかく、幽霊スライムはいまや完全に冒険者の少女の姿をとっていたのである。
「それでもスライムが言葉を喋られるわけではないからのぅ。じゃが、何かを伝えたいということは分かった。それでその本じゃ。それを読めば、阿呆でも事情は分かるわいな」
「もしや、その冒険者の魂がそのスライムに?」
話を聞いていたソフィーリアが誰にともなく尋ねたので、エルサは大きく頷いた。
「恐らくはそういうことだと思います。幽霊のように見えるのに、完全に霊とは言えないこの気配。私も初めてですが、憑依したのがスライムだからこそのこの気配なのでしょう」
エルサの言葉に首を傾げる二人に改めて説明する。
生物というのは、この世界に生きているというただそれだけで強いものなのである。たとえ霊体に憑依され体の主導権を奪われようとも、本来の魂自体が消え去ることはほとんどない。憑依されている間、眠りにつくのみである。
しかしこれが生物でありながら、魂というものがないスライムのような下等生物ならどうなのか。しかもその肉体は決まった形を持たない、不定形の生物なのである。結果として、肉体は憑依してきた霊体の強い影響を受けることになったのだ。
それゆえに肉の体を持ちながら、半分幽霊のように実体がなくなってしまっていたのである。
「人形のような人の形に似た非生物や、変わりどころでは武器や鎧に宿った例は聞いたことがありましたが……」
「それでこの魂は、私たちに何を伝えたいのでしょう?」
ソフィーリアの再びの問いかけに、エルサは手に持った日記帳を掲げてみせた。
「それはお爺さんの言った通り、この本の中にあります」
そうしてエルサが語ったのは、とある姉妹の冒険者の話であった。




