第13話
書斎での会話を聞いてしまったが、そんなことは億尾にも匂わせない。
隙を見せないように育てられていたのである。
心の中で鬱屈しながらも、何もなかったかのようにパトリシアは日常を振舞っていた。
でも、その内側では隙間風が吹き抜けていたのである。
父と兄のことが気になって、頭から離れようとはしない。
兄が戻ってくることは嬉しいが、それを手放しで喜べることができなかった。
父親の話し振りでは、とてもいい話には思えない。
兄エリックが父親に利益をもたらすようなことだ。
いいことではない、悪いことだと確信してしまう。
後部座席に座って、ずっと俯いたままだった。
誰かに話を聞いて貰いたい気分が増していく。
「何しているのかしら……」
不意にルイのことが頭を掠めた。
何度か、電話をしようとしたが、最後の決断ができずに数日が過ぎていく。
誰かに相談したいと思った時、なぜかルイの顔が浮かんだのである。
そんな憂鬱な時間を過ごす中で、父親の代理として知人のガーデンパーティーに出向いていった。
卒がない仕草で、パーティーに溶け込んでいく。
いくつもの集団ができ上がっている群れから少し離れ、シャンパンを持ったまま、呆然と立ち尽くしていたのである。
珍しい光景だった。
いつもは誰かと談笑していたのである。
それなのに、一人で過ごしていたのだ。
幾度目かの溜息を吐く。
どうしても、最後の一線を越えることができない。
立場と感情が複雑に入り混じっていた。
自分に対し、嫌悪せずにいられない。
幾重にも色が輝きをみせるビーズが施してある、小さなバックに視線を傾ける。
「ご気分でも、悪いのですか?」
いきなり声をかけられ、その場を取り繕うとする。
「いいえ。だいじょ……ぶ……」
最後まで言葉が出せない。
瞬きを数回繰り返す。
電話をしようかと悩んでいた相手が、数センチ前に立っていたからだ。
「こんにちは」
目を丸くしているパトリシアが、挨拶したルイに返事をしない。
辛うじて持っているシャンパンを落とさずに済んでいた。
「寂しいですね。お返事もしてくれないなんて」
憂いを滲ませる表情を覗かせる。
「あっ、……ご、ごめんなさい。ちょっと、驚いてしまって」
慌てふためくパトリシアに、軽く笑う。
「それでは改めて。こんにちは」
「こんにちは」
先日よりも、軽装のルイに別な印象を得た。
衣装だけのせいで印象が変わった訳ではなく、ルイ自身を窺い、印象が変わったことに気づかなかったのである。
嫌な印象が、どこかへ消えていた。
会いたいと言う思いが強い中で、会えたので、自然の流れで頬を緩む。
「どうかしましたか?」
「えっ?」
「ボーと、していらっしゃったから」
「別に……」
恥ずかしそうに答えた。
立場を弁えると言うプライドが邪魔し、気持ちとは裏腹な言葉が口をついていた。
「そうですか」
柔和な微笑みを崩さないルイ。
消沈しているパトリシアが立ち尽くしていた様子を、ボーイに化けているクロードと共に窺っていたのである。普段の様子とは違い、気落ちしている姿に、何かあったことを察し、ルイが声をかけたのだった。
「お父上の代理ですか」
「えぇ」
「大変ですね。今日も友人の代理です。いかがですか? おいしいですよ」
皿の上に何種類もの料理が少量ずつ、綺麗に盛り付けられていた。
硬くなっているパトリシアに、安らかな笑顔を振りまく。
その笑みにつられるように、心の重さも少しだけ軽くなっていった。
「ありがとう。いただきます」
皿を受け取った。
その皿にあったアボカドのサラダを口にする。
「おいしい」
数日振りに、料理をおいしいと感じていた。
それまで料理を口にしても、父親と兄の電話を耳にして以来、食事があまり喉を通らなかったのである。
久しぶりに食事を取ったような感覚を憶えた。
「そのように喜んで貰えると、選んだかいがありましたね」
皿に視線を注ぐと、好きな食べ物が多く盛り付けられていたのである。
思わず、眉間にしわが寄ってしまう。
「また、調べたんですか」
「いいえ。勘です。直感で選んでみました」
「面白い方ですね。矛盾していません? 調べてみたり、勘だったりと」
「男とは、そういう生き物なんですよ。両極端の行動こそ、似ている行動だと思いませんか?」
首を傾げるパトリシアに話を続ける。
その流れるような仕草に無駄がない。
「その奥底を覗くと、人に嫌われたくないと思うからこそ、両極端の行動をその時に応じてできるんですよ。男とは女性に愛されたいと思い続ける、弱い生き物なんです」
まっすぐにルイを見据えている。
「……それは女性だって同じだと思いますよ。人には嫌われたくないですから。特に自分が好きな人だったら、なおさら……」
徐々に視線が沈んでいった。
皿に視線を注いでいるだけで、いっこうにルイに視線を傾けようとはしない。
どこか遠くを眺めている視線だ。
何か思いつめている表情に気づいていたが、それについて触れようとはしない。
彼女から話すのを待っていたからだ。
「兄弟いますか? 私には兄がいます」
「……兄弟ですか。一応、いると答えるべきでしょうか」
意味がわからず、きょとんとした顔を覗かせる。
「どういう意味ですか?」
「私たちは、特殊なんです」
「特殊?」
「悪いようで、悪くないって感じですよ。それぞれに、干渉しないだけ……と言った方が早いかな。だから、兄弟なのか、そうじゃないのか、わからない関係なんですよ」
笑って答えた。
言葉の意味がよくわからず、パトリシアが眉を潜める。
「あなたにしては、抽象的な表現ですね」
「そうですか」
「えぇ」
「自分自身、よくわからないと、答えた方がよかったでしょうか」
さらに眉を潜めた。
全然、ルイの真意がわからない。
ズバズバと歯に着ぬ言い方をするのが、ルイのイメージだったからだ。
どんな兄弟がいるんだろうと巡らせていると、先ほどの表情より一段明るくなった微笑みでルイが尋ねる。
「パトリシア。あなたはお兄さんと仲がよろしいですか?」
「それはどうでしょうか。兄がどう思っているのかはわかりません。けれど、私は兄を好きです。その気持ちだけは変わりません」
遠い目をしているパトリシアに、哀れみを憶える。
妹が兄であるエリックをこんなにも心配しているのに、それとは気づかずに、バカなことをしでかそうとしているからだ。
(バカを見捨てることができないか……)
ふと、視線を前に傾ける。
そこに見知った婦人の姿を視界に捉えた。
そろそろ潮時かと思い、その場から姿を消すことにする。
「さぁ、お父さんの代理で来たのならば、その役目を果たさなくては」
「えぇ。勿論です」
促され、当初の目的を思い出したのである。
いくつもの集団があるうちの一つの群れに、視線を注いだ。
その視線につられるように視線を傾け、すぐさまにルイに視線を戻した。
「一つ、よろしいですか?」
離れたい気持ちを出さずに、ゆっくりとその言葉を汲み取り、話を聞く体勢をしなやかにとったのだ。
「もし、あなたなら……」
真摯なパトリシアから、視線をはがさない。
「悪いことを起こそうとしている、親しい人がいたら、諌めますか?」
「親しい人ですか……」
ルイが右手で自分の顎に触れる。
苦悩を窺わせる言葉で、エリックが何かしでかそうとしているのかと頭を巡らせていた。
食い入るように、言葉を待つ。
その表情は、何かを期待するような表情だ。
「わかりません」
ルイの一言に、がっくりと肩を落としてしまう。
何か答えを出してくれるだろうと期待していたのだ。
だが、結果はそれを遥かに超える答えが返ってきてしまった。
「今の僕だったら、流れにそのまま身を任せるでしょうね」
「……任せる?」
不透明な返答に、首を傾げた。
優雅に微笑むルイ。
美しいルイの顔に見惚れている。
「でも、決断するのは、その時にある思いじゃないでしょうか」
「思い?」
「思い、もしくは勇気。今の僕には欠けている。必要ないですから」
「どうして?」
揺らぐことなく、ルイに視線を注いでいる。
「何か、勇気を持って行動したいなんて思わないからです。現状のままがいい、それだけです。変ですか?」
何気にルイが笑ってみせた。
「面白い方ですね。やはり、あなたは」
「そうですか」
知りたいと思えば思うほど、わからなくなり、もっと深く知りたいと思うようになっていた。
「えぇ。それでは、私、参ります」
軽くお辞儀してから、パトリシアが一つの集団の群れに入っていった。
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