第12話 憑依
霊とは"憑く"ものだ。
それが悪霊であれ善なる守護霊であれ、霊に憑りつかれた者の話は古今東西、枚挙に暇がない。良からぬものに憑かれた場合、その話の多くは憑いた側も憑かれた人間も不幸な結末を辿ることが少なくない。
しかしこれから目の前で起こることはそうなってもらっては困るのだ。アレクセイは基本的に泰然とした性格であるが、こと妻のことに関してはその限りではない。自分には過ぎた妻だと思えばこそ、彼女のことをどれほど心配しても足りるということはないのだ。
ソフィーリアがエルサの身体に乗り移って蘇生の奇跡を行使するのを止めるつもりはないが、夫してこの前代未聞の試みには心配が尽きない。
「本当に大丈夫なのだろうか、ソフィーリア」
粗末な廃屋には狭いであろう巨体を縮込ませながら妻の身を案じるアレクセイを見て、ソフィーリアは困ったように笑う。
「何事も絶対ということはありませんわ、あなた。ですが私はあまり不安には思っていません。私が"闇霊"だからでしょうか…他人の身体に入り込むということに不思議と拒否感がないんです」
生者の身体を欲するのは基本的に力のない低位の悪霊だとされている。霊体のままでは力を発揮できず、さりとて生者への恨みと強い欲望を持つからこそ人に憑りつくのだ。
霊体の魔物の最上位とされる闇霊では、それ自体が強力な力を持つがゆえに生身の肉体を求めたという記録はない。それでも霊体である以上原理は同じはずで、自我のハッキリとしているソフィーリアならば自身の身体に入り込むことも不可能ではないだろう、というのがエルサの見解であった。
「仲間の命を助けるためですから…少し怖いですけど、頑張ります!」
年端もいかぬ少女が健気にもそう言って両の拳を握りしめる様を見れば、ヴォルデンの騎士たるアレクセイがいつまでも落ち着かぬわけにはいかないだろう。アレクセイは大きく息を吐くと妻の肩に手を乗せた。
「くれぐれも、用心するのだぞソフィーリア」
「ええ、どうか見守っていてくださいませ、あなた」
肩に乗せられた夫の手に自らの手を重ねて、ソフィーリアは微笑んだ。そうしてエルサへと向き直ると、ひとつ深呼吸をしてから頷いた。
「では始めましょう。私もこんなことは初めてですが、不思議とやり方はわかります。目を瞑って、身体の力を抜いてください」
「はい」
エルサは言われた通り瞼を閉じる。ソフィーリアはちらとアレクセイの方を一瞥するとゆっくりとエルサへと手を伸ばした。ソフィーリアはその手をエルサの背に回して少女の体を抱きしめると、自身も静かに目を閉じる。すると二人の身体から仄かな光が溢れ出し、ソフィーリアはまるで吸い込まれるようにエルサの身体へと消えてしまった。
するとどうだろう。
驚くべきことにエルサの白銀の髪がにわかに伸びはじめ、肩口で切り揃えられていた髪が彼女の腰ほどの長さになったのだ。そしてよくよく見てみればところどころに金色の房が見受けられた。あれはソフィーリアの髪色である。彼女は長い髪を有していたし、これも一時的に一つの身体に二つの魂が宿ったことによる影響だろうか。
光が収まりエルサが目を開けた。その瞳は彼女の本来の色である蒼でも、闇霊たるソフィーリアの紅玉の如き瞳でもない。この地上でヴォルデン人だけが持つ、深みのある紫色であった。
「成功、したのか?」
「「ええ、そのようですわ」」
エルサの口から発せられた声は不思議な響きを伴っていた。それはまるで二人の声を混ぜ合わせたようで、神秘的にもまた禍々しくも感じられる声であった。
「しかしその髪、その姿は一体…」
「「ひとつの身体に二つの魂が宿ったことで肉体に変化が起きたのでしょう。髪は霊的に強い力を秘めていますから」」
口調からしていま話しているのはソフィーリアだろう。長く伸びた銀の髪を手で鋤きながら彼女が答えた。
「「いまエルサさんの魂は一時的に眠りについています。自ら受け入れたとはいえあまり長くこのままでいるのは危険でしょうし、すぐにでも秘術を執り行いましょう」」
ソフィーリアはそう言うとエルサの仲間たちの遺体の方へと近づいていく。そして右手を心臓に当てて左の掌を天へと差し出すと厳かに力ある詞を詠い始める。
「「天に満ちるは原初の炎。激しく燃え盛るゾーラの泉。この身を杯とし神の奇跡を死者へと分け与え賜え。我は灰より命の灯を見出さん」」
するとソフィーリアの身体を黄金色の炎が覆いだす。やがてそれはソフィーリアから横たわる遺体たちへと、まるで生きた蛇のように伸びていく。
黄金の燃え盛る蛇は死者たちの周囲をぐるりと回って囲い込むと、煌く炎の壁を作り出した。そして一瞬収縮したかと思うと激しい炎の柱となって天井へと伸びていく。炎は粗末な木張りの屋根を突き抜けその向こうの空へと向かっていったようだが、さりとて廃屋の天井に穴が開いたわけではない。奇跡により発生したゾーラの金色の炎は物質に干渉するようなものではないようだ。そしてその勢いが風を生み、部屋中に灰を舞い散らせる。
アレクセイはこれならば屋外で儀式を執り行うべきだったかと思ったが、寄ってきた亡者どもにいらぬ邪魔をされても面白くない。そんなことを考えているうちに、気づけばいつの間にかソフィーリアの身体を覆う黄金の火も消えていた。
「「…なんとか、なったようですね」」
苦し気なソフィーリアからそちらに目を移してみると、そこには灰の山に埋もれるように横たわる少女たちがいた。
こうして改めて見るとエルサの三人の仲間たちみな彼女と同じような年頃の少年少女であるようであった。
身体を上下に分かたれたていた少女は、ソフィーリアの蘇生の奇跡によって上半身と下半身が見事元通りに繋がっている。ただ、どうやらもとから随分と露出の多い服を着ていたようで、身体が再生した後もむき出しの腹部はそのままだ。真っ白な腹部には傷一つ残っていない。
アレクセイの時代の感覚で言えば随分とはしたなくも思うが、あるいは冒険者らしく動きやすさを重視した結果なのかもしれない。
一方、真っ黒な炭塊と化していた少女もまたすっかり人の姿を取り戻していた。流石に服までは戻らなかったのか生まれたままの姿であるが、丸まった背中が動いていることから生きていることが分かる。青みがかった黒髪は肩口で切り揃えられていて、ほっそりとした体つきは前線で戦う者には見えないので魔術師か何かだろうか。
幼い少女の裸身をあまり見つめるものでもないので、アレクセイは残る一人に目をやった。最も損傷の酷かった遺体はどうやら少年であったようだ。身体と共に着ていた装備もバラバラになってしまっていたため、こちらもやはり全裸で大口を開けながら眠りについている。
「うむ、蘇生の奇跡はうまくいったようだな。君の方は大丈夫か?」
「「エルサさんの身体を経てもなおこの身を焼かれるような痛みを感じます。闇霊に身を堕としてからの方がゾーラの御力をより感じられるなんて、皮肉なものですね」」
そう言うソフィーリアの額には汗が滲んでいる。彼女の言葉通り魔物の身で奇跡を行使することは多大な苦痛を伴うのだろう。生身であっても神の力は強大なものだ。いわんや闇霊の身であればなおのこと。だがここで終わるわけにはいかない。彼らを安全にここに"捨て置く"ための結界を張らねばならないのだ。
「ソフィーリア、辛いだろうがもう一仕事頼みたい」
「「もちろん、心得ておりますわ」」
ソフィーリアは額の汗を上品に拭うと、自分たちがいまいる廃屋をぐるりと見回した。
「「折角ですからこの建物自体に結界をこしらえましょう。ここは屋根こそ木製ですが造りは堅固な石造りです。このあたりには家を破壊できるような大型の魔物はいないはずですから、扉さえしっかりと施錠しておけば彼らが目覚めるまで安全なはずです」」
蘇生の秘術は強力だが、失われた体力まで全てが元に戻るわけではない。エルサの仲間たちが目を覚ますまでもうしばらくかかることだろう。彼らを置いていくアレクセイたちには都合のいいことだが、いくら結界があるとはいえ寝ている彼らの守りは少しでも堅い方がいい。
「そうだな。ということはあれか?」
「「ええ、あなたお願いできますか」」
ソフィーリアが張ろうとしている結界は≪四神の陣≫というもので、アレクセイたちの時代ではゾーラ教のみならず大陸中の聖職者たちが用いた奇跡である。
四神とは炎神ゾーラ、風神タイタニア、大地神カタリナ、水神ゾネスという創世の四大神のことである。当時の人々はそれぞれの地域や国ごとに異なる神を奉じていたが、教義の違いはともかく他の神そのものを否定したり攻撃するようなことはなかった。それはこの世界を創ったのは四大神であり、それらがかつて神の国に存在していたことは紛れもない事実であるからだ。それゆえ偉大なる神々の力を借りたこの奇跡は、あらゆる地で魔を退ける聖なる奇跡として活用されてきた。そしてこの奇跡を行うには対象となる人、物の四方にそれぞれの神の刻印を刻まねばならない。
アレクセイは一旦廃屋から出ると建物の周りをぐるりと回って東西南北と思われる位置に神々の紋章を刻み込んでいった。騎士たるアレクセイは奇跡を使うことはできないが、神官戦士たる妻の手伝いをしたことが何度かある。戦場では位や職種など構ってはいられないからだ。
「ソフィーリア、紋章を刻み終わったぞ」
「「ありがとうございます、あなた」」
紋章を四方に刻んだアレクセイはソフィーリアの元へと戻った。
「「では始めます…天に満ちるは原初の光。御敵を屠る戦場の炎、災いを吹き消す自由の風、弱きを守る岩の壁、あらゆる傷を癒す命の海よ。この身を杯とし神の奇跡をこの陣へと分け与え賜え。我は聖なる四神の守護を見出したるなり」」
彼女が祝詞を唱え終わると木窓から厳かな室内に降り注ぐ。窓の外を見てみればこの廃屋全体を守るかのように天から光が降り注いでいる。しばらくして光は消えたが、≪四神の陣≫の効果は消えずに残っている。身体全体がヒリヒリと焼けつくような感覚がするからだ。
「こちらも無事に成功したようだな。なるほど…これが結界に触れた魔物の感覚なのか」
「「エルサさんの中にいる私ですら痛みを感じます。外へでましょう」」
アレクセイらは速やかに廃屋の外へと出た。自分たちでさえこうなのだから、遥かに弱いマジュラの亡者たちでは近寄ることさえできないだろう。
「これで彼らは問題ないだろう。だが君も辛そうだ。早く術を解くといい」
「「はい」」
役割を果たした妻を抱きとめるべく、アレクセイは両腕を広げた。ソフィーリアもまた頷くと目を閉じる。その身体が再び淡く光りだしソフィーリアはエルサの身体から抜け出ると、勢いそのままにアレクセイの胸に飛び込んできた。アレクセイもまた妻の身を強く抱きしめる。"贖罪"を果たした妻を労うために。
「なっ!?」
「えっ!?」
だが二人はそのことに気が付くと揃って驚きの声を上げることとなった。それ以上何も言えなくなってしまった二人をよそに、朦朧とした状態から回復したエルサがソフィーリアの姿を見てこう言った。
「ソ、ソフィーリアさん…小さくなってます!?」
彼女の言う通り、不可思議なことにエルサの肉体から抜け出たソフィーリアの身体がうら若き少女の如く縮んでしまっていたのだった。