第17話 はじめての不死
ゴブリンどもと戦った次の日。
人目を避けるように手近な森に入ったアレクセイたちは、エルサから不死の魔物についての講義を受けていた。昨夜彼女が言った通り、今のアレクセイたちでは人の世に紛れて息子や祖国のことを調べることは難しいからだ。
「エルサさん、その本は何ですか?」
ソフィーリアが指さしたのはエルサの手の中にある本であった。昨夜の野営の時に彼女が自信満々で取り出したそれは、革張りの表紙に施錠用の鎖までついた分厚い書物である。表紙になにがしかの紋章が描かれたそれは、なんとなく不気味な雰囲気を漂わせている。少なくともエルサのような見た目可憐な少女が持つには似つかわしくない。
もっとも霊魂遣いであるエルサは外見そのままの少女ではないのだが。
「お察しの通り、これは死霊術について書かれた魔導書です」
「なに?ではそれは≪死の書≫ではないか!」
≪死の書≫といえば邪悪な魔術について記された禁忌の本だ。持つ者の魂すら邪悪に染めるというそれは、アレクセイの時代では確実に焚書の対象になるような類のものである。よもやそのようなものをエルサが持っていたとは。
アレクセイたちが血相を変えたのを見て、エルサは慌てたように手を振った。
「ち、違います!そんな物騒なものじゃありません!この本はご先祖様と代々の霊魂遣いたちが研究した、死霊術と不死の魔物についての本なんです。あくまでもただの資料集的なもので、た、魂を冒涜するようなものじゃありません!」
エルサの必死の訴えにより、アレクセイたちは彼女が持つ本が邪悪な呪物などではないと納得した。彼女からすれば先祖伝来の品を燃やされてはたまらないのだろう。それにアレクセイたちとて今は不死だ。この時代のためにかつての常識を持ち出してどうこうするというのも、筋違いに思えた。
「それで、これから何をするのでしょう?人の世で暮らすための術を教えてくださるということでしたが」
「はい、まずはソフィーリアさんには戦い以外で物体に干渉する術を覚えていただきます」
現状、ソフィーリアはアレクセイ以外の物に触れることができない。槍でゴブリンどもの首を飛ばすことはできても、匙ひとつ持つこともできなければ扉を開けることもかなわないのだ。建物に入ろうと思えば、マジュラ迷宮の詰め所でそうしたように、いかにも幽霊よろしく扉を通り抜けるほかない。
「そもそも≪闇霊≫ほどの力を持っていればさして難しくないはずなんです。低級の≪霊≫や≪死霊≫ですらそういった力を持っていますから」
心霊現象の多くは彼らによるものであり、ときに現実の存在に牙を剥くからこそそれらは怪物と呼ばれるのだ。
「獣や亜人種のような母体から生まれる魔物を覗いて、闇霊などの自然発生する魔物は、世に生まれ落ちた瞬間から己がそういうものだと理解しているものなんです。おそらくソフィーリアさんが人としての意識を強く残していたために、このようなことになったのだと思います。ですから念力のときのように、原理とやり方さえ教われば可能なはずなんです」
魔導書をめくりながらそう話していたエルサは目的の頁を見つけたのか、これですと言ってこちらに本を掲げてきた。そこには人の身体から魂か何かが抜け出そうとしている絵と、その説明らしき文が描かれている。
「これは?」
「身体から一時的に魂を開放し自由に動き回る方法、いわゆる幽体離脱について書かれています。流石に"闇霊の力の使い方"、なんてことは書いてありませんからね。できるだけ近いものを参考にするしかありません」
曰く、肉体から抜け出て魂だけの状態で術者が物体に干渉する方法があるらしい。それ自体はかなり高度な術で、なにより強い意志の力が必要らしいのだが、その点ではソフィーリアならば問題ないだろう。"白竜の聖女"と呼ばれた彼女の意思の強さは、ある意味ではアレクセイ以上だからだ。
エルサは鞄から木皿を二つ取り出すと、椅子代わりにしていた倒木の上に置いた。そして片方に食料である炒った豆を入れていく。
「エルサさん?」
「ソフィーリアさんにはこの豆をもう片方のお皿に移す作業をしてもらいます」
どうやらこれは"念力"の延長の訓練であるらしく、自らの身体と対象の物を強く意識することによって物体への干渉を可能とするものらしい。念力が負の感情を相手にぶつけるものならば、これは自分の指先と対象の豆に向けて"つまんで、持ち上げる"という意識を送るものだという。
「慣れれば特に意識せずともできるようになるそうですから、頑張ってくださいね」
エルサの説明を聞いたソフィーリアは、ひとつ頷くと睨むように豆を見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。すると彼女のたおやかな指先が触れる前に、つまもうとしていた豆が内側から弾け飛んでしまった。
「ああっ!」
小さな悲鳴を上げたソフィーリアは心なしか潤んだ瞳でアレクセイの方を振り返った。幼くなった身体も相まって、この様を見れば彼女が強大な力を持つ闇霊とはとても思えない。アレクセイは軽く笑いながら妻を励ました。
「少し力み過ぎなのではないか?君は私などよりよほど器用なのだから、そうだな…料理を作るときくらいの心持ちで臨めばよいのではないか?」
「はぁ…料理、ですか」
ヴィキャンデル家の娘であるソフィーリアはれっきとしたヴォルデン貴族であるが、料理を得意としていた。ヴォルデンでは貴族の女であっても調理を好む者は少なくないし、神官戦士団に所属してれば、身分に関係なく見習い時代に雑用をこなすものだ。
調理の際とて刃物や火を扱うのだから、相応の集中は必要となる。これはアレクセイの所見だが、妻にはそれくらいの心構えがふさわしいのではないかと思われた。
アレクセイの言葉を受けたソフィーリアは一度深呼吸をすると、再びゆっくりと皿の上の豆へと手を伸ばしていった。
すると彼女の白い指が豆を摘まみ上げ、そのまま隣の皿へと移すことに成功したのだ。カランと乾いた音を立てて豆が木皿へと落ちると、ソフィーリアは顔を輝かせてアレクセイの方へと振り向いた。
「あなた!」
「おお!見事だソフィーリア!」
ソフィーリアは嬉しそうに頷くと再び豆へと向き直り、先ほどと同じようにそれを摘まんでみせた。今度もまた豆は弾けることなく木皿の上へと落ちた。
アレクセイの隣でソフィーリアの作業を見ていたエルサは、手元の魔導書に視線を落とすとそこに書いてある文言を読み上げる。
「ええと、霊体から物体へ干渉するには、このように自分と対象の存在を改めて意識せねばならないそうです。生身の肉体でなにげなくやっている行為ほど難しいとか…確かに、普通は手を見て"これは私の手である"とか、果物を見て"これはリンゴである"なんて意識しませんよね」
「これを繰り返せば、ソフィーリアはそれまでと変わりなく物に触れるようになるだろうな。して、他者が彼女に触れる場合はどうなのだ?」
悪意のある相手ならばいまのままでも問題なかろうが、そうでない場合は面倒事になるかもしれない。たとえば雑踏などを歩いていて、周りの人間が彼女の身体をすり抜けるようなことになれば、大変な事態になるだろう。
エルサはしばし魔導書をめくっていたが、困ったように眉を寄せて顔を上げた。
「う~ん、霊感や魔力の強い人間なら可能性はあるみたいですが…基本的にはソフィーリアさんが心の底から気を許した相手以外は無理そうですね。そもそも目に見えても"触れえざるもの"が霊ですからね…あ!あと魔力のこもった武器なんかには注意が必要ですよ!物理的な攻撃は効かないと思って全部の攻撃を受けていたら大変なことになっちゃいます!」
その点は大丈夫だろう。闇霊の自覚がないソフィーリアならば、かえってそれを頼りにすることもない。むしろ鍛え上げられたいち神官戦士として、無防備に相手の攻撃を受けるなどありえないからだ。
これはアレクセイにも言えることで、いくら伝説級の防御力を持つ鎧を身にまとっているからといって、安易に相手の攻撃をその身で受けたりはしない。そのための≪塔の盾≫であるし、油断は大きな命とりになる。
不死となったあとのデーモン戦のような轍は、二度と踏むまい。
「とりあえず人込みなどはできるだけ避けた方がよいな。あるいはいっそのこと私が抱えて歩いたほうがいいやもしれん」
その様を想像すると、それはそれで楽しいような気がしてくる。
「かえって目立っちゃいますよ…コホン!では次はアレクセイさんですね」
「む?私も何かあるのか?見た目には問題ないように思えるのだが…」
アレクセイは自らの身体を見下ろした。多少薄汚れているかもしれないが、見た目には普通の全身鎧だ。
かなり古い形式の鎧であるこの聖竜の鎧は、関節部さえも可動式の板金によって覆われている。僅かに露出するその他の部分も、中に着込んだ鎧と同じ素材の鎖帷子によって守られている。その代償として装備一式の重量はかなりのものなのだが、鎧が身体となった今のアレクセイにはなんの痛痒もない。
昨夜にエルサが述べたように普段使いとしては明らかに過度な装備であるが、まぁ冒険者とやらになれば中にはそういう者もいるだろう。とすると何が問題なのか。
エルサは魔導書をめくり目当ての頁を見つけ出すと、それを見開いてアレクセイの前に突きつけた。そこには古びた甲冑の絵と文が描かれ、その下には≪さまよう鎧≫と書かれている。
「これは…」
「ご先祖様が書き記した魔物の≪さまよう鎧≫《リビングメイル》の特徴です。アレクセイさんには、ご自身が魔物として何ができるのか、何に弱いのかを理解していただきます」
なるほど、エルサの言う通りである。
アレクセイもまたソフィーリアと同じように自らが魔物であるという意識が薄い。デーモンやサテュロスとの邂逅で、戦闘時のコツはなんとなく掴みはしているが、それはあくまでも騎士としてのアレクセイの直感と経験によるものが大きい。専門家であるエルサから正確な情報を教えてもらうことには大きな意義があった。
「ふむ、相分かった。それで、我が身の弱点とは何なのだろう?」
「それはもちろん聖なる奇跡と、祝福がかけられた武器でしょう。物体の身体を持つ≪さまよう鎧≫もまた立派な不死ですから、聖職者相手には気を付けねばなりません」
想像の通り自分の身体は聖なる奇跡を苦手としているようだ。マジュラ迷宮でソフィーリアの張った≪四神の陣≫に入ったときから分かっていたことだが、神の力はこの身にひどい熱さと苦しみをもたらすらしい。ただソフィーリアの奇跡であっても我慢できないほどの辛さではなかったので、並みの聖職者が扱う奇跡ではさほどの痛痒はないだろう。
(いや、こういった油断こそ禁物か)
もうアレクセイの時代とは違うのだ。
魔道具という形で魔術が進化を遂げていたように、奇跡もまたどのようなものになっているかわからない。
「それと依り代である鎧が破壊されれば、アレクセイさんの魂そのものが消えてしまうかもしれません」
「まぁ、それが道理だろうな。私が対峙したことのある≪さまよう鎧≫も、最終的には鎧を粉々にすることで退治したのだ。邪神竜以上の牙を持つ者がこの世界にそういるとは思えんが、何事にも絶対はない。気を付けることとしよう」
「やりました!全部の豆を移動させることができましたわ!」
腕を組んだアレクセイが改めてそう自分を戒めていると、ソフィーリアが弾んだ声を上げた。
振り返ってみれば、そこには皿の上に綺麗に並べられた豆たちと、晴れやかな笑顔のソフィーリアの姿があった。