第107話 幼霊召喚
エルサは≪霊魂遣い≫であるのだから、喚ぶとならばそれは霊の類なのだろう。
彼女はそう宣言するや否や、鞄から様々なものを取り出しては床に並べ始めた。何がしかの液体が入った小瓶や大ぶりの魔石。それから奇妙に曲がりくねった枯れ木の枝と、禍々しい紋様が描かれた小皿に盛られているのはどうやら塩らしい。それらを自身の周囲に置いてから、最後にたくさんの飾りの付いた縄で自身をぐるりと囲んだ。
「それは結界……いえ、魔方陣でしょうか?」
その様子を興味深そうにソフィーリアが覗き込む。奇跡の中には、発動に複雑な手順を要するものも少なくない。また炎神ゾーラは戦神でもあるので、戦いの勝利を願って捧げ物をすることも多い。そういった際に祈祷を行うのは神官戦士団の長たる彼女の役目であった。実弟が魔術師になったのも相まって、ソフィーリアは意外と魔術に興味があるらしい。
とはいえエルサが行使するのは、死者を操る死霊術である。その業は死者を安寧へと導く神のしもべには似つかわしくはないだろう。
そう考えているのはアレクセイだけではないようで、エルサは右手を鞄へと入れたまま、申し訳なさげな顔でソフィーリアへと向き直った。
「ソフィーリアさん。えっと、怒らないで聞いてほしいんですけど……」
「はい?」
小首を傾げるソフィーリアに、彼女はおそるおそるといった風に言い出した。
「これから儀式を行って、とある霊体を呼び出します。まだ幼い女の子の霊なんですけど、別に無理やり使役しているわけではないんです。故あって父が契約を交わして、私がそれを受け継いだんですが……彼女の死に私たちは関係なくて、でもその子を天に送らないのは色々と理由があるからで……」
そう話しているうちに、だんだんとエルサの声は尻すぼみになっていってしまう。聞いているソフィーリアが全く顔色を変えないこともあって、最後の方はしどろもどろになってしまっていた。
だがまぁ、彼女が懸念することも分かろうというものだ。
結構な時間を共にしているので忘れそうになるが、そもそもソフィーリアは神に仕える聖職者であり、エルサは死者を操る死霊術師であるのだ。常ならばこれらは決して相容れる関係ではない。ましてやアレクセイの妻は子を持つ母であり、我が子のことで闇の力を暴走しかけたこともある。エルサが子供の霊を遣うというのなら、そのことに嫌悪感を抱いても不思議ではない。彼女はこれから行う術でソフィーリアの怒りを買うことを恐れているのだろう。
それにアレクセイとてアンデットなれど、子を持つ父親なのである。民を守る騎士としても、思うところがないわけではなかった。
ただ今更と言えば今更な話でもある。邪な力で蘇ったアンデットたるアレクセイたちが、何を言えようかという話だ。また生きた子供をどうこうするのならまだしも、その魂の在り様に口を挟んでいいのは、本来それを受け入れる筈だった天の国の主だけだ。
更に言えばエルサとの付き合いもそれなりのものになる。この心優しい少女が、理由もなく幼い魂を束縛するようなこともあるまい。アレクセイでもそう思うのだから、普段から彼女と仲良くやっているソフィーリアが許さないはずもないのではないか。
乞うようにソフィーリアの様子を窺うエルサを見て、彼女は堪えかねたように噴き出した。どうやら全てを分かった上で、エルサのことをからかっていたらしい。くすくすと笑みを零すソフィーリアの姿に、しばし呆気に取られていたエルサは思い出したように小さな怒りを表した。
「もうっ!ソフィーリアさんってば!」
「ふふふ、ごめんなさいねエルサさん」
「ホントに恐かったんですからね!」
じゃれ合う二人を見て、アレクセイはやれやれと首を振るばかりである。
いかにも聖女然としたソフィーリアがそれに反して茶目っ気の強い女性であることを、夫であるアレクセイは当然知っている。エルサもこれまでの付き合いでその性格は分かってはいたのだろうが、彼女は自らの職業に関して引け目を感じているようなフシがある。聖職者である妻に対して、彼女なりに配慮したかったのだろう。
だが生憎とゾーラ教は"生"のあり方に拘る宗教だ。"死に方"ならばともかく、死んだその先の扱いに関しては意外とあっさりした教義であるのだ。弄ぶようなことさえしなければ、ソフィーリアが目くじらを立てることもないだろう。
「もう、気を遣って損した気がします……」
「あなたが死者を手酷く扱うとは考えていませんよ、エルサさん。ですから私のことは気にせずに、どうぞ続きをなさってくださいな」
その言葉で安心できたのか、エルサは頷くと鞄に引っ込めていた手を抜いた。そうして取り出したのはまたも液体が入った瓶である。ただ今回の物はやや大きく、装飾などはないものの割れぬよう硝子が厚めに作られているのが見て取れた。
ただその中の透明な液体に浮かぶものを見て、流石のアレクセイも驚かざるを得なかった。
「エルサくん、それは……人の目玉ではないのか?」
エルサが地面に置いたのは、人間の物らしき眼球が二つ収められた瓶であった。まるで今さっき生きた人間から抜いたかのような、瑞々しさすら感じさせる目玉である。しかもその瞳の色は、アレクセイが初めて見る金色であった。
少女の霊を呼ぶと言い、その儀式のために取り出すのだからこれはその霊のものに違いあるまい。久方ぶりに"死霊術らしい"呪物を見て、アレクセイはなんとも言えない気分になった。
(ゾーラ教的にはありなのか、なしなのか……私にはもう分からんな)
そう思ってアレクセイが視線を下ろしてみると、困ったように笑う妻が自身を見上げていた。先ほどの彼女の冗談を思い出せば、今更文句は言えぬだろう。意図してはいないだろうが結果的にやり返す形になったのは、なかなかどうしてエルサもやるものである。
軽く引いている死者の夫婦のことなどいざ知らず、エルサはてきぱきと準備を進めていた。そしてそれも終わったようで、二人に少し離れているよう言うと、先ほど並べた術の触媒たちの中心に立った。
「では始めますね……幽きものたちの母よ、古き契約によりて我と共にありし、瞳なき幼き魂よ、我が声を聞き、魂の形を成せ!」
エルサが言葉を紡ぐと同時に、微かな光が彼女へと集まっていく。いつだったかエルサが霊狼のネッドを最初に呼び出した時に見た光である。やがて光の粒子はエルサから目玉の入った瓶へと移っていく。そしてにわかに瓶が発光したかと思うと、アレクセイたちの眼前に一人の少女が現れたのである。
ネッドのように半透明というわけではない。だが少女の周囲に人魂らしき光体がいくつも浮いているのを見れば、彼女が只の娘でないことは明白だ。
年の頃は、十を数えてはいないだろう。粗末な襤褸に細い手足。腰まである茶褐色の髪はぼさぼさで、伸ばしたというよりも切る機会がなかったというような塩梅だ。それらを鑑みれば、少女が生前は貧しい生活を送っていたと容易に想像がついた。どこにでもいる、貧民窟の少女といった容貌であるが、ひとつだけ大きく目を引く箇所があった。
それは荒々しく包帯の巻かれた、彼女の面貌であった。目の位置にあることからも、それが小瓶に入れられた目玉に関するものだと察せられる。ボロボロの布切れで瞳を隠した少女は、しばしぼうぅとした後にエルサの方を向くと、その顔に満面の笑みを浮かべた。
「お姉ちゃん!」
「アイちゃん」
対するエルサも優しい声で答えている。アイちゃんと呼ばれた少女は、エルサが両腕を広げたのを見ると嬉しそうにそこに飛び込んだ。霊ゆえに実際に触れ合うことはできないだろうが、エルサもまるで妹に接するかのようにその身体を抱きしめている。
「お姉ちゃん、久しぶりっ!会いたかったよう。ねぇ、どうしてずっと喚んでくれなかったの?」
「ごめんねアイちゃん。私の方も色々あって……」
エルサが目でアレクセイたちの方を指すと、少女はようやっとアレクセイたちの存在に気が付いたようだ。彼女はアレクセイたち夫婦の姿を確認するとさっと顔を強張らせ、エルサの影に隠れてしまった。
瞳はないはずだが、やはり彼女には周囲が見えているらしい。幽霊に肉の身体の法則が通用するわけではなかろうが、彼女は明らかにアレクセイたちを見て怯えていた。
小柄なエルサより更に背の低い彼女からすれば、アレクセイはまさに巨人であろう。すわ怖がらせてしまったかと身構えたアレクセイであったが、目玉亡き彼女の視線は巨漢の黒騎士ではなくその伴侶に釘付けであった。
自身の脇からおそるおそる顔を覗かせる少女に、エルサが問いかける。
「アイちゃん?」
「……あの大きいお姉さん、怖い」
幽霊の少女アイはそう言って、困惑するソフィーリアを睨みつけていた。