03
「――以上が、コトの経緯です……」
「ふうん」
場所は、もすらの自室。
純和風の外観からは想像できない程に、純洋風の内装だった。
大きな天蓋付きのベッドに、ロココ調の箪笥や化粧台。天井まである本棚が壁一面に並び、隙間なく様々な書籍が並んでいた。勉強机と兼用と思われるローテーブルには色んな雑誌が乱雑に置かれていて、ベッド脇にある小さな台には、薪くんとの写真が置かれていてた。
「なあんか最近様子が変だと思ったら、やっぱりそういうコト」
抑揚の少ない、平坦な声で。
それでも、その小さな体躯に反し、彼女にはぴったりの大人びた声で。
どうやら最近の私は、もすらに心配をかけてしまうほどにおかしな態度を取っていたらしい。
となると。
「……相馬くんにも変な風に思われてるかな?」
おずおずといった具合に、訊いてみる。
けれどもすらは、
「相馬くん、ねえ」
元々感情が表情に出にくい彼女ではあるけれど、それでもその発言の意図するところがわからなかった。
「え、なに?」
「いいえ」
ベッドに座る彼女は、足を投げ出すようにして。
「いつもは空蔵くんなのに、相馬くんて呼ぶのね」
そう言った。
薄く、笑いながらそう言った。
「え、あ、いや」
その指摘に、思わず言い訳を探すけれど、咄嗟に上手いものは出てくるはずもなく。ただあたふたと醜態を晒すばかりだった。
「安心なさい」
けれど彼女は。
私のその様子を気にする風でもなく、
「彼、相当鈍いから。けれど、なんだか様子がおかしいな、くらいには思っているんじゃないかしら?」
「やっぱりそうかあ……」
そうすると、明日会ったときにでも何か言い訳しといたほうがいいのかな?
「けれど――」
もすらは、部屋着として着ている単衣の乱れを気にすることなく、ぐうっと大きく伸びをした後に、
「普段も今みたいに名前で呼んだらいいじゃない。なぜ名字で呼ぶの?」
至極不思議だという風に訊いてきた。
かわいらしく肩を寄せて、小首をかしげながら訊いてくる。
「そ、そんな、名前でなんて……」
「恥ずかしい?」
「う、うん」
自分で言うのもなんだけど、子供みたいなことを言っているのは分かっている。今の時代、男友達を名前で呼ぶのが恥ずかしいなんて、少数意見なのだろう。
けれども、理屈じゃない。
普段、彼の名字を呼ぶだけであんなに胸がドキドキするのだ。
名前で呼んだら死んでしまうかもしれない。
「だから恋豆のことも名字で呼んでいるの?」
「いや、薪くんは別に」
何とも思っていない。
薪くんは薪くんでしかなく、それ以上でも以下でもない。
単にもすらの許嫁兼恋人であり、私はその友人であると言うだけだ。名前で呼べと言われればそうするけれど、なんとなく。名前で呼ぶ理由もないし、それに礼儀として名前で呼んではいけない気がしてそうしているだけだ。名前で呼んだからといって失礼にあたるわけではないけど。なんだろう。育ちのせいなんだろうか? 男子は名字で呼ぶもので、女子は名前で呼ぶものだと教えられていた。例外として恋人や好きな人、ということだ。だから、薪くんから名前で呼べと言われない限りは、彼を名前で呼ぶことはないように思う。
ああいや――やはり薪くんを名前で呼べと言われても無理かもしれない。そうしたら、相馬くんのことも名前で呼ばないといけない気がする。バランス的に。薪くんだけ名前で呼んで、相馬くんだけ名字で呼ぶのもなんだかおかしな話だ。
でも、彼を名前で呼ぶなんて……それは駄目だ。
頭が沸騰する。
「ふうん」
「それにほら、レンズって聞こえるじゃん?」
「聞こえたとしても誰も困らないのじゃない? 私たちの中に眼鏡をかけている人がいるのなら分からなくもないけれど、そうでもないわけだし」
「それにほら、仙豆って聞こえるじゃん?」
「そう聞こえるのなら少し聴力が落ちているわよあなた。それに聞こえたとしてもカリン様がいるわけでもないのだから問題ないでしょう?」
「まあ、そうだね」
だとしても名前で呼ぶことはないのだけれど。
それでも、万が一。
万が一ではあるけれど、相馬くんのことを名前で呼ぶことができるようなったのなら、薪くんのことも名前で呼ぶことになるのかもしれない。
「恋豆には相談したの?」
クッションに座っていた私は、お尻が痛くなってきて態勢を変えようとした時、もすらがそんな事を言ってきた。
「いや、できないよさすがに」
「なぜ? 恋豆は空蔵の親友じゃない。相談したら上手くいくんじゃない?」
「上手く?」
「ええ、上手くすれば付き合えるかもしれないじゃない」
「え」
驚いた。
今の今まで、彼と付き合うという選択肢が私の中に存在しなかったことに驚いた。
「? 付き合いたくないの?」
「……どう、なのかな」
付き合う……付き合うか。
そりゃあ、うん。
付き合いたい、と、思う。
たぶん。
もすら達のように、仲良く手を繋いで帰るというのも憧れるし、休日に二人でデートとかもしてみたいと思わなくもない。
けれど、
「正直、今はよくわからないかなあ」
それが、現在の私の正直な意見だった。
「無欲なのね」
枕を抱きかかえ、もすらはそんな風に言った。
「うーん、そういうわけじゃあないんだけどね。ほら、よくあるやつだよ。今のこの関係を壊したくないってヤツ」
「……ふうん」
彼女は、目を細めるようにして、
「私は、今のこの関係を『壊す』のでなく『進展』させろと言っているのだけれど」
そう言った。
「んー、そりゃあ、進展できるのならしたい……いや、やっぱりよくわからないや」
なんだか、そいった『先』のことを考えると、途端に胸がもやもやとしてくる。どういう事だろうか。
「……たぶん、今の私は、付き合いたいんじゃなくて……、仲良くなりたいんだと思う」
そう、現在の自分の心境に結論付ける。
「仲良くしているじゃない」
「そうなんだけど、なんというか、もっとだよ」
もっと仲良くなりたい。
今みたいに、ただ仲のいい友達、というのではなく。
互いに互いの特別になれたらいいなと思う。
「それが付き合うってことじゃないのかしら?」
もすらは、なんだか納得いかないといった具合に眉根を寄せていた。
「なのかなあ? ただ、今の私にはそういう、お付き合いってまだ早い気がするんだよね。なんというか、恋してる実感は持てたけど、これが育つものだっていう感覚はまだ分からないというか……」
「これでもし付き合って――付き合えたとして、上手くいく自信がないという事かしら?」
「うん、そんな感じ」
なんというか、身の丈に合わない物をポンと手渡されたような気分なのだ。有名スイーツ店の食べ放題券を手に入れたとか、何百万円もするような宝石が散りばめられた指輪を嵌められたような。今の私は、それを眺めてにやにやしているだけのように思う。それの扱い方がわかっていない。綺麗に飾っておくべきなのか、思い切って使うべきなのか、指にはめて出かけるべきなのか、それがわかっていない。
これが俗に言う、恋に恋しているという状態なのだろうか?
「でも瑠璃」
もすらは、真面目な声で。
「初めから上手くいくことなんて、あると思う?」
「え?」
「私と恋豆のことにしたってそうよ。初めは喧嘩ばかりだったわ」
「そうなの?」
以外だ。
あんなにラブラブなのに。
二人が喧嘩をしている所を想像しようとしたけれど、どうしても無理だった。二人とも、怒った表情というものが全く想像できない。もすらは基本表情が薄いし、薪くんは喜怒哀楽の怒が欠落しているように思っていた。
「そうよ。たぶん、互いに一目惚れだったっていうのが良くなかったのかしらね。付き合い始めた頃は、会う度に喧嘩していたものよ」
付き合い始めという事は、高校一年のあの頃か。
その頃の私は、付き合い始めなのだからと気を使って、敢えて彼女たちから距離を取っていた。けれど、彼女たちが毎日会っていたのは知っている。とろけるような表情で、それをいつも私は聞かされていたのだけれど。それでも会う度に喧嘩をしていたというのか。
「そんなに頻繁に喧嘩していても、なんていうか、大丈夫なものなの?」
よくわからないけれど、毎日顔を合わせるたびに喧嘩をしていたら、嫌になって別れてしまうのではないかと私は考えるけれど。
「だって好きだもの」
すっぱりと。
斬って捨てるような言葉だった。
「お、おお……なんだか大人だ……」
「そんなことないわ。まだ私、子供よ」
どこか照れたようにはにかむ。
「だからたくさん喧嘩だってするし、正直、もう駄目なのかなって思うくらいの喧嘩もあったわ。けれど、それがどうしたっていうくらい、彼のことが好きなの」
そういう彼女の瞳は、まっすぐとこちらを見つめていた。
「恋豆のことが好きなの」
「好き……」
「いいえ、もはやこれは好きではないわね。愛しているわ」
「あ、愛……」
「ええ。私、火野湖もすらは、薪恋豆を愛しています」
「…………」
こちらが恥ずかしくなるほどの、断言だった。
愛……愛か……。
それで言えば、私のこの気持ちは、やっぱりまだそれほどではないのじゃないだろうか、と考えてしまう。彼女のように、臆面もなく、彼の事を愛しているとは言えそうにない。
「え、ええと……」
小さな声に目をやると、愛を口にした本人が、顔を真っ赤にしていた。
「つ、つまり!」
一つ大きく咳ばらいをし、掌でぱたぱたと顔を仰ぎながら、
「瑠璃から見たら、私と恋豆は、とても仲睦まじい空前絶後のベストカップルに見えるのかもしれないけれど」
「そこまでは言ってないよ」
「見えるのだろうけど!」
断言された。
突っ込みは許されないらしい。
「それでも、初めから全てが上手くいっているわけではないのよ。小さいものから大きな喧嘩もしてきている。でも、それでも彼の事が好きだって気持ちが燻ぶることはなかった。むしろ、喧嘩して仲直りする度に、さらに激しく燃えだした。だからこそ、こうして付き合えているという事なのよ」
言って、彼女は。
ベットから降り、私の正面に座る。
膝が触れ合うほどの距離だった。
「だから瑠璃、恋に臆病になっては駄目よ。女は度胸なのだから。あなたの度胸を見せることで、彼とより一層仲良くなれるという事もあるかも知れないじゃない」
「……うん、そうだね」
親友にそこまで言われてしまえば、頷くしかなかった。
「ええ」
それに、彼女は柔らくほほ笑んだ。
「それじゃあ、もう私が言わなくても――言うまでもなく、やることはわかっているわね」
「あたりまえだよ。何年一緒にいると思ってるの」
思わず噴き出す。
それくらいわかっている。
彼女の言わんとしていることは。
だから、直接それを口にしなかったのは彼女なりの優しさなんだろう。
目を瞑る。
昔、何かで見た方法。
心を空にして、それから一番最初に出てきた人。
それが、自分の好きな人。
もちろん、それは空蔵相馬くんだった。
大きく息を吐く。
ゆっくりと目を開けると、親友の優しい表情。
「私――」
決意を胸に。
頼りない胸ではあるけれど、親友が言っていた。女は度胸だ。
「私、相馬くんに連絡先訊いてみるよ!」
「ふんぬっ!」
目の前で火花が散った。
ゴン! という鈍い音の跡に、ツンと鼻の奥が切なくなって、遅れてジンとおでこが痛み出す。
その衝撃のまま、
「ぐはあ!」
と、毛足の長いラグの上に倒れ伏した。
「あ、ああああなた、な、何を言っているの!?」
おでこを真っ赤にして、酷く動揺した風に、彼女は言った。
「いや、ちょっと待って。まさか頭がくるとは思ってなかったから今戸惑いがすごい」
モスラにそんな攻撃方法があっただろうか。
いや、なかったとしても、糸を吐かれるよりはマシか。そんな姿見たくはない。
「え、ちょ、ええ?」
おお、すごい。
こんな動揺しているもすら、始めて見たかもしれない。
目を白黒させている。
「え? 嘘でしょう? もう高校二年生なのよ? まだ、連絡先を訊いてないって言うの?」
恐る恐る、という風だった。
信じられない物を見るような目だった。
「い、いや、だって……タイミングとかあるし、それに、恥ずかしいじゃん」
「あなた、小学校からの仲でしょう?」
「それはもすらもでしょう。それに、小学校中学校の時は携帯持ってないよ」
痛むおでこを擦りながら、身体を起こす。
「私は彼の連絡先知ってるわよ?」
「え、なんで!?」
そんななんでもない風に!
「だから、恋豆の親友だからよ。恋豆の彼女である私が、彼氏の親友の連絡先を知っていても、何も不思議なことはないでしょう?」
「え、あ、そう……そういうものなんだ」
よくわからなかった。
薪くんももすらも、そういったところは意外とオープンというか、ドライというか、あまり気にしないんだな。
「今まで連絡先も知らないで、どうしてきたの?」
「いや、どうするもこうするも……」
どうにもできていないのが現状である。
だからこそ、こうして連絡先を訊く決心をしたというのだ。
「学校で会う時はどうしているの?」
「どうって、今までは同じクラスだったし、今は薪くんと一緒に会いに遊びに来たりしてるじゃん」
「……帰りは、どうしてるの? 待ち合わせしているとか?」
「? いや、毎日一緒に帰ってるわけじゃないし。都合が合えば一緒に帰る事もあるけど」
「……………………」
絶句された。
顔も心なしか青ざめているように見える。
「あなた、本当に女子高生なのかしら……」
呆れるように。
実際に呆れているのであろう彼女は、額を抑えるようにして深いため息を吐いた。
さすがにここで、額が痛むのだろうか、とは言えなかった。
いや、もしかすると別の意味で頭が痛い思いなのかもしれなかった。
「そんなにかな……?」
さすがに。
彼女のそんな態度を見ていると、自分のしてきたことがとても大きな間違いだったように思えてくる。
「……そんなによ。あなた、この高校生活の一年もの時間をドブに捨てているのよ」
「ドブ!」
「瑠璃、リアクションがうざいわ」
辛辣だった。
親友の眼が怖い。
「あのね、瑠璃」
はあ、と息をついて。
「なにも、私は恋を強制しようってわけじゃあないのよ。けれど、せめて親友が過ごす高校生活は、素晴らしいものであるべきだって願うのよ。それはわかって?」
「うん、わかってる」
「そう、ならそれを承知で訊いて頂戴」
そう言うと、すうっと息を吸い、
「今のあなたは恋さえしていないわ。恋をしているフリをしているに過ぎないのよ。なぜ高校生活の二年目にして想い人の連絡先の一つも訊き出せていないのかしら、本当に馬鹿じゃないの? もっと努力をなさい。恋をする努力をなさい。高校生活なんて一瞬の輝きなのよ。それを掴み取る努力をするのは高校生の義務でしょう? もっと女の又の力を見せてみなさい。そうでないと、あなたはいつまで経ってもぽやぽやしながら『いつか恋をしてみたいなあ』なんて言う羽目になるのよ? それでいいの? 私は、親友のそんな不憫な姿見たくないわ。もしかすると、あなたは『連絡先を訊きだす時はもっと劇的であるはず』とか考えているのかもしれないけれど、そんなことは、ない。たかが連絡先よ。挨拶のついでに訊きだすものよ。それを、未だに訊きだしていない? あなた、馬鹿じゃないの? それと、彼の事が好きだというのであれば、もっと学校での時間を彼のために、自分のために使いなさい。わざわざ私に付き合う必要はないの。あなたはあなたの幸せのために生きるべきなのよ。いいかげん、親離れならぬ、モスラ離れをするべきだわ。あと、帰りに関して。彼は部活動があるから帰宅時間が異なるのはしょうがない。けれど、しょうがないからってしょうがないで済ましては駄目よ。時間が異なるのなら、偶然を装ってでも待たないとでしょう? それを、なぜあなたは先に帰っているの? 馬鹿なの? あなたお馬鹿さんなのかしら? どうなのかしら?」
「…………馬鹿って言いすぎじゃない?」
目尻に若干、涙を感じていた。
「言わなければわからないのなら、私は言うわ」
微塵も引かず、彼女はそう言った。
強い意志を感じさせるような言葉だった。
「言っても分からないのなら、手を上げるわ」
そう言って、実際に手を振り上げて見せた。
けれど。
「ふうん、私の親友は、言い訳も訊かないままに親友に手を上げるんだ」
さすがにもすらの態度に腹がったた私は、そんな事を言った。
いわば逆切れである。
「何かあるのかしら?」
「だから、さっきも言ったけど、今のところ付き合いたいって気持ちはないんだよ! 彼の事を考えると、胸がきゅんとするけど、今はそれだけで十分なんだよ」
「なによ、ぶすっとしちゃって。可愛くないわよ」
「知ってるよ!」
なんだよ!
自分は彼氏がいるからって偉そうにしちゃって!
私には私のやり方があるし、私には私のペースってものがあるんだ。いくらもすらだって私の恋愛に口出しして欲しくない。
「ふうん」
鼻を鳴らすようにそう言うと、
「なら、彼が他の女に捕られても文句は言えないし、訊かないわよ」
最後通牒のような言葉だった。
「え……?」
「あら、まさか知らなかったの? 彼、顔立ちは地味だけれど、意外と人気高いのよ?」
「そ、そうなの……?」
「ええ。とは言っても、恋豆ほどではないけれど」
「…………」
訊いてねえ。
一々自尊心が高い。
「同級生に留まらず、下級生や上級生にも人気があるらしいわ」
「へ、へえ……」
「なぜだか知ってる?」
「いや……、知らないけど」
「あなたのせいよ、瑠璃」
「へ?」
私のせい?
なぜ彼の人気が私のせいになるのだ。
「去年の球技大会よ」
「…………あ」
「全校生徒の観衆の元、同じクラスの女の子を颯爽とお姫様だっこで担ぎ出す彼を見て、年頃の彼女たちが放っておくと思っているのかしら?」
「…………」
そう、か。
あれは、私だけの特別な出来事のように思っていたけれど、当然といえば当然。あの場にいたのは私だけではない。他のみんな――全校生徒の存在を忘れていた。あんな、王子様みたいな真似を全校生徒の前に晒して、ただで済むわけはないというわけか。ともすれば「わたしもあんなことをされてみたい」と考えるのは、女子高生にとって何も不思議なことではないのだろう。
……………………。
「もすら」
「なあに、瑠璃?」
私は。
神妙な面持ちを造り、膝を揃え、衣服を正し。
「連絡先の訊き方、教えてください」
三つ指揃えて頭を下げた。