第16話 小鬼
「アレクセイさん!左からもゴブリンが!」
森の木々の合間から、汚らしい身なりをした魔物たちが駆けてくる。
人々から小鬼と呼ばれる魔物、ゴブリンであった。
エルサがそう声を上げるよりも早く、アレクセイは新たに魔物が現れた方向へ駆け出していた。
その巨体からは考えられない速さで魔物たちの懐に飛び込んだアレクセイは、勢いもそのままに剣を振るう。そうして剣閃がきらめく度に、何体ものゴブリンたちの首が宙を舞った。
血しぶきをあげながら倒れていくゴブリンたちと、その中で仁王立ちする漆黒の騎士。
人間の子供ほどの背丈しかないゴブリンから見れば、実に二倍近い身長差である。文字通り見上げるほどの巨体を持つ敵を前に、ゴブリンたちは恐怖に身を震わせた。
無論、それで剣を納めるアレクセイでもない。
無謀にも不死の魔物に戦いを挑んだ哀れな小鬼たちは、なす術もなく地に倒れ伏すこととなった。
交易都市ラゾーナを目指すアレクセイたちは、それまでと引き続き大きな街道を進んでいた。
右手に大河、左手になだらかな丘を望みながら進む道中は、いたってのどかなものであった。
そんな平穏がゴブリンたちによって打ち破られたのは、ちょっとした規模の森が視界に入ってきたころであった。森の端から湧き出るように現れたゴブリンどもがアレクセイたち目掛け一斉に襲い掛かってきたのである。
ゴブリンはこの時代において、迷宮外で最も目にする機会の多い魔物である。
人の子程度の背に粗末な襤褸をまとい、こん棒や石斧といった原始的な武器を手に持ったこの連中は頻繁に人や家畜を襲う。
この時代のリーヴ大陸に現れるゴブリンたちは、もとはかつて魔王が率いていたゴブリンたちが野生化したものだと言われている。魔王が勇者に敗れた後、彼が率いていた闇の軍勢はことごとく滅ぼされることになったが、ゴブリンどもの中にはその矮小さゆえに難を逃れた者も少なくなかったのだ。そういった手合いが繁殖によって数を増やし、また人の手によって駆逐されながらも、いまだにしぶとく生き残っているのだという。
ゴブリンどもにはもはや自分たちが魔王の配下であったという記憶はない。ただただ陽の光のもとに生きる全ての生き物が妬ましく、憎らしいがゆえに人の世に災いをもたらすのだそうだ。
これもまた白の王フィアドと同様に、魔王が世に残した爪痕の一つといってよいだろう。
「よもやあの小鬼どもがこの地に蔓延るような世の中になるとはな」
ゴブリンどもの襲撃を退けた日の夜のことである。
エルサからゴブリンの話を聞いたアレクセイは静かに嘆息した。
かつてアレクセイが魔王の軍勢と剣を交えていたころ、確かにあのような小鬼どもが相手の軍に所属していた。もっとも当時は連中の体格はもっと大きく、背の低い成人男性程度の身長はあったはずである。ゴブリンどもは魔王軍の中にあっても雑兵に過ぎなかったが、それでも剣や鎧といった最低限の装備で武装していた。時代が下り、人に追われるうちにあのような姿になり下がったのかもしれない。もっとも、先の時代の頃からゴブリンどもが悪辣かつ矮小な存在であったのは変わらないのだが。
「いくらゴブリンが弱いとはいえ、そのような魔物が蔓延っているのなら、それこそ迷宮などよりも民にとって危険な存在なのではないですか?」
篝火の前、あぐらをかいたアレクセイの膝の上にちょこんと腰かけたソフィーリアが首を傾げる。炎を挟んで向かいに座るエルサが彼女の言葉に頷いた。
「そうですね。大陸統一間もないころ、国内がまだ荒れていたころにはゴブリン討伐は冒険者の仕事であったそうです」
エルサの話を聞くに、冒険者とはやはりアレクセイの時代で言う傭兵のような存在であった。傭兵は主に戦の場において貴族に雇われて敵と戦うものだ。しかし平時においてはその限りではなく、場合によっては野盗や野獣退治などに駆り出されることもしばしばであった。国というものが帝国ひとつになったのならば、彼らの剣が国内を脅かすゴブリンどもに向けられるのは道理だろう。
「ですがやがて迷宮内に住まう魔物から採れる魔結晶がお金になることがわかると、しだいに彼らの足は迷宮に向かうようになりました」
それもまた道理であろう。傭兵と商人といえば守銭奴の代名詞だ。命をかけるのならなおさら実入りのよい仕事を選ぶのは当然のことだ。もっとも守銭奴といえば一部の聖職者も代表格としては負けてはいないのだが、まさしく聖職者である妻の手前、アレクセイはそのことを考えるだけに止めておく。
「なのでゴブリン退治は軍隊が受け持つことになったんですけど、その…」
「派兵は金がかかるからな。領主どもの腰が重くなるのも仕方があるまい」
一軍の将であったアレクセイは戦争が金食い虫であることも十分に承知していた。領土を奪うなど報酬があるうちはまだよいが、ゴブリン相手には獲れるものなど何もあるまい。過度に領内が荒れれば最終的に被害を受けるのは領主であるので、最後には兵を出さざるをえないだろう。だがそれまで泣くのは罪なき領民たちだ。
「でもでも!今の皇帝陛下になってからは何回か軍隊の人たちがゴブリン退治に向かうようになったんです。おかげで最近は随分とゴブリンたちの数も減ったと聞いています」
とすれば昼間は運が悪かったということだろう。あるいはマジュラ迷宮の亡者たちのように、アレクセイの魔力に惹かれてきたのかもしれないが。
「金がかかろうとそうでなかろうと、国内の治安を保つのは為政者の務めだ。時代が変わってもそれは変わらぬ。だからそれはまぁ、よい。それより私が聞かせてほしいのはその冒険者のことについてだ」
「私ももう少詳しく話を聞かせてほしいと思っていました。私たちが冒険者とならなければならない理由を、もう一度教えてくださいませんか?」
ソフィーリアの言う通り、昨夜の野営においてアレクセイたちは自分たちは冒険者となるべきだという話をエルサから聞かされていた。そのとき理由も聞かされたが、もう少し冒険者という職業において詳しく聞いておきたかった。
「そうですね。ええと、昨夜も話した通り迷宮には冒険者しか立ち入ることを許されていません。これはかなり厳しい制約で、たとえ帝国の貴族であっても容易に破ることはできない決まりなんです。いつだかお話したようにこれは教会も同じことで、これらは迷宮そのものを権力者が政治的に利用することを防ぐためだと聞いています」
たしかに、時の経過とともに無限に資源が回復する迷宮というものは、無限に利益を生み出す金鉱に等しい。これをいち貴族などが占領すればどれほどの儲けを生み出すのかわかったものではない。そしてそれは権力者同士の不和を生み、結果的に国内を荒れさせる原因となるだろう。
「白の王フィアド、だったか?確かにそやつを討とうと思えば冒険者になって迷宮に潜るしかないだろう。だが理由はそれだけではないのだろう?」
アレクセイがそう指摘してみせるとエルサはまたもや頷いた。
「もちろんです。理由は…お二人の格好にあります」
思いもよらぬエルサの言葉を受けて、アレクセイとソフィーリアは顔を見合わせた。
「私たちの格好に、何か問題があるのでしょうか?」
ソフィーリアは不安げに自身の装束を見下ろしている。
彼女が纏っているのは魔王との戦いの直前まで身に着けていたゾーラ教神官戦士団の戦装束である。上質のミスリルで造られた上半身鎧は装飾も美しく、どのような原理かは分からないが霊の身となった今も篝火の灯りを受けて輝いている。太ももまでを覆い隠す足甲も彼女自慢の愛槍も、どちらも一級の品だ。ふわりとした純白のスカートですら、子供が見ても上質のものだとわかる出来であろう。
ソフィーリアの身体が少女の身に縮んだ今も、それらの装束は不思議と同じような有様で彼女の身体を包んでいる。
アレクセイの鎧にしてもケチを付けられるようなものではないはずだ。絶対無比の防御力を誇る甲冑や盾は、過度な装飾こそないものの重厚な雰囲気を纏っている。黒く焼けたせいで威圧感こそ増しているかもしれないが、少なくともヴォルデンの騎士として恥ずかしくない恰好であるはずだ。
しかしそんな二人の様子を見ていたエルサは、まさしくそれが問題だという。
「お二人とも立派な格好だとは思います。…むしろ立派過ぎるんです。ただの旅人にしては」
大陸が統一され、領地間のいざこざすらなくなって久しい現代となっては、アレクセイたちの格好は物々しすぎるのだという。単なる旅人が自衛のために着けているにしては過剰すぎるし、戦を求めてさすらう傭兵たちは姿を消した。そして彼らは今は冒険者に名を変えて迷宮へと稼ぎに行っているのだ。
「見るからに騎士といったアレクセイさんの格好は本物の帝国騎士たちの目に付くかもしれませんし、自らを聖職者だというソフィーリアさんが何の身の証ももっていなければ、下手すれば教会に捕まっちゃいます」
エルサの言わんとすることはアレクセイたちにもわかった。まだあまり自覚はないが、今のままでは自分たちは過剰な武力を持った浮浪者に過ぎないのだ。不死であるかどうかは関係なく、これではろくに動き回ることはできないだろう。
「なるほど。確かに冒険者になる必要があるだろうな。しかし、不死者たる私たちが本当に冒険者などになれるのかね?」
「そのことなら大丈夫です、私に考えがありますから。それよりも問題は…」
エルサはそこまで言うと腰を浮かせ、アレクセイたちの隣に腰かけてきた。そしてやおら手を伸ばすとソフィーリアの手を掴もうとする。しかしエルサの手は妻の手を通り抜け空を切るだけであった。
「戦いはともかく、日常の生活ではアレクセイさんよりソフィーリアさんの方が大変かもしれません。見た目普通の人間のように見えるからなおさらです」
「ふむ…」
アレクセイはひとつ唸ると、膝に揃えられた彼女の手に自分も手を伸ばしてみる。すると分厚い籠手に包まれたアレクセイの手は、通り抜けることなく妻の柔らかな手を握ることがかなった。
ソフィーリアは頭蓋骨を取り戻したことで彼女は真の力を取り戻し、アレクセイと触れ合えるようになった。それは妻の身体が少女の如く縮んでからも変わらなかったのだが、なぜかアレクセイ以外は彼女の身に触れることができなかったのだ。
そしてそれはソフィーリアからも同じことで、よほど強く意識しなければアレクセイ以外の物や人に触れるのは難しいらしい。槍で切ったり突いたりするのは問題なくできるのだというから、全くおかしな話であった。
「ソフィーリアさんは≪闇霊≫ですからね。相手を傷つける方が簡単なことなのだと思います」
いくら戦いを司るゾーラの戦司祭とはいえ、これは愉快なことではないだろう。ソフィーリアは眉をひそめるとエルサに問いかけた。
「確かにこのままでは色々と困りそうですね…エルサさん、何かよい方法はないのでしょうか?」
するとエルサは鞄から一冊の本を取り出してアレクセイたちの前に掲げると、彼女にしては珍しく不敵な感じに笑った。
「それも大丈夫です!私にいい考えがありますから!」