終章 「静かの海」
8月12日 AM04:45 日本国東京都 総理大臣官邸
『――空挺団第二陣二百名全員の降下を完了。空挺団は宮古島空港を確保後北上し宮古島市奪回作戦に向かう予定です。なお、小牧、入間を発進したC‐130が十機、増援の隊員及び装備を積載し宮古島へ向かい南下中です』
「宮古島市の状況は?」
『――現在南下中の「いずも」に、沖縄から発進した陸自空中機動部隊が展開。「いずも」より発進した機動部隊第一陣は攻撃ヘリの支援の下すでに下地島及び宮古島市内に展開しております。なお下地島方面の武装勢力残存戦力は既に降伏。宮古島市内の武装勢力の抵抗は尚あるも微弱な模様』
「島南部にいる避難民に対する救援活動の状況は?」
『――石垣島より医療班及び補給物資を乗せた輸送ヘリを島南部に先行させております。ただし本格的な救援活動の開始は、第一陣上陸完了後まで待つ必要があると考えております』
「上陸を急がせるように。最優先で」
『ハッ……!』
ディスプレイの中で緊張しきった表情を終始崩さず、沖縄の前線司令部に詰める統合指揮官が一礼する。折り目正しい戦闘服姿の彼に手を上げて会釈する内閣総理大臣 眉村 浩香を、国家安全保障会議を織り成す一同は神妙に見守る。交信を終えて一同に向き直るや、眉村総理は再び口を開いた。
「島内及び海空における脅威もその多くが払拭された以上、速やかに宮古島の復旧を始める必要があると思う。九州に所在する民間船舶を以て速やかに人員及び救援物資の輸送に充てるべきだと思うがどうか?」
「国土交通大臣を通じ、その点はすでに指定海運事業者に準備をさせております。あとは総理のご判断のみです」と、官房副長官 奥田 智宏が言った。
「その件、宜しく頼みます。海自はこれらの船舶に対し艦艇あるいは哨戒機の支援を与える様に」
「心得ました」と、佐々井統合幕僚長が頷く。既に勝利の余韻は会議室から去り、あとは事態の後始末へと一同の関心は移っている。そこに躊躇いがちに奥田が口を開いた。
「総理……事態も国内いずれも平静を取り戻しつつありますし……少しお休みになられたら如何ですか?」
眉村総理は笑った。口元を優しく歪めた笑顔が、男たちには菩薩の彫像を思わせた。
「その前に今ひとつ、やって置きたいことがある」
さり気無くディスプレイの方向に長い手を延ばし、眉村総理は命じた。「『とうや』に回線を繋げ」期せずしてどよめく一同からは超然として、彼女はディスプレイに微笑を向ける。会議室から直通する「とうや」艦作戦指揮室、しかしそこに在るべき艦長の姿は見出せず、壮年の幹部が恐縮の面持ちを隠さずに彼の最高指揮官に向き直っている。
「貴官は?」
『――小官は「とうや」副長 八嶋 三等海佐であります!』
「艦長はいる?」
『――黛艦長は艦橋で指揮を執っておられます……お待ちください。只今通信を回しますので』
暫しの空白がその後に続き、通信用ディスプレイから一切の映像が消えた。その後にやはり、不審なまでの沈黙が続いている。表情を曇らせた眉村総理の耳に、微かながら女性の声が聞こえた。「艦長?……艦長、起きてください」……女性の声に、会議室の男達の更なるどよめきが重なる……が、当の眉村総理にはもはや微笑しか浮かんでいない。半分呆れ、半分可笑しがるかのような笑顔――それは指導者というよりひとりの女の、昔の恋人に見せる様な笑みであった。
『――…………』
「おはよう黛艦長。コーヒーがいり様かしら」
『――そうですね……砂糖とミルクをたっぷりと入れて』
緊張感の失せた通話の傍らで、咳払いが聞こえる。佐々井統幕長の位置だ。
「戦艦『とうや』の指揮を執った感想は?」
『――我が国の施政権の及ぶ範囲を、専守防衛の枠中で守るに、本艦以上に最適な艦は無いと断言できます。願わくば観測機能の更なる充実と、もう少し弾種を増やしたいところです』
「将来想定され得る海外派遣についてはどう思う?」
『――それについてはさらなる研究が必要になるかと思います。総理』
「では……早急に検討させることにしましょう。今後の予定は?」
『――補給艦との会合後、復旧活動支援のため宮古島に向かいます』
「御苦労さま……吾郎クン」
『――…………』
回線の向こうの沈黙――だが艦長がどのような顔で労いの言葉を受けたかを想像するだけで、彼女には十分だったようだ。今までその様を見ていた国家安全保障局局長 伊豆 駿治郎が、次長 椙山 充生に身を寄せるようにした。
「総理とあの艦長……知り合いか?」
「幹部候補生学校の同期ですよ。それ以外にも色々とあったようで……」と、椙山は苦笑で応じる。釈然としない表情をそのままに伊豆が眼差しを向けた先――会議室の上座の主は背を正し、最初のこの部屋に踏み入った時と同じく毅然とした表情を一同に向けていた。
「これより二時間余りを、休息を兼ね関係各機関との連絡及び調整に充てたいと思う。状況はあと一息といったところだ。疲れも溜まっているだろうが、諸君には終わりまで気を抜くことなく励んでもらいたい」
指導者の晴れやかな微笑が、一同には知らず安心と同時に、未だ不確定な未来に対する勇気を与えていた。
現地時間8月11日 PM21:50 ドイツ連邦共和国 首都ベルリン郊外
白一色の空間に湯気と窓から射し込む月明が絡まり、夜特有の幻想的な倦怠を空気として演出している。
浴槽を満たす湯の中で蠢く女の肢体は艶やかで、かつ逞しい。その艶やかさの上に、白亜の肌と腰まで延びた豊かな金髪が神々しさというアクセントを加えている。典型的なゲルマン系を思わせる頑健な骨幹と流麗な肉付きの上に成り立つ均整は、さながら古代ギリシアの彫像を思わせた。浴室のまどろみは湯気とハーブの匂い満ちる中で一層に深みを増し、女を更なる幻惑の極みへと誘おうとする――浴室の入口に気配が迫り、そして人影が顕れた。
「構いませんよ」
艶やかさというより雅さが勝った声が浴槽から人影に、滞留する湯気に流れて向かう。事務的な、やや硬質な女の声がガラス製のドア越しに浴室に通り、そして響いた。
「首相、お電話が入っています」
浴槽の中で女はクスリと笑い、十分に暖めた肢体を浴槽から起こす。濡れた金髪が伸びた背中と形のいい胸に張り付き、それ故にこの世のものならぬ艶めかしさを一層に引き立ててもいた。モデルのウォーキングを思わせる規則的な歩調で浴室を出たところで、スーツ姿の女性がガウンを羽負らせた。乾いたタオルで髪を拭いつつ長椅子に背を預ける。女性が差し出したコードレス電話機の通話ボタンを押した直後、回線越しにもそうと判る緊張しきった男の声が、報告が内々の話であることを告げ始める。
「盗聴される心配は無いわ。自分で掛けておきながら今更心配してどうするの?」
心地の良い笑いが、言葉の後に続いた。美の女神が天使をからかうかのような笑みだ。その後に男の報告が続き、女はただ、微笑を湛えたまま男の報告を聞き続けた。「依頼」した事業のもたらす効果、そして事業の破綻に至る一連の経過を――
「――『ユグドラシル』の通信履歴は消去したのね? 上々よ」
脱衣所を兼ねたサンルーフ越しに、全身に陽光を浴びつつ金髪の女は笑った。冷たいジュースを持ってきたスーツ姿の女性がリモコンのボタンを押し、電源の入った広角モニターが神妙な顔をしたアナウンサーの姿を映し出す。独英仏露三カ国の国営テレビニュース放送が多分割表示で流れ、そのいずれもが此処から数千キロの距離を隔てた極東の島国の、さらに南の島で起こっている出来事に内容を傾注させていた……否、もう過ぎた出来事と言うべきか。
「『ユグドラシル』は動いていない。対外的にはアフリカの試験局を対象にした動作試験中……ということで通しておくから。中国にハッキングされた?……そういう事にしておいてもいいんじゃない? 上海の会社はもともとないってことにしてあるし……中国は賄賂さえ出せば何でも通る場所ですものね――」
受話器の向こうで再び男の話が続く。それに対し適当に相槌を打ちつつ、彼女は自分の望む方向に話を動かすことに長けていた。
「――後の始末はできるわよね? できなかったら……」
電話機を握る蒼氷色の瞳が、獣の眼のようにぎらついた。
「……あなた、殺すわよ」
電話が切れ、金髪の女はスーツの女にそれを放った。軽い興奮と不機嫌が長椅子の上に雰囲気として同居し、滞留していたが、それもニュースを眺めつつ沈思する内に晴れていく。
当初は何処の馬の骨とも知れぬテロリスト集団が身代金目当てに起こしたいち島嶼の占拠事件。だがテロリスト集団の企図は日本側の果断な奪還作戦の前に潰え、そのおまけにテロリスト集団に対する中国の介在という事実が、インターネット動画の全世界配信という形で明らかになるという事態を招いては、一連の事態の所々に関わる第三者の存在を、恒星の傍の小惑星の如くに隠蔽する効果をもたらすというものであった。
ニュース放送の画面がほぼ同時に切替り、定例記者会見の席上で足掻く様に口を荒げる中国政府の報道官の姿が現れる。具体的な発言の内容は判らないが、表情の粗さから彼が日本に対する謝罪ではなく一連の紛争に対する自国の関与の否定、あるいは自己正当化に奔っているのは容易に想像がつく。
そして彼の必死の弁明が、彼の属する中華人民共和国という国家と共犯関係にある「もう一方」の存在を、世界中の眼から晦ませる効果を与えていた。中国が取立ててそれを騒ぎ立てたところで、国際社会において彼らに同調する者は少ない。今までの行状も然ることながら、乏しい物証と予め各国にばら撒いた鼻薬が効き始めた今となっては――中国にとって交わるべき友が去りつつある今はまた、「唯一の友」としてドイツ資本があの巨大な大陸に食い込み、富を吸い尽くす機会を得られるという展望もまた生まれつつある。当初のルートこそ違えたが、「黄金の航路」は祖国ドイツの前により芳醇な恵みをもたらさんとしていると考えれば、一連の工作の挫折も自ずと慰められよう……
「――御指示通り、国連に対する工作は始めております。首相閣下」と、スーツの女が耳打ちする。
「日本に対しては?」
「例の件ですが、大使館ルートを通じそろそろ彼らの首相に話が上がった頃合いではないかと」
「フフ……」
ディスプレイの中の世界を愛でるように笑い、冷たいジュースに口を付ける。
「それで……マユムラ ヒロカはあんな絶望的な状況をどうやって打開したのかしら?」
「それが閣下……」
女が再び耳打ちした。話を聞く内、首相と呼ばれた女の顔が雅に綻び、そして突沸を思わせる笑い声が次に続く。
「戦艦!? アッハハハハハ!……知ってるぅ、日本のマンガにはこういうのがあるのでしょう? 昔の戦艦が宇宙船に改造されて地球を守るために戦うという……」
「宇宙船ではありませんが、主要国の軍事関係者にはまさに宇宙船が出現したかの如き衝撃を以て迎えられたようです。大海獣の復活……と」
ディスプレイの画面、その一端が切替った。ロシアのニュースだ。洋上を驀進する奇怪な形状の巨艦が一隻、日本の防衛省から提供されたというその映像は、タンカーを思わせる平坦な上甲板より巨砲が迫り出し、夜の海を紅蓮に染めて咆哮する様を映し出していた。ディスプレイの中ではあっても伝わり来る一斉射撃の迫力、ふたりは同時に、一瞬ではあるが気圧される。
「……中国人は、このワイルドカードに一杯喰わされたというわけね」
「笑いごとではありません、傭兵部隊に潜ませた我らの『監察係』とは、依然連絡が取れない状況なのですから……」と、スーツの女が表情を曇らせる。
「大海獣に、呑み込まれた……と?」
「そうであればどれほど気が楽か……彼女の経歴が経歴だけに、米国中央情報局及び国家安全保障局も敏感になっているようです」
「もう彼女の関与に気付くなんて……相変わらず耳が早いわねアメリカ人も……」
思い詰めたような側近の前でも、寛ぎの中に倦怠を漂わせた彼女の風格に陰りは生まれなかった。そのような彼女の姿を前に、側近はむしろ安堵する。特異なカリスマの持主と称することも出来るかもしれない。
「内通者には、彼女の消息については最優先で報告させるようにしてね……話が拗れたら後々面倒だから」
「畏まりました」
側近を退出させ、首相と呼ばれる女は独り、冷たい星空の下でまどろみに身を委ねる。
「ヘドヴィカ……殺しても死なない女だと思ってたのにねぇ……」
8月12日 AM10:30 日本国沖縄県 宮古島
かつては中央病院――否、今も病院と呼ばれている場所のヘリポートに、巨大な質量がローター音を蹴立てて迫る。蒼天を塞ぐようにして降り来るCH‐47JAチヌークは四本の脚を屋上のヘリポートに接し、そしてキャビンに通じるハッチを開けた。
「搬入急げ!」
衛生班長の徽章を付けた戦闘服姿の陸曹が待ち構えていた一団に搭乗を促す。身体の負傷した各所に分厚く包帯を施された人影が、同じ戦闘服型の陸自隊員に促され早足で、あるいはたどたどしい足取りでアイドリングを続ける機内へと呑み込まれていく。髪の色も肌の色も、そして目鼻立ちまでもが違う雑多な人々の群れ……捕虜として銃装備を剥ぎ取られた上で、沖縄まで後送される武装勢力の生存者たち。
「生存者」という単語が敵味方の区別なく重く圧し掛かる程、宮古島の不法占拠を試みた武装勢力の被った被害は甚大だった。何よりも、下地島と宮古島の両空港に戦力の過半を集中していたことが、彼らの命運を分けたのであった。未だ正確な集計は出ていないが、昨夜の「砲撃」に巻き込まれて生命を失った戦闘員は、島に踏み入った総数の半分に達するという試算が現段階では出ているほどで、裏を返せば、此処まで迅速な自衛隊の反撃が可能になったのは昨夜の砲撃あってのこととも言える。
「あれはちょっと……反則だよな」
「ばかを言うな。あれのお陰で俺たちゃ命を拾ったようなもんじゃないか」
屋上に在って港湾を警戒する普通科隊員らの会話が聞こえる。彼らの関心は港湾を跨いで臨む外海の一点、そこで護衛艦と共に悠然と巨体を並べる異形の艦に向かっている。艦橋と煙突、航空機収容区画を除き甲板の全てが平坦に過ぎる、補給艦の出来損ないの様な艦。しかしその正体たる常識外の巨砲を有する戦闘用艦船としての側面は、南西諸島方面に展開する自衛官の大多数にとって、既に周知するところとなっていたが、その巨砲が収納された状態での停泊とあっては、その真偽を図りたくなるのも一理あるというものだろう。
「驚いちゃったよ。日本が戦艦を持ってるなんて……」
ヘリポートに程近い急患搬出口が開き、寝台に縛られた患者とそれに付き添う医師が数名の衛生兵に伴われて姿を現した。戦闘服姿の衛生兵に囲まれた民間の医師、しかも女医というのがヘリポートに在ってヘリの誘導と警戒に当たる隊員たちには奇異な取り合わせに映る。意識を失った躯に人工呼吸器と点滴を施された患者。それも首筋と肩の筋が異常に発達した、明らかに娑婆の世界の住人ではないと判る白人女性……その上に美人とあっては隊員達の注意を惹かざるを得ないというものだ。その寝台の後を追うように、医官の腕章を巻いた戦闘服の幹部が慌しく現れる。
「出水先生!」
呼び止められ、出水 真弓は寝台から頭を上げた。その彼女の背後でチヌークの後部ハッチが音を立てて閉まり始める。今度はそれを、真弓は愕然として見詰めた。
「どういう……こと?」
防衛医官 楢橋二佐が肩を弾ませて真弓に追い縋るようにした。真弓と寝台の女を交互に見遣り、彼は尚も息荒く言葉を弾ませる。
「出水先生! 沖縄の司令部から指示が来たんです! 彼女に関しては他の捕虜とは別個に扱うと」
「でも……!」
抗弁しようとする真弓の背後で急激にローターの回転が上がり、捕虜を乗せたチヌークが上昇する。置いて行かれたと憤る余裕を、次に現れたヘリコプターの機影は与えてくれなかった。甲高い爆音の接近。陸自のチヌークとは明らかに異なる重厚な外見、そして暗灰色のヘリコプターがヘリポートに向かって降下し、ヘリポートを蹴らんばかりの勢いで接地する。その所属は――
「アメリカ軍……!?」
「彼らの要請です……残念ながら断ることは出来ない」
と、楢橋二佐は声を曇らせる。開かれた後部ハッチから地上に駆け出したロードマスターと完全武装の兵士が六名、真弓と陸自の衛生兵から寝台を分捕る様に確保するや、彼らは素早い手際で寝台を運び去ろうとする。指揮者らしき戦闘服の上腕に真弓の手が延び、そしてがっちりと捉えた。何事かと目を怒らせる白人に、真弓は英語で声を張り上げる。
「引継書どおりに処置して! 死なせたら只じゃおかないから!」
男は気圧されつつも、終始無言であった。患者を取り上げられた怒りを持て余したまま、真弓はアメリカ人の一団を睨む。全員の収容を終え再び上昇する大型ヘリが不吉な影を病院に投掛け、そして沖縄の方向へと飛び去っていく……その後には脱力感が残った。楢橋二佐が歩み寄り、言った。
「ヘドヴィカという女のことは、米軍も追っていたようですね。何か重大な事件に関わっていたとか……」
「…………」
沈黙――しかし、思い当りもしなかった彼女の側面を知り、動揺を覚える。
戦闘の収まりきらない内に病院の機能を回復してまで救い、その結果生き残った唯一の幹部たるヘドヴィカという女の存在は、未だ背後関係すら掴めていない武装勢力の正体を探る格好の「鍵」となり得る筈だったのだが……それは今後の成り行きによっては、日米安全保障条約という分厚い壁に阻まれて消えゆく運命を負う運びとなりつつある。
「先生……ご協力有難うございました。南に避難したスタッフも戻ってくるそうですし、此処は我々に任せて少しお休みになっては如何ですか」
微笑……そして頭を振って応じ、そして真弓はヘリポートから階下へと向かう。
『――ギリシアを始めとする欧州、アフリカの十数カ国が中国をテロ支援国家に指定することを要求しています。一方、ドイツのオットー外相は国連本部での講演で、国連安全保障理事会より中国を除名し常任理事国の空席を当面ドイツ、日本の共同代表を以て充てること、あるいは常任理事国の枠を拡大しドイツ、日本を以て充てることが望ましいと発言し、中国及びイタリアはこれに強く反発しています。この件に関連し森下外相は――』
「…………」
二階待合室のテレビが付けっ放しのままニュースを垂れ流している。真弓は暫し佇み、画面の中の外務大臣に目を奪われる。憔悴の色を滲ませて首相官邸から外務省に向かう外務大臣が、次の瞬間には総理大臣 眉村 浩香の姿に切替る。官房長官を伴い記者会見を行うべく地階に向かうその歩調には、微塵の疲労も見られなかった。彼女は宮古島を守るために多大な犠牲を払ったが、ニュースをまた聴きする限りでは、国際社会はそれに似合うだけの労いを日本に与えようとしている……ということだろうか? ただそれが本当に数多の自衛隊員の犠牲に釣り合うものなのか、いまの真弓にはこれ以上論評することは出来なかった。
病院の玄関ホールでは、戦死者の搬出が始まっていた。死体保存を意図して空調を最大に効かせていても、夏場特有の死臭はさすがに防ぐことが出来てはいなかった。玄関に横付けした大型トラックに向かい死体を運んでいた隊員が、真弓の姿を認め一礼する。彼らに黙礼で応じ、真弓は玄関を潜って外に出る。死体は機能回復成った宮古島空港において、本土から増援の自衛隊員と救援物資を運んで来た輸送機に乗せられ、折り返し無言の帰路に付くというわけであった。
ジェット機の爆音が近付いて来る。その直後には黒い戦闘機の機影が青空の一辺を過ぎり、夏空の高みへと昇る――日の丸を纏った鋼鉄の翼。忙しなく市内を行きかう自衛隊のトラックや装甲車の姿……宮古島が日本に戻りつつある光景。何時しか足が港に向かい、そして真弓は港外に佇む巨艦の姿を目の当たりにする。
巨艦を一望できる岸壁に積み上げられた救援物資の山の傍で、戦闘服姿の自衛官と話し込む男には、真弓は痛いほど見覚えがあった。サインを終えた書類から顔を上げた男の目が真弓の姿に向かい、それは真弓の眼前で別れた夫の顔となる。
「吾郎……さん」
「真弓さん……か?」
しばし動きが止まり、最初に黛が歩み寄った。彼に対し後退りするようなわだかまりを、真弓は持っていない。ふたりはごく自然の内に結ばれ、そしてごく自然の、互いの納得の内に結婚生活を終わらせた。互いの人生のために良かれと考えた結論だった。込み上げてくるものの誘うがまま真弓も歩をさらに進め、ふたりは手を延ばせば互いに触れ合える距離で正対する。所々が朱に染まった白衣が、黛の目を曇らせた。
「大変だったね……色々と」
「そうでもなかったわ……楽しかった」
「楽しかった……?」
「今思えば……ね」
声が震え、涙が溢れ出すのを覚える。気丈を装うとする余りに出る不適切とも思える言葉、言葉を択べなかったが故に生じる狼狽……彼女のかつての夫でさえ、狼狽の赴くままにハンカチを差し出し、そのままかつての妻の瞳を拭うのだった。
「吾郎さんも、お仕事で来たの?」
「たまたま……近くを航行ったからさ……成り行きってやつだ」
真弓から目を逸らしつつ、黛は目を伏せるように振る舞う。帽子に描かれた艦のシルエットが、遠方で停泊する巨艦のそれと重なることに、今更のように真弓は気付く……同時に再び込み上げてくる涙の粒――柳の様な両手が黛の襟に触れ、ぎゅっと掴む。同時に俯いた頭がさらに下がり、黛の胸に触れた。
「――ありがとう……!」
か細い声、だが芯まで響く明瞭さがある。自ずと延びた手が背中を抱こうとして止まり、そして白衣の肩に落ち着いて触れた。その後には心地良い静寂が続いた。
暫し白雲に隠れていた太陽が現れ、岸壁が延びる一帯を照り付ける。
冷たかった潮風に熱い息吹が混じり始め、空を舞う鳶が心地良く鳴く。
海は今のところ、そこに生きる全ての生命に対し、静かであろうと努めていた。
蒼弾の射手――――復活の大海獣 終