第一話
目の前には膝を折り、絨毯を自らの血で染めていく叔父の姿があった。
「叔父様……」
ネフィーゼは信じられない思いで、今さっきまで普通に笑いかけてくれていた叔父を見つめた。叔父は絨毯の上に倒れ込み、そのまま動かなくなった。
「令嬢、覚悟」
動かなくなった叔父から抜き取られ、血がついた剣が自分に向けられるのを見たネフィーゼの頭の隅に、何かがかすめた。
「…?」
そんなネフィーゼの動揺などお構いなく、剣が彼女の心臓に向かって突き付けられる。
「待て!」
突然の声に扉の方を見ると、近衛兵の
シラーザが叔父を手にかけたならず者の胸を貫いていた。
「ネフィーゼ様、ご無事ですか」
「私は…」
床に転がった叔父を見たシラーザの顔が歪み、一礼した。
「ネフィーゼ様、厩に馬を用意しております。どうかお逃げ下さい」
「逃げるってどこへ」
「メフィデ様の所に身をお寄せ下さい」
メフィデはネフィーゼの父の従姉妹だ。ネフィーゼは戸惑ったように叔父を見る。
「さ、お早く。私が先導します」
ネフィーゼはシラーザの後に着いて部屋を出た。久しぶりに動かしたかのように足元が揺らいだ。
(叔父様が殺されたー…)
それは、平穏の終わりを告げていた。
ネフィーゼ・リネニオ。
両親を幼い頃に亡くし、叔父の家に引き取られ侯爵令嬢として育てられた。その叔父が何者かに殺され、ネフィーゼは親戚を頼りに慣れ親しんだこの地を逃走する事になった。ネフィーゼには既にその父の従姉妹以外に頼る親戚はいなかった。
(どうして叔父様は殺されたの…?)
そして、自分も殺される所だった。ネフィーゼは涙を拭い、顔を上げた。後で思いっきり泣くんだ。目の前を駆ける騎士の後ろ姿を見ながら、ネフィーゼは心に決めた。
屋敷の裏手に向かう廊下で、もう一人立ちはだかる者がいた。
「お逃げ下さいネフィーゼ様!」
「けど…」
「お早く!」
ネフィーゼは別の部屋から窓を降り、厩に向かった。そこには誰かが馬の手綱を持って待っていた。
「ケイド!」
「ネフィーゼ、早く」
馬屋番のケイドがネフィーゼを馬に乗せた。
「ケイドも一緒に行きましょう」
「俺は表から間者の目を引きつける。ネフィーゼはその隙に逃げろ」
「嫌!私ケイドと一緒に…」
「ネフィーゼ!」
ネフィーゼははっとしたように、ケイドの顔を見た。今まで彼に怒鳴られた事が無かったのだ。
「愛してる。例え、離れていても」
「ーケイド」
ケイドは自らの馬に乗り、飛び出して行った。その後ろ姿を見ながら、ネフィーゼは涙を止める事が出来なかった。
「ケイド…」
しばらく顔を上げる事が出来なかったが、ネフィーゼは意を決したように顔を上げた。
(私がここで泣いていては、シラーザとケイドの思いを無駄にしてしまう)
ネフィーゼは馬の腹を蹴った。
森の中を走りながらネフィーゼはずっと考えていた。叔父の事、自分を守ろうとしたシラーザの事。そして、愛している人の事。幼い時に家を無くしたケイドを父が家に引き取り、両親亡き後家を無くしたネフィーゼとケイドを叔父が二人とも引き取ってくれ、ネフィーゼは本当に叔父には感謝していた。
(ケイド。私絶対に生き抜いてみせる。そして、再びあなたに会うの)
ネフィーゼは次第に暗くなって行く森の奥へと進んで行った。
何日か馬を駆けさせながら、昔訪れた記憶を辿り何とかメフィデの家に着く事が出来た。水で飢えをしのぎながらの走行にネフィーゼは足が震えた。ネフィーゼは馬から崩れ落ちるように降りた。
「生きてた…」
地面に膝を着き、息を整えていると誰かが出てきた。
「どなたですか」
年配の男性が、ドレスがあちこち破れ、靴も片方脱げたネフィーゼを不審そうに見ている。
「メフィデ様はいますか?オヘルディ様が…何者かによりお亡くなられになったと……」
従者が、信じられないという顔をした。
「あなたはもしや、ネフィーゼ様?」
以前両親の葬儀に出会ったネフィーゼを、従者は覚えていたのだ。ネフィーゼが頷く。従者はネフィーゼの肩を持ち、立ち上がらせてくれた。
「どうぞ、こちらへ。今何かお召変えを」
ネフィーゼは首を振った。従者は応接間へと通してくれた。
「メフィデ様は?」
「それが今ヴィシュドルの方へお出になられております」
思わずネフィーゼの足が止まった。
「いつお戻りになるのですか?」
「明日後にはお戻りになります」
(明後日…)
ネフィーゼは考え込んだ。誰が叔父を
殺したのか分らないのだ。
「電報を打ちます」
「あ…はい」
従者がメイドを呼び、その事を伝えるとメイドが奥に引っ込んで行った。
(メフィデ様が叔父様を殺して無いのだとしたら、この危機を一刻も早く伝えなければならない。この従者の様子を見る限り、何も知らない様子だし)
「何事だ」
ネフィーゼが通された応接間に、突如として何者かが部屋に入って来た。白銀の髪をし、北方出身に多い緑色の瞳をしていた。その男はネフィーゼを一目見るなり、目つきを険しくした。
「今度は同情を引く工作か」
ため息と共に吐き出されたその台詞に、思わずネフィーゼの目が丸くなった。
「ジルオ二ア様」
「爺、何故こんな娘を屋敷に入れた」
咎めようとした従者に、白銀の髪の男ージルオニアと呼ばれた男が語気を荒げた。
「この方はオヘルディ侯爵のご息女です」
従者の言葉にジルオニアの眉が動いた。
「侯爵の…?」
ジルオニアが信じられない思いでネフィーゼを見た。
「ネフィーゼ・リネニオと申します」
相手の不躾な態度に苛立ちながらも、笑顔を作りネフィーゼは挨拶した。
「何用だ」
その瞬間、ネフィーゼの顔が固まった。
「…それは」
「オヘルディ様が何者かにより暗殺されたとの事」
従者が代わりに答えてくれた。
「暗殺だと」
明らかにジルオニアが動揺した。
「ネフィーゼ様は命からがらここまで逃げて来られたのです」
「お前が侯爵を殺害したのかもしれないな」
「なっ」
ネフィーゼが二の句を継げないでいると、ジルオニアが彼女の目を見据えた。
「お前は侯爵の姪だろう。財産欲しさに手を出したのかもしれぬしな」
余りの言葉に、ネフィーゼは思わずジルオニアの頬を叩いていた。
「…それだけ動けていれば充分だろう」
(え…)
ジルオニアは叩かれた頬を隠しもせず、そのまま部屋を出て行った。
「……」
ネフィーゼはその場に座り込んだ。
「失礼をお詫びします。言い訳でございすがジルオニア様には、婚約をしたいと言う娘がこの屋敷を良く訪れるのです。なのであんな態度を」
「いえ、詫びるのはこちらの方です。私は自分が逃げてくる事に精一杯で」
従者が驚いたようにネフィーゼを見た。
「あの、ジルオニア様はメフィデ様のご子息なのでしょうか」
「はい。その通りでございます」
従者が頷いた。
(何て失礼だと思ったけど、悪い方では無さそうね)
ネフィーゼはジルオニアが出て行った扉を見つめた。