第100話 はじめての不死 【応用編】
百話目です。
部としてはもう百以上書いていますが、一応、記念すべき話数ですね。
「とはいえ、変化の術は覚えておくに越したことはないと思うよ」
モルドバはそう言うと鞄から一冊の本を取り出した。開かれたそこには、様々な衣装を着た人の姿が描かれている。
「これは幽体離脱の指南書なんだけどね。肉体のイメージそのものを変えることは難しくても、着ている衣服を変えることはそうでもないんだ。ほら、人は夢の中でならどんな綺麗なドレスでも纏えるだろう?あれと一緒さ」
霊の姿は基本的に、死の直前の姿を形どる。それは肉体のみに限らず、着ている服や装備に関してもそうである。ソフィーリアであれば死亡する直前の姿であるから、それは今のような戦装束一式になる。だが彼女とて常日頃から鎧を着込んで生活していたわけではないのだ。むしろ貴族の女性であるのだから、平時は実に淑やかなドレスに身を包んでいたものだ。
モルドバ曰く、そういった服に"お着替え"することも可能であるらしい。
「それは、とても良いですねぇ!」
眼を輝かせたソフィーリアが、思わずといった様子で夫の腕に縋りつく。
霊はもう死んでいるのだから、汗を掻くことはない。実体もないのだから、砂埃や煤で衣服を汚すこともない。なので基本的に着替える必要はないのだが、そこはソフィーリアとて妙齢の女性なのだ。アンデット故に不快感などは感じないのだろうが、なまじ正気であるだけにもどかしく思うこともあったらしい。
「これでもヴィキャンデル家の女ですもの。王国四騎士の妻としても、四六時中同じ服というのはやはり気になりますわ」
アレクセイとしては、彼女の鎧姿も大層気に入っているのでさほど問題もないのだが。とはいえそれで愛する妻の衣替えを邪魔することもない。
≪闇霊≫という最上位のアンデットである以上、彼女の精神状態を穏やかに保っておくことには意味もあるのだ。息子のことで気を揉むことも多い。少しでも気が晴れるなら幸いである。
「え~と、それでモルドバさん。私はどのようにしたらよいのでしょう?」
「そうだね。どんな服でも着られるとは言ったが、見たことのない衣服は無理だろう。あなたの記憶の中でも特に印象的な格好、それを思い出してみるんだ。細部まで、丁寧にね」
モルドバがそう言ったのを受けてソフィーリアは目を閉じた。
(ソフィーリアが思う最も印象的な服か。うぅむ、なんであろうな)
家庭でも戦場でも共にあったアレクセイには、いくつもの候補が浮かんだ。
例えばゾーラの神官としての式服か。戦う神官たちの長であった彼女だが、かといっていつも鎧を着込んでいたわけではない。神殿での勤めの際はゆったりとした紅白の式服を纏っており、戦場での苛烈な姿とは違う静謐さが感じられたものだ。
あるいは家でよく来ていた、濃紺のドレスという線もある。美しい金髪を持つソフィーリアは、青系の衣服をよく着ていたものだ。炎の神であるゾーラは赤をシンボルとするため、かえって違う色を好むようになったらしい。
青は心を落ち着かせる効果があると聞く。故にそんな彼女と過ごした穏やかな休日は、アレクセイにとっても非常に心休まるものであった。
(他にも寝間着や、竜狩りのときの旅装束などあるが……女の服の数など、夫には分かるまいな)
アレクセイがそのように頭を悩ませていると、不意にソフィーリアの身体が輝き始めた。小さな光の粒子がどこからか現れて、彼女の姿を覆い隠したのだ。そして次の瞬間には、それらが一斉に弾けとんだ。するとそこにあった妻の姿を見て、アレクセイは思わず息を飲んだ。
「おお」
「ソフィーリアさん、すごく綺麗です」
彼女が選んだのは、純白のウェディングドレスであった。竜狩りの旅を終えて帰国したのちに挙げた結婚式、そのときに彼女が着ていたものである。
質実剛健な北部らしく、過度な装飾の類いは見られない。ただ上質な生地をたっぷりと使って作られた品のいいドレスは、着ている者の美しさを際立たせていた。赤でも青でもない、ソフィーリアの黄金の髪に最も映えるのはこれであったのだ。
「こんなときに選ぶなんて変かもしれませんが、とても記憶に残っているものでしたので」
恥ずかしげに俯く彼女の頬は僅かに主に染まっていて、それがまた白いドレスに不思議とあっていた。
そんな愛しい妻の姿を見て、相変わらずアレクセイは言葉を紡ぐことができなかった。今の彼女の外見年齢は十五歳ほど。成熟した大人の女性の姿でなくとも、ソフィーリアの花嫁衣装はたまらなく美しかった。彼女とならば、何度結婚式を挙げてもよいだろう。
(いかん、私は何を阿呆なことを考えているのだ)
アレクセイはたまらず頭を振った。あまりの愛しさに、思考が些か支離滅裂になってしまったようだ。要するに、惚れ直したということなのである。
「いやソフィーリア、君の判断は間違ってはいない。その姿をもう一度見てみたいと、私も思っていたのだからな」
「まぁ、あなたったら。でも、嬉しいですわ」
このドレスを着るのは、普通であれば人生で一度きりだ。死別からの再婚を望む人間などいないし、ゾーラ教の要職に就く彼女がおいそれと離婚などできようはずもない。無論、そのつもりもないだろう。
だが花嫁衣装が女性の憧れなのは、いつの時代であっても同じことだろう。こうして戯れで着ることができたのだから、アンデットになった甲斐も少しはあったのかもしれなかった。
「いやはや、まさかドレスを選ぶとはね。まぁ幽霊のなかでは、首を切って死んだ花嫁の霊とかも有名だし、ありっちゃありかなぁ」
互いに熱く見つめ合うアレクセイたちを眺めて、モルドバが雰囲気のないことを言う。そんなデリカシーのない先輩を肘打ちしつつ、エルサは感心したように頷いている。
「でもすごいですね、ソフィーリアさん。一発で変化の術を成功させるなんて」
するとそれを聞いたモルドバが、横腹を擦りつつ彼女に苦言を呈した。
「そりゃああれほどの霊格を持っているんだ。できることは数多いだろうよ。というかエルサ、君は短くない時間を彼らと過ごしているんだろう?なぜこのくらいの術を教えてやらないんだ」
「えと、さっきも言いましたけど、それはどんな影響が出るかもわからないので」
「私たち死霊術師は、本来人の手の及ばないものを取り扱っているんだ。多少の危険は覚悟の上、未知を恐れて既知に甘んじるなというのが、君のお父上の教えでしょうが。それに彼らがこれほどの力を持ちながら、善の気を保っていること自体が普通ではないんだ。今さらそれくらいで尻込みしてどうするのさ」
その後もつらつらとお説教の言葉が続いている。モルドバはああ見えて、意外と面倒見のいい真面目な性格なのかもしれない。
とはいえそれでエルサが不真面目だというわけではない。彼女は歳の割に懸命にやってくれているのだ。アレクセイはそのように思い、助け船を出すことにした。
「まぁそう責めるようなことでもあるまい。彼女は彼女なりの優しさで、我々の人間性を尊重してくれていたのだからな」
彼女がアンデットとしてのあれこれを教えなかったのは、決して自分達の不安定さだけが理由ではないはずだ。騎士として、聖女として、夫として妻として人間としての有り様を忘れたくないという、アレクセイたちの思いを汲んでくれていたからだ。
それに彼女は死霊術師としてだけではなく、今の世を生きる冒険者の先達としてもよく自分達を率いてくれていた。それに感謝こそすれ、なぜもっと早く教えてくれなかったのだなどと非難することなどできようはずもない。
「アレクセイさん、ありがとうございます。でも、正直自分にも到らないところはたくさんあったのだと思います。だから、ここで先輩と会えたのはいい機会だったのかもしれません」
そうして彼女が語ったのは、ここ最近感じていたという、自らの力不足についてであった。
比類なき戦闘力を持つアレクセイとソフィーリアがいれば、戦いにおいて彼女の出る幕はない。また三ツ星冒険者の位を得た今となっては、人の世を渡っていくのもそう難しいことではないのだ。ウィリアムの手がかりも手に入れ、高位冒険者や中央貴族への面識も得た。となれば自分はもう必要ないのではないかと考えていたらしい。
「エルサさん、そのようなこと」
「ええ、分かっています。お二人はそのようなこと思ってもいらっしゃらないでしょう。ですからこれは、私自身の試練だと思うんです」
そう言うとエルサはモルドバへと向き直った。その真摯な表情に、姉弟子もまた少し顔つきを改めた。
「モルドバ先輩、お願いがあります」
「うん、何かな?」
「私に霊魂遣いの秘術を教えてください。父の残した、最後の死霊術本を、私に」