アレクセイのひげ
「かあさま」
背後から聞こえる声でソフィーリアは振り返った。そしてそこにいる愛しい存在の姿を目にして、自然と頬が緩くなる。そこにいるのは自身の伴侶と同じくらいこの世で大切な、愛息子のウィリアムであった。
「あらあら、どうしたのウィル?お父様と御本を読んでいたのではなくて?」
ソフィーリアは屈みこんで息子と目線を合わせると、その頭を優しく撫でてやった。
ヴォルデン人は女であってもみな長身であるので、顎が膝に付くくらいしゃがんでやらないと子どもと目の高さが合わないのだ。年少時は他人種とそう背丈が変わらないこともあって、ウィリアムとの身長差は結構なものであった。
だがそんなところもまた、ソフィーリアにとってはたまらないほど愛しく感じるのである。
「とうさまが、このほんはかあさまによんでもらいなさいといっていました」
「あらこれは……随分と難しいものに興味があるのねぇ」
そう言って息子が差し出してきたのは、『四大神と四大宗教について』という本であった。リーヴ大陸で信仰されている神々について記されたこの本は、ソフィーリアも神官見習いの頃に読んだことがあった。さる高名な神学者によって書かれ、国や宗教を問わず複本されはしたが、内容はそれなりに難解なものでもある。
自身も初めて本を開いたときはくらくらしたものだ。少なくとも五歳の少年が読むようなものではない。
(こういうのは、あの人も苦手ですものね)
この本を読んでと請われた時の夫の表情を思い浮かべ、ソフィーリアは内心で微笑んだ。おそらくは相当苦り切った顔をしていたことだろう。
アレクセイの名誉のために言うならば、決してあの伴侶は頭が悪いわけではない。小さな漁村の生まれではあるが、兵士時代に文字の読み書きは習ったと聞いている。それに平の騎士時代は先達に随分としごかれたようだから、騎士としての作法やヴォルデン戦士としての教養は一通り学んでいるはずだ。
まして今や一軍の長であるのだ。いくら脳筋国家ヴォルデンといえど、馬鹿に将軍は務まらない。
ただ何事にも相性というものはある。兵法書の類は読めても、神学書は不得意に感じるのだろう。
(確かに、聖職者独特の言い回しとかもあるものね)
ソフィーリアはふくふくとした息子の頬に手を当てて言う。
「確かに、この本は神様について書かれているから、母様が読んだ方がいいかもしれないわね。それにあなたが本読みをねだるなんて珍しいもの。母様は嬉しいわ」
ソフィーリアがそう言うと、ウィリアムは恥ずかしそうに微笑んだ。幼くしていつも本を手にしている息子は、アレクセイの膝の上でそうすることを何より好んでいる。ソフィーリアが本読みすることもないではないが、アレクセイが何かと忙しいからこそ、ウィリアムは父を求めるのだろう。
「いいわよ。それじゃあ少し早いけれど、お部屋に行きましょうか。読んでいるうちに、寝る時間になるでしょう」
ソフィーリアはウィリアムを抱き上げると息子の部屋へと向かった。
家族が住んでいるのは王都にある屋敷である。使用人もいるが、自分たち夫婦の性格もあって最低限の人数を雇っているだけだ。世の中には実子であってもほとんど会話もしない貴族もいると聞くが、ソフィーリアからすればありえないとすら思う。貴族だろうが平民だろうが、家族は家族なのだ。幼い我が子を抱いて共に眠るのは、親にとっては喜びであろうに。
やがて息子の部屋に着くと、ソフィーリアは我が子と共にベッドに入った。そうしてウィリアムを自身の腹に乗せて本を読んでやる。
久方ぶりに読んだ『四大神と四大宗教について』はやはり難解なものであった。これは学士の類が読むものだ。夫ならずとも、戦士が読むものではないだろう。ソフィーリアであってもともすれば瞼が重くなりそうであった。
だが神官戦士の長として、なにより母として息子より先に落ちるわけにはいかないだろう。ソフィーリアは改めて声に力を入れると一気に本を読み進めていった。それにこうして母の豊かな胸を枕としていれば、ウィリアムもそのうち眠くなるに違いない。
だが今のところ、息子にその気配は見られなかった。大きな瞳に好奇心の光を煌かせながら、母のめくるページに目を這わせている。それを見たソフィーリアは思わずこう聞いていた。
「ねぇウィル、この本楽しいかしら?」
「たのしいというか、とてもきょうみぶかいです」
ウィリアムの言葉から分かるように、彼は幼くしてとても聡明な少年であった。また好奇心旺盛で、あらゆる種類の本に興味を示したものだ。そんな"ヴォルデン男子"らしくない甥っ子を、弟のルーカスなどは大層気に入っているようであった。また魔術師である叔父を、ウィリアムの方もとても慕っていた。
親を相手にしても崩すことのない丁寧な口調も、息子の非凡さを表していた。当然ソフィーリアたちがそう教えたわけでもないのだが、いつの頃からかウィリアムはそのような話し方になっていた。
賢しらな子どもだと気味悪がる者もいなくはなかったが、もちろんソフィーリアたちが思うわけもなし。むしろ進んで息子の望む知識を教えてやっていた。この本もまたそうであるし、どうやら息子のお気にも召したようだ。
ソフィーリアが我が子の賢さを褒めるように、その頭を撫でてやった。するとウィリアムが「そういえば……」と声を上げた。いつも明瞭な言葉で会話を始める息子にしては、珍しい語り出しである。
「きのういらっしゃったハドバルさまが、とうさまにいっていました。”おまえはどうしてひげをのばさないのだ?”と。ハドバルさまもおじいさまもみな、おひげをのばしていますよね。おひげがないのはルーカスおじさまくらい。どうしてとうさまは、ほかのかたがたのようになさらないのでしょう?」
思わぬ質問に、ソフィーリアは虚を突かれた。てっきり本の内容に関する何か神学めいた問いが来ると身構えていただけに、その驚きはけっこうなものであった。
ちなみにハドバルというのは、アレクセイと同じヴォルデンの騎士である。四騎士の一人である≪竜の尾≫の弟君で、夫とは古くからの戦友でもあった。またソフィーリア自身も彼の妻と親交があったので、今では家族ぐるみの付き合いをしていた。
そして確かに、アレクセイは髭を伸ばしていなかった。生やしていないわけではないのだが、顎髭を短く揃えるに留めているのみだ。ハドバルや他のヴォルデン人男性のように、紐で括れるくらいまで伸ばしているわけではない。
そもそもヴォルデンでは、豊かな髭を持つものがより男らしいとされているのだ。寒さが厳しい地方だからというのもあるが、伝統的な理由からそのように言われていた。長く伸ばすか、あるいは顔の下半分を髭で覆うのがヴォルデン男性の嗜みであった。その意味では、アレクセイの髭は決して"男らしい"ものではない。
ウィリアムはそれらの伝統をどこかで聞き及んだのだろう。"竜殺し"とまで呼ばれるような国の英雄が"男らしくない"装いをしているなど、何か理由があるに違いないと考えたようだ。
(う~ん、そんな大それた理由があるわけではないのだけれど……この子には、言いにくいわよね)
ソフィーリアは自身の髪を弄りながら、苦笑して天を仰いだ。
アレクセイが髭を伸ばしていないのは、単純にソフィーリアがそう望んだからである。ではどうしてそのように望んだかを聞かれると、ソフィーリアとしては恥ずかしさを禁じ得なかった。気の置けない女友達に話すならまだしも、我が子に語って聞かせるようなことではない。
ソフィーリアが天井を見つめたまま内心で喘いでいると、不意にぱたりと物音がした。目を下ろしてみれば、手の中の本が倒れていた。そして聞こえるのは、ウィリアムの静かな寝息であった。聡明で好奇心旺盛な我が子も、どうやら睡魔と母の胸の温かさには勝てなかったらしい。
「ふぅ……」
ソフィーリアは小さく息を吐くと、眠るウィリアムを軽く抱きしめた。それからゆっくりとその身体をずらして、お腹の上からベッドへと移してやる。そうして自身も彼の隣に並んで、ともに布団を被った。
愛らしい顔で眠る我が子を見ながらソフィーリアが思い浮かべたのは、愛する夫の顔であった。
むっつりとした、戦人らしく厳めしい顔つき。二人の時に不意に見せる、とても優しい笑顔。その眼光はとても鋭く、しかし家族に向けられるときはいつも慈愛に満ちている。どんな表情であっても、その全てがソフィーリアにはとても好ましいものであった。
そしてヴォルデン人特有の銀髪に、同じ色の顎髭。その口元から紡がれるのは将としての号令と、騎士としての咆哮。そして何より、愛する者への言葉だ。吟遊詩人のように過剰ではない。低く、だがとても安心感のある声で、彼は言葉少な気に言うのだ。それらを聞くと、ソフィーリアはいつも身を焦がされずにはいられない。
「……お髭が多いと、チクチクするではありませんか」
ソフィーリアは小さな声でそう言うと、なぜだか無性に恥ずかしくなって我が子の頭に口づけをした。そうして自分も眠りにつく。
ソフィーリアは子を持つ母である。だがその晩の彼女の寝顔は、あの日の少女時代のものによく似ていた。