第120話 天使たち
『やぁ、オリアス。いきなりご挨拶なことじゃないか。こっちは数か月ぶりに君の顔を見た心地だってのにね』
至極のんびりとした調子でモルドバが言う。
とはいえ状況はあまりよろしくない。アレクセイたちは光る鎖によって動きを封じられ、おそらくそれを成したのは、目の前の女聖職者なのである。オリアスはつまらなそうに口の端を歪めると、煩わしそうに髪を払った。
「ご挨拶なのはどっちよ、モルドバ。あなた、今の状況が分かっていないのかしら?」
「我らがいきなり動きを封じられる謂れはないように思うのだが?」
モルドバの代わりにアレクセイが問いかける。するとオリアスは驚いたように眉を上げた。
「あら、まだ口を利けるなんてやるじゃない。並みのアンデットであれば、鎖に触れただけで消滅してしまうのだけど……それに聖職者が不死の魔物を討伐するのに、理由がいるのかしら」
(こ奴、我らが死なずと分かった上で、手を出してきたのか)
オリアスと顔を合わせたのは、モルドバたちのテントでの一回限りである。その時もロクに言葉は交わしてはいなかったはずだ。そして彼女にアレクセイたちの正体がバレていたとは思えない。
可能性があるとしたら、その背後にひっそりと控える、二人の少女たちであろう。あのときもオリアスに付き従っていた、教会騎士の娘たちである。初めての邂逅のとき、彼女らはじっとアレクセイたちの姿を見つめていた。あるいはそのときに何か感づいていたのかもしれない。
その立ち姿からは、やはり不気味なほどに生気が感じられない。一人は長斧を、一人は二本の長剣を携えて、無表情にアレクセイたちを眺めている。戦士として肉体を鍛えている風には見えないのに、娘らは強者の雰囲気を漂わせているのだ。
だが一行の動きを封じている鎖は、彼女らによるものでもなかった。光る鎖は、オリアスの背後から伸びているのである。そしてその影から見える者の姿を見て、アレクセイは驚嘆させられた。
「それは一体…なんなのだ?」
光る鎖の主、それは"赤子"であった。まだ髪も生え揃わぬような生まれたばかりの姿である。いやあるいは、生まれる直前の姿なのかもしれない。無論見たことなどないが、出産前の母親の腹を割って取り出せば、きっとこのような姿なのだろう。その身体はぬらぬらと何かに濡れており、皺だらけの瞼をきつく閉じている。そして何より異様なのは、その赤子が宙に浮いていること、その背に真っ白な翼が六枚生えていることであった。輝く鎖は、その赤子が抱える金色の水晶玉から伸びていた。
「それだなんて、失礼な男ね。この子は私の可愛い天使、お前たち不浄な魔物を亡ぼす存在よ」
「天使……とは?」
困惑したようにソフィーリアが言うと、なぜかオリアスもまた驚いたような顔で振り向いた。
「天使を知らないなんて、あなた本当に太陽教の信徒なの?」
"天使"なるものは、どうやら太陽教の教えにあるものらしい。であれば、炎神を信奉する神官戦士のソフィーリアが知る由もないだろう。勿論、その夫であるアレクセイも同様だ。そんな夫婦の疑問に答えてくれたのは、異教の女司祭ではなく死霊術師のモルドバであった。
『太陽神ソラリスが遣わした聖なる存在、神の使徒、それが天使だ。神の手となり足となって人々を助け、ときに誅するのも彼らの役目とされているね。太陽教の経典にはそう記されているけど、実際に見たことのある人間はいないよ。長命種であるエルフからもそんな話を聞いたことはないから……ま、こういうのは作り話と相場が決まってるね』
「それがいま、実際に目の前にいるようだが?」
『う~ん、鳥のような純白の翼を持っているとは書いてあったような気がするけどねぇ。あれが天使?私には俄かには信じられないなぁ。というより、あのオリアスの元にそんな聖なる存在が顕現したなんて、それこそ作り話より眉唾だよ』
そう言って鼻で嗤うモルドバには、アレクセイも同意せざるを得ない。
奇跡を起こすための神の寵愛というものは、すべからく信仰心に篤い者に授けられる。だが、ただ信心深ければよいというわけではなく、相応の修行や適性が必要なのだ。奇跡の使い手がみな人格者とは限らないが、それでも神は力を与える相手を選びはする。少なくとも、かつて信仰されていた四大宗教の神々はそうだった。その基準で言えば、あのオリアスが天使なるものを呼び出せるような人間には見えなかった。
(そもそも、我らからすれば天使などという存在自体が、受け入れられるものではないのだ)
四大宗教の教義では、天の国には幾柱もの神々がおり、その僕とはすなわち光の巨人なのである。彼らは輝く身体と絶大な力を持ち、その肉体は見上げるばかりの巨体だとされている。そしてその話は紛うことなき真実であると、アレクセイたちは知っているのだ。なにせ五百年前の戦いのとき、アレクセイたちと共に戦った仲間の一人が、その光の巨人の末裔であったのだから。
更に言うなら太陽教自体が、アレクセイには信じられるものではなかった。"神"というのはソラリス一人であり、その他の神の存在を否定する教えなど、容易に頷けるものではない。ただこの時代においては己は死者に過ぎないのだから、今を生きる者たちに苦言を呈する資格などないと考えていたのだ。しかしこうして天使なる存在を知ると、ますます時代が違うのだなと感じるばかりである。
(つまりは、あの翼が生えた赤子は"神の使い"などではないということだ)
アレクセイはそう確信している。そしてそれはソフィーリアらも同じようだ。その思いを代弁するかのように口を開いたのは、またもモルドバであった。
『それでオリアス、その赤ん坊は何なんだい。まさか本当に天使が実在するなんて、君がおめでたいことを信じているはずがないだろう?』
「ひどい言われよう……ま、あなただって元々は教会の人間だものね。少しでもあの組織の内情を知る人間なら、経典から神聖さなんて感じる筈がないでしょうし」
どうやらモルドバは目の前の女の元同僚にあたるらしい。とはいえアレクセイとしては、それほど驚くようなことでもなかった。彼女もエルサも太陽教会の庇護を得た死霊術師であるし、モルドバはオリアスに「十数年ぶり」だと言っていた。となれば見習い時代の同期といったところだろう。
それにモルドバからは、教会を抜けた人間特有の雰囲気を感じることもあった。そういった人間は得てして神や信仰を軽視し、より現実的な思考を持っていることが多い。そしてそれは、目の前の女聖職者にも言えることだった。オリアスは純白の司祭服を纏い、神の使いであるという天使を侍らせている。だがアレクセイには、そのさまから神への畏敬の心を感じ取ることはできなかった。
「まぁ、そうね。あなたの言う通りよ。この子たちはね、私が造ったの」
「なんだと?」
訝しむアレクセイたちをよそに、オリアスは脇に立つ少女の頬を撫でた。するとなんということだろう。長斧を持つ少女の背から、上下四枚の純白の翼が生えてきたのである。次いで二刀を持つ少女の背からも同じものが現れる。
「なっ!?」
「フフ、驚いてもらえたようで何より。この子たちはね、私が造りだした≪天使兵≫よ。大いなる神の力をもって、不浄な魔物を滅する存在。死を恐れず、命令を完璧に遂行する至高の兵ね」
造り出したとは、一体どういうことであろう。よもや言葉通り無から生み出したわけではあるまい。それは神にのみ許される所業だ。となればアレクセイたちの知らない、この時代の新たな技術だろうか。
『……オリアス。まさかとは思うけど、あの噂は本当なのかい?君が教会に集う子羊たちを、奇跡の実験台にしているっていうのは』
「!!」
それを聞いたアレクセイは、思わずエルサの腰元に吊られた頭蓋骨を見た。無論そこからモルドバの表情など見える筈がない。それでもそう問いかける彼女の声は、これまで聞いたどの言葉よりも真剣みを帯びていた。
「ふぅん、よく知っているじゃない。でも話が早いわね……そうよ。この子たちは、私が長年の奇跡研究により造り出した最高傑作なの」
『ということは、あれも本当ということかな。信徒の死体に奇跡と紋章を刻み込み、死霊術によって動かしているというのも』
「死霊術なんて品のない言い方をしないでちょうだい。私のは天聖術。死んだ人間をより神聖なものに作り替える奇跡の業なのよ」
両腕を広げ、嬉々として己の所業を語るオリアスに、後悔や罪悪感といった感情は見受けられない。なおも恍惚とした表情で、オリアスは語りを続ける。
「私だって、初めから死体を使っていたわけではないの。最初は生きた人間の肉体を強化する方向で研究を進めていたのよ。でも人の身体は脆いでしょう?あまりに奇跡を重ね掛けすると、神の御力に耐え切れずに弾けてしまうのよ」
ゾーラ教にも奇跡によって身体力を底上げする奇跡はある。だが強力な神力に耐えられるのは、ソフィーリアのような一部の限られた人間だけだ。一般人に使えば、肉体の崩壊は必死である。それくらいは門外漢であるアレクセイでも承知していることだ。
「まぁある程度までなら耐えられるのよ。でもそれではコストが掛かり過ぎて量産には向かないでしょう?それに肉体より先に自我が崩壊して、兵士として使い物にならないの。そうしたらある時気づいたのよ。初めから魂のない肉体を使えばいいんじゃないって」
『それが、彼女らというわけか』
モルドバの言葉に、アレクセイは少女たちに目をやった。生気のない瞳をして立つ娘たち。それも当然で、彼女らは肉体的には死んでいるのだ。そこに自我や意識といったものはない。あるのは騙され、理不尽に命を奪われ、死後も躯を弄られ続ける哀れないまだけだ。
「なんと惨いことを……」
思わずといった様子で、ソフィーリアが呟く。
死者を使うのはエルサやモルドバも同じである。だが彼女らと目の前の女は明らかに違う。越えてはならぬ一線を、オリアスは越えたのだろう。彼女から感じる不快感は、アレクセイが思い描く死霊術師に対するものそのままであった。
「そうら、私の実験の成果をもっと見せてあげましょうか!!」
オリアスが高らかにそう叫ぶと、赤子が持つ宝玉が輝き始めた。あまりの眩しさに、エルサなどは顔を覆っている。そうして彼女が手を下ろすことには、オリアスの周囲には無数の天使兵が出現していたのである。迷宮の最上階、その淀んだ空を覆いつくすが如くだ。その数は優に百を下ることはないだろう。
『一度にこれほどの数を召喚するなんて……鎖の核にはこのような力もあったのか』
「本来これは魔の者を鎖で縛り、宝玉の中に封印する宝具。であるなら仕舞い込むことも可能なの。流石にこれは、あなたも知らなかったでしょう?」
「……どちらでもよいことです」
自慢げに話すオリアスに、冷や水を浴びせるが如く言葉を挟む者がいた。ソフィーリアである。彼女は光輝く鎖に封じられながらも、ゆっくりと立ち上がると顔を上げた。その瞳には鎖にも負けない、強い光が宿っている。
「貴方にひとつ、訊ねたいことがあります。貴方は信徒たちの遺体を用いて天使兵なるものを造ったと仰いましたね。それではその赤子もまた、そうなのですか?」
「フフ、よく聞いてくれたじゃない。この子は特別よ。何せ私自身が生んだ、特別製なんですもの」
「!!」
驚愕する一同をあざ笑うように、オリアスは自身の腹を撫でる。
「大変だったのよ?こういったデリケートな事柄は、他の人間には任せられないでしょう?だから私が自分でお腹を裂いて取り出したの。そうして特製ブレンドの溶液に漬けてから、奇跡を施したのよ。とても大変だったけれど、その甲斐あって立派な天使兵になってくれたわ」
『……ここまで下衆だったとはね』
呻くようなモルドバの声が聞こえる。アレクセイとてこの女の所業には言葉がない。そして一同の中で最も強くそれを感じているのは、他ならぬソフィーリアであった。
「……許せません」
「む、ソフィーリア?」
彼女の身体が、赤く輝いている。いやそうではない。ソフィーリアの身体が、ばちばちと爆ぜる炎に包まれているのである。金色の髪はゆらゆらと揺れ、紅き瞳は身体以上に燃えているように見える。
「異教のやり方には手出し口出し無用と、ずっとそのように思っていました。ですがこればかりは、見過ごすことなどできません。ゾーラの信徒として、女として人の子の親として。我が怒りの槍を、受けてみよ!!」
そう言うや否や、ソフィーリアの身体が一層激しく燃え上がった。そして彼女の瞳は言葉通り槍のように、オリアスを強く見据えていた。