第89話 兄妹の結末
フリアエたちのもとに戻ったアレクセイを迎えてくれたのは、温かな妻の笑顔であった。
「お疲れさまでした、あなた」
「あぁ。些か疲れたよ、ソフィーリア」
妻の手を取ってアレクセイはそう息を吐いた。
疲れ知らずのアンデットの身なれど、気疲れ程度はするものだ。レックスは擁護のしようのない男であったが、それでもフェリシアの血を引く人間なのである。なんとなればアレクセイの子孫とも言えるわけで、そんな相手を斬らねばならなかったことを至極残念に思う。
なのでソフィーリアの朗らかな笑顔は、乾いたアレクセイの心を存分に癒してくれたのだった。そんな妻が首を傾げながら、アレクセイの腰のあたりを指さした。
「あら、剣が……それにそのお姿は?」
「うむ、これか?戦う前にいつの間にか現れてな」
戦いは終わったが、復活した剣と漆黒のマントが消えてしまうようなことはなかった。それらは今も変わらずアレクセイの身と共にある。詳しいことは分からないが、この手のことは専門家に聞くに限るだろう。折を見てエルサに尋ねてみることで話は落ち着いた。
そのようなことよりもまずは報告だ。アレクセイが妻と共に赴くと、丁度フリアエが身を起こすところであった。
「終わったのですか?」
「あぁ。レックスも、あの紫の騎士も討ち取った。あのデーモンたちは、勝手に消滅してしまったがな」
紫の騎士によって人間から生み出されたデーモンたちであるが、彼らは主が倒されたと同時に塵となって消えてしまった。いかなる原理かは分からないが、変異を生み出した張本人を倒せば力が失われるものらしい。
剣を得た今となってはあの程度の魔物は敵ではないが、散り散りに逃げられると少々面倒だ。アレクセイとしては手間が省けてありがたかった。
「そうですか……兄は、レックスの最期は、どのような?」
「うぅむ……」
そんなフリアエの問いに、アレクセイはどうにも答えに窮してしまう。
彼女も覚悟はしていただろうが、よもや実の兄が迷宮主と一体化してまで力を欲していたとは思うまい。きっかけは紫の騎士からだとしても、その力を受け入れたのはレックス自身なのだ。それを正直に伝えてもいいものか判断に迷っていた。
こういう時に気の利いた言葉でも掛けてやれればよいのだが、生憎とアレクセイはそういったことが得意ではなかった。
そんなアレクセイの様子を見て何かを悟ったのだろう。フリアエは切なげに微笑みながらも、どうか教えてくださいと願ってきた。それを見たアレクセイは、ありのままに起きたことをフリアエへと伝えた。
「本当に、兄は愚かですよね。そうまでして力を求めて、一体何を望んでいたのでしょう」
絞り出すようにそう零したフリアエに、アレクセイは静かに語り掛ける。
「腕力にしても権力にしても、力というのは手段であって目的ではない。初めからそのことに気づいている者は少なく、それは私とて同じなのだ。だが歳と経験を重ねれば、自ずと見えてくるものでもある。私は金のために剣を取り、力を得ることでその使い道を知った。レックスとて、最初から持たざる者というわけではなかったはずだ」
あの男とてヴォルデンの系譜なのだ。体格は良く、剣の才も人並以上にあったことだろう。それに街の名士の家に生を受けるというのは、この平和な時代にあっても恵まれた方だろう。心持次第では、実に幸せな一生を送れるだけのものを、あの男は持っていたはずである。
「ですが兄は、それだけでは飽き足りませんでした。原因はやっぱり……私なのでしょうね」
「そのようなことを、あれは言っていたな」
戦いの前、アレクセイはレックスの妹への歪んだ嫉妬心を耳にしていた。そしてそのことは当の彼女も薄々気づいていたようだ。聞けば、幼い頃から二人は比較されて育ってきたらしい。
「父は厳しい人でした。それは私たち二人に対してですが……私が父から剣を教わるようになってから、兄の私を見る目が変わってきたようでした」
フリアエは多くの才を持って生まれた。母譲りの美貌に、かつて武官であったという父を越える剣の才能。真面目で驕らず、誰に対しても分け隔てなく優しく接する彼女は、周囲の多くの人間から愛された。ヴォルデン人らしい激しやすい性格も控えめで、そういった負の部分は全て兄が持って生まれたのだと、口さがない者たちは囁き合ったのだという。そして極めつけは、彼女が竜と心を通わせる力をも持ち合わせていたことであった。
「白竜は、私の家に古くから伝わっていた竜の卵から孵ったんです。それまでどうやっても孵化させることができなかった卵からあの娘が生まれた時、兄の中の翳りがよりはっきりとしたものになったのでしょう」
そうして白竜の幼体を抱えたフリアエを、家中の人間が"竜の御子"だと祝福した。それはますますレックスの劣等感を刺激したのだろう。そうして彼女の兄は、生まれ育った場所を離れることを選んだ。だがそれも、距離を置いたはずの妹が再び目の前に現れたことで意味を成さなくなったのだ。
それに騎士学校でも、生まれ育った街のように二人は何かと比較されたらしい。
この時代の騎士学校なるものは、身分に関係なく入学を許されるものだという。王や貴族によって叙任されるものではないというのはなかなかに驚きだ。アレクセイの時代とは平民と貴族のあり方というものが随分と異なっているようだが、それらが肩を並べて学ぶというのは、アレクセイ個人としては素晴らしいとも思う。
そして人が集まるところに噂も集まるというもので、そこに身分の上下は関係なかった。銀の髪に紫の瞳を持つ兄妹は、彼らの興味をいたく刺激したのだという。そしてそれはまたもレックスの劣等感を大きなものとしたのだ。
また"優秀な妹と、それには及ばぬ兄"という言葉は、時を経てバルダーの街にまで伝わることになった。騎士となり再び街へと帰ってきたレックスがそれを聞いた時、彼の心にはどのような想いが浮かんだのだろうか。
「兄のためにも、騎士になどなるべきではなかったんです」
確かに彼女がもう少し兄のことを見ていれば、あるいはレックスの堕落を防げたのかもしれない。だがフリアエは自分自身の内なる想いに従っただけなのだ。アレクセイのような騎士になりたかったというかつてのフリアエの気持ちを、アレクセイ自身が否定したくはなかった。
「君の人生は君だけのものだ。神の教えに背くようなことならばともかく、夢を叶えるための行いは、誰に遠慮するようなものではない……と、私は思う」
言葉を選びながら、アレクセイは自身の考えを伝えた。
人の一生は短い。長い寿命を持つエルフならぬ常命の人間だからこそ、その短い道行で迷っている暇などないのだ。志半ばで倒れたアレクセイだからこそ、そう強く思うのである。
レックスの境遇には不憫と思うところがなくはないが、さりとて同情はできない。劣等感に苛まれるのは別によい。そこで自分に折り合いをつけるのか、それとも自らを高めようと奮起するのかは当人の自由だ。だがそれで選んだのが、法を破り倫理から外れる行いであったというのは、絶対に許されるものではないはずだ。
「まぁ、ゆっくり考えるといい。兄のことも、自分自身のこともな。だが後悔するのは、最期の時になってからで十分だ」
「ありがとうございます。やっぱりアレクセイ様は、本で読んだ通りのお方なのですね」
「フェリシアがどのように書き記したのか、少しばかり怖いな」
「ふふふ」
多少なりともフリアエの気が紛れたようで何よりである。だがそこからは彼女が自分自身で答えを見つけ出すことだ。アレクセイにすることはないだろう。
そうしてアレクセイたちはフリアエの元を離れた。彼女はもう一度微笑んでから、静かに目を伏せた。そこに涙は見られないが、しばらくは一人にしておいた方がよいだろう。
アレクセイはソフィーリアを連れてクレアの元へと向かった。彼女は最初と変わらず木の幹に身体を預けていたが、遠目に見ても調子が戻りつつあるのが分かった。その傍らにはエルサの姿もある。
「やぁ、おかえり。貴方なら問題ないと思っていたよ。手間をかけてしまって申し訳なく思っている」
「傷の具合はもうよいのか?」
「うん。こちらのお嬢さんが手厚く面倒を見てくれたからね。もう十分動けるよ」
そう言ってクレアは木の幹から身体を起こした。やはり顔色も随分と良い様だし、この分なら迷宮を抜けるのに支障はなさそうだった。
「それにしても、あなた方がアンデットだったとはね。恥ずかしながら、全然気が付かなかったよ」
「むぅ……」
気安い感じで笑うクレアとは反対に、アレクセイはどうしたものかと唸ってしまう。
フリアエに自分たちのことを話した時、後ろにクレアがいたことをすっかり忘れてしまっていたのだ。アレクセイが兜を外して空っぽの頭部を晒したのを、彼女もしっかりと見ていたわけである。事情はエルサが説明してくれたらしいが、まったくもって不覚であった。
だが幸いなことに、アレクセイたちの正体を知ったクレアはそのことを咎める気はなさそうだった。
「冒険者をしていると不思議なものをよく目にするからね。善なるアンデットがいても、まぁ不思議ではないと思うよ」
「助かる」
彼女がこのことをどこまで秘密にしてくれるかは分からないが、アレクセイにはなんとなく大丈夫なように思えた。クレアは腕の立つ剣士ではあるが、そういった部分に頓着するタイプではないように感じられる。
アレクセイが真摯に礼を言うと、なぜかクレアは気まずそうに頬を掻いた。
「いやぁ……隠し事があるのはお互い様だしね」
「ええと、それはどういうことでしょう?」
ソフィーリアの問いには答えずに、クレアは懐から何かの丸薬を取り出すとそれを飲み込んだ。
するとどうだろう。艶やかな彼女の黒髪が、根本から輝くような金髪へと変化していったではないか。
「なんと」
「あらまぁ」
夫婦揃って驚きの声を上げる間にも、今度は彼女の黒い瞳が透き通るような青へと色を変えた。髪と眼の色が変わっただけであるが、こうやって見ると受ける印象は全く違う。凛とした美貌はそのままに、クレアはイェスタル風の美人から、実に大陸生まれらしい容貌へと変身を遂げていた。
とその姿を見ていたエルサが「あっ!」と声を上げた。
「流れるような金髪と清流の如き壁眼、それに腕利きのカタナ使いって……も、もしかしてあの≪閃光≫のクレアさんですか!?」
「は、恥ずかしいからそれは止めておくれよ……」
何やら鼻息を荒くしているエルサの前で、クレアは頬を染めて目を逸らしている。
「エルサ君、知っているのか?」
アレクセイがそう問うと、エルサは勢いよくこちらを振り返って興奮気味に喋り始めた。
「もちろんですっ!≪閃光≫のクレアさんといえば、若干十八歳にして六ツ星に昇格した超有名人なんです!!愛用のイェスタル刀でどんな魔物も一刀両断、攻略した迷宮は数知れず!加えてものすごい美人ということで、私たちみたいな若い冒険者にはすごい人気なんです。クレアさんの活躍のおかげで、カタナを使う女性剣士が爆発的に増えたって評判なんですから!!」
なおもクレアの評判を語りだそうとするエルサを、その本人が必死に止めている。二ツ星にしては腕利き過ぎると思っていたが、よもやそれほどだったとは。
六ツ星といえば、冒険者ギルドが定めた中でもかなり上の方であったはずだ。というか長い歴史の中で、一番上の七ツ星が"勇者"と呼ばれる二人しか存在しないため、六ツ星は事実上の最高位であるとエルサが言ってはいなかったか。とすれば彼女はそんな位に若くして成り上がった天才ということだ。
確かに驚きはしたが、アレクセイとしては納得もしていた。デーモン化未遂という不測の事態に戦闘不能になりはしたが、彼女の剣の腕は確かであったからだ。ナマズ竜を一太刀で倒したのもそうだし、それまでの道中でも彼女は亜竜たちを寄せ付けなかった。アレクセイが見るにまだまだ本気の程は見せてはいなかったようだから、彼女であれば紫の騎士であっても難なく倒せるような気がする。
しかしそんな在野最高位の冒険者が、わざわざ身分を隠してまでこうして迷宮に赴いているのはなぜだろう。少なくとも、依頼の金貨百枚が目的ではないのは確かだ。
「君は伯爵とは別口で、フリアエを捕らえに来たのか?」
「う~ん、そうとも言えるし違うとも言えるかな。少なくとも私には彼女が無実に思えたから、どの道そのように報告するつもりだったよ」
「報告、ですか?」
「うん、詳しくはここを出てから話すとするよ。ちょうど私の雇い主も、こっちに着いたようだしね?」
そう言ってクレアは、懐から≪念話オーブ≫を取り出したのだった。