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序章  「訓練海域β」

4月21日 フィリピン ミンダナオ島


 直線距離にして1420キロメートル余りを踏破する頃には、C-130Rは高度18000フィートの高みにその巨体と鳳翼を委ねつつあった。


「――降下1分前」


 そう告げる機上整備員(FT)の声は淡々としている。本番を前にしても、それに辿り着く前に幾度となく繰り返されてきた「予行演習」の結果として、実戦に臨むという緊張を喚起する神経が完全に鈍摩しきっているのだ。古人曰く、訓練とは実戦を忘れさせるためにある、とはまさに至言なのかもしれないと、堀内 完吾 一等海尉は今更ながらにして思う。同時に外見たる巨体からは意外に思われる程手狭なC-130R戦術輸送機の機内照明が赤に転じ、既に減圧を終えた機内に風の流れる音を聞く。油圧の唸りを上げ解放されつつあるローディングランプ、行先知れずの空の出口――堀内一尉は完全に開いたランプの端に歩を進めて身を伏せる、そこから頭だけ乗り出す様にして外界に目を細めた。機が適正なコースを飛んでいるか眼下の地形と照合するためだ。今回の「作戦」で降下長を務める彼の、重要な役割の一つである。

 夜の空と海。暗灰色の雲海の途切れ途切れに、月明かりに照らし出された輪郭だけを辛うじて見出すことのできる島々の影……雲の影とそれを混同しないよう注意深く視認を続けるうち、堀内一尉の意識から、一切の雑念が氷解するが如くに掻き消えていく。コースが正しい事を確認し、堀内一尉は部下を顧みた。


「時間だ、装具を点検しろ」

 身振りと言葉で、部下に行動を促す。自由降下用の主傘と一体化したバックパックの収納状態、それと身体を結わえている縛帯の具合、堀内を含め合計六名のチームは互いに装具の状態を確認し、それまで高空に在って彼らの生命を繋いできた機内装備の酸素発生器から、身体に装着した酸素ボトルに切換える。機から飛び出す準備は、終わった。


「降下30秒前」

 機上整備員の声が、堀内一尉に今回彼らが行動を共にする「相棒」の存在を意識させた。海上自衛隊仕様のC-130R、そのキャビン容積の過半を占める黒い流線型の膨張式ボート(IB)の船体、それは230馬力のエンジンを二基搭載し、一度海原に降り立つや彼ら海上自衛隊(JMSDF)特殊舟艇部隊(SBU)にとって欠くべからざる海の足となる筈であった。ローディングランプへと歩を進める六つの影、彼らは総数四万名余りの人員から成る海上自衛隊内でも過酷な選抜試験を潜り抜け、それに続く戦闘、生存技術を叩き込まれた精鋭たる約200名、そこから彼ら六名のようにパラシュート技術を以て遠隔地へ自在に浸透可能な要員となると、現状では20名に満たない。堀内一尉のチームはその特殊舟艇部隊(SBU) 降下小隊隷下の三個分隊の一つであり、今回の「実戦任務」に投入されることとなった「幸運なる」部隊であった。


「降下5秒前……3、2、1……降下、降下、降下!」

 赤い機内灯が緑に一変し、けたたましいブザー音が響き渡る。堀内一尉ともう一名がIBを機外に押し出し、流れに乗るようにランプを蹴る。空へ我が身を投げ出し、右足を軸に身体を一回転させた次の瞬間には、堀内一尉と彼の部下は両手両足を広げた「(フロッグ)」――安定降下姿勢ラウンドフォーメーションで眼下の雲海を睨んでいた。左手首に巻いた高度計を注視しつつ、一方では先に空へ追い遣ったIBの行方に気を配ることも忘れない。IBは?――大丈夫、予めセットしておいた識別灯の点滅と、船体に張り付けた夜光テープで夜空に在ってもその行方は手に取るように判る。堀内らはそれを追いつつ空を滑り降り、姿勢を変えて行けばいい。部下たちもまた、その堀内を追ってIBの傍まで空を滑り降りる算段である。


「――――!」

 高度計が所定の高度に達するのを認め、堀内一尉はリップコードを引いた。拘束を解かれた落下傘が引き摺られるように延び、次の瞬間には翼の様に広がった傘体が気流を捉え堀内一尉の身体を空に引き戻さんとする。思ったより衝撃は感じなかった。夜空を落下から滑空に転じた堀内一尉の見下ろす遥か先で、IBに繋がれた落下傘が展張するのを彼は見た。IBを追う様に操作索を引き、IBに距離を詰めんと試みる……何時しか六つの落下傘は、先行する一つを追う様に一本棒となってどす黒い海原に降り立たんとしていた……着水!


「――――!」

 着水直前で落下傘を切離し、至近にやはり着水を果たした膨張式ボート(IB)を見出してその縁に齧りついた時、堀内一尉は内心で会心の笑みを浮かべた。今回は幸先がいい。これまで瀬戸内海や太平洋上の硫黄島近海で繰り返した極秘演習では、ここまで上手くは行かなかった。その思いはやはりIBの至近に降下と着水を果たし、此方に向かってくる五名の部下の姿によって補強される形となった。チーム全員の搭乗を確認し、堀内一尉は作戦準備を命じる。ジャンプヘルメットやゴーグルといった降下用の装備を海中に投棄し、作戦用――言い換えれば戦闘用――の装備への換装を彼は命じた。ブーニーハットを被り、緑色のドーランで肌を埋めた異形の男たち、消音器とダットサイト付き、やはり銃身にも迷彩を施したHK416自動小銃の薬室に第一弾を送り込むのと機を同じくしてエンジンが始動し、IBは波間を蹴立てつつその速度を上げ始めた。天の上面を埋める半月、青白い月明かりの下、舳先の向こうで海岸線が輪郭となり、そして灰色の浜辺が個人暗視装置(NVG)の丸い緑一色の視界の先に広がる。そこからは訓練通りだった。IBを入江の、それもさらに入り組んだ場所に乗り上げ、隠蔽を施して彼らはジャングルへ向かい歩き始めた。堀内一尉を先頭に、間隔を開いた一列となってチームは木々の間を抜け、草木を切り開きつつ進む。時間に遅れは無かった。予定通り――


 鳥か獣か、得体の知れない何かが遠方で鳴く声を聞く。堀内一尉にはそのような環境が、彼自身が生まれ落ちた時から知っているように思えた。人間にとって原始、文明に拠らず本能にその生存の過半を委ねていた頃から引き継がれた記憶だと思った。一切の文明の恩恵の届かない寄る辺のない場所、人間にとって最も恐ろしい場所である筈が、何故か心地良く感じられた。自ずと上がる歩調に身を委ねつつ堀内と彼の部下は山を二つ越え、上陸から八時間を掛けて三つ目の山頂に達したとき、彼らの歩は止まった。


「止まれ」

 拳を上げ、身を隠す様命じる。山頂もまた縦横に巡る木々の占める処となっていたが、踏破の末に彼らが眼下に見出した「文明」は、自然に身を委ねた状態から臨むには余りに危険過ぎた。堀内一尉は匍匐の姿勢で草陰を這い、山頂の端に達した処で、測遠機付双眼鏡を手にした。


「…………」

 飛行場――それは状況説明(ブリーフィング)の段階で教えられていたものよりも遥かに上等で、守りも強固になっていた。その当初の、ローラーで地面を展圧しただけの滑走には鉄板が敷かれ、その四隅にはサーチライト付きの(やぐら)(そび)えている。荷台に重機関銃を装備した軍用トラック、あるいは日本製のトラックが誘導路上を走り回り、群を成して敷地内を歩き、あるいは飛行場の周囲を固める人影の手には例外なく自動小銃が握られていた。サーチライトの転回を注視しつつ双眼鏡に目を凝らす内、堀内の眼は飛行場内のある一点で固まった。

「――――!」

 ジャングルを切り拓いた飛行場の、ジャングルに最も迫った一角で回転を続ける巨大な網状の物体は、昼夜の別なく蒼空に向け無機的な電子の眼を凝らしている筈であった。今次作戦の最優先目標たる移動式対空レーダー。付属する発電機の発する音が、低いながらも空気を震わす響きとなって此方まで聞こえてくるのを感じる。近年になってフィリピン国内で再び勢力を拡大しつつあるイスラム系の反政府武装勢力。彼らはアラブ系勢力の資金援助の上に、中国からの武器支援もあり、結果としてフィリピン政府ですら容易に制し得ない規模にまで変貌を遂げている……堀内一尉の眼は、レーダーから再び飛行場の全容に転じ、飛行場周辺の各所に配された短距離地対空ミサイルの発射器を見出したところで止まった。


目標(ターゲット)確認。捜索レーダー1、SAM3基……状況説明(ブリーフィング)通りだ」

 追従する通信士を顧みて言った直後、空を震わす爆音が彼らの直上を圧した。頭上を擦過する黒い機影、それは堀内の眼前で脚とフラップを下し、滑走路に向け着陸態勢を取る民間機の機影となった。

「――――!」

 素人目にも乱暴な着陸だと思った。機体を揺らしつつ滑走路上を走る真白い双発ターボフロップ機。内閣衛星情報センターの情報官も交えた状況説明で教えられた中国製の旅客輸送機が、滑走路上で速度を落とし、アイドル状態を維持したまま誘導路に機首を向ける。そいつはそのまま駐機場と思しき地肌剥き出しの広場で止まると、横付けしたトラックの荷台に箱やら梱包やらを乱雑に放り始めた。フィリピンの情報当局者によれば、インドネシア経由で武器と資金を運んでいるとのことだが……

「…………」

 腕に嵌めたGショックの画面を見遣る。低光量にしたそれは、0300まであと5分であることを示していた。作戦開始時刻(ゼロアワー)まであと10分――

「――隊長、『リヴァイアサン』に繋がりました」

 可搬式衛星通信システムを預かる通信士が、薄型の送受話器を差し出した。送受話器を取り、耳と肩の間に挟むようにした。

「リヴァイアサン、こちらマウス、感明どうか、オーバー」

『――こちらリヴァイアサン、感明良好、当所の感明どうか、オーバー』

「感明よし、マウスはアルファに到達。何時でも評定可能、ここで新たな指示を待つ。アウト」

 手短に交信を終え、堀内一尉は背後に控える部下を手招きで呼んだ。携帯式のレーザー照射/目標評定装置を抱えた海曹、彼に自分の横に伏せるよう手振りで示す。海曹は傍に来るや、心得た様に三脚を立て、装置を叢の陰になるように据えた。残りの部下は四隅に散って警戒に当たっている。それからは、再び静寂が辺りを支配する。


「0300……そろそろだ」

 腕時計を睨みつつ、堀内は呟く様に言った。

『――リヴァイアサンよりマウスへ、目標座標報せ、オーバー』

「こちらマウス、座標は――」

 座標を示す数値を述べた後、一瞬空白が生じた様に堀内には感じられた。

『――了解した。リヴァイアサン作戦海域ベータに到達。作戦開始時刻に変更無し。レーザー照射は作戦開始時刻の10分後とする、アウト』

「…………」

 交信を打ち切った後、堀内は評定係の陸曹をまじまじと見つめた。目標たる飛行場の正確な場所を「リヴァイアサン」に報せ、予め決められた作戦開始時刻の10分後に、広域評定モードで照準レーザーを飛行場に照射する……それが、彼ら特殊舟艇部隊(SBU)に要求され、命令された全てであり、全てが終わった後の戦果報告に続いて彼らが待つべき指示は「撤収」しか残されていない。それが堀内ならずともチームの面々には不可解であった。攻撃をする、という事だけはおぼろげながら判るが、ではどうやって?


 現有の自衛隊の装備から考えられる攻撃法は二つある。海上自衛隊の潜水艦から対地/対艦ミサイルを発射する方法、あるいは航空自衛隊の戦闘機による爆撃の二つ……だが、今回の作戦に当たりこれらの戦術単位が動いた形跡はない……何せ潜水艦は現状でも訓練や日本近海の情報収集活動で手いっぱいであるし、空自のF-2戦闘機だと日本から出撃するには明らかに距離があり過ぎる上に、そのような事をすれば国際社会の耳目を余計に惹いてしまう。ルソン島中西部のスービック空軍基地に海空自の輸送機や哨戒機を、多額の賃貸料と引き換えに訓練を名目に日本本土から分遣するようになったのも、今年に入ってからのことだ……それに、現在こうして自分たち日本の特殊部隊が外国の、それも奥地に潜んでいること自体、現状では――あるいは今後永久に――明らかにされることのない日本、フィリピン両政府間の密約であり、防衛機密なのだ。


「――――」

 沈思しつつ眺めていた時計の数字が、0305に達した。何だ?……何が起こる?――10分が経つのを待つうちに、柄にも無く胸が高鳴るのを覚えた。

 10分!―――

「照射いま!」

 低い声で叫び、照射要員の海曹がレーザーデジグネイターを起動させる。心身への衝撃は、それからさらに二分余りの空白を乗り越えた後で襲って来た。

「――――!!?」

 身体を預けたままの地面が揺れ、同時に光と炎が彼らの眼前に生じた。それは一つでは無く、まるで火で柱を作るかのように断続的に続き、飛行場と名の付く空間を呑み込むように埋めていった。

『――ブウウウウウウウゥゥゥゥン!!!』

 何かが空気を切る音を、堀内一尉は聞いた様に思った。それも身体全体でその唸りを聞いていた。唸りは一度では無く、まるで山間を貫く瀑布のように空に響き、今や地上に現れた地獄も同然となった反政府勢力の拠点を、喰らう様に蹂躙し続けている。かつてその中に見出した生者の気配など、炎と衝撃波の連鎖の中で、原子レベルで磨り潰され、完全にこの世界から消え去っていた。衝撃は何時しか戦慄へと変わり、呆然と地獄を見下ろす堀内、次に気付いた時には、何かが焼ける熱気と臭いの充満する場所で、彼はかつて文明の所産が犇めいていた痕を呆然と眺めていた。

『――こちらリヴァイアサン、マウス状況報せ、オーバー』

「こ……こちらマウス……殲滅……目標は殲滅された……もう何も残っていない……オーバー……」

『――リヴァイアサン了解、我これより全速でベータより離脱、マウスもアルファより撤収せよ。回収地点(RP)及び時刻に変更無し。アウト』

「待ってくれ!……リヴァイアサン……これは何だ? 一体何が起こった?」

『――――』

 動揺というより興奮が、堀内に言葉を吐き出させた。本来ならば余計な詮索をする積りは無かったし、彼の性格にも合わなかった。だが、言ってみずには居られなかったのだ。

『――何れ明らかになるだろうが、それは今ではない……アウト』

 完全に通信が切れ、堀内は蒼白な顔もそのままに手振りで部下に撤収を命じる。間もなく夜が明けるという事実が、偵察部隊員としての彼の本能に未だ暗さの残るジャングルへの退避を命じさせた。殿(しんがり)に立ち、周辺に小銃を巡らせつつ元来た途を辿る内、ふと込み上げて来た予感は確信となって彼の胸中を占めていた。


 人智を超えた怪物の誕生――否、復活に自分たちは立ち合ったのだ。そう、誕生ではなく復活に。それが何故「復活」であるのか、推し量る精神的な余裕は今の彼からは失われていた。






6月27日 バングラデシュ チッタゴン沖合 通称「船の墓場」


 曳船は泥の色に染まった海原を不機嫌に走り続けている。


 南アジア バングラデシュ南西部の港町チッタゴンを出て、インド洋方面に向かい一時間も海を進めば、その異様な光景をすぐに見出すことが出来る。10万トンクラスタンカーの、船首と船尾を切断された変わり果てた姿が前方に見えたとき、免疫の無い者ならば絶句せずにはいられない筈だ。しかもそれは片付けられる風でも無く、ただそこに浮き続けている。それを手始めに、かつては外洋を我が物顔に走っていた巨船の骸が各所に漂い、あるいは沈むに任せられたままの姿が見渡す限りの海に連なっている。それは存在意義を失い、もはや行くべき場所も無い船々の終焉の風景だ。人間の領域に必須の活気や熱気など、見出せる筈もなかった。

 

 それでも、曳船や雑役船のごくまれに行き交う姿ぐらいならばその一帯には見出すことができた。中には立錐の余地も怪しい程数多の人間を乗せた小船も垣間見える。小船は、かつては何かの船の一部であった桟橋に着くや、満載していた人間を吐き出す様に下し始める。彼らは手配師と現場監督らしき厳めしい風体の男の怒声に従い、やはり幽鬼の様な足取りでその日の彼らの仕事場へと向かって行くのだった……僅かな賃金で雇われた彼らは、その身体一つとハンマー、ノミを手に巨船に挑む。何の保証も無く、明日の希望も見えない仕事。解体に要するコストを忌避する船主がいる限り、それは決して無くならない風景であろう。引き取り先も無く此処まで流れ着くに至った船を解体し、その結果剥ぎ取られた大量の鋼材がチッタゴンで再加工され、バングラデシュという小国の全域に亘り流通する。そこに物質文明の影の部分――言い換えれば、終末の風景――を見出す者もいるかもしれない。


 幽霊船の如き朽ち果てた外観を、濁り切った海原に晒しつつ船は巨船の墓場を奔る。時には他の船と行き合い、ときには追い抜き追い越されつつ、曳船は残骸で作られた海の迷路を抜けた。四方を用廃となったマンモスタンカーの壁で囲まれた一角、船々の間に生じた隙間を潜り、曳船はその目指す処で走るのを止めた――その先には、周囲を取巻く退廃とは全くに赴きの異なる世界が広がっている。マンモスタンカーに劣らず巨大で真新しいフローティングドック、その上に鎮座する精悍な船影がひとつ。周辺を固めるタンカーと比べて巨大さの度合いでは物足りないが、それを補って余りある重厚さが見上げる眼前に圧し掛かって来る……そんな印象からは何人も逃れることは出来ないであろう。


「だいぶ進んだようだな」

 船が桟橋に着き切らない内に、大股にそれを飛び越えて歩き出しつつその男は言った。長身、ブラシのように短く切り揃えた黒髪の白人。但しその水色の瞳はガラス球のように空虚で、この世に存在する虚無の一切をその奥に閉じ込めたような冷たさを、刺す様な眼光に換えて煌めいていた。出迎えを無視するように、無言でドックまで歩こうとする長身の男。出迎えの肥った髭面の白人が表情を顰めて言った。

「すごいもんだろう?……だが、まともな人間には考えもつかねえよ。浮きドッグそのものを此処に棄てたことにしようなんて……」

「フン……!」

 鼻で笑い、男は仮設桟橋からドックに横付けした小型貨物船の甲板に脚を踏み入れた。配置上、此処を通らねばドッグの最上階、昼夜別たずクレーンの動き続ける作業区画に入ることは出来ない。甲板の中程を過ぎてから、自然由来とは明らかに異なる、鼻を刺す臭いが急激に鼻腔に踏み入って来るのを覚える。塗料を攪拌する有機溶剤の臭い。溶接機が鋼板を焼く臭い。そして造船所を右往左往する工員の発する体臭――ドックの中層、薄暗い作業区画を飛び交う吃音系の言葉は現地の言葉では無かった。上半身裸、異様に眼をぎらつかせたアジア系の男達が工具を手に、あるいは所在無げに区画と連絡路を歩き回っている。

「中国人は駄目だな……韓国人をもう少し呼べないか?」

「奴らはこういう仕事はしたがらないから無理だな……ただ、図面を引けるやつをあと5人位は欲しいとは思ってる」

「少々値は張るが……おれがウクライナ辺りで声を掛けてみるか……」

「元々向こうで造られたフネだしな。そうしてくれると助かる」


 髭面の男が先導し、作業用のエレベーターに乗る様長身の男を促した。柵状のシャッターを閉めるや、エレベーターは心臓に悪い軋みを立てて上へと動き出す。エレベーターのもう一方からは、ドックの内部で改修……否、復旧を受ける灰色の船体を伺うことが出来た。単純な全長だけで優に250メートルに達する太い船体……だがそれが単なる「船」ではなく実は「艦」と呼ばれる建造物であることは、ドックの最上階に達した時に初めて判る。


「目覚めるか……『母なるロシア(レジーナ‐ロシア)』」

 かつては彼女の母国に於いて、スクラップ同然に放置されるがままに置かれてきたその巨艦の、再塗装を施されたばかりの見違える様な威容を目の当たりにしたとき、長身の男が此処まで自身に強いて来た謹直は、外気に触れたドライアイスの如くに解けきってしまった。胸を躍らせて欄干にしがみ付き、長身の白人は城郭の如き巨艦を目で堪能した。半世紀以上前の戦艦のそれを思わせる、傾斜の付いた長大な艦橋構造物。その最上部に林立するレーダーアンテナは、さながら甲板という一つの世界の最上層に広がる森を思わせる。上甲板は彼のリクエスト通りにレンガ色に塗られ、その全面を埋める様に廃された垂直発射装置は無数……「海の要塞」という形容が追いつかない程多数が埋め込まれ、空を睨んでいる。この世界の海軍軍人の過激エリートと兵器フェチシストの夢を詰め込んだかのような艦……一時期、もはや征くべき海を失ったが故に閉塞を強いられたそれが、今まさに、誰にも知られることなく新たな生命を吹き込まれようとしている……

「素晴らしい!……2年掛けてドックをここに棄て続けた(・・・・・)かいがあったというものだ。お前もここでもう3年、よくやってくれた」

「しかし、御大層な『廃棄物』だぜこいつは……」

 と、口元を綻ばせつつ髭面の白人は脚下を見遣る。「廃棄物」……つまりはこういうことだ。既存のフローティングドックをブロック単位で解体し、廃棄を名目に小分けにしてチッタゴンに移す。現場監督の彼は此処でフローティングドックを組み立て、船の墓場に秘匿された造船所を作り上げる。今度は廃棄の対象となった軍艦を廃棄物として此処に運び込み、「依頼主(クライアント)」の指示を受けて復旧――国際社会の監視の眼を潜り抜けるべき試みは順調に進み、今では仕上げの入口に爪先を踏み入れ掛けているというわけであった。


「『グラニート』の搭載が来週に繰り上がった。搬入は深夜に行う。今の内にぐっすり眠っておけよ」

「そうか……存外早く手に入ったな」

「在るとこには在ったってことだ。それと、GPS誘導管制装置の実装を急がせろ……」

 長身の男の緩んだ笑顔が、テレビの画面が切替る様に無表情に転じた。

「……『依頼人(クライアント)』が、()れている」



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