第五章 「覚醒せる大海獣」
8月7日 PM20:00 日本国沖縄県近海の太平洋上
『――IFF照合確認。「とうや」、レーダー半径内に捕捉。右舷前方』
レーダースクリーンを覗く当直幹部の声に、海上自衛隊補給艦AOE-423「ときわ」艦長 二等海佐 福島 覚は指揮シートから身を乗り出すようにした。赤色の夜間照明の支配する艦橋からは、荒漠たる海原は、どす黒いうねりを艦橋要員の視界に広げて威圧して来る。昼過ぎまでは晴天と凪とを以て全能の神の如き気前の良さを見せた海神は、今では洋上における一切の人間の営みに対し気紛れなまでに不機嫌であった。水平線すら隠し尽くす夜が、人間の自然に対する警戒心を増幅していた。
「艦長より達する。総員配置に付け。繰り返す、総員配置に付け。速力このまま強速 (15ノット/時)を維持」
福島二佐が指示を発する艦橋の夜間照明とは違う、黄色の通常照明に支配された上甲板では、灰色のヘルメットと救命衣を纏った甲板員が、配線と機械に埋め尽くされた補給艦「ときわ」の上甲板を鼠の様に走り回っている。全長167メートル、満載排水量15850トンに達する「ときわ」の巨体、滅多な波浪では微動だにしない筈のそれを軽々と上下に揺らす荒々しい波濤の源は、「ときわ」の電子海図台上では南東よりフィリピンに接近中の台風という形で明示されていた。気象庁の予測が正しければ台風は現在フィリピンを狂騒の内に越え、三日後には先島諸島近海にまで達するかもしれない。その予想コース上に、AOE-423「ときわ」と随伴の護衛艦DD-107「いかづち」……そして両二隻が会合を命ぜられた特務試験艦ASEG-001「とうや」が所在する。
その「とうや」と「ときわ」は夜の海上の一点で同航の態勢をとり、次には赤外線灯による発光交信を交わしつつ併走の態勢に入った。速力の微調整は無い。併走から距離を詰め、距離50メートルにまで艦腹を接する間に各艦とも強速を下回らなかったという点で、両艦の艦長はともに互いの操艦技術の尋常ならざることを悟る。
同時に暗夜を重厚なローターの羽ばたきが駆け巡るのを、艦上の誰もが聞く。護衛の「いかづち」、そして「とうや」が艦尾飛行甲板より発進させたSH-60K哨戒ヘリコプターの気配が、速度を伴った質量となって周辺の海域を圧倒しているのだ。二機の哨戒ヘリはハイライン用の索で繋がった両艦の周囲を旋回しつつその半径を広げ、やがては警戒飛行に適した三隻の遥か外周に達する。その間「ときわ」より索に導かれた給油パイプが滑り込むように「とうや」の給油口に挿し込まれ、二隻はそのまま同じ速度と針路を維持しつつ直進を続けた。
「妙な艦ですね。一体何のための艦なんですか?」
と、「ときわ」の艦橋、当直幹部の一人が福島艦長に聞いた。彼に応じる福島艦長の穏やかな眼差しからして、新人の部下の無思慮な質問を咎める風では無かった。横須賀の自衛艦隊司令部より特命を受け、艦船用燃料と必要物品とを積み込んで太平洋上に出たのが先日だが、「とうや」との会合はこの時限りでは無い。それ以前にも4月に一度あれとは会合を果たしている。その時に最初に抱いた印象が、やはり何のための艦か?……初見で訝しがらない方こそ無理があると福島艦長は思う。
「まあ、これからわかるよ」
と、生返事に近い口調で福島艦長は応じた。作業甲板に光を与える投光器の前に浮び出た巨艦の輪郭、多角形の艦橋と煙突、そしてハンガー以外に見栄えのしない、搭載機を持たぬ空母の飛行甲板の様な空虚すら漂う艦影……ただしそれがまったくのまやかしであることを、福島艦長をはじめ「ときわ」の少なからぬ数の乗員が、今では知り過ぎる程に知っている。
『――作業甲板より報告、給油作業終了しました』
「よろしい、パイプ切り離し方始め」
復唱の後、副長が送話マイクを手に甲板へ命令を下すのと、併走する巨艦に明らかな異状が起こり始めるのと同時であった。「とうや」の上甲板、平坦のみと見られていたその内二か所が開き始める。それまで甲板の一部分と見られていたそれが、その実巨大なシャッター式のカバーでしかなかったことに艦橋の少なからぬ要員が驚愕する。しかし驚くにはまだ早い事を福島艦長は誰よりも知っていた。シャッターカバーが完全に開け放たれ、次には警告用の回転灯の蠢きと共に巨大な質量が上甲板へとせり上がって来る――
「――――!?」
この日初めて「とうや」への補給作業に従事した乗員の中で、「とうや」上甲板より外気に晒されたそれを、驚愕と疑いの眼を以て見なかった者はいない筈だ。全長にして「ときわ」より一回り巨大な「とうや」の巨体に負けない存在感を醸し出す金属の塊。その形状に接し彼ら自身の有する軍事的知識、あるいは歴史的な知識から、この場――否、この現代にありうべからざるものの出現に、誰もが圧倒された観があった。
「あれってまさか……」と、併走する「ときわ」の作業甲板で配置に付く甲板員が言う。傍らにいた古参海曹が放心したようにそれに応じる。
「まるで……戦艦だな」
「ときわ」から見て、距離を詰めて併走する「とうや」の上甲板に出現したのは、いわば砲塔であった。汎用護衛艦の標準装備たる120ミリ単装速射砲を前後に引きのばした様な形状の砲塔が前後に二基、だがそこから延びる砲身は一つではない。巨大な鉄塔のごとく横に延びた砲身は三つ――それを目にした自衛隊員は例外なく一つの情景……否、歴史の記憶に行き当たるのだった。今より遡ること半世紀以上も昔、海洋の覇権を支配した強大なる大海獣――戦艦――の面影。しかし外見は補給艦もどきのこの艦に、何故それが宿っているのだろう?
『――弾薬搬入作業はじめ!』
甲板指揮者の命令が、空電音を伴って「ときわ」甲板に響き渡る。初めて接触を果たした頃より波の荒さが多少ではあるが増していた。索に繋がれたコンテナが、「ときわ」の格納庫から揺れつつも「とうや」の上甲板へと達する。コンテナとは言っても外見上は砲弾、そして装薬を4発綴りにしたものでしかなく、稼働を始めた「とうや」の物資搬入用クレーンが受け取ったコンテナを器用に釣り上げ、作業員の補助を得て巨大な砲塔脇の搬入口へと下し入れていく。都合40回以上繰り返された作業が終了するころには、夜は愈々深まり、波間もまた獲物に突き立てる獣の牙のごとき荒々しさを剥き出しにしていた。
『――「ときわ」、離脱します』
「作業御苦労だった」
「とうや」の上甲板に詰める積載作業指揮者からの報告に接したとき、「とうや」艦長 二等海佐 黛 吾郎はそう言ってニコリともせずに頷くだけで、その後に第一戦速18ノット/時への増速と、東への転針を命じた。補給作業を終えて北方へ転じる「ときわ」、彼女の戻る先は定係港の横須賀では無く九州長崎は佐世保で、「ときわ」はそこで沖縄方面での有事に備え待機することとなっていた。「とうや」とそれに続航する「いかづち」にはまた別の任務がある。厳密に言えば「いかづち」の任務は、名目上は試験艦でしかない「とうや」の護衛と、太平洋上で行われる「とうや」の「試験」の支援であった。「試験」に臨む打ち合わせの一切はすでに昼の段階で終わっているから、所定の海域に到達するまでの航海は平穏そのものであった。
そのまま3時間を走っただろうか――
第一戦速を維持しつつ「とうや」は進む。その間に海原からは牙が削がれる様に荒々しさが消え、唸りを立てる風すらも水平線の懐の中に吸い込まれるように消えていく。その後には鏡の如く平穏な海面が原野のように広がるばかりだ。
『――艦長、試験海域に達しました』
当直幹部の報告に、黛二佐はやはり無言で頷いた。そのまま彼は艦橋右端の指揮シートから床に降り、その傍らに在って艦長の一挙手一投足を見守っていた副長、三等海佐 八嶋 慎一に、これから一休みでもするかのような軽い、静かな口調で告げた。
「私は艦作戦指揮室に行く。副長、あとは頼む」
「はっ……!」
原型たる「ましゅう」型補給艦の艦橋構造を踏襲したが故に外観も同じ、そして内部構造も「ましゅう」型と同じ7層から成る「とうや」の艦橋構造物。その最上階が指揮艦橋であるのは当然のこととして、その一層下に戦時に黛が詰めるべきShip’s Mission Center――艦作戦指揮室がある。もちろん、既存の「ましゅう」型補給艦の有するCIC――戦闘情報室――を拡大改装するかたちで設けられた部屋であったが、従来のCICに比して明らかに特異な点は、水平方向のみならず垂直二層に亘り拡張された区画容積と、艦の進行方向を埋め尽くす六面の広角ディスプレイ、それらを取り囲むように配された複数のサブディスプレイに見出すことが出来るであろう。センサーと兵装管制、操艦に係る一切の機能を一室に凝縮したCICの上に、主機関管制と群指揮機能をも付加したSMCの概念自体はアメリカ合衆国海軍で生まれ、近年就役した新鋭駆逐艦 DDG-1000「ズムウォルト」において具現化したものであり、日本海上自衛隊においては多少の方向性の相違こそあれ、「とうや」において試験的ながらも具体化の目を見ることとなった……そのSMCの上層中央部に、戦時において黛が座る席がある。
「――艦長入室する」
艦長たる黛がSMCに入り、指揮シートに腰を下すまでを、SMCの下層に在って注視する者が二人いた。船務長たる一等海尉 曽我 睦郎と砲術長たる一等海尉 櫻井 詩織で、持ち場から起立し彼らの艦長を迎えた二人の幹部に、黛は凡そ教師が学生に対する様な軽い会釈を以て応じた。腰を下した指揮シートからヘッドセットを取り上げ、それが艦内放送に繋がっていることを確認する。眼前に広がる六基の広角ディスプレイ――それら個々に映し出される「とうや」の位置情報、「とうや」の航行状況、そして「とうや」の在る太平洋上から俯瞰した日本列島と南西諸島の地形図――を睨みつつ、黛艦長は深く深呼吸した。まるでSFアニメの宇宙戦艦の艦橋にいるかのようなSMCの配置。ただ一つ違う事は、この「とうや」が宇宙戦艦では無く、ただの「戦艦」であることぐらいか……「戦艦」……そうだ、この艦にはその称号こそが相応しいのかもしれない。
「艦長より達する。本艦は現在第一戦速を以て所定の試験海域を航行中である。今回の本艦の試験は、無視界下での移動目標に対する、無誘導砲弾を使用した遠距離射撃である。試験ではあるが諸君らにはこれを実戦と捉え、日頃の訓練の成果を存分に発揮して欲しい。以上である……総員配置に付け!」
艦長用サブディスプレイに表示された「とうや」艦内配置図。区画ごとに区切られたホログラムのそれが、平時の青から戦闘配置完了の赤へ全て転じるのに3分の時間が必要であった。決して悪くない数字。下層に詰めるオペレーターが全艦の戦闘配置完了を告げる。その後に別のオペレーターの小気味よい報告が共通回線に響き渡る。
『――レーダーコンタクト、敵味方不明の船舶が洋上を南下中。距離50000、速力20……針路051、依然変わらず』
『――レーダー、追尾を続行せよ』
広角ディスプレイの画面は、艦橋構造物頂上を占めるFCS‐3CⅡ射撃指揮装置の主軸たるアクティヴ・フェイズドアレイ・レーダーが、探知した水上目標を順調に追尾していることを示している。移動目標を示す輝点の上に目標の寸法、相対距離、速力と針路を示す数値が重なり、それらは移動する輝点の上で刻々と変動を続けている。
『――敵味方識別装置照合完了……移動目標と確認』
「本艦は右砲戦に移行する。一番砲塔、|火器管制装置捕捉はじめ《ファイアコントロールリンクス》」
『――右砲戦、一番砲塔、ファイアコントロールリンクス』
抑制された、だが耳に心地よい発音で櫻井一尉が復唱する。櫻井一尉の操作で、前方サブディスプレイに映し出された上甲板前方の一番砲塔が滑らかに旋回し右舷を指向した。さながら汎用護衛艦搭載の速射砲のそれと、遜色の無い素早い旋回速度と滑らかな挙動であった。広角ディスプレイの目標輝点を囲むように四角いシーカーが出現する。輝点とシーカーが移動するのに合わせ、サブディスプレイ上の監視映像、その中で「アルファ」こと一番砲塔が小刻みに上下する様子が見えた。砲身の先端に至るまで火器管制装置の統制下にあることを示す、制御された砲塔の動きだ。
『――アルファ、移動目標を順調に追尾中……異状の兆候なし』
「目標との相対距離50000以上を維持せよ」
追尾機能の持続を確認するための命令を指揮シートから発しつつ、黛は四か月前の「初任務」に思いを馳せる。
あの時、フィリピン南方の反政府武装勢力制圧任務に赴いた「とうや」の射撃目標は地上の固定目標であったし、それが当面の「島嶼防衛艦とうや」が対峙することを宿命付けられた仮想敵であった。だが近い将来に、「とうや」が日本近海で相見えるべき敵は、それだけに限るのだろうか?……その「まさか」に備える上でも、移動目標の追尾シミュレーションは必要な手順なのかもしれない。
『――火器管制及びアルファ、移動目標捜索及び追尾を継続中』
試験は始まったばかりであり、この一夜の内に「とうや」が証明するべきことは山ほど存在している。
8月7日 PM21:00 東京 総理大臣官邸
不夜城の森の只中に穿たれた閑静なる空間、そこに吸い込まれるようにして公用車の車列は走り続け、やがては正面玄関の前で列を為して止まった。警備員がドアに取付くよりも速く開けられたドアから、慌しく陸海空自衛隊の制服が降り立ち、出迎えの秘書官らすら置いて行かんばかりの勢いで総理大臣官邸内に踏み込んで行く。官邸地階の危機管理センター。そこが彼らの目指す場所であり、官邸の主より誘われた場所でもあった。
入室認証口も兼ねたセンター入口に佇む人影を、制服組の先頭に立つ初老の男がまじまじと見詰めた。統合幕僚長 海将 佐々井 忠一。この佐々井と彼を補佐する統合幕僚監部の幕僚4名と、佐々井に特に請われて海上幕僚監部より参加した幹部が一名――彼らが、今回の会議に参加できる自衛官の上限であり、これより始まる情勢検討会議において現場を代表し現状を報告し、官邸の主に助言を行う役割を彼らは課せられている。
入口のスーツ姿と佐々井幕僚長が正対する。しばしの沈黙の後、二人は同時に口元を頼もしげに綻ばせた。
「今夜も頼みますよ。佐々井さん」
「ああ……」
スーツ姿、それも自分と変わらない年頃の男を前に、佐々井幕僚長は会釈気味に軽く頷いた。国家安全保障局次長 椙山 充生。現在の立ち位置こそ文民だが、つい五年前までは陸上自衛隊の制服を着て佐々井たちと同じ側に立っていた。国家安全保障に関わる一切の決断を与る国家安全保障会議、その事務組織たる国家安全保障局において三人いる次長のうち一人たる彼は、統合幕僚監部を筆頭とする陸海空自衛隊サイドと政権の橋渡しをする重要なパイプの一人である。その椙山に導かれるようにして佐々井はセンターの入口を潜り、そして会議室の中央を占める円卓に彼の坐るべき席、そして官邸の主を見出した。
内閣総理大臣 眉村 浩香というのが彼女の肩書であり、名前であった。
女性、しかも40代前半という年齢は歴代の内閣総理大臣に比しても、または政治家の世界においても異例に若く、外見から判断する限りにおいては実年齢よりさらに若い印象を受ける。英国の寄宿学校を経て、米国の名門大学を卒業した後に幹部候補生として海上自衛隊に入隊、閣僚経験者でもある有力政治家の父の急死が無ければ、自衛隊内で順当に昇進を重ねて今頃此方側にいたかも知れない「逸材」――自分たちの最高司令官に対し、そのような感慨を佐々井海将は抱いている。経歴から勘案すれば彼女もまた「身内」ではあるのだが、外交と安全保障に関する彼女個人の方針は、むしろ現状維持に近いラインに佇んでいた。つまりは集団安全保障に積極的に参画することなく、受動的な防衛戦略を以て国家防衛の根幹とする……ただし、それを瑕疵無く遂行する上で必要な法整備は行う――というのが彼女のスタンスであり、その点が安保政策に関しより急進的な彼女の競争者を抑え、至高の座に就くに当たり与党の長老連の支持を集めたのかもしれなかった。
その眉村首相の傍らには防衛大臣 渋沢 兵吾と官房副長官 奥田 智宏、そして国家安全保障局を掌る人々が彼女の両脇を固める様に円卓に鎮座している。彼らの前に在っては陸海空自衛隊の統括者たる統合幕僚長ですら一歩引き、単なる助言役に徹せざるを得ない、そして彼の助言を元に文民が下した決断を、現場まで徹底させねばならない……それが、この国の文民統制である。
統合幕僚長の着座を待ち構えていた様に、眉村総理が良く透る声で言った。
「佐々井幕僚長、御苦労様です。さっそく南西諸島における自衛隊の展開状況について説明を――」
「はっ……!」
席から立ち上がり、一礼すると同時に、会議室の壁面ひとつを占めるスクリーンが起動し、九州から国土の最西端たる与那国島に跨る陸海の地形図を映し出す。そこに、部隊及び艦艇を表す指標が重なる……スクリーンにレーザーポインターを向け、佐々井幕僚長は状況説明を開始した。
――現在、陸上自衛隊は南西諸島西端の先島諸島に前進展開を行っている。石垣島には陸上自衛隊西部方面隊第四師団より増強一個中隊が転地訓練の名目で展開し、より北側の宮古島には沖縄に司令部を置く第十五旅団より戦力が分遣された。編成としては普通科二個中隊を基幹とする増強部隊であり、これらが空いた穴を埋め、かつ有事の際迅速な予備戦力展開を可能にするべく、沖縄には新たに第四師団から分遣された一個連隊戦闘団が移動中だ。ヘリコプター護衛艦DDH‐181「ひゅうが」と輸送艦LST‐4001「しもきた」、徴用した民間船舶一隻による展開は8月10日までには完了するだろう。
陸上部隊の迅速な反撃を可能にするべく、南西諸島には空中機動力を充実させる。具体的にはそれは関東の中央即応集団隷下 第1ヘリコプター団より輸送ヘリを分遣することで実現される。同時に、航空支援戦力として九州の第3対戦車ヘリコプター隊が沖縄まで前進する。AH‐64D「ロングボウ‐アパッチ」攻撃ヘリコプターを運用する当隊は、南西方面をカバーする渡洋攻撃能力を有し、空中機動部隊に有効な打撃力を提供できる筈である。
これら陸上部隊の海上機動を支援する護衛艦艇として、現状では四隻の護衛艦が南西方面に展開している。他に、訓練及び情報収集で常時南西方面に展開している潜水艦が三隻。有事になれば本州よりさらに増強が可能な目処も付いている――報告の最中、それまで沈黙に身を任せて佐々井の発言に聞き入っていた眉村総理が、報告の一段階を終えた佐々井に声を掛けたのはそのときだった。
「……四ヶ月前、ミンダナオ島の反政府ゲリラ制圧に投入された『試験艦』を投入する可能性は?」
「…………」
不意に問われ、佐々井幕僚長はやや表情を曇らせた。彼女の問いが佐々井の予想外のものであったこと、それ故に総理の問いに対する回答を事前に用意しかねていたことが、幕僚長を内心で困惑させている。一人の幕僚が席を立ち、彼の傍らまで歩み寄る。杖を突き片脚を引き摺って歩くその様が、妙なまでに列席者の間に印象付けられた。海自の制服に身を包んだその幹部は、佐々井の傍らで彼に耳打ちする。それが終わり、佐々井は再び総理に向き直った。
「試験艦『とうや』は現在沖縄県近海の太平洋上にあり、再度の運用試験を行っております。ミンダナオでの作戦行動で得た実戦データを兵装及び火器管制機能に反映させ、更なる洗練を図ることに今回の運用試験の主眼が置かれております。統幕といたしましては状況に応じて『とうや』を投入するか否かを決定する所存ではありますが、ミンダナオの場合と違い地理的にも航空機による反撃が可能である以上、あくまで予備戦力としての展開に留まるかと思われます」
「ふむ……」
納得した様な素振りを見せる眉村総理。知恵の女神が、多様な選択肢を前に戸惑いつつも喜んでいるような印象を、佐々井は受けた。
「幕僚長、『とうや』は何時提携港に帰港する予定ですか?」
「このまま順調に試験項目を消化していけば、8月15日には帰港すると思われます」
「脅威が近付いているという事実はもはや否定が出来ない。暫く『とうや』の帰港を延ばし当面九州南方海上で遊弋させておくべきと思うがどうか?」
声を挟んだのは渋沢防衛大臣だった。椙山 国家安全保障局次長もまた頷く。
「あの陸海と場所を選ばない打撃力は……語弊を恐れずに言えば魅力的ではありますな……勿論、島嶼奪回作戦に従事する自衛隊員の損耗を抑えるという意味において、です」
眉村総理は頷いた。
「予測が外れるに越したことは無いのでしょうが、有事への投入あるに備えて『とうや』に対する後方支援の準備も整えて置くべきと思います」
そこまで言って総理は佐々井に目配せする。「できるか?」とその澄んだ眼差しは聞いていた。
「総理のご意向に沿えるよう、手配いたします」
表情を変えず、佐々井は言った。あの四月のミンダナオの件、今になってわざわざそれを口に出す程、あの「実戦」は総理に強烈な印象を植え付けてしまったのだろうか……などと彼は内心で戸惑う。
――以下、「とうや」の背景として。
海上自衛隊において元来、生起が予想される南西諸島を巡る紛争において、それに備えるべく取得が必要と考えられていたものは航空母艦であった。それは海上自衛隊の創設以来現在に至るまで、立案された三度の防衛力整備計画の度に、航空母艦の取得と艦隊航空戦力の強化が唱えられていたことからも事実である。唱えられては内外の情勢から潰えていった航空母艦保有構想の、現実面でのひとつの終着点が「ひゅうが」型ヘリコプター搭載護衛艦であり、その発展型の「いずも」型DDHであるとも言える。事実これらの艦は北海道から小笠原諸島、先島諸島に跨る広範な経済水域、そこからさらに下がった南シナ海に達するシーレーン防衛を、一国で預かるに足る能力を海上自衛隊に与えるに至っている。単にシーレーン防衛作戦における移動航空拠点と見れば、これらの艦は必要にして十分な機能を満たしている。
航空母艦の配備は、決して容易に為されるべき選択ではない。空母という艦種自体、建造に高度な技術と多額の予算を要することは勿論、それが搭載する航空戦力を整備し運用に必要な人材を育成するのには、十年単位の時間と空母の取得以上のコストを要する。その運用を軌道に乗せた処で、空母とその関連部隊はその存在する時間そのものが膨大な維持費に転化し、他の艦艇整備計画を財政面で常時圧迫する。それでも間に合わず、単に空母という「中身の無い器」を保有しているだけという国、空母による航空機運用能力の維持そのものが海軍における空母の存在意義と化している国も世界には存在する。
海上自衛隊が「いずも」型DDHをより巨大で固定翼機の運用も可能な航空機搭載護衛艦保有計画へと昇華させることなく、その代替として「とうや」の運用を選択したのは、彼らが空母保有の先に待ち構える「足枷としての空母」という現実を前に二の足を踏んだこともあるが、海上における国土防衛と将来生起が予想される国外での海上作戦行動のいずれにも、本格的な空母保有の必要を認めなかったからである。むしろ搭載する固定翼機を以て内陸にまでその攻撃力を投射し得る空母は、その内陸に対する破格の攻撃範囲故に日本をその国益より外れた紛争に深入りさせ、国力と国論の統一を減殺する切欠となり得るであろう……という、当時の政権サイドの判断も「とうや」の実用を後押しした形だった。そして、かの六十年前の太平洋戦争のような、正規空母を以て彼我が正面から激突する形態の海戦が、再び生起し得る情勢が訪れることはないであろうという、やや希望的とも思える観測も――
空母の代替たる「とうや」――というより彼女の搭載するユニット――に求められた性能としては、縦深が浅い日本本土に使用を限定する場合、海上より百~三百キロメートルの攻撃投射半径を確保し得るというものである。そこに陸空、さらには衛星軌道上からの観測支援を加え、最終的には戦闘地域の沿岸から三十海里以上の超水平線上から二百キロメートルまでの戦闘地域内陸部を、その火力を以てカヴァーし得る性能、既存の巡航ミサイルに要求される様な精密打撃、広域に亘る瞬間的な火力投射を可能にする性能……このふたつを両立する方式を開発することもまた構想段階から要求された。
要求を満足するに当たり、防衛省の技術陣は最もシンプルで、かつ確実な判断を以てこれに応じた。ロケットのように固有の推進力、精密な制御機構を有さず、それ故に製造と取得がより安価な専用砲弾と、これを打ち出す大口径の艦砲を開発する途を彼らは択んだ。実用化の暁には、海上自衛隊は空母のように多数の人員を必要とすること無く、あるいは空母や巡航ミサイルより低予算で、強大な攻撃力を有する洋上戦略機動力を獲得することになる。近来急速に発達したレーザー/画像誘導技術及び地上位置保持システムが、かつては非現実的と思われていたその種の火力投射を、今や十分実用に足る段階にまで引き上げる効果をもたらしていた。
……かくして、「大海獣」覚醒への道は、その終端に至るまで切り開かれようとしている。