第38話 迷宮攻略の夜
「ご機嫌だな、ソフィーリア」
宿屋の床に座り込みながら、アレクセイは背後のソフィーリアを振り返った。
後ろでは彼女が布巾を手に、夫の巨体を拭っている。懸命に手を動かすソフィーリアの動きは、ちまちまとして可愛らしい。
ミリア坑道での戦いを終えたアレクセイたちは、日が沈み切らないうちにラゾーナへと帰還していた。迷宮にはいまだ多くのゴブリンが残っていたが、迷宮主であるゴブリンキングが倒れた以上、あとは他の冒険者たちに任せても大丈夫だろう。
「小鬼どもの返り血をだいぶ浴びたからな、こればかりは自分ではどうもできん」
早々に宿屋へと引き上げた一行は、アレクセイの鎧を洗うことにしたのである。もちろん発案者はソフィーリアだ。宿屋の裏手には宿泊者も使える井戸があるが、念のため部屋の中で洗浄を行うことにしていた。
「はい、後ろは綺麗になりましたよ」
アレクセイの手の届かぬ後ろ部分を拭い終えたソフィーリアは、桶の水で手拭いを洗った。
「助かる。しかしもうすっかり武器以外の物に触れられるようになったな」
手拭いを絞って水けを切るソフィーリアの姿を見て、アレクセイはしみじみと言った。少し前まではそれすらも叶わなかったのだが、エルサによる特訓によって物体に干渉する術を会得したのだ。
こうして見ていると普通の少女にしか見えない。
「しかしあれだけ戦っても武具の手入れの必要もないとは、便利なことだな」
どんなにそれらしく見えようとも、闇霊であるソフィーリアに実体はない。それゆえに返り血を浴びることもなければ、武具を手入れする必要もないのだ。
「あら、そんなことを言っても、鎧を磨くのはお好きでしょう?」
「まぁな」
ヴォルデンの騎士たるもの自らの武具は自分の手で手入れしてしかるべきだ。ただ"身体が鎧"になってしまった今のアレクセイではできることに限りがある。
特に趣味の鎧磨きができないことは、密かにアレクセイが残念に思っていることのひとつであった。
「はい、次は右腕です」
ソフィーリアがそう言って自身の腕に触れたので、アレクセイは右腕の力を抜いた。すると右のガントレットがするりと身体から外れた。
「これこそ便利なのではないですか?」
「……まぁな」
これも≪さまよう鎧≫の特性のひとつだ。なんとなれば身体から切り離した腕を自在に操ることもできそうだ。今のところ、その予定はないが。
「しかし黒竜にゾンビ化の魔術とはな」
ソフィーリアが指の間を拭う心地よい感覚を楽しみながら、アレクセイは考える。
初心者向けという迷宮にはあまりに似つかわしくない魔物の出現と、そこに仕掛けられた物騒な魔術。そこに、過去の記録にはない武器を持った迷宮主とくれば、これは何者かの関与を疑わざるをえないだろう。
冒険者としては新米であるアレクセイだが、これが迷宮における普通の"冒険"と違うことくらいは分かる。
とすればあとは相手の目的であるが……
「あまり考えても仕方のないことなのではありませんか?」
珍しく思考の淵に沈むアレクセイの意識を戻したのは、愛する妻のそんな言葉であった。
「なぜだ?」
問いかけるアレクセイに、ソフィーリアは磨き終えた右腕を戻しながら答えた。
「私たちは不死者で、本来はここにいるべき人間ではないのです……ですから、少なくとも積極的に事変に関わるべきではないと思います」
今度は左腕をアレクセイの身体から外すと、ソフィーリアは再び丁寧に夫の腕を磨き始めた。
「確かに、此度の事件には何者かの意志が介在しているのでしょう。ですがそれを解決するのはセリーヌさんたち今を生きる人々の責務です。もちろん、私たちに降りかかる火の粉は己の手で払うべきですし、無辜の民に助けを求められたなら、そうするべきだとは思います」
綺麗になったアレクセイの左腕を掲げて、ソフィーリアは満足げに頷いた。
「ですが私たちには私たちの目的があります。少なくとも……私はそれを優先したいと思いますわ」
(ソフィーリア……)
静かな声でそう語るソフィーリアの言葉を、アレクセイは否定することはできなかった。
アレクセイは民を守る騎士であるが、確かに彼女の言う通りそれは生前の話だ。故郷が滅びた今となっては、それを守り通す義理は本来はありはしない。
それにソフィーリアがこのように言う理由には、彼女がゾーラ教の神官だからということもあるだろう。
愛と戦の神ゾーラの教えに"燃えるように生きよ"というものがある。人の短い一生を大事に生きよ、という教えだ。その教義に従えば、彼女が現世で起きた異変に関わりたがらないことも納得できた。ゾーラ教では、二度目の生などありえないからだ。
闇霊化してからこっち、彼女がことさら明るく振舞っていたのにも得心がいった。
彼女の中ではゾーラの教えと目の前の現実がぶつかりあっていたのだろう。アレクセイたちが不死化した経緯を考えれば、暗い考えばかりが頭に浮かぶのは仕方がない。
それでも不死の魔物ではなく人らしくいようと思えば、せめて感情を豊かに動かすことは自分を守る方法のひとつと言えた。再開したとき以降、息子であるウィルの話をしなかったのもそのためだろう。
「そうだな、君の言う通りだ。難しいことを考えるのは、性に合わん」
アレクセイは息を吐いてそう言うと、兜を外してソフィーリアに向けて放り投げた。小さな悲鳴を上げて彼女は夫の頭を受け止めた。
「もう、あなたったら!」
「ハッハッハッ!それ、兜も磨いてくれないか?」
アレクセイがそう言うと、ソフィーリアは嬉しそうに手を動かし始めた。
「怪しげな陰謀に頭を悩ませるよりも、まずは迷宮を攻略できたことを喜ぶべきだな。それに、これで旅をするには十分な路銀も貯まったはずだ」
「そう考えれば黒竜を討てたのはかえってよかったことかもしれませんね……犠牲になった方もいましたが」
といっても黒竜に殺されたのはあの不快な男だけだ。死んで当然とまでは思わないが、さして心を痛めるような相手でもなかった。
「ともかく、これで北に向かう準備は出来た。細かいところは後でエルサくんと話し合うとして、あとはラリーあたりが何かいい情報を手に入れてくれればよいのだが……」
「はい、兜も綺麗になりましたよ!」
アレクセイが唸っていると、ソフィーリアが華やいだ声を上げて夫の頭を掲げた。細かい汚れは綺麗に取り除かれ、漆黒の兜が輝いて見える。
「うむ、ありがとうソフィーリア……ソフィーリア?」
訝しむアレクセイをよそに、彼女は陶然とした表情でアレクセイの兜を見つめている。アレクセイの視界は兜に開いたスリットから覗いているから、自分の目の前には上気した妻の顔があった。
「色々思うことはありますけれど……やっぱりこうしてあなたに触れられるのは、とても嬉しいことですわ」
真紅の瞳を潤ませたソフィーリアの顔が徐々に近づいてくる。
アレクセイとしてはやぶさかではないのだが、そろそろ階下に降りたエルサが戻ってくる頃合で……。
ソフィーリアの唇がアレクセイの兜と触れ合ったところで、部屋の扉が開かれた。
「アレクセイさーん、レトさんたちが早く降りてこいって下で待って……って何をやってるんですか!?」
真っ赤にした顔を抑えながら、エルサは叫んだのだった。
「遅いわ!何チンタラしてんねん!」
葡萄酒の注がれたジョッキを揺らしながら、レトがそんなことを喚いた。テーブルの上にはすでに大量の料理が並べられていて、その半分はすでに食い散らかされている。
ミリア坑道の攻略祝いということで祝宴をしようと彼女らから言われていたのだが、アレクセイたちは汚れを落とすため部屋に戻っていたのだ。それほど待たせたつもりはなかったのだが、すでにレトは酒が回っているらしい。
「すまん。待たせたな」
「謝る必要はありませんよ。コイツは迷宮でろくに戦えなかったので、少々気が立っているだけなんです」
レトの隣ではラリーが肩をすくめている。
なんでも、アレクセイたちが横穴に飛び込んだと聞いたレトは、ならば自分もと突入したらしい。ネッドを通して黒竜が屍の竜へと変化したことを知ったエルサは、自分が必要だと感じてそれに続いたそうだ。
折角久方ぶりに迷宮に潜る気になったというのに、迷宮主の間では着いて早々締め出されてしまったのだから、彼女の鬱憤も分かるというものだった。
「ま、ええわ!馬代わりに走らされたんやから、ここの払いは頼むで!」
とはいえあそこでエルサが来なければ手詰まりであったことは事実だ。ほとんどをアレクセイたちが倒したとはいえ、まだ横穴から続く通路には魔物だっていたはずである。エルサの足だけではたどり着くのは難しかっただろう。
そう考えれば酒のひとつやふたつは安いものだ。
「よいとも。それに、色々と話も聞けそうだしな?」
席に着いたアレクセイがそう言って視線を向けると、ラリーは恭しく礼をしてみせた。
「はてさて、黒竜を討たれたという冒険者様が喜ぶお話ができるかどうか……」
「その割に話したそうな顔をしているぞ?」
ラリーはまずはエールで口を湿らせると、つらつらと話し始めた。
「そうですね、まずはミリア坑道の魔物の大氾濫についてですが……無事に収束したそうですよ。幸い迷宮から魔物が溢れることもなく、冒険者たちによってほとんどが退治されたそうです。むしろ倒しすぎて"再湧き"するのを待つほどだとか」
ミリア坑道はもともとは初心者向けの迷宮である。ウォートロルやホブゴブリンがいなくなれば、あとは駆け出しにも倒せるような雑魚ばかりだ。騒ぎが収まったようでなによりであった。
「ケガ人の数もさほどではなく、今は教会の聖堂で治療を受けているとのことで。事態が事態ですし、例の秘宝もあるそうなので心配いらないでしょう」
「そういえばそんなものもあったな」
アレクセイは相槌を打ちながらエールを飲む振りをする。不死の身であるというのはこういう時に不便である。
「また大量の魔石が迷宮から流れてきたことで、一時的にこれらの値が下がっていましてね。私も少しばかり儲けさせてもらいました」
そちらの話にはあまり興味はない。アレクセイたちが反応しないのを見てラリーは苦笑すると話を続けた。
「ともかくこれ以上の変事がミリア坑道に起こる様子はなさそうです。一応≪小さな太陽≫はじめ有力クランの方々が迷宮を見張るようですが」
「何も起こらないことを祈るばかりです……それで、北については何かわかったのでしょうか?」
ジョッキを両手で抱えながら、ソフィーリアが上目遣いにラリーに尋ねた。あまり表には出さないが、彼女もまた故郷のことについて知りたがっているのだ。
「ヴォルデンという国ついてはあいにく何も。ただ東の方にバルダーという、銀色の髪を持つ人間が多い街があると聞きました。あるいは何か手掛かりが掴めるかもしれません」
ラリーには先日ヴォルデンのことを話していた。北部についてという漠然とした情報ではだめだと考えたからだ。もちろん、アレクセイたちがその国の出身だということは伏せている。
銀髪は北部人の証なので、そのバルダーなる街に行くのも悪くはないかもしれない。どの道北部は遠い。北に行く前に東か西に寄る必要はあるだろう。
「まぁ北に近づけば近づくほど向こうの情報は手に入ることでしょう。焦る必要はないかと思われます……あと、やはり昔のことについては≪古竜塔≫を当たるのが一番ではないですか?」
アレクセイは傍らのエルサを見やった。彼女はしばし考え込んだのちに、ラリーの言葉に頷いた。
「そうですね……古竜塔も東にありますから、バルダーの街に行くついでに寄るのもいいかもしれません」
「よいのですか?エルサさん。あそこには……」
知恵者が集まる古竜塔には近寄らぬべしと話していたはずだ。しかしエルサは「後で説明します」といったきり口を噤んだ。ラリーたちの前では言えぬ理由があるのだろう。
とここで、それまで黙っていたレトが突然立ち上がると、ジョッキを突き出して叫びだした。
「アンタら!いつまで辛気臭い顔で話しとんねん!そら、デカイのなんてぜんっぜん酒が減ってないやんけ!」
ところどころ呂律が怪しいレトの顔はいつの間にか真っ赤だ。どうやら会話の間もずっと酒を飲み続けていたらしい。
「ほれ!はよ飲め!飲まんかい!」
やかましく囃し立てるレトを前に、アレクセイはソフィーリアと顔を見合わせた。飲食できないアレクセイたちにとって、これは非常に難しい事態である。
(さて、どうしたものかな)
困り果てたアレクセイたちをよそに、こうして初めての迷宮攻略の夜は更けていった。




