第15話
上品な服装に、華やかなネックレス、ピアスといったアクセサリーをつけ、パトリシアがオープンテラスでコーヒーを飲んでいたのである。
客が疎らで、静かな時間を過ごしていた。
その表情に憂いが、少し見え隠れしている。
服装と表情が違っていたのだ。
何度も外の様子が気になり、行き交う人たちの顔に視線を注ぐ。
珍しく、人と会う約束をしていたのである。
そのオープンテラスは、彼女のお気に入りの場所の一つ。
一人になりたい時に、よく来ている店だ。
人の気配を感じ、顔を上げて視線を巡らす。
確かめた瞬間、嘆息と共にうな垂れた。
待ち人ではなかったのだ。
ただの中年男性だった。
そして、その中年男性が通り過ぎていく。
コーヒーカップの隣にある可愛らしいカップケーキに、全然手をつけない。
その場に、寂しそうにポツンと置かれていた。
何度目かの溜息が漏れそうになった瞬間……。
「パトリシア」
待ち人の声に、嬉しさを滲ませた顔を上げる。
ずっと待っていた。
「せっかくの美しい顔が台無しですよ。あなたに笑顔が一番よく似合います」
透き通るような声が、パトリシアの身体に染み込んでいく。
軽く目を瞑り、ルイの声に聞き入っていた。
「ルイ……」
軽口とも言えるような世辞の言葉に怒りより、ルイに会えたことに嬉しさを増していった。
ルイ以外の人物が述べていたら、即座にその場から立ち去っていただろう。
パーティーで会った二日後に、以前貰った番号を押したのだ。
「来てくれて、ありがとう」
「約束は守ります」
「遅いから、来てくれないのかと思ったわ」
少し剥れた顔を覗かせる。
「そんなことはありません。けれど、待たせてしまって、すいませんでした」
「いいのよ。来てくれたし」
「そう言っていただけると、助かります」
パトリシアの正面に腰掛けた。
同じようにコーヒーを頼む。
コーヒーが来るまで他愛のない日常会話をし、コーヒーを待つ時間が瞬く間に過ぎていく。
手元のコーヒーに口をつけた。
浮かない様子のパトリシアに視線を傾ける。
オープンテラスに入る前から、この近くに潜んで様子を窺っていたのだ。
気づかれないように離れた場所で、彼女の仕草などを観察していたのである。
「何か、心配事ですか?」
話があると呼び出しておいて、話すことに急に躊躇いが出てしまっていた。
なかなか口が重い。
何度も口を開きかけるが、すぐに閉じてしまうのだ。
「あの……」
言葉が上手く紡げない。
心のどこかで出逢って間もない人に、話す話じゃないと言う自分がいる。
(連絡した意味がないじゃない。でも……)
目が泳ぎ、意を決しられない。
心を癒してくれるような優しい微笑みに視線を止めた。
まったく相手を急かせる態度ではなかったのだ。
そんなルイの姿勢が、パトリシアの心を軽くしていった。
自分の気持ちを落ち着かせるために、軽く息を吐く。
自分のことも含め、今まで誰かに相談したことがない。
仲のいい友人は何人かいたが、あまり自分のことを話さず、どちらかと言うと聞き手に回っている方が多かったのだ。
ずっと抱え込んで、どうにか一人で処理してきたのだった。
「あなたが話をしたい時に、話してください。私はいつでもお待ちしていますから」
怒る様子もせず、ただ優しく、穏やかに微笑む。
最近疲れ気味だったパトリシアが、心の底から癒されていたのである。
自然と強張っていた表情に、柔らかさが滲む。
「ありがとう」
「いいえ。学校はよろしいのですか?」
「ずる休みしました」
クスッと小さな笑みが、パトリシアから漏れていた。
「いいんですか? そんなことして」
「構いません。たまには気晴らしでもしないと」
「ですね。こうやって、のんびりするのも悪くありません」
緑に囲まれているオープンテラスのいい匂いをルイが味わう。
綺麗と称されてきたパトリシアが、逆に見惚れていた。
まるで一つの絵のようだったからだ。
不意に、急に呼び出して大丈夫だったのだろうかと、相手の都合も考えず呼び出したことが気になり始める。
「仕事、大丈夫ですか?」
僅かにあたふたと落ち着きがなくなる。
(少し、余裕が出てきたな。ずっと余裕がない顔つきだったからな……)
「そちらからお誘いして、仕事もないと思いますが?」
からかうように、ルイから笑みが零れていた。
「ごめんなさい。もしかして仕事があったんですか?」
しゅんと落ち込むパトリシア。
少し余裕を取り戻しただけで、相手を見定めるまでの余裕を持てなかったのだ。
(いじり過ぎたか? ま、この程度なら大丈夫だろう)
「いいえ。暇でしたよ。ですから、こうやって、気晴らしに来れたんですよ。誘っていただいて、助かりました」
おどけてみせるルイ。
クスッと柔らかい笑みが零れ落ちる。
今度は、相手の様子を窺うことができたのだ。
笑っている姿に、こうやって笑っている方が綺麗だとルイが心の中で評していたのである。パトリシアの写真や、影から見ていた第一印象では、綺麗に整えられた顔だったが、どこか冷たい印象があった。
それは本心で笑っていないと見抜けていたのだった。
落ち込んでいる姿が、似合っていない。
笑っている方が、本来待っている美しさが出ていたのである。
「誘っていただけなかったら、今頃は暇で、退屈な時間を過ごさなければならなかったでしょうね。感謝しています、パトリシア」
先程まで憂いの表情があったのが、まるで嘘だったような明るい表情を覗かせていた。
「面白い人ですね」
「面白いですか?」
「えぇ」
心外だなと言う顔を見せる。
「僕は至って、真面目だと思っているのですが?」
そんな仕草に可笑しさが止まらない。
笑いたい気持ちを押し殺し、自分の見解を口にする。
「あなたが真面目だったら、この全世界の人間が大真面目の人間になってしまいますよ」
「……」
二人は同時に、可笑しさのあまり噴出してしまった。
久しぶりに思いっきり笑い、目じりの涙を拭く。
ひと息つくのに、パトリシアがコーヒーを飲んだ。
伏せていた顔を上げ、優しく微笑んでいるルイを凝視する。
微笑みを絶やさないルイに、なぜこんなに癒されるのだろうと思考を巡らせるが、理由がわからない。
ただ、硬く閉ざしていた心の扉を開いたのは、ルイとの何気ない会話だった。
ルイと話すことで、徐々に重苦しくなっていった心が軽くなっていったのだ。
「聞いて貰いますか? 私の話」
「えぇ」
意を決し、家出中の兄エリックの話を吐露する。
その口調は、とても滑らかだった。
女性問題や暴力事件など諸問題をいくつも犯し、兄エリックが父親から勘当を言い渡され、五年前に家を出されたのである。そして、止められない不甲斐ない自分に怒りすらあったと、その当時の自分の気持ちを最後に付け加えたのだった。
淡々と話し、時に寂しげに話す姿を、ルイが目を瞑り、耳を済ませ、真摯な態度で聞いていった。
話しきったパトリシアが、渇いた喉を潤すためにコーヒーを一口飲んだ。
話を聞いてくれるルイに視線を注ぐ。
「確かに、兄は悪いことをしてきました。でも、それは父を越えようとして……でも、越えられず、ヤケを起こして……。娘の私から見ても、凄く強い人で、怖い人です。そんな父を越えるなんて、とてつもなく無謀なことで……」
二人にとって、父親マードックは大きな存在だった。
どこかで二人は、そんな偉大過ぎる父親に萎縮していたのである。
「偉大な父上、なんでしょうね」
「そうですね」
大きな存在マードックの姿が、目の前に浮かぶ。
とてつもなく、大きな存在だった。
怖くて、身動きができないほどに。
だから、これまでパトリシアは、一度も父親に逆らったことがない。
唯一、あるとすれば、ルイと会って話したことだ。
「偉大過ぎるぐらい。とても怖い人なんです……」
「パトリシア?」
遠い目をする彼女が気に掛かる。
「本当に、越えるなんて……」
無意識にパトリシアの口が動いていた。
「昔の兄は、私を可愛がってくれました。私がいじめられていると、すぐ駆けつけてくれて、助けてくれました……」
成り上がりと言うことで、よく周囲からいじめを受けていたのである。
そのたびに、エリックが可愛い妹を守ってきたのだった。
「……」
二人の父親マードック・モーガンの情報が、頭の中を物凄いスピードで駆け抜けていく。
パトリシアの言葉通り、存在の大き過ぎる父親マードックを越えるのは、一筋縄ではいかないだろうと掠めた。
小物であるエリックが越えるのは無謀と言うのが、ルイの見解だった。
けれど、パトリシアだったら、今後の変貌振りでは越えられる可能性もあると見出していたのである。
たぶんそうした空気を肌で感じ、エリックは家を出て行った可能性もあるなと巡らせていたのだった。
翳りを窺わせるパトリシアのブロンドの髪が、微かに風に揺れる。
鮮やかな緑の瞳が、曇よりと曇っていった。
(せっかく綺麗な瞳を曇らせるなんて、酷い父親と兄だな)
「あの電話の話し振りでは、きっと兄は悪いことをしようとしているんです。たぶん、家に戻るために。それにそれは、父にとっても利益がある……。だから、……家に戻ることを承諾したんです。もう、父にも兄にも、悪いことをしてほしくないです。ですから……」
パトリシアの身体が震えているのに気づく。
綺麗な唇が、僅かに色を失せていることも見逃さない。
(ここ数日、睡眠が取れていないな、愚かな兄をよくここまで愛せるな。どうしたら、こんなに大切に思えるのだろうか……。わからないな……)
「躊躇わずにどうぞ、話してください」
俯きかげんだった顔を、もう一度上げる。
まっすぐに、ルイの顔を視界に捉えた。
「私にできることは、何でもお手伝いします」
真摯なルイの申し出に、口角が緩む。
「お願いです。兄を見つけてください。そして、何をしているのか、調べてください」
ルイの青い瞳を見て、思いつめたような表情で懇願した。
「わかりました。その依頼、お受けいたしましょう」
「ありがとう」
承諾してくれたルイに、ホッと胸を撫で下ろした。
「少しでも、あなたの役に立つならば……」
担当している子供たちを玄関の外まで見送った後、エリックはルッソが待っている部屋に入っていった。
定時連絡をするためだ。
別な団体と、表向きの仕事の打ち合わせの電話をしている最中だった。
ソファに深く腰掛け、電話が終わるのを寛いで待つ。
気づいたルッソも、手短に終わらせることもなく、そのまま電話を続ける。
何気なく外の光景に視線を巡らせ、今後のことに気持ちを馳せていたのだ。
その顔は、子供たちと接していた時の温和な表情とは違っていた。
薄気味悪く笑っている。
そんな表情を、メグにもみせない。
ようやく話を終えたルッソが、受話器を静かに置いた。
受話器を置いた瞬間、それを見計らったように口が開く。
「順調過ぎるぐらい、順調に進んでいますよ」
「そのようだな」
言葉を聞かずとも、入ってきたばかりのエリックの表情で、ことが順調に進んでいることを察していた。
「安心してください」
「ああ。君の顔を見ていれば、わかるよ」
「そうですか」
小さく首を傾げる。
うっすらと笑っていることに、自分自身気づいていなかったのである。
言われても、自分の顔に手を触れてみた。
「どんな顔をしてるんです?」
「気味が悪いぐらいに、楽しそうな顔だ」
「よくわかりませんね」
「ま、いい、それは。それよりも一つ忠告がある。もう少し、身を慎め。大切な時期だ」
ルッソの耳にも、エリックの所業が届いていたのである。
メグ以外の女性に、露骨に手を出していた。
今までは密かに手を出すことがあっても、メグと付き合うようになってからは、女性との関係をできるだけ控えていたのだ。
その虫が、最近では抑制が効かなくなっていたのである。
「ご心配は、無用です」
自信満々に答えるエリックに渋面する。
「エリック」
「でも、その忠告は素直に受け取りましょう。以後、気をつけます」
「信じよう」
クスッと笑っているエリックが、話題を変える。
それに対し、やれやれと首を竦めていた。
「大変そうですね」
受話器を置いたばかりの電話を目で指す。
「何かと、雑用が多くなったからな」
こぢんまりと活動しているボランティアを、もう少し広げないかと言う話と、もう少し面倒を見ている子供たちの数を増やしてくれないかと言う電話の内容だった。
この近辺で、表向きの活動が評判になっていたのである。
不満げに、唇を歪めているルッソ。
いい人を演じることに、うんざりとしていることが手に取るように把握できた。
それはエリックも同類の思いを抱いていたからである。
「頑張ってください。もう少しで、開放されますから」
「そう願いたいね」
「やれますよ。近いうちに」
読んでいただき、ありがとうございます。