第六章 「沈黙の島 前篇」
8月10日 PM22:00 日本国沖縄県 宮古島北方海域
海が荒れている。
嵐の直撃こそは避けられたものの、島から遠ざかる嵐の余波は避けようがなかった。宮古島北東より40キロメートルの海を隔て、海上保安庁巡視船 PS109「のばる」は、母港たる宮古島の沖合に在って、その船体はさながら波間に揺られる木の葉を思わせる心細さを呈している。本来なら35ノット/時に達する俊足を以て密漁船を逐い、密航船を追う海の猟犬は、ときとしてひとうねりで船底さえ顕わにしてしまう波濤の上に在って、性能通りの俊足を発揮する機会すら得られず、今となっては予定の哨戒活動に必要な針路を必死に維持することにその全精力を傾注していると言ってもよかった。
敵の気配がする――そしてそれは、日を追う毎に迫りつつあった。
特に海では、排他的経済水域を越えて宮古列島北方は尖閣諸島近海に侵犯を繰り返す中国籍の警備船はもとより、外見だけは民間船を装ったその出自すら判然としない船影は絶えたことが無い。さらに上空では、頻繁に日本の防空識別圏内に侵入を繰返す中国軍機と、それに対処する海空自衛隊の作戦機の間で似たり寄ったりの鍔迫り合いが続いている。終わりは見えなかった。
総トン数では130トン程度でしかない高速警備船たる「のばる」もまた、そうした海空の対峙の一隅を固める端末の一つとして、昼夜を別たずに海原を駆けている。ここ二週間あまり、連日の半分以上を洋上の警戒監視任務に当たる「のばる」が、定係港たる平良港に居られるのは一日のうち四、五時間あまりでしかない。その短い間に僅かな乗員の交替を行い、補給と簡単な整備点検を終えて再び緊張の海へと乗り出す。船としての耐用年限も、それを操る乗員の体力と精神力にも、限界の地平が見えつつあるのが現状であった。先週になって漸く鹿児島から船舶と人員の増援が得られる見通しが付いたのが、救いと言えば救いか……
「レーダーに感、方位0-4-3、距離30」
完全に照明の落ちた船橋の中でレーダースコープを覗きつつ、当直員が声を上げる。船の進行方向に重なる巨大な輝点がひとつ。その存在と針路が事前に知らされた航路情報と一致していることを、国交省の航路情報データベースとリンクした情報表示端末が教えてくれる。
「たしかこの時間帯は、上海行きの船が通過する予定ですが」
もうひとりの当直員が船長に告げる。船名はオセアニック‐アスラン号。航路情報によればノルウェー船籍の17万トンクラスのコンテナ輸送船で、スエズ経由で上海に向け北上中であることがレーダー画面から判る。
「呼び掛けてみるか」
手許のコンソールで、機銃の照準装置とも連動した暗視カメラの倍率を最大に操作しながら、船長は言った。暗視カメラの作りだす緑の視界が、暗黒の中に真白い巨船の影、さらには船を所有する社名であろう、船腹一面を占める「AOL」のアルファベットを鮮明に映し出している。
海上に浮かぶ島……というより大地を思わせる広範な上甲板に満載した四角いコンテナの重なり。それらが船上でひとつの山を形作っているのもありありと見えた。全長で400メートルに達するか否かの巨体。しかしそれすらも荒れる海原の中で僅かにではあるが、例外なく不気味に揺れていた。不審な挙動は無かったが、ただ不気味――船橋に在ってコンテナ船に接近を続ける「のばる」の面々には、それだけが気掛かりに思われた。
『――こちら海上保安庁巡視船「のばる」。貴船の所属及び行先を述べよ』
日本語と英語、双方の言葉から成る定型文を共通周波帯で送る。反応は無かった……というよりその後に聞き慣れない雑音が回線を占め始め、異状はレーダースクリーンにまで波及する。スクリーンを漂白せんかの勢いで拡大する電波の乱反射が無数。巡視船「のばる」が一切の耳目を塞がれたことを悟った時には、「のばる」は船首を徐々に転じ、遭遇した貨物船と並行する針路を取り始めていた――暗視カメラ用の端末を注視していた船員が、上甲板の一角に蠢く複数の人影を見出したのは、そのときのことだ。
「…………?」
厳重に固縛された包装に取付く人影、強く吹き付ける潮風に煽られつつ覆いを剥がされた下から現れたものに、船員は我が目を疑う――
「船長……!?」
名を呼ばれ船長は船員を顧みた。彼の声には明らかな怯えがあった。最大倍率で映し出された40ミリ機関砲の影を前にして――その影が、端末を通じ「のばる」へと突き付けられる。
「回避!……全速で回避!」
絶叫は遅きに失し、さらには機関砲の照準は正確だった。
『――目標、撃破』
『――ECM、現状を維持せよ』
『――こちら対空レーダー、周辺に敵性航空機の機影なし』
船内回線を通じ報告が飛び交っている。その外、トランシーバーで報告を受けるのと同時に彼らの作業は始まる。
全長400メートルに達する巨大なコンテナ輸送船たる「オセアニック‐アスラン」。傍目から見れば、アメリカ海軍の正規空母のそれと遜色ない程に広大な上甲板を、船首から船尾に至るまでコンテナの山に占拠されているように見える一方で、遮蔽物たるコンテナにより巧妙に遮られた空間では、下甲板より引き上げられたヘリコプターがメインローターの取り付けを終えようとしている。「オセアニック‐アスラン」に空母としての機能など無きに等しかったが、船体の長大さと太い全幅に保証された船上の空間は、さながらひとつの飛行甲板と化していた。W‐3中型汎用ヘリコプター。コンテナに囲まれた甲板上に居並ぶそれらは、同時多数機による離艦スペース確保のため交互に居並んでもなお、甲板上には余裕を生じさせていた。
機体両側に設けられたハードポイントに16連装ロケット弾ポッドと、熱線誘導式の対戦車ミサイル内蔵チューブとを繋いだその姿は、機体生来の汎用性の高さを誇示する一方で、見る者の背筋を震わせる禍々しさをも際立たせつつあった。W‐3はポーランド独自開発の汎用ヘリコプターだ。日本で言えば陸上自衛隊制式のUH‐60に相当する。装備の自由度が高いことに加え、武装した兵員を最大で12名搭載可能だ。ロシアの名機Mi‐8を思わせる堅実な設計と調達価格の安価さが、「彼ら」をして本機の使用を決断させるに至った。
甲板上に出揃ったW‐3の一方で、貨物搬入用エレベーターを使い上甲板に引き出されゆくもう一機種――W‐3より一回り大きく、鋭角的な外観を有するそれは、はじめからメインローターを船上に拡げていた。機体側面のスタブウイングに繋がれたロケット弾と対戦車ミサイルの数はW‐3よりも多く、何よりもW‐3のそれよりも絞り込まれた胴体にタンデム配置のコックピット、機首に繋がれた可動式銃身が、同じヘリコプターでありながらW‐3とはその性格自体が全くに違う機体であることを雄弁に物語っている。
その数四、彼ら――Mi‐28「ハボック」武装ヘリコプター――の役割は、いわば火力支援であった。エンジンの眠りを解く唸りを上げるのはハボックの方が早く、完全に始動したハボックの一群は爆音を轟かせつつ甲板上からの管制に従い滑走を始め、漆黒の空へと浮揚を始める。
「オセアニック‐アスラン」の上空で四機は編隊を組む。その眼下の海原に瞬く炎が一点――味方の射撃を受けなおも炎上を続ける日本の海上保安庁の巡視船――が見下ろせる。その間、エンジンの始動を始めたW‐3の一群には兵員の搭乗が始まっていた。軽量ヘルメットと防護グラス、スカーフに覆われた結果一切の表情が無い影の一団。自動小銃や軽機関銃は勿論のこと、狙撃銃、長大な対物ライフル、中には対戦車ロケットの収まったチューブを背負っている者もいる。彼らは黙々として、あるいは何者かの意思に操られる人形のように個性を消し、速やかにヘリの機内に消えていく。彼らの武装は充実しており、さらに動きには一分の隙も無かった。
『――全機、発進』
船首に近い甲板に位置する機から離陸は始まった。巨船の上甲板がターボシャフトエンジンの爆音に満ち満ちていた時は瞬く間に過ぎ去り、離陸を果たした各機は編隊を組むまでも無く南へと機種を翻していく。
『――各員へ、クラブKの投入開始時刻は0130を予定している。それまでに迅速に行動し、各員の業務を果たせ……以上』
『――甲板員へ、ムレナEの搬出急げ。陸揚げは予定通りだ』
先行するMi‐28の後を追う形で輸送ヘリは一群を為し、飛行速度に勢いを付けていった。
8月11日 AM00:30 日本国沖縄県 宮古島近傍 下地島北西部 佐和田ノ浜
暗視装置の円形の視界の中で、海原は愈々苛立ちを募らせているかのように見えた。強風に煽られた海原の蠢きを水平線の彼方まで把握できる程、沿岸監視装置の末端を為す夜間暗視カメラの画像は鮮明で、そして生々しい。
「…………」
偽装網を施した展開地点の右手からは、星空の下で白く艶めかしい肢体を広げる浜辺が肉眼でもはっきりと見えた。昼であれば、展開地域からすぐ西隣の下地島空港で離着陸訓練を繰り返す民間機の姿を、それこそ手に取る様に眺めることができただろう。飛行機好きには溜まらないポジションだ。ただし、即製の歩累に在って沿岸監視装置を与る芝浦 比呂 陸士長にはその手の嗜好が無かったし、民間機の往来は先週の末を境にきっぱりと絶えていた。その代わりに本土からこの空港に居を定めるに至った陸上自衛隊のヘリコプターが、空港端の各所に分散されて翼を休めている。
「静かだなァ……」
と夜空を見上げつつ、柿崎 智路 一等陸士が言った。同僚とは言え、あるいは国土の一部とはいえ前線に在るという緊張感の欠けた口調は、謹直な芝浦士長にはさすがに看過しかねた。しかし一切の照明を落とした歩累の中で見上げた夜空に、彼とてそれまで硬い無表情を保っていた頬を緩めざるを得ない。それほど立派な満点の星空だった。数年前の入隊の前夜、とっくに別れた恋人と一緒に行った地元の海浜が思い出された。
歩累は、佐和田ノ浜を挟む南北の海岸線に点在している。浜はむしろ来るべき敵の予想上陸地点というより、石垣島や本土から増援が向けられた際に、大量の人員と機材、物資を受け入れる窓口となるべき場所と見做されていた。
個々の歩累の間に、徒歩での交通に難渋する程の距離は無い筈だが、周囲はやけに静かだった。本来ならば夏季の歓楽シーズンに湧いている筈の南の島は、中国の国境係争がらみで矢面に立たされた瞬間に多くの来島者をかきいれるどころか、今となっては人間の気配は著しく削がれていた。防衛隊として上陸を果たして幾日かを過ごしそれに慣れたと思った瞬間、孤島の夜には別の意味で静寂が訪れるということに今更ながらに気付く。視覚から賑やかさの消えた、そこに取り残されたかのような静寂――こういう場所で生命を賭すのは、どうも気が乗らない。
『――こちら本部、第二哨処応答せよ。おくれ』
「第二哨処。異状無し」
『――第一哨処と連絡が取れない。無線機の故障と思われる。見て来てくれないか。おくれ』
「第二哨処了解」
『――交信おわり』
交信を切り上げた後、芝浦士長と柿崎一士は互いに顔を見合わせた。
「敵襲スかね?」と柿崎一士。
「え?……無線の故障って言ってたけど」
無線機の故障が滅多にないというわけではなかった。演習でも幾度か経験していることだ。柿崎一士もそれは心得たもので、防護服の下に延ばした手で懐を弄りつつ言う。
「携帯かけてみようかな。友達が向こうの哨処だし」
「お前な……段列陣地に置いて来なかったのかよ」
「演習場だとみんな使ってるじゃないですか」
「ばか。仮にも実戦配置だぞ。上官がいい顔しねえだろうが。直接行って見て来いよ」
「りょーかぁーい」
戦場での「現実」を考慮すれば携帯の使用など有り得ない筈が、演習では私物の携帯電話が部隊間の連絡手段としてかなりの頻度で使用されているという「現実」がある。戦闘配置に就きながら、ふたりもまたそうした「現実」に馴れきっている観があった。銃を執り、歩累から腰を上げた柿崎一士に芝浦は声を掛ける。
「柿崎、敵さんなんかいねえよ。肝試しの積りで行って、すぐ戻って来ればいいって」
「了解です」
柿崎一士は笑う。幽霊を怖がるような年代など、入隊一年目からとっくに卒業していた……というか、こんな綺麗な島に、幽霊など出るだろうか?
「…………」
樹上に在って俯瞰すれば、日本人の配置は手に取る様に判る。
偽装網を施してはいても、闇に馴れた眼は偽装網と周辺の自然との間に生じた不自然を見出すことができた。生まれてからこの島に至る彼女の過去が、偽装網の特徴を知識として得させしめていたからこそ、彼女は敵の配置を把握し得ている。
見下ろした先、ふたつ目の哨処から兵士がひとり抜け出すのを彼女は見る。彼は銃を背負い、最初の哨処の方向へと歩いていく――すでに生きている人間のいない哨処へ。濃緑を基調とした、複雑な迷彩をした日本兵の軍装。それを纏った孤影はまるで散歩でもするかのような軽い足取りで林間に入り、そして彼女の在る樹の許まで達した。
「――――!」
樹から落ちて来た質量と精神の衝撃。それが、彼女が狙った自衛隊員が最後に抱いた記憶だった。衝撃に姿勢を崩され、それに抗する間もなく彼の喉を切り裂いたコンバットナイフ。自衛隊員の絶命を見届ける積りも無く彼女は地上の闇に紛れる。地を這う蛇のように走り、獲物を探し、そして殺せ――軍人として、あるいは傭兵として得た教えに忠実に彼女は木々の間を縫って走り、やがて彼女にとってのふたつめの哨処を見出した。累の中、所在無げに肉眼では見えぬ水平線に目を凝らす影がひとつ――
「柿崎か?」
何者かの気配は察したのか、同僚の名を呼びつつ、隣接する哨処の方向を顧みる自衛隊員。但し彼にとっての死は唐突に、それも彼の思いも拠らない方向から訪れる。哨処の方向とは逆方向の、偽装網の間隙を縫い飛び込んで来た影、勢いを付けて繰り出された掌打で鼻を折られ、巌の様な膝蹴りがそれに続いた。訓練された自衛官たる彼の力を以てしても、防御と反撃が追い付かない素早さとタイミングだった。倒れた頭に蹴り下された重いタクティカルブーツ、脛骨の折れる音を彼女は聞く。死が訪れる直前、その日本兵は見たはずだ。悪鬼の如きスカルフェイスのバラグラバから覗く、烈しいブラウンの眼光を――
「――ヘドヴィカ、敵第二哨処を制圧。掃討を続行する」
イヤホンマイクに告げるのと同時に、ごく近傍が烈しく燃え上がるのを気配として感じる。彼女と同じく浸透を果たした同志の手により、下地島の海岸線から後方に配された対地/対水上警戒レーダーが破壊されたことを彼女は察した。当初の予定通りだ。そしてこれより向かう先で蠢く気配がより数を増し、慌しくなり始めるのもまた想定内。再び視線を巡らせた先で、不用意に点けられたフラッシュライトが木々の間を忙しげに廻っているのを見る。その数五、異変を嗅ぎ付けた自衛隊が交通路を伝いこちらに向かって来る。
光が過ぎり、返り血に汚れた腕を僅かに照らし出す――血に染まった、禍々しい頭骨の刺青。
「…………」
バラグラバの下で、ヘドヴィカはほくそ笑んだ――お楽しみは、まだまだ続く。
『――降着予定地点に脅威の兆候なし。海岸線到達まであと三分』
『――フェンリル、降着予定視点の掃討は完了した。予定通りだ。降着の後空港掃討に掛かれ』
『――フェンリル了解』
海面を舐める様な超低空飛行が急上昇へと一変する。急上昇と同時に海岸線の全容、そして敵軍の配置が下方赤外線監視装置の液晶画面の中に広がる。四機のMi‐28「ハボック」は一斉に編隊の間隔を開き、佐和田ノ浜と下地島空港とに挟まれた一帯を囲い込む態勢を取った。戦術情報表示端末の中でDLIRが作り出す暗灰色の世界、機材や装備から生じた排熱の炎が揺らぐその中で、所々に斃れる人体の輪郭こそ捉える事が出来ても、動いている者は一人もいない。観光客を偽装した「先遣隊」による掃討が完璧に、そして徹底的に行われたことは明白だった。
否――動いている者はいた。降着に適した地上に在ってヘリに向かい手を振る影がひとつ。その頭と胸に点滅するIRマーカーが、先遣隊であることをDLIRの操作画面の中で雄弁に主張している。W‐3汎用ヘリが先行し、そして人影の遥か頭上で停止する。下されたファストロープを伝いキャビンから続々と人影が地上に向かい始めるのに停止から一分も過ぎていなかった。目を外に転じれば、装着していた暗視装置を通した視界の届く限りの各所で同じような光景が繰り広げられている。滝水の落ちるように舞い降り、近辺に散開を続ける完全武装の兵士たち。交信が切替り、地上で展開を果たした部隊からの報告に、Mi‐28のパイロットはスロットルを開き上昇しつつ方向を転換するのだった。
『――先遣班よりフェンリルへ、国道に車列の侵入を確認、日本の増援部隊と思われる』
「――フェンリル了解」
火器管制装置を対戦車ミサイルモードに切換える。頭頂部の照準装置が廻り、空港から幹線道路を東へ向かう車列をコックピットのMFDに映し出した。画面の中で、火器管制装置が捉え得る目標全てにシーカーが重なって止まる。躊躇する理由は無かった。
「――掃討する……!」
スタブウイングから放たれた対戦車ミサイルは四発、それらは車列の前部と後尾、そして中央に突っ込んで炸裂し、部隊の移動を完全に停めた。即座に前に出たW‐3の両側面が煌めき、ロケット弾の矢束が車列に集中する――着弾の炸裂は光と火の絨毯を為して国道に広がり、破壊と死を拡大再生産していく。
『――母船より各隊へ、クラブの着弾まで後二分』
DLIRの操作画面の中、疎らな木々を縫い戦闘員の前進が始まる。完全に脅威が消えたことで、地上の動きには躍動が生まれ始めていた。小銃を構える者、狙撃銃を構える者、分隊支援機関銃を背負う者、対戦車ロケット砲を抱えた者、分解した迫撃砲を運ぶ者……彼らの息遣いすらDLIRの画面に映っているかのような鮮明さだ。
『――着弾まで10秒……9、8、7、6……3、2……ゼロ!』
「――――!」
対戦車ミサイルのそれよりも烈しい着弾の火柱が生まれ、旋回を繰り返すヘリの機内にまで光芒を投げつけて来た。編隊は乱れ、衝撃波に煽られ姿勢制御により動揺を鎮めんとあがく機上から、攻撃ヘリの操縦士は終末の光景を見出す。
同時多発的に海岸線上、そして空港に着弾した数多の巡航ミサイルの生み出した破壊と衝撃――それは始まりの光景だった。
8月11日 AM02:30 日本国東京都 総理大臣官邸
統合幕僚長 海将 佐々井 忠一が彼の幕僚を伴い、東京都中央区は総理大臣官邸に入った時には、振り払い様も無い程の重々しい空気が漂っていた。官邸地階の官邸危機管理センターに詰めた閣僚と政務官らの表情は総じて青く、中には目の焦点が合っているのかさえ疑わしい者もいる。それも当然だろう。有事、それもいきなり天から降ってわいた様な有事の到来に、当事者として必要な覚悟をするための余裕……言い換えれば時間的余裕が追い付いていないのだ。口では国民に対し有事に対する備えの必要性を唱えつつ、その実自分たちの心に何の備えも為されていなかったことに対する苛立ちと、そんな彼らに対する同情――内心でせめぎ合うそれらを持て余しつつ、佐々井海将は会議室の広範な円卓の末席に腰を据えた。上席の主たる内閣総理大臣 眉村 浩香をはじめ、安全保障に関わる少数の閣僚の姿が未だ見えなかった。
「統合幕僚長」と、佐々井に声を掛けて来た者がいる。国家安全保障局局長 伊豆 駿治郎。外務省出身だが、自衛官たる佐々井とは十年に亘り公私の付き合いがある。立ち上がり一礼しようとする佐々井に、そのままでいること、隣席を借りる旨とを素振りで告げ、佐々井は硬い微笑でそれを請けた。
「大変なことになったよ。敵の奇襲だ」
「存じております」
「攻めて来た敵がどうやら中国軍では無い……ということは?」
「それも……」
存じております……と続け掛け、佐々井は口を噤んだ。中国の正規軍が正面から侵攻して来るという想定の他、民間人に偽装した工作員が島内に浸透し、制圧に準ずる破壊工作を仕掛けて来るという想定は以前からあった。敵が国籍を明らかにせず、北京も公的にはすでに南西諸島に対する不介入を宣言している以上、後者の可能性は勘案せられるべきであろう。だが――
「正直、我々と致しましても前代未聞ではあります。武装ヘリに巡航ミサイルまで保有している『ゲリラ』というものは――」
「佐々井君、我々が今為すべきは敵の分析よりもまず、いかなる敵であれ彼らを宮古島から追い落とすことではないのかね?」
「仰るとおりです。局長」
「ではいま此処で聞いて置きたい……できるのか?」
「できないとは言えませんな」
「…………?」伊豆は佐々井を見返した。表情の無い、見方によっては憮然とも取れる佐々井の表情が、冷たい眼光を伴って伊豆の顔を覗く。
「できると言い切るためには、やはり文民の協力を得ませんと……特に現下の法制下では」
「成程……そう来るか」
苦笑交じりに伊豆は嘆息した。
「現在総理は電話会談中だ。アメリカの大統領と」
「それで……宮古島の件については何と?」
「私が把握しているところでは、敵の正体が明確にならない以上、安保条約の全面発動は当面避けるべき……という点で二人とも一致している。ただし情報収集に関し協力はするとアメリカ政府は言ってくれている」
そう言って、伊豆は佐々井の表情を読む様な眼をした。「どうかね?」と、彼の眼は佐々井に聞いていた。
「それで結構です」
佐々井は言い切った。米国との同盟こそあれ、自力で自国領を守れないのでは話にならない。室内を行き交う秘書官や官僚で上席の付近が不意に慌しさを増し、伊豆が何かを察したように自身の席に戻る。それからホワイトのスーツに身を包んだ内閣総理大臣 眉村 浩香が会議室に入室するのを、すでに参集に応じ着席していた一同は起立しつつ見る。彼女の一歩後ろに在って足早に上席に向かうのは防衛大臣 渋沢 兵吾と外務大臣 森下 義郎だ。先刻までの電話会談が、単なる二者会談に留まらない重要な意思決定の場と化していたであろうことを、佐々井は上席に向かい黙礼しつつ考えた。
「佐々井統幕長、状況説明を」
一同に着席を命じるや端的に、だがよく透った声で眉村総理は命じた。佐々井は立ち上がり、会議室の壁一面を占める広大な情報表示スクリーンにレーザーポインターを向ける。スクリーン上に南西諸島とその周辺海域の地形図が出現し、宮古島の位置を拡大したところで止まる。そして佐々井自身による戦況要約が始まった。
「状況を説明いたします――」
――8月10日から翌11日に跨る深夜の段階で、宮古島近傍の下地島全土の70パーセントが突如強襲を果たした所属不明の武装勢力の制圧下に置かれている。複数隻の大型コンテナ船及び貨物船を母船とする彼らの接近が、昨日南西諸島を通過した台風に乗じたものであり、急襲自体本土及び沖縄からの戦力集積の未了を突かれた事もそうだが、敵の陣容の予想外に強固なる事が、統合幕僚監部及び陸上総隊の情勢分析に困惑をもたらしていた。下地島に展開していた陸空自の分遣隊は空地からの急襲の報を最後に、現在に至るまで通信を途絶したままだ。
上陸地点及び空港の迅速な制圧を可能にした敵部隊の練度の高さも然ることながら、強襲の開始と期をほぼ同じくして始まった巡航ミサイルによる島全域に対する攻撃。特に巡航ミサイルの第二波は宮古島本島に集中し、ミサイルの直撃は宮古島中部の野原岳に所在する空自レーダーサイトはおろか、展開を果たしたばかりの陸自の索敵、通信機能の悉く、さらには宮古島空港の施設と発電所までも破壊してしまった。まるで部隊の戦力と配置を予め知っていたかのような、悪魔的な鮮やかさだった。こと南西諸島の有事において、自衛隊はこのような敵を想定していない。だいいち南西諸島防衛の要で、沖縄にも近い宮古島にいきなり強襲をかけて来るということ自体、兵理上有り得ない選択である筈なのに――
巡航ミサイル――西側ではクラブシリーズと呼ばれるロシア製の対艦/対地巡航ミサイル発射システムを所属不明の武装勢力が投入したことは、専門家の分析からすぐに察せられた。最大射程370㎞、コンテナ状の発射装置と司令誘導装置という簡易な構成から成るクラブシリーズは、タンカーやコンテナ船を流用した揚陸母船から運用するのに最適の装備だからだ。この方面における自衛隊の「仮想敵」たる中国軍もクラブシリーズに連なる巡航ミサイルをロシアより購入しているが、それは潜水艦発射型で、純然たる陸上発射型では無い筈であった。
強襲が始まった当初、方面航空団司令部は独断で沖縄駐留のF‐15Jイーグル戦闘機二機を以て宮古島上空の戦闘空中警戒を命じている。戦闘空中警戒というのは表向きの命令で、その実際は戦術航空偵察による敵情把握を企図したものであった。順当に行けば空からの即時反撃に繋がる筈であった警戒飛行。だが、そこでは新たな衝撃が航空団司令部、ひいては統合幕僚監部を待ち受けていた。敵の占領下に置かれた下地島には、すでに地対空ミサイルが搬入されていたのである。
NATOコードネーム「SA‐22」。正式名称「パーンツィリS1」と称されるロシア製のそれは、中~低高度の敵性飛翔体に対抗可能な地対空ミサイルと対空機関砲とを組み合わせた野戦用の自走式複合対空システムである。不用意に高度を落として下地島に接近した二機のイーグルは即座に対空レーダーに捕捉され、回避が間に合わず一機がミサイルを被弾。それでも操縦士は飛行を維持し、沖縄近海まで離脱したところで脱出した後救助されている。人的損害こそ無かったが、一連の事態は航空機による反撃を成すのに空自が乗り越えるべきハードルが、決して低くは無くなっていることを上級司令部に痛感させる出来事であった。それも事態の急変が発覚して一時間も経たない内に、である。
「――佐々井幕僚長、敵はどのような手段を用いて装備及び兵員を揚陸しているのか?」
と、眉村総理は聞いた。佐々井のこれまでの状況説明に戦慄した風でも無ければ感銘を覚えた風でも無い。佐々井幕僚長もそうした総理の態度を心得た風に、眉一つ動かさずにリモコンでスクリーンの画面を切り替えて応じる。スクリーンの画面は、灰色の巨大なホバークラフトの写真を映し出していた。そこに再び佐々井の説明が続く――
――敵は軍用のホバークラフトを使い、近海に侵入した母船から物資と兵力を陸揚げしている。母船の正確な所在は不明、しかも敵が下地島に配備した地対空ミサイルが空からの索敵と打撃を著しく困難なものにしている。一方海では沖縄近海に海自戦力の集積を急がせ、近隣の石垣島及び沖縄本島でも増援部隊を乗せた輸送艦の出港を急がせてはいるが、宮古島近海を封鎖するに足る陣容が整うまでにはなお時間が必要であった。
「――幕僚長……敵が中国軍の一部であると仮定して、彼らは先ず宮古島を抑えることで沖縄本島と先島諸島間の海上交通を遮断し、然る後与那国方面からの侵攻を図る意図があると思われるがどうか?」
「――総理と同様の見解は統幕内にもありましたが、そう判断するには敵の行動は些か軽率ではないかと思われます」
佐々井は続ける――現状では物資の揚陸こそ行ってはいるが、海上戦力では日本が圧倒的に優位であり、海域の封鎖は時間の問題である。地対空ミサイルによる空域支配もまた一時の優位でしかない。それに――
「――被害を受けたとはいえ、宮古島に展開する陸自部隊には未だ戦力があります。統幕及び陸上総隊といたしましては、中距離多目的誘導弾及び重迫撃砲による支援の下、空中機動を以て宮古島本島及び下地島に浸透した武装勢力を掃討する所存です」
「武装勢力は早期に、かつ完全に一掃されるのが望ましい。増援として空挺団……あるいは特戦群を宮古島へ早急に送り込むことはできないか?……勿論、武装勢力の防空網を制圧した上で」
眉村総理の口調には感情が乏しかったが、それだけに発言の意図を他者に明確に伝えることに成功していた。兵力の集中投入は短期決戦を成功させる上で必須の要件であり、機動力に優れた軽歩兵部隊たる第一空挺団、特殊作戦群の投入もまた兵理に叶う――総理の発言の正しさは専門家たる佐々井もまた認めるところであった。実際、事あるに備えて宮崎県の航空自衛隊新田原基地、鹿児島県の海上自衛隊鹿屋航空基地に第一空挺団より一個普通科戦闘群、特殊作戦群より一個空挺小隊を分遣させてある。しかしその前に――
「――現在下地島に展開が認められる敵防空システムの制圧に関し、我が方が取り得る対処法といたしましては、F‐2戦闘機によるLJDAMを用いた精密誘導爆撃が考えられます」
LJDAM――レーザー誘導併用式統合直接攻撃弾――は、レーザー検知装置と全地球測位装置と連動した誘導機構を組み込むことで、目標に対する正確な着弾を企図した誘導爆弾である。特に、対空ミサイルの射程外より投下可能な点は、機と操縦士の安全を確保し得るという意味でアドバンテージとなり得る。防空網制圧に続き増援部隊を投入すれば、速やかな形勢逆転が可能になるであろう……そこまで佐々井が説明を終えたところで、紙片を手にした幹部が歩み寄り、佐々井に耳打ちした。幹部と二、三言会話を交わした後、彼は再び眉村総理に向き直る。
「総理、ご報告いたします。現在我が方守備隊が宮古島本島中部、野原岳近傍に敵戦闘員の蠢動を認め、対処行動を開始しております。現在、宮古島上空に展開させた無人偵察機からの映像が届いております」
「出せるか?」
「はい」
総理の問いに頷き、佐々井は着座する幕僚に目配せした。スクリーンの地形図に幕僚の持ち込んで来たノートパソコンから送信されたデータが重なり、それは対空ミサイルの射程外たる高空から俯瞰した宮古島の一角を拡大して映し出す。夜間用の赤外線監視装置の視界の中で、もはや耕す者のいない田畑の広がる一帯を、横に散開して前進する数多の影。そこに現地からの交信が重なる――
『――指揮所、こちら第三中隊。戦闘展開を完了。攻撃開始を0323としたい。おくれ』
『――こちらマル、0323の攻撃開始了解。おわり』
「……掃討部隊か」
と言う眉村総理の声は小さく、会議室全体には届かなかった。