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『華燭』

先ゐく花そや泡沫と散るらむ【1000文字】

作者: 本宮愁

 先生が死んだ。私の目の前で死んだ。私に言伝を寄越し、傍へ手招いておきながら、見たこともない華やかな女を胸に抱いて水路に落ちた。


 あの夜の様子はどうにも忘れられない。


 婉然と微笑う女の顔は青白く、紅を引いて無理に色づけた唇は、完全な形をして凍りついていた。あれを遊女と云うべきか、はたまた幽女と云うべきか、判りかねる私には、細く覗けた目蓋の奥の瞳と視線が交えたようにも思えて、そぞぞと芯から震え上がった。


 先生は物言わぬ女を胸に飾り、ゆっくりと落ちていった。長々と宙に踊った女の黒髪は、ふつりと切れてしまった、かつて先生とこの世とを結んでいた糸の成れの果てのようにも思えた。


 水路に沈んだ先生の骸は上がらなかった。けれども私は知っていた。彼人はソコで待っている。決して引き寄せてはくれず、私が彼人の最期を演じ、自ずから落ちるのを待っているのだと。


 あの夜の景色といったら、空恐ろしくも美しく、私の頭を支配してやまない。目蓋の奥に、さらには眼球に、やがて脳髄にまで焼きついてしまったかのように、いかなるときも絶えず私の内に再生されるのだ。私は、それを、なんとかして外へ吐きだしてしまいたかった。


 夜気を孕んだ着物が膨れ、ほんのいっとき水に浮いた。やがて流れに呑まれゆく彼らの姿を、私は息さえ忘れて見つめていた。救うでもなく叫ぶでもなく、ほとりに立ち尽くしたまま見つめていた。あゝなんと美しゐのだらう――私は腰を抜かすほど魅入りながら、先生の最期を飾る花となれぬことに胸を灼かれた。


 先生は私に才は無いと言った。私には逃げ癖があるからして、その臆病を治さぬかぎり、決して深淵を覗けはしまいと笑われた。けれども私は、先生の筆ひとつで語られる、狭く深く偏屈な世界を愛することを、どうにもやめられそうになかった。


 先生は私に深淵を見せてやろうと言った。

 私は逃げることを忘れた。


 私は、あの夜を吐きだしたくてたまらず、数えきれぬ画を描いた。花を抱えた先生の背ばかりを描いた。虚像にあってさえ、彼人は私を振り向いてはくれなかった。私があの夜から解放されるためには、私もまた夜に散るより他ないのだと、知らしめられるかのようだった。


 私は、先生の愛を授かるべく、先生に愛されるにたる作品を求むるあまり、今宵、水路に生き着いたのです。こうして居合わせたも何かの縁、貴方もまたこの夜に魅入られたなら、清き流れに身をやつし、水中花とおなりなさい。

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