英雄の終わり
初投稿です。よろしくお願いいたします。
「ここまでだ、魔王よ」
騎士はそう言うと目の前に跪く相手、魔王に剣を向けた。
その騎士は、呆れるほどの大男であった。
その身体は分厚い白銀の甲冑で、一分の隙も無く覆われている。面頬すらない大兜には僅かなスリットしかなく、表情を窺い知ることはできない。
左手に持つのは、自身の巨躯すら覆い隠すほどに巨大な長方形の大盾である。鎧と同じく白銀に輝く塔の盾は、これまであらゆる攻撃から男を守ってきた。
右手に持つ長剣は特別な力を持つ聖剣で、その刀身は青く輝き、しかし今しがた斬った魔王の血をその身に這わせていた。
男の名はアレクセイ・ヴィキャンデル。
北方王国ヴォルデンの四騎士の一人にして、"竜殺し"と呼ばれる勇者。またの名を"竜鱗のアレクセイ"という剛の者である。
アレクセイは眼前の敵にもはや力がないことを確かめると、油断なく周囲を見回した。
アレクセイと魔王以外にも、先ほどまで彼らの周囲では多くの戦士たちが戦っていた。アレクセイと同じように、全身甲冑にて武装した騎士たちだ。
アレクセイの部下であり戦友でもある彼らはみな傷ついてはいたが、自分たちの将であるアレクセイが遂に魔王を下したのを受けて、歓喜の声を上げている。
一方地に倒れ伏し、あるいは傷つきうなだれているのは、魔王の配下である闇の軍勢の者たちであった。青い肌を持つ魔族の騎士に、灰色のダークエルフの術師。あるいは獣の頭を持つ様々な種類の獣人戦士たち。
彼らの絶対なる支配者であった魔王が敗れたいま、この者たちに抗う意思はなかった。また、その力のあった者たちは全て息絶えていた。
この戦の勝敗は完全に決したといってよいだろう。
これで多くの犠牲を出したこの戦いも終わる。アレクセイは小さく息を吐くと視線を魔王に戻した。すると彼の背後から戦場らしからぬ穏やかな声が聞こえてきた。
「ついに成し遂げられたのですね、あなた」
現れたのはやはり長身の大女であった。しかし並みの男より大きな女だからといって、誰も彼女を醜女とは言わぬだろう。
女神の再臨と言われるほど相貌は整い、その肌は新雪のように白く、シミひとつありはしない。豊かな唇は紅を引かずとも艶やかで、戦場ですらなめまかしい。腰まで伸びる金の髪は上質の絹のように滑らかで美しく、輝くアメジストのような紫の瞳には優しげな光がたたえられている。
胸や腰も女性らしく豊かであるが、今は鋼の鎧に曲線を描くだけだ。それでもスカートのような腰布の切れ目から、足甲に包まれた脚が垣間見えるたびに、ある種の妖艶さを感じずにはいられない。
女の名はソフィーリア・ヴィキャンデル。
いくさ場に不釣り合いなほど美しいこの女はアレクセイの妻であり、またヴォルデン神官戦士団を束ねる長でもあった。
彼女もまた戦士として夫を支え、配下の神官たちを率いてこの戦場を戦い抜いたのだ。短槍を振るい奇跡を駆使して戦った彼女の姿は、まさに神話に伝えられる戦乙女そのものだろう。
「うむ、そちらも無事であったか、ソフィーリア」
アレクセイは今度は視線を動かすことなく言った。"白竜の聖女"と呼ばれる彼女を害せるものなど、そうそういるはずもない。ソフィーリアは直前まで魔王配下の将と戦っていたはずだが、アレクセイは彼女が敗れるはずがないと信じていた。
「えぇ、私の方は大丈夫です」
アレクセイの傍までやってきたソフィーリアは後ろを振り返った。
そこには彼女が打倒した魔族の女が倒れていた。魔王の側近でもあった女もまた、かなりの使い手だった。だが今は血に濡れ、絶望の表情で魔王を見つめている。その瞳に込められた想いを、同じ女であるソフィーリアは理解しているのだろう。彼女はそっと夫の腕に触れると、悲し気に目を伏せた。
けれどもどちらかが倒れねばならない戦いである以上、彼女にはどうしようもないことである。
アレクセイは優しくソフィーリアの手に触れる。彼女は頷くと夫の隣に立ち、厳しい目で魔王を見据えた。
「……我らは、敗れたのか」
それまで苦し気に顔を歪めていた魔王が呟いた。その声は意外にも静かで落ち着いており、王国の民を恐怖に陥れた魔族の王としては、穏やかにすら聞こえるだろう。魔王は周囲を見回してからアレクセイに尋ねた。
「我らの民も殺すのか」
「ああ」
「我らがそうしたようにか」
「ああ」
淡々と尋ねる魔王に、アレクセイもまた平坦な声で答えた。
魔王率いる魔族の軍団に滅ぼされた町や村は多い。失われた命は数多く、民の守護者の騎士たるアレクセイがかけるべきは慈悲ではない。神の信徒たるソフィーリアも、これには口を挟まなかった。
アレクセイと魔王の視線がしばしの間交錯する。魔王の真っ赤な双眸は、アレクセイの兜の奥の紫の瞳を見つめている。
やがて魔王は目を逸らすと俯いた。アレクセイは妻を後ろに下がらせると一歩前へ出る。
「何か最後に言い残すことはあるか?」
「……無念だ」
魔王は再びアレクセイを見上げるとただ一言、そう言った。アレクセイは頷くと、魔王に向けた剣を引いて垂直に構え宣言する。
「ヴォルデンが君主、竜王ジグムント一世の名において、余、ヴィキャンデル家のアレクセイが汝を死刑に処する」
アレクセイが迷いなく聖剣を振るうと青い軌跡が宙に走り、魔王の首を胴より切り落とした。
それを見たヴォルデンの騎士たちが、再び勝鬨の声を上げた。対して生き残った魔王の配下の者たちの表情が、今度こそ絶望の色に染まる。件の魔族の女もまた、静かに涙を流していた。
魔王は死んだ。
その軍勢が完全に滅びたわけではないが、王を失った彼らに反抗する力は残ってはいないだろう。
アレクセイは今度こそ本当の安堵の息を吐くと、ソフィーリアを振り返ってそちらに歩み寄った。そして愛する妻の身体を抱き寄せる。ソフィーリアもまた、アレクセイの胸甲に頬を寄せ目を閉じた。しばしの間そうしていた二人であったが、あるときソフィーリアが驚いたように身を離した。そしてアレクセイの背後を見つめ、微かに眉を顰める。
「どうした?」
「いえ、何か……これは!?」
ソフィーリアが声を上げたその時、アレクセイの背後に強烈な光の柱が出現し、辺りを激しく照らしだした。
夜明けの空をまばゆく照らす光は、しかし妖しく禍々しい。
歓声を上げていた騎士たちも、うなだれていた魔王の兵たちもみな一様に目を見開き、声もなく光の柱を見上げている。
振り返ったアレクセイは、それが魔王の身体から天へ溢れているものだと気づくと、盾を構え妻の前に立ちはだかった。魔王の死体の周囲の地面には見たこともない魔方陣が出現しており、そこから黒い靄のようなものが溢れ出ている。
「下がるんだソフィ!」
「そんな……こんなことが……」
何かを感じ声を震わせる妻を見て、アレクセイは仔細を尋ねようとした。だがその前に自らの目に映ったものを見て驚愕した。
魔王が、起き上がろうとしていたのだ。
首の断面からは血ではなく、魔方陣のものと同じ黒い靄が立ち昇っている。首のない魔王は迷うことなく、転がっていた頭を拾い上げた。そしてさも当然のように、本来あるべきところへと戻してしまう。頭はまるで吸い付くように胴体とひとつになり、切り口もまた嘘のように消えてしまった。
目の前の異様な光景と、感じたこともないような邪悪な気配を前に、アレクセイたちは動くこともできない。
やがて魔王は調子を確認するように首を回すと、立ちすくむアレクセイらを見て笑った。酷薄な笑みを浮かべる顔は間違いなく魔王のものであったが、アレクセイはその金色の瞳に、かつてないおぞましいものを見て身震いした。
しかしアレクセイは足に喝を入れ、大盾を構えて剣を握り直した。蘇ったのならば死に切るまで首を撥ねればよい。いかなる魔性といえどもこの大盾に防げぬものはなく、刃さえ届くのならこの退魔の聖剣に斬れぬ闇などないからだ。
闘志の衰えぬアレクセイを見て、魔王は面白げに頬を吊り上げた。
「いつの世も一角の強者はいるものよ。だが……」
魔王が掌をかざすと、そこから真っ黒に燃える炎が現れ、アレクセイ目掛け一気に噴き出した。黒炎の威力は走ったあとの地面を"焼き抉る"ほどで、呑み込まれた瓦礫は瞬く間に塵と化す。
アレクセイは腰を落とし背後の妻をかばうように盾を構えると、迫り来る炎を受け止めた。聖なる加護を受けし大盾は、眩い光を放って黒炎を跳ね返す。
それでもアレクセイは、かつてないほどの衝撃をその身に感じていた。これほど強力な攻撃は、今までのどんな戦場でも感じたことはないものだ。
邪悪な炎を受けてなお無傷なアレクセイたちを見て、魔王は目を見開くと再び愉快気に笑った。
「その盾にその加護……貴様が今代の女神の騎士か。しかし今の俺は鬱憤が溜まっていてね、悪いが憂さ晴らしさせてもらう」
そう言う魔王が両手を天に向けると、途端に周囲の邪気が濃密になる。アレクセイはそうはさせじと斬り込もうとしたが、ソフィーリアをちらと見て一瞬迷ったのち、再び防御の姿勢をとった。
自らの肩を抱き身を震わせる妻を置いてはいけない。アレクセイはただならぬ様子の魔王から目を離すことなく、しかし優しい声で彼女に語り掛けた。
「大丈夫だソフィ。君のことは私が守ろう」
「あなた……」
そう言って彼女が顔を上げるのと、魔王の身体からかつてないほどの黒炎が噴き出すのは同時だった。
黒き炎はぐんぐんと勢いを増して、周囲のすべてのものを巻き込んでいく。そして炎はヴォルデンの騎士も魔族の戦士も関係なく呑み込むと、塵へと変えていった。
アレクセイもまた恐るべき炎の濁流の中で必死に耐えていた。かつてない熱量に意識が遠くなる。それでも後ろにいる妻のことだけを思い浮かべ盾を構え続けた。
やがて東の空に朝日が昇った。永遠に続くかと思われた黒き炎の渦が消えたのは、ちょうどそんな頃合である。
いまだに地面のあちこちで小さな闇の炎が燻っており、各所から黒煙も上がっている。だがそこに立っているのは魔王ただひとりで、あとには焼け焦げた遺体ばかりであった。ほとんどは人の形をしてはいなかったが、中にはしっかりと原型を残しているものもある。
「ほぅ、塵にならず残る者らがいるとはな。常命の者の知恵も馬鹿にはできぬ」
魔王は不敵に言うと、その目に妖しい光がともった。
この日、ヴォルデン王国の魔王討伐軍五千余名と、神官戦士団約千名が命を落とした。
そしてこの時より本格的に、人と闇の軍勢の戦いが始まることとなる。
救世の勇者が現れるときまで、それから三十年の時を待たねばならなかった。