第一章 「南シナ海波高し」
7月30日 日本国沖縄県 尖閣諸島近海
「――該船、転針の兆候なし」
船橋要員の報告をこうして聞くのは、何回目だろうか? と、海上保安庁巡視船 PLH22「みずほ」船長 柳井 洋己は憮然として水平線を眺めながら思った。「みずほ」船橋の左端に配された船長席は他よりも一段高く、この海域一帯に散る彼我の船影を、手に取るように見出すことが出来ている。それ故に、真綿で首を締める様な事態の切迫振りが身に摘まされる。
海上の光景は、裏を返せば此処南西諸島北西に広がる近海が、航路上でも国際法上でも異常な状態にあることの何よりの現れであった。見渡す限り、一番遠方に在る「彼ら」の船だけでも彼我の距離を推し量れば3キロメートルも離れていないに違いない。通常の航路で、それも五桁トン数クラスの船が、ここまで接近することなど常識では有り得ないのだ。あるとすれば余程の緊急時か、その内どちらかが海賊ということだろう。
……そう、現在、「みずほ」を始め3隻から成る海上保安庁巡視船隊は「海賊」と対峙している。
中国政府の隷下機関に属する船舶が、中国大陸と沖縄諸島の中間の位置する日中中間線を越え、示威とも取れる領海侵犯を開始したのは西暦2010年に入ってからのこととされる。日中中間線から日本側たる排他的経済水域への侵犯はそれ以来常態化し、近未来の軍事的衝突の危険すら囁かれるようになるのに時間は掛からなかった。遡る事約40年前、1970年代より顕在化した、沖縄諸島から北東約430キロメートルに位置する日本領、尖閣諸島近海の海底資源の所有権を巡る日中、そして台湾間の対立が、こと日中間に限り白熱化の一途を辿っている。通常の二国間対立ならば即軍事衝突に直結する程の「事実」ならば、すでに山ほど積もっていると言っても過言ではない。「民間」の抗議船団による示威行為、海上保安庁巡視船への衝突、尖閣諸島に対する違法な上陸行為、在留邦人や日本企業に対する大規模な抗議活動……さらには、中国海軍艦艇による、海自護衛艦に対する戦闘行為まがいの射撃用レーダー照射――今やこれは、尖閣近海を航行する漁船や民間船舶にまで対象を拡大させている。レーダー照射とは判らずとも、速射砲の砲口を向けられ、尖閣諸島への接近を妨げられるケースが頓に増えていた。さらには――
――船橋の一角、液晶表示端末の一枚を占める船影に、柳井船長は眼を凝らした。「みずほ」の射撃管制システムを構成する監視カメラに映し出された、「みずほ」と3000メートルの距離を空けて併走するように見える中国の巡視船。名目は漁業監視船とのことだが、先年には無かった船首の速射砲塔が、外見上の船種と実際の用途との食い違いを無言の内に、そして威圧感と共に主張している。口径だけでも40ミリはあるだろうか……渇き切った喉に、それでも唾を押し込むかのように柳井船長は思わず息を呑んだ。単なる取締りには、余りに過分な装備だ。最大の武装が35mm機関砲の「みずほ」では、反撃に転じる局面に至った時、もはや手に余りつつある相手であるように思われる。
『――フィリピン政府は声明を発し、7月28日を以てミンダナオ島中部を支配する反政府武装勢力の掃討作戦の終了を発表しました。軍司令部の発表によりますと、作戦行動中に大量の中国製兵器を押収し、現在武器密輸ルートの解明を進めているということです。なお、フィリピン政府は中国の違法な武器支援はフィリピンの主権侵害に当たると強く抗議する声明を発表し、中国政府はフィリピン政府の抗議は事実無根とこれに強く反発しています』
点けっ放しにしておいた短波ラジオのニュースに、胸中をざわつかせた乗員は決して少なくなかっただろう。フィリピンもまた、中国との領土問題を抱えている。南シナ海に点在するスプラトリー諸島 (中国、台湾名 南沙諸島)の領有権争いがそれで、近年軍拡指向を強めているとはいえ、中国との本格的な抗争を覚悟するにはフィリピン単独の有する軍事力はあまりにも貧弱だった。特に国内に点在するイスラムゲリラにすら手を焼く現状では……
『――該船、転針します!』
船橋に詰める幹部からの報告を聞く。船長席から双眼鏡を覗く柳井船長の眼にも、転舵し北へと船首を向ける公船の姿が、はっきりと伺える距離だった。
「該船を追尾する。中間線を越えるまでは油断できん」
最先任の航海長に操舵指揮を任せ、柳井船長はなおも双眼鏡に目を凝らし続けた。北へ向かい日中中間線を越えるとは言っても、それは一時的なことだ。「彼ら」はまたやってくるだろう。その数をさらに増やして―――
『――政府は先日の有識者を交えた閣僚懇談会の場で、近年に無い南西諸島情勢の緊迫化を受け、南西諸島の石垣島に仮設された基地施設を来年度予算で恒久化することで基本合意しました。現在、石垣島では陸上自衛隊西部方面隊を主力とする部隊の転地訓練が始まっており。今回の決定に対する中国の強い反発が予想されそうです――』
「…………」
柳井船長は思った。船橋の内外に流れる空気が不穏ならば、その空気に乗って流れてくるラジオのニュースも不穏の度合を容赦なく増している。誰かが傷つき、財産を失うかもしれぬ日常――否、それに対し怯えることに馴らされる日常が、既に始まっていることに戦慄を覚えたのは、自分だけでは無い筈だ、と。
『――ドイツ航空宇宙センターは、ドイツ独自の衛星地上測位システム「ユグドラシル」を構成する全ての地表観測衛星が、全ての調整を終え予定通り試験運用段階に移行したことを発表しました。「ユグドラシル」は、これまで推進されてきたEU独自の「ガリレオ」全地球航法衛星システム整備事業の頓挫に伴い、ガリレオの後継及び発展型システムとしてドイツが中国の協力を得て独自に開発、推進したシステムであり、二か月前に中国の甘粛省衛星発射センターから打ち上げられた長征5号ロケットにより衛星軌道への投入が完了したものです。稼働開始の報告を受け、ドイツのニナ‐クライスト首相は声明を発表し、ユグドラシルはクライスト政権の主要外交政策たる「黄金の航路」構想の推進にあたり、ドイツ及び世界に繁栄と安寧をもたらす最良の道標として機能するであろうと、試験運用段階への移行に対する期待を明らかにしました』
「船長、ドイツのクライスト首相って、すごい美人だって話、ご存知ですか?」
「え……そうだったか?」
船橋詰めの幹部から不意に話を振られ、柳井船長は会話に出て来た名前と顔を記憶の引き出しから合致させようと試みた。長い金髪に蒼い眼、白い肌といった典型的なゲルマン系の形質、その上に少女の可憐さと熟女の艶っぽさが絶妙の配分で合致した人形のような容貌の女性のスーツ姿を柳井船長が脳裏に思い浮かべる頃には、若い幹部は顔を綻ばせて話を続けている。
「彼女、学生時代からファッション誌のモデルをやっていて、大学の卒業記念にヌード写真集まで出したそうですよ。現在ではその写真集は絶版になってて、ものすごいプレミアが付いてるとか……」
「確か……政界入りする前は弁護士だったんだっけ?……ってお前、こんな話、此処でするべき話じゃないだろ」
「スイマセン……自分なりに緊張をほぐす方法を試してみたかっただけで……」
ばつ悪そうに俯く幹部を見遣り、柳井船長は苦笑した。
「工夫しようという意思は買うよ。だが……お前さんのは気配りとは少し違うなぁ。そういう話は食堂か陸の上でするものだ」
と言いつつ、それまでの戦慄にも似た緊張が解けているのを柳井船長は感じている。こういう部下を死地に立たせたくはないという思いもまた、彼の胸中で頭をもたげつつある。ではその死地は、やはりこの海域に迫っているのだろうか?
8月1日 日本国長崎県 佐世保市
大小の艦艇が狭い岸壁に犇めく様は、ここ佐世保の軍港では有り触れた光景であったが、この日は平日には無い活気が溢れていた。
岸壁に横付けした輸送艦LST-4001「おおすみ」の船腹が矩形に開き、艦から岸壁に向かい渡されたブリッジを通じ次々と濃緑色の車体が自走し入っていく。その車種は様々だった。無骨な外観を有する軽装甲機動車、横に広い平坦な車体の高機動車、そして前二者より一際大きな車格を有する73式中型トラックが、ブリッジを踏締め船内に入る光景を前にしては興奮を通り越して戦慄すら覚える者もいたかもしれない。そして「おおすみ」の搭載量を以てしてもなお陸に残る装備を、「転地訓練」の目的地たる沖縄県石垣島に余すことなく送り込むには、なお二隻のフネの投入が予定されている。
特別増強中隊中隊長、加瀬 勝 三等陸佐は、岸壁に乗り付けた73式小型トラックの傍で、装備搬入の光景をただ無心に見詰めていた。否、彼の眼は何時しか岸壁に横付けする「おおすみ」の巨体に目を奪われる形となっていた。「おおすみ」には任官してから最初の着任地であった北部方面隊時代にも幾度か世話になった筈が、この威容にはどうも慣れない。何時しか意識を惹き付けられてしまう。
加瀬三佐は、西部方面隊 第四師団司令部付から今次の「転地訓練」の主体となる増強中隊の指揮官たるを命ぜられている。兵科は機甲、普通に考えれば増強中隊の主力は戦車ということになるが、戦車を「おおすみ」をはじめ三隻の輸送船に積む予定は今回は無い。それは8両の機動戦闘車――戦車の攻撃力と装輪装甲車の路上機動力とを併せた新型車両に、増強中隊の機動打撃力は担われることになるだろう。
「転地訓練」と聞けば穏便な響きだが、その実態は進出だった。近来になく活発化した中国の南シナ海上での蠢動、そして国内外のあらゆる経路から日本の政府中枢や当該部局に洩れ伝わる大陸の不穏な動きが、東京の国家安全保障会議と防衛省とをして、「最悪の事態」に備えた沖縄方面への戦力の分遣を決断たらしめ、国家の意思の下で彼らは前線へと赴こうとしている。「訓練」という名目で――
不穏な動き――それは、中国国内の対日強硬派が密かに兵力を結集し、影響下にある艦隊すら投じて彼らが言うところの釣魚列島――尖閣諸島の奪取を図る恐れがあるというのである。衛星写真の名の下、日米の有する偵察衛星の捉えた漆黒の天界より、大地を睥睨する鳥瞰図こそが日本側に生じた懸念の端緒であり、程無くしてそれは、現地協力者の収集した複数の情報と写真から確信へと転じた。鉄道を使い内陸部から、大都市上海郊外の倉庫群 (名目上は、中国からの「夜逃げ」を図った日本企業から接収したもの)に隠匿された武器弾薬、火砲、装甲車両、さらには上海市内に私書箱を置く民間軍事会社の従業員募集を名目に、中国軍の退役軍人は元より韓国、東南アジア諸国、さらには東欧から従軍経験者を集めているという事実が明らかになるに至っては、その公表の場となった国家安全保障会議に参集した閣僚及び有識者の誰もが「戦争」の二文字を脳裏に浮かべ、その到来を覚悟したのに違いない。
また、政権が行動を準備するに当たり軍、それも、陸軍たる人民解放軍への依存を極力抑え、中国における国政の最高意思決定機関たる中国共産党中央軍事委員会にその準備と実行とを諮った形跡すら認められないという事実は、文民出身故に決して軍部の全面的な支持を得ているわけではない現政権の不安定さと、日本との「領土問題解決」に臨む尋常ならぬ執念をも感取らせることができた。中国……否、現共産党政権とて、もはや後戻りはできないということでもある。
その一方で、日本側は紛争の発生から一貫して尖閣諸島に関わる領土紛争の存在を否定する事で中国の持論に対抗している。何よりも尖閣諸島は19世紀末の明治期より、さらには太平洋戦争後の1951年に旧連合国と日本との間で締結されたサンフランシスコ平和条約に於いて、日本の施政下にあることが確定した地域である。係争地という中国側の言い分を認めれば、日本の尖閣領有の正統性は立ちどころに崩壊するであろう。近年、急成長した経済力を背景に東南アジア地域から太平洋上に跨る政治的、軍事的進出を図る中国は、そこからさらに踏み込んでその他南西諸島、沖縄諸島の領有まで脅かさんとするかもしれない。共産党政権の成立と同時に内モンゴルやチベット、中央アジアにその施政圏を広げ、その過程で多くの反対勢力を圧殺し、文化的にも抑圧してきたという点は、皇帝を頂点とする独裁的支配体制から共産党による集団的指導体制へとその支配体系こそ変わっても、これまで数千年に亘り大陸に歴史の痕跡を残してきた多様な王朝国家の為してきたそれと、何ら変わるところが無かった。核という最終兵器の登場と軍事技術の発達が、その指向を一層後押ししているように見える。
九州全土から南西、沖縄諸島、ときには中国地方の一部の陸上防衛すら管轄する西部方面隊は、二個師団と一個旅団、そして一個特科団の四群を主要な戦略単位として機能している。沖縄方面には常設の戦力として第15旅団が配されているが、その実一個普通科連隊とその他複数の小規模な支援部隊から成る混成集団では、到底沖縄本島の外に対する防備には手が回らず、九州、ひいては本州から増援を差し向けて防衛線の増強を図るしか方法は無かった。行政上の執行機関たる防衛省、現場サイドの最高執行機関たる統合幕僚監部は共に、島嶼防衛作戦に当たり機動的に展開し得る戦略単位として新たな旅団の創設、あるいは既存の第15旅団の増強を度々提言してはいるが、陸海空ともに大規模な装備の更新時期に重なり、そこに只でさえ膨らみがちな防衛予算の圧縮に腐心する財務省の抵抗にあっては、実際に侵攻軍に対するのと同様の苦汁を舐めつつあるのが実情であった。
加瀬三佐の傍に、やはり作業服姿の幹部が立ち、敬礼した。
一等陸尉 宮下 俊之。兵科は施設科で、現在装備を搬入中の施設部隊が本隊に先行して石垣島へと向かい受け入れ準備に当たることとなっている。人選は加瀬三佐たっての希望であった。母校たる防衛大学校ではともにアメリカンフットボール部で汗を流した先輩後輩の間柄だ。
「報告します。装備の搬入終わり。予定通り1000に出港します」
「御苦労さん……演習、無事に終わるといいな」
「…………」
答礼してからの加瀬の言葉に、宮下一尉はやや喉を詰まらせるような表情をした。それも一瞬、宮下一尉は白い歯を見せて笑い掛ける。
「我々は向こうで先に地固めをしておりますので、加瀬隊長は後からゆっくり来て下さい」
「ばか……遠足じゃないんだぞ?」
「わかっております」
宮下一尉は笑顔を絶やさなかった。彼が困惑や苦汁を表に出さずに困難に耐え、平然と乗り越えて見せる性格の持主である事を加瀬三佐は知っている。だからこその抜擢であったが、それに後悔を覚える加瀬がいたのも事実であった。こんないいやつと部下を、こんな難しい局面で危機に晒すのか……と。
「今日中に西普連も沖縄へ向かうようですし、心配には及ばないと思いますが」
「そうだな……」
頷き、加瀬三佐は宮下の眼を見る素振りをした。宮下一尉がさらに言った。
「ところで、西普連は『おおすみ』には乗らないようですが」
宮下の口調には、軽い困惑がある。将来生起し得る島嶼奪回戦を想定して創設され、以来空の第1空挺団に告ぐ精鋭部隊として練成されてきた特殊作戦のエキスパート。今後在り得る作戦に欠かせない筈の彼らが自分たちと共に行かないとは……後輩の困惑を前に、何かに思い当ったように加瀬三佐は73式小型トラックの座席から書類を取り出し、それを捲る様にした。
「予定だと、西普連は別のフネで沖縄に向かう。名目上は第15旅団との共同訓練だが、その実は尖閣、石垣島を含めた南西方面への機動支援だ。増強として関東の第1ヘリ団 (第1ヘリコプター団)から輸送ヘリも回してもらうし、3対戦 (第3対戦車ヘリコプター隊)の攻撃ヘリも分遣されて来る。あのオスプレイ程ではないが、一有事あれば自由に動けるだろう」
「フネですか……民間船かな?」
「いや……海自の試験艦とあるな。去年の3月末付で就役したようだが……」
書類を睨みつつ後輩に応じる加瀬の顔には隠せない困惑が生じつつある。宮下も怪訝な表情をそのままに書面を覗く様にする。彼個人の記憶の一隅に置かれていたフネの像と、画像資料として書面に添付されたフネの全体像とが重なり、宮下は思わず声を上げた。
「補給艦かな?……『ましゅう』型補給艦に似てるけど、構造物の無いやけにすっきりした姿ですね」
「宮下は詳しいんだな」
「ええ……義弟が『ましゅう』に乗ってるもので」
「でもこいつの類別は試験艦みたいだぞ。たしか名前は……」
「…………?」
『とうや』――同時に脳裏に刷り込まれた名称には、何処か空恐ろしい響きが感じられた。言い換えれば「予感」と言うべきだったか。