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第三章  「ASEG-001」

8月3日 日本国広島県 呉市


 少年は、海を行く夢を見ていた。


 大人五人も載せれば、忽ち満杯になる程狭く心許ないグラスファイバー製のボートは、一度大洋に出ればやはり儚げで、僅かな飛沫に対してすら乗り手はそれを防ぐ術を持たなかった。高々と掲げられたビニールの帆がその不安定ぶりを一層に助長していたが、それも風向きが変わるまでのことだ。両手で船縁を掴み、身体を支えつつ少年は辛抱強く転機を待った。舟が、簡単に転覆するものでは無い事を少年は船乗りの父から教えられていた。


 頬を撫でる微風に、少年は思わず目を見開く――風向きが変わると少年は思った。


 (トルグ)を引き、風上に帆を向ける。舵棒を掴み姿勢を整えるのも忘れなかった。順風満帆を絵に描いた様な直進ではなく、逆風を推進力に換えるための之字の歩み……海原を割る舟足は緩慢だったが、それで舟が進んでいるという実感は確かにあった。暗闇の中で、進むべき光明を見出した時の様な感覚だ。舟足は一層に早まり、少年は胸を躍らせて舵を島沿いに切った。潮風が肌に心地良く、大洋(わだつみ)の蒼茫、海岸線の(みどり)が目に心地良かった。

 

 舳先が島の先端に向かう。断崖を横目に見遣る位置――

 そのとき――

 不意に風向きが変わるのと、島影から躍り出た真白い船首に目を奪われるのと同時――


「――――!?」

 帆船であった。少年の駆る舟よりもずっと大きく、神々しいまでに均整の取れた黒い船体。悠然と白い帆を掲げる三本のマストは何れも高くかつ広い。帆船は父の乗るタンカーよりもずっと小さかったが、船全体を貫く均整の取れた美しさでは、少年の眼前に在る帆船の方が格段に勝る。帆船は帆を受けて海原を走る。それに目を奪われている内、少年は転舵するタイミングを失う……帆船の船腹に舳先をぶつけるのと同時に、少年は船首に掛かれた船の名を見る。


「――SEEADLER」

 「海鷲号」――その名を少年が聞いたのは、父の口からであった。少年の父は帆船時代の海洋冒険譚が大好きで、少年は物心付いた時から昔話でも聞く様に、父からそうした武勇譚を聞いたり読んでもらったりして育ったものだ。

 そうした海洋冒険譚の中でも一際印象に残った話がひとつ――昔、人類が大きく二つの勢力に分かれて戦火を交えた最初の戦いの時代、その頃には帆船もすでに時代遅れになっていて、石炭を焚いて走る船が主流であった頃、海鷲――その名を冠する帆船は敵商船狩りの任を与えられて縦横無尽に海原を駆け、散々に敵軍の裏をかいては苦汁を舐めさせたという。その大胆不敵な戦いぶりと、「海の騎士」というべき戦歴の内に始終貫かれた敵に対する丁重な態度は、今でも海を愛する人々の語り草となっている。

 

「…………」

 人影が一つ――誰かが、少年を見下ろしていた。

 逆光――背面に熱い日ざしを受けて、少年にはその顔を伺い知ることはできなかったが、折り目正しい服装から、その人物が帆船でも高い地位にある人物であることはおぼろげながら察せられた。

 「海鷲号」――今なお伝説として語り伝えられる、その勇敢で心優しい艦長の名は確か――

 

「――ルックナー艦長?」

 「海鷲号」から少年を見下ろす人影が、微かに笑った。父のそれと同じ、慈しむ様な笑い――



「…………」

 現実は、極端に照明の抑えられた休息室の、止め処なく高い天井となって海上自衛隊 二等海佐 黛 吾郎の覚醒したばかりの意識に飛び込んで来た。薄眼を保ち、寝台に身を横たえたまま周囲の様子を把握しようと努める。この場合最も有用なのは耳であった。

「…………」

 寝息、鼾、あるいは屁をひる音――こうしてじっとしている間にも、人間の存在を示す物音が、様々なタイミングで吾郎の耳に入って来る。それらに加え、時折部屋の何処かで鳴る携帯電話やメールの着信音を聞く。外界より遮断され、静穏のみの支配する空間の中で辛うじて存在する外との繋がり。騒音に対する反応は鈍く、此処サウナの休息室では外界からは超然として静かな時間が流れている。しかし住民の大半は未だ醒めぬ眠りを貪り続けている。

「――――!」

 マナーモードにしておいた私用の携帯電話にメールが入っているのを察するのと、半身を起こすのと同時だった。携帯電話の表示する時間は、朝の六時半に差し掛かろうとしていた。

 MAYUMI――開いたメールの宛名が、吾郎の口元を綻ばせる。今では友人の一人で、つい去年まで彼の掛け替えのない存在だった女性の名。昨夜にかつての夫が送ったメールに余程慌てつつも、嬉しがっている様子がメールの文面からは伺えた。それが吾郎を安堵させた。

「…………」

 微笑――――返信は後だ。久しぶりに堪能した熟睡の未練がましい余韻を、熱湯と冷水とで洗い流したかった。風呂だ、風呂に行こう……返信をしようにもこの時間帯は、「真弓さん」もぐっすりと眠っているだろうから。



『――尖閣諸島近海の、日中中間線を越えて日本の経済水域に侵入する中国公船の数と出現頻度は先週より一層に数を増しており、海上保安庁は通常より投入船舶の数を増やし警戒に当たっています。一方、先日から陸海空三自衛隊合同による九州から沖縄、石垣島への大規模な転地訓練が始まっており、防衛省の報道官によりますと、転地訓練の日程、規模ともに先年より予定された訓練ということですが、時期が時期だけに中国を一層刺激する事になりそうです――』

「…………」

 風呂上り。朝食を取るために入った食堂では、備えつけの大画面テレビが定例のニュースを放送していた。冷水を呷りつつ、表情を消して若いアナウンサーの表情に見入る吾郎のテーブルまで、給仕が朝定食の盆を持って来た。先に入っていた客の内、若い二人組が、備えつけのテレビの大画面を前に、膳を(ついば)みつつあれこれと話しているのが見えた。


「……やれやれ、一体何処の国のマスコミなんでしょうね。あのテレビ局」

「……聞いてて腹立つよな。いい加減空気読みやがれってんだ」

 おそらくは出張で広島まで来た営業マンだろうか。飯をかきこみつつ、先輩格らしき若者が言うのが聞こえた。それに対し、朝定食の味噌汁を啜りつつ、いつしか聞き耳を立てている吾郎がいた。少年時代、仕事で海外に行った父を追って放浪同然の旅をした時以来の、彼の癖の様なものだ。

「……そうですよね。みんな中国にはもういい印象なんて持ってないってのに」

「でも……戦争って、本当にやるのかな?」

「ブラフっすよ。ブラフ。所詮は口だけの連中でしょ?」

「どうせ戦争になるにしてもよ、俺らが東京に帰るまでは起こって欲しくないな」

「ああー……それ、自分も同感っすよ」


「…………」

 朝食の箸を進める二人、何時しかその隣席に座り、じっと彼らの会話を伺う三人組の姿を吾郎は見出した。彼らに共通する特徴たる短く刈り上げられた頭髪、日焼けした肌、ガウンからも透けて見える骨太な体躯とも合わさって、精悍な外観から醸し出される(うしお)の空気が、彼らが自分の「同業者」であることを吾郎に直感させた。呉を母港とする何処かの艦の乗員か? 此処にいるのは、自分と同じく上陸休暇中故なのだろうか?……朝食の膳を平らげた二人が食堂を出るのと入れ替わるように三人の前に朝食セットの膳が運ばれ、吾郎の眼前で三人の会話が始まる。

「……気楽なもんだな。実際に戦争になったら、命を賭けなきゃならんのは俺らなのに」

「でも、みんな無関心だった一昔前よりはまだマシだよ」

「そうかなあ……未だ未だ他人事みたいだろ? みんな」

「そんなことより、時間もあるしさ……ここはあと一回戦……行かね?」

「お前ホント好きだなー! 何時召集掛かるかマジでわからんのに」

「わからねえか? 命の洗濯だよ。今回ばかりはマジでヤバイだろうしさ……」

「わからんでもねえよ。男ってイキモンは生命の危機が迫れば無性にヤりたくなるっていうしな。でも昨夜(きのう)ソープ二軒もハシゴした奴の言う科白(せりふ)じゃねえよなぁ」

 

 爆笑――満更でもないという風に三人は笑う。若さが為せる業か、肩に負わされた事態の深刻さが、目前の享楽への渇望へとあっという間に席を譲ってしまったようでもあった。だがそれでいい、と吾郎は思う。事態の深刻なる事を背負うのは我々上に立つ者の仕事だ。でなければ下に立つ彼らが有事の際、全力を尽くせないではないか?


 

 チェックアウトを済ませ、吾郎はサウナのカウンターから外へと足を踏み出した。歩道のアスファルトが発する湿った地面の臭いと、何処からともなく漂ってくる生ゴミの臭いが鼻を掠める。朝方であるにも関わらず、方々に未だしぶとく漂う夜の淫靡な熱気を感じつつ吾郎は歩を速める。


 官舎こそ与えられてはいたが、吾郎にとってはサウナが定宿のようなものだった。サウナの周囲に広がる歓楽街、晴天を迎え魔窟の如く静まり返ったそれらの、日が落ちれば一転して街角に怒涛の如く流れ出て充満する人間の熱気とアルコール、そしてフェロモンの臭い、それらをひっくるめて活気と言えば巧い表現かもしれない、と吾郎は思う。彼はその活気に身を委ねるのが好きだった。こういう「大人の世界」を生まれて初めて経験したのは五歳の頃、父に連れられて行ったドバイの外国人観光客向けの歓楽街だっただろうか……それ以来、吾郎は機会があれば自分の足で国外に出て、歓楽街の混沌に身を委ねるまでになった。ドバイの豪華さと此処とでは比べるべくもないが……これはこれで味があると吾郎は思う。


 仕事帰りと思しき露出のはげしい、非実用的なまでに華美な服装の女たち、あるいは派手なスーツ姿の、髪を染めた男たちと行き違いつつ、吾郎は歩を急ぐ。飲食店やクラブの門前に積み上げられたゴミ袋の山、その傍らで箒を振う黒服の男、空き瓶の回収に走り回る酒屋の軽トラックのエンジンの耳障りな響き……何時しか吾郎の足は貸しビルの谷間に埋もれる様にして広がる、箱庭の様に小さなガレージへと向かっている。何台かの原付やビクスクの行儀悪く停められた隅、隠れるようにして乗り手を待っていた単車が一台――軽々とガレージの外へそれを押し出したところで吾郎は単車に跨り、エンジンを目覚めさせた。


 ホンダ VTZ250の抱えるエンジンの、長年に亘る調教の行き届いた濁り無い爆音が疾風のように乗り手を歓楽街の隘路から平和大通りに導いていく。単車はそれ自体が生き物の様な滑らかな走りで鶴見橋から国道2号線、広島高速2号線、広島呉道路へと走り、そしてアスファルトの風となって呉の街中を駆け巡っていく。呉市役所付近で高速道路を降りて川沿い、そして桟橋沿いに走り続ければ、やがては異形の建築物が左手から見えてくる筈だ。


「――――!」

 信号待ちで止まったところで、吾郎の眼は眼前に見えた建物に釘付けになっている……否、かつては潜水艦であった建物「てつのくじら」館だ。旧名SS-579「あきしお」の余生とでも言うべき姿――何時見ても胸が躍る。軽い興奮をそのままに再びクラッチを繋ぐ。緩慢な助走が暴力的な疾走へと転じ、橋を一つ越えた先の両側に広がる海上自衛隊呉教育隊と呉警備隊、そこからさらに呉地方総監部を過ぎた先に、疾走の終着点がある。海上自衛隊の専用埠頭。そこから呉港の全容を見渡せる一角でVTZは止まった。ヘルメットを脱いだ吾郎の頭髪を、暖かい潮風が戯れに撫でていった。


「――――」

 呉を提携港とする他の護衛艦のように埠頭に入らず、港内にその巨体を休める艦影がひとつ――特務試験艦 ASEG-001 「とうや」はその巨体に何も飾るものの無い、没個性的な佇まいのまま、彼女の艦長の帰還を待っていた。



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