第108話 ウィスプマザー
盲目の幽霊少女、アイにはソフィーリアの真の姿が見えているらしい。彼女は怯えたようにエルサの影に隠れている。そしてそれは彼女らが互いに霊体であること、ソフィーリアがそれらの最上位種である≪闇霊≫であることが関係しているのだという。
「怖がらなくても大丈夫だよ、アイちゃん。ソフィーリアさんは悪い霊なんかじゃないから」
「……そうなの?」
エルサにそう言われ、アイはひょっこりと顔を覗かせた。幼い少女はソフィーリアに怯みつつも、エルサの言う通り一歩前へと進み出た。対するソフィーリアは安心させるように穏やかな笑顔を浮かべていたが、それでもまだ距離を置かれていた。
やはり、特異な容貌をした少女である。格好はみすぼらしいが、顔立ち自体は可愛らしいものだ。ただ目の部分に巻かれた包帯が、彼女の悲惨な生前の境遇を連想させた。きちんと身なりを整えてしっかり栄養さえ取っていれば、数年後には大層な美人になっていたことだろう。だが彼女にはそのような未来は訪れなかった。果たしてどのような理由で、エルサと共にいるのだろうか。
「エルサ君。この少女を喚び出したのはいいが、それで一体どうしようというのだ?」
アレクセイにはそれが疑問であった。目を塞がれている以外は、ごく普通の少女にしか見えないのだ。アンデットとして見てみても、魔力や妖気の類はほとんど感じられない。彼女の周囲に漂っている光体は気になるが、それだけといえばそれだけである。そしてエルサがこの少女を召喚した理由は、まさしくこの光体にあるらしい。
「アイちゃんには相手を害するような力はありません。その代わりに、彼女は人魂を通じて物を視ることができるんです」
エルサの説明に、アイは誇らしげに胸を張っている。それと呼応するように、周囲の光体もふわふわと揺れていた。人魂というからには、これらは人間の魂なのだろう。自我や意識の類はなさそうだが、僅かに生命力の残滓のようなものは感じられる。彼女はそれらを操る、"人魂の母"と呼ばれる類の魔物に該当するらしい。
「ウィスプマザーならば聞いたことがあります。雪山などに稀に現れては旅人を襲う、化生の類と存じていましたが……」
それならばアレクセイも知っている。というか実際に討伐したこともある。大陸北部に位置するヴォルデン王国では頻繁に雪が降り、それに関する魔物もたくさん出没していた。
ウィスプマザーはその中でも非常に珍しい存在であり、古くから人々の間で語り継がれてきた魔物でもあった。一説では氷の精霊とも、雪山で遭難した人間の亡霊とも言われていたが、その正体は定かではない。ただ本体の周囲に無数の人魂を連れていること、必ず女の姿を取っていることは共通していた。霊ゆえに物理攻撃が通じず、冷気や吸精といった手段で攻撃してくるこの魔物は中々に手強かったと記憶している。
だがこの少女はそういった力はないとエルサは言っている。人魂で視るとはどういうことだろうか。
「実際に見てもらった方が早いと思います。行こう、アイちゃん」
「うん!」
エルサが少女と一緒に部屋を出る。その後をアレクセイたちも付いていく。
静寂に包まれた石造りの廊下を見ていると、アレクセイであっても気分が滅入ってくる。骸骨の巡回兵は物の数ではないが、城内に仕込まれた無数の罠のことを思い出すとやはり苦手意識が先に出てしまう。
アレクセイは己があまり頭が良くないことを自覚している。野戦や攻城戦で頭を巡らせるのは嫌いではないのだが、こういった搦め手への対策ははっきりと不得手であった。
(身を持ち崩しても、私は盗賊にはなれんな)
そんなアレクセイの自嘲など知る由もなく、アイは楽しそうに辺りを見回していた。年相応に好奇心旺盛らしく、物珍し気に壁や床の紋様を眺めていた。エルサはそんな少女の前で腰を折って目線を合わせてた。
「ねぇアイちゃん、この辺りには危ない仕掛けがたくさんあるの。それを探してほしいんだけど、お願いできるかな?」
「うん!任せて!」
アイが笑顔で頷くのを見て、エルサは彼女の手をとった。そうして触れ合えるということは、この少女もまたそれなりの霊格を持つということだろうか。力を持たぬのに触れ合えて、害を及ぼさぬウィプスマザーというのは、なかなかにこの少女も訳アリなのかもしれない。
アイと手を繋いだエルサは自分自身も目を閉じている。まるで目を塞がれた彼女と同じくするような様子だ。そんな召喚者を仰ぎ見てニコリと微笑んだアイは、廊下へ向けて真っすぐ腕を伸ばした。すると彼女の周囲に漂っていた光体たちがさあっと周囲へと散らばった。それらも霊体であるがゆえに、物理的な存在に行く手を阻まれることはない。淡く輝く光の玉は床や壁に吸い込まれるように消えていく。
そうしてしばし待ってみるが、何かが起こるということもない。少女は楽しそうに鼻唄を歌っているし、エルサは目を伏せたままだ。アレクセイは妻と並んでただ待つことしかできない。もちろん、魔物が近づいてこないか周囲に気を配ることを忘れてはいないが。
やがて壁の向こうから光体たちが帰ってきた。それらはアイとエルサの周りを飛び回っているが、その様は主と同様にどこか楽しげにも見えた。ようやっと目を開いたエルサがアレクセイたちの方を振り向いた。
「見えました」
「というと?」
アレクセイがそう問うと、エルサは何も答えずに少し進んでからその場に膝を突いた。そして慎重な手つきで床の砂埃を払う。よくよく見てみれば、そこには僅かな凹みがある。石床が擦り切れたような程度のもので、あると分かって見てみなければ気づかないほどだろう。少なくとも、アレクセイには見抜けない。そしてモルドバから渡された迷宮の地図には、そんなことなど記されてはいなかった。
「ここを踏むと仕掛けが発動するようになっています。あそこ……壁の模様に吹き出し口があります。液体で満たされた大壺が視えましたから、毒液か火炎放射の罠かもしれません」
エルサが指さした先の石壁には、複雑な草花の模様が刻まれている。一見すると凝った装飾にしか見えないが、咲き誇る花弁の中心部に孔が空いているのが確認できた。
「ふむ……」
アレクセイは背負っていた大盾を構えなおすと、そちらの方へと近づいていく。そして数歩の距離を開けて盾を地面へと付け防御の姿勢をとった。
「エルサ君、試しにそれを押してみてはくれまいか」
聖竜の大盾ならばほとんどの攻撃に耐えられるはずだ。少なくともこの罠が神竜の息吹に勝るということはあるまい。また仮に毒の類であっても、生者ではないアレクセイには痛痒にはなり得ない。それを見たエルサは「はい」と返事をすると、足元の石床を思い切り踏みつけた。
その瞬間、アレクセイの目の前の壁から勢いよく炎が噴き出した。囂々と燃える炎が漆黒の大盾へと吹き付けられる。
「むぅ!これは、なかなか!」
火吹き罠の予想外の威力に、アレクセイは小さく唸る。無論のこと、盾が溶かされることもアレクセイが押し負けることもなかった。猛烈な熱気も感じはするが、炎に対して絶大な防御力を持つ聖竜の鎧を肉体とするアレクセイであれば、何ほどのものでもない。ただ神竜とは言わずとも、ちょっとした火竜の吐くもの程度の威力はあるだろう。大抵の人間であればあっという間に火だるま、すぐに消し炭だ。
やがて燃料が尽きたのか、炎は勢いを弱めるとそのまま消えてしまった。完全に罠が沈黙したのを確かめてからアレクセイは構えを解く。
「なるほど。やはり罠といえど侮っていいものではないな」
「そしてそれを見抜いてしまうとは……それがその子の力なのですね」
感心したように頷くソフィーリアにアレクセイも同意する。
眼を持たぬ少女は自らが使役する光体を通して物を視る。そして彼女を喚び出したエルサはその視界を借り受けるというわけだ。光体の数だけ眼があるわけだから、状況確認においてこれほど心強いものはないだろう。またそれらは壁や天井を貫通するので、この迷宮のように隠された仕掛けを見つけるのには最適だ。それが何の罠なのか判別するのは視る者次第だろうが、感知に限って言えば本職の斥候以上であろう。
「今までの迷宮ではこの子の力を借りる必要もありませんでしたけど……ここでなら、少しはお二人のお役に立てる筈です」
エルサは傍らの少女と微笑み合うと、アレクセイたちに向けて力強くそう言ったのだった。