見ないで
インターホンを押すと、間を置かず、重い玄関扉の向こうで鍵が回る音がした。
出迎えた母親は、ひどく疲れた顔をしていた。
「こんにちは。千堂です」と私。
「どうも……」
それだけ言って頭を下げる。
泣いたあとらしく、目の縁が赤かった。
私も会釈を返し、玄関へ入った。
家の中は静かだった。
思っていたより、ずっと静かだった。
廊下の隅に割れたマグカップが片付けられずに置かれている。
壁紙の一部が不自然に裂けている。
だが、それだけだ。
電話口で聞いた話では、もっと酷い状況を想像していた。
「娘さんは?」
「部屋にいます」
母親はかすれた声で答えた。
「昨日の夜から、ほとんど出てこなくて……」
私は頷いた。
「まずはお話を聞かせてください」
リビングへ通される。
父親はソファに座っていた。
私たちの姿を認めると、彼は弾かれたように立ち上がり、深く頭を下げた。
「松田です。わざわざお越しいただき……」
私も手短に挨拶を済ませ、彼に座るよう促した。
改めて見ると、父親の頬に浅い傷があった。
何日も眠っていない人間の顔だった。
「お嬢さんのご様子は」
そう言いながら、懐から取り出した手帳を開く。
本当はスマホのアプリのほうが使いやすくて便利なのだが、娘の異常に心をすり減らしている親の前で画面を覗き込めば、「不真面目だ」と、余計な不信感を植え付けかねない。
あえて古風な手帳へ文字を刻んだ方が、藁をも掴む思いの依頼人に「この男はプロだ」という奇妙な安心感を与えることを、私は経験上知っていた。
父親は母親と顔を見合わせた。
「熱があります」
「正確な数値を。それと、発熱はいつからですか」
「三日前から、四十度近く……その日のうちに救急へ連れて行きました」
母親の顔が暗くなった。
私が手帳にペンを走らせる音が、静かな部屋に小さく響く。
「病院の診断は」
「検査しても、原因がわかりませんでした。血液検査も脳のCTも異常なしって……」
「それで?」
「熱が下がらないので入院を勧められました。……でも、あの子が狂ったように暴れて、病院のベッドを拒んだんです。点滴の針を引きちぎって、家に帰ると叫んで……それで……電話でお話した通り……あれが……」
母親が言葉を詰まらせ、自身の両腕を抱くようにして震えだした。
私は手帳に走らせていたペンを止め、視線を母親へと戻す。
「それで、医師が私を?」
「はい。千堂先生の連絡先を渡されました」
「その他に、何か異常は?」
それまで俯いていた父親が、重い口を開いた。
「変なんです」
「何が」
「夜になると……」
言葉が途切れた。
「夜になると?」
「誰かと話しているんです」
私は手帳を閉じた。
それ以上の説明は必要なかった。
そういう依頼だった。
「会わせてください」
母親の肩がわずかに震えた。
「先生」
「なんでしょう」
「無理に連れて行かないでください」
私は少し驚いた。
「本人がそう言ったんですか」
母親は頷く。
「先生を呼ぶなら、家から出るって」
「それで三日も放っておいた?」
父親が苦しそうな顔をした。
「……はい」
私は立ち上がった。
二階へ続く階段を上る。
突き当たりの部屋だった。
ドアは閉まっている。
ノックする。
返事はない。
もう一度ノックする。
それでも返事はない。
私はドアノブを回した。
鍵はかかっていなかった。
部屋へ入る。
少女はベッドの上に座っていた。
十四歳。
事前に聞いていた年齢より少し幼く見える。
膝を抱え、窓の方を向いている。
私が入ってきても、驚かなかった。
ただ、視線だけが動いた。
その目を見て、私は足を止めた。
熱のある人間の目ではない。
奇妙に澄んでいる。
冷たい。
こちらを観察している。
まるで、私の方が診察されているみたいだった。
「松田凛さん?」
少女は答えなかった。
私は笑顔を作った。
仕事用の顔だ。
「千堂です。お母さんから聞いているね」
沈黙。
「少し話をしよう」
沈黙。
「熱があるそうだね」
沈黙。
部屋の空気が重い。
何かいる。そういう気配ではない。
もっと単純なものだった。
強烈な拒絶。少女自身が発しているものだ。
「お父さんとお母さんが心配している」
「……余計なお世話」
初めて、声を聞いた。
思ったより普通だった。
かすれてはいるが、はっきりしている。
「病院には行ったんだね」
「行った」
「異常なし」
「そう」
「なら、私も帰ろうか」
少女の眉がわずかに動いた。
初めて表情が変わった。
私はそれを見逃さなかった。
「でも」
私は一歩近づいた。
「君から妙な気配がする」
少女の視線が鋭くなる。
「だから確認したい」
「嫌」
即答だった。
「なぜ?」
「嫌だから」
私はさらに一歩近づいた。
その瞬間だった。
机の上に置かれていたシャープペンシルが、床へ落ちた。
誰も触っていない。
少女の呼吸が速くなる。
「凛さん」
「来ないで」
「確認だけだ」
「来ないで」
今度は本棚の本が一冊落ちた。
鈍い音がした。
私は立ち止まる。
そして少しだけ安心した。
少なくとも、原因はいる。
何もないよりは、ずっといい。
「手を見せてくれ」
「嫌」
「一瞬で終わる」
「嫌」
「凛」
少女の顔が歪んだ。
怒りだった。
恐怖ではない。
少なくとも、最初はそう見えた。
「帰って」
彼女は言った。
そこで初めて、私は彼女が怯えていることに気づいた。
私ではない。私がこれからやろうとしていることに対して。
私は椅子を引き寄せ、ベッドから少し離れた位置に腰を下ろした。
無理に近づくつもりはない、少なくとも今は。
「何日眠っていない」
凛は答えない。
「三日か」
反応はない。
「四日?」
少女の視線がわずかに揺れた。図星らしい。
「食事は」
「食べてる」
嘘だ。頬は痩せていた。
唇も乾いている。
私はため息をついた。
「凛」
「……」
「君は何かを隠してる」
彼女の肩がぴくりと動いた。
「隠してない」
「なら手を見せろ」
「嫌」
「なぜ」
「嫌だから」
まただ。私は思わず笑った。
少女の顔が険しくなる。
「何がおかしいの」
「いや」
私は首を振った。
「ずいぶん頑固だと思って」
その瞬間、机の上の写真立てが倒れた。
ガタン。
大きな音が部屋に響く。
凛の呼吸が速くなる。
私は文字通り「ひっくり返った」写真立てを見つめた。
家族写真だった。
旅行先だろうか。
森の中、飛沫を上げる滝を背景に三人が仲睦まじく映っている。
写真の凛は笑っていた。
今の彼女からは想像もできないほど自然に。
「先生」
凛が低く言った。
「帰って」
「それはできない」
「どうして」
「仕事だからだ」
「お金?」
思わず眉が上がった。
「そう聞こえるか」
「違うの?」
私は答えなかった。
凛も黙る。
しばらく静寂が続いた。
窓の外で風が吹いている。
遠くで犬の吠える声が聞こえた。
「先生」
「なんだ」
「見たらどうなるの」
私は彼女を見た。
初めてだ。彼女の方から聞いてきた。
「何が」
「私の中」
私は少し考えた。
正直に答える。
「分からない」
少女の表情が固まった。
期待していた答えではなかったらしい。
「分からない?」
「分からない」
私は肩をすくめた。
「だから見たい」
「見たら消すの?」
「分からない」
「助けられるの?」
「分からない」
凛は唇を噛んだ。
私は続けた。
「でも、何もしなければ悪くなる」
「それも分からないでしょ」
「いや」
私は首を振った。
「それは分かる」
少女の視線が鋭くなる。
「どうして」
「君が怯えてるからだ」
凛は何も言わなかった。
だが、その沈黙は肯定だった。
私は立ち上がった。
「凛」
少女の身体が強張る。
「手を見せろ」
「嫌」
「一瞬だ」
「嫌」
「手だけだ」
「嫌」
今度はベッド脇のスタンドライトが揺れた。
倒れはしない。
だが確実に揺れている。
私を威嚇している。
あるいは拒絶している。
「凛」
「嫌」
「見せろ」
「嫌だ!」
初めて声が大きくなった。
その瞬間、スタンドライトが吹き飛んだ。
壁に当たって砕け散る。
私は反射的に身構えた。
凛自身も驚いたようだった。
彼女は壊れたライトを見つめている。
まるで、自分がやったとは思っていないように。
そこでようやく、私は確信した。
原因は彼女だ。だが意図的ではない。
少なくとも完全には。
「凛」
私はゆっくり言った。
「もう時間がない」
少女は顔を伏せた。
髪が揺れる。
小さく震えている。
泣いているのかもしれない。
「お願いだから」
彼女はかすれた声で言った。
「見ないで」
その一言で、私は初めて理解した。
彼女が恐れているのは痛みではない。
暴力でもない。
私に何かを見られることだ。
その理由はまだ分からない。
だが、分からないからこそ知りたくなった。
強く。どうしようもなく強く。
それは職業的な好奇心だったのかもしれない。
責任感だったのかもしれない。
あるいはもっと別の何かだったのかもしれない。
今となっては分からない。
ただ一つだけ確かなのは、この瞬間から私は、凛を助けたいのか、それとも彼女の秘密を暴きたいのか、自分でも区別できなくなり始めていたということだった。
私はドアを開けた。
「お父さん」
階下で物音がした。
しばらくして父親が顔を出す。
疲れ切った顔だった。
「なんでしょうか」
「少し手伝ってください」
凛の身体がびくりと震えた。
「嫌」
私は聞こえないふりをした。
「確認が必要です」
父親は娘と私を見比べた。
困惑している。
当然だ。
ベッドの上には十四歳の少女がいる。
痩せていて、熱があって、怯えている。
その横に私が立っている。
どう見ても私の方が強い。
どう見ても私の方が正しい。
だからこそ厄介だった。
「何をすれば」
「両手を押さえてください」
凛が立ち上がった。
後退る。壁際まで。
「嫌だ」
父親が苦しそうな顔になる。
「凛」
「嫌だ」
「先生の言うことを聞きなさい」
「嫌だ!」
本棚の本が何冊も床へ落ちた。
壁掛け時計が揺れる。
私は少女から目を離さなかった。
「凛」
「来るな」
「確認だけだ」
「嘘だ」
その言葉に私は少し苛立った。
「何が」
「確認だけじゃない」
少女の呼吸は荒かった。
肩が上下している。
「見たら終わりなんでしょ」
私は答えなかった。
答えられなかった。
実際、その可能性はある。
彼女の中に何がいるのか。
どれほど深く根を張っているのか。
まだ分からない。
「先生」
父親が不安そうに言った。
「本当に必要なんですか」
私は頷いた。
「必要です」
その瞬間、凛が笑った。
小さな笑いだった。
だが妙に耳に残った。
「ほら」
彼女は言った。
「誰も分からない」
私は黙った。
「先生も分からない」
「そうだ」
「なのに開けるの?」
私は一歩前へ出た。
「そうだ」
凛の顔が歪んだ。
怒りか。
絶望か。
あるいはその両方か。
「お父さん」
私は言った。
「押さえてください」
父親は動かなかった。
私は繰り返した。
「押さえてください」
沈黙。
その数秒が妙に長く感じられた。
やがて父親が歩き出した。
凛が首を振る。
「嫌」
父親は娘の肩に手を置いた。
「凛……」
「嫌だ」
「すまん」
その一言で終わりだった。
少女は暴れた。
想像していた以上だった。
父親の腕を振りほどこうとする。
蹴る。
引っかく。
噛みつく。
細い身体のどこにそんな力が残っているのか分からない。
私は手首を掴んだ。
熱かった。異様なほど。
「離せ!」
凛が叫ぶ。
「離せ!」
私は無視した。
「離せえぇぇぇぇぇ!」
窓ガラスが音を立てた。
ひびが入る。
部屋の照明が明滅する。
父親の顔から血の気が引いていく。
「先生……!」
「続けます」
私は短く答えた。
「でも」
「続けます」
凛の爪が私の手の甲を裂いた。
鋭い痛みが走る。
血が滲む。
その瞬間、私の中で何かが変わった。
ほんの僅かに。だが確実に。
私はここに呼ばれて来た。
助けようとしている。
時間も使っている。
説明もした。
それなのに、どうしてここまで抵抗されなければならない?
その感情が、頭をもたげた。
私はそれを押し潰そうとした。
もちろんだ。
相手は病人なのだから。
恐怖しているのだから。
だが消えなかった。むしろ強くなった。
凛は泣いていた。
涙で顔を濡らしながら、それでも私を睨んでいた。
その目が気に入らなかった。
まるで、私が何か間違ったことをしているみたいだった。
私は自分の奥から湧き上がる、その感情を認めたくなかった。
だから自分に言い聞かせた。
これは必要なことだ。
この子のためだ。放置すればもっと酷いことになる。
私は正しい。
私は正しい。
私は正しい。
そして気づけば、その言葉を、彼女のためではなく、
自分自身のために繰り返していた。
「押さえろ!」
気づけば私は怒鳴っていた。
父親がびくりと肩を震わせる。
凛は父親の腕の中で暴れている。
泣いていた。
叫んでいた。
だがその目だけは、私から逸らさなかった。
憎んでいた。心の底から。
私はその視線を真正面から受け止めた。
「先生……」
父親の声が震えていた。
「もう少し、別の方法は……」
「ありません」
私は即答した。
「今やらなければ、手遅れになります」
本当だった。少なくとも半分は。
もう半分は分からない。
だが、その時の私は、分からないという事実そのものに耐えられなくなっていた。
凛は必死に身体を捩った。
「嫌だ!」
涙で声が掠れている。
「お願いだから!」
私は手を止めなかった。
胸の奥に妙な熱が溜まっていた。
怒りとも興奮ともつかない熱だった。
「凛」
「嫌だ!」
「終わらせる」
「嫌だぁぁぁぁぁ!」
机の上の鉛筆立てが弾け飛んだ。
中身が部屋中に散らばる。
壁紙が裂ける。
窓ガラスが悲鳴のような音を立てる。
だが、もう誰もそちらを見ていなかった。
私も。
父親も。
凛さえも。
部屋の中心には、私と彼女だけがいた。
「千堂先生……!」
階下から母親の悲鳴が聞こえた。
私は無視した。
右手を伸ばす。
凛の胸元。
霊的な核へ触れるための特異な指の動きで、彼女の胸元を圧迫する。
少女の顔色が変わった。
今までとは違う。
怒りではない。
抵抗でもない。
純粋な恐怖だった。
その顔を見た瞬間、私は確信した。
そこにある。
彼女が隠しているものが。
「やめて」
凛が呟き続けた。
私は止まらなかった。
「やめて」
「お願い」
「やめて」
彼女は泣いていた。
本気で泣いていた。
私は知っていた。
ここで引くべきなのかもしれない。
一度仕切り直すべきなのかもしれない。
別の方法があるかもしれない。
もっと丁寧に話せばいい。
本当は分かっていた。だが、もう遅かった。
私は見たかった。
ここまで抵抗する理由を。
ここまで怯える理由を。
どうしても、今すぐ知りたかった。
その欲望を、私は責任感という言葉で塗り潰していた。
最後の障壁に指を押し当てる。
見えない何かが、軋んだ。
凛が絶叫した。
父親が顔を背ける。
私は力を込めた。
そして――砕けた。
何かが。
ガラスではない。
骨でもない。
もっと内側の、人格の奥にある何かが。
私は凛の内側を見た。
そこでようやく、彼女が何を隠していたのか理解した。
呪いではなかった。
少なくとも、それだけではなかった。
そこには、別の存在がいた。
ひとりの少女だった。
凛と同じ年頃の。
笑っている。
公園。
夕暮れ。
二人で歩く帰り道。
交わした約束。
名前。
記憶。
声。
その全てが、凛の魂の中心に焼き付いていた。
私は理解した。
その瞬間に、ああ、と。
そういうことか。
その少女はもういない。
死んでいる。
事故だったのか。
病気だったのか。
そこまでは分からなかった。
だが、確かなことが一つだけあった。
その少女の残滓は、彼女を蝕んでいた。
だから切除すれば助かる。
たぶん、高い確率で。
だが、それを切除した瞬間、凛は二度とその少女を思い出せなくなる。
私は全てを理解した。
そして同時に、凛も私が理解したことを悟った。
少女の目が見開かれる。
絶望だった。
あまりにも露骨な。
あまりにも子供らしい。
隠しきれない絶望だった。
その目を見た瞬間―――
私は、勝利を確信した。
彼女が必死で守っていた秘密を、私は暴いたのだ。
私は躊躇わなかった。
指先に力を込め、そこにある『何か』を掴み、引き剥がすように一気に引き抜く 。
パキン、と。 ガラスが微かにひび割れるような、乾いた音が脳裏に響いた。
次の瞬間、凛の身体から異様な熱が急速に引いていった。
部屋の空気を支配していた重苦しい圧迫感が、霧散するように消える。
ガタガタと鳴っていた窓ガラスも、嘘のように静まり返った。
「終わりました」
そう告げた私の指先には、淡く光る「死んだ少女の残滓」が、ただのエネルギーの塊となって残されているだけだった。
握りつぶすと、その光は霧散して消えた。
終わったのだ。
私は彼女を救った。
もう異常な熱に浮かされることも、怪異に蝕まれることもない。
「もう大丈夫です」
父親がほっとしたように息をつく。
だが、凛は動かなかった。
彼女は、自分の胸元に視線を落としていた。
ぽっかりと空いた、魂の中心。
そこに「誰」がいたのか、もう彼女には思い出せないはずだった。
名前も。
声も。
帰り道の夕暮れも、
交わした約束も。
すべては、ただの空白に変わってしまった。
彼女はその空白を、じっと見つめていた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……あ」
凛の目から、大粒の涙が溢れ出た。
それは、悲しみの涙ではなかった。
自分が何を失ったのかさえ分からない。
けれど目の前にいる男が、自分の命よりも大切だったはずの「何か」を木っ端微塵に踏みにじり、奪い去っていった。
その決定的な敗北の事実に対する、狂おしいほどの屈辱と怒りの涙だった。
少女は、言葉にならない絶叫を上げた。
父親の腕を振りほどき、ベッドから飛び出した。
怪異の力などもう残っていない。
ただの、痩せ細った十四歳の少女の身体だ。
それなのに、彼女は野生の獣のような凄まじい勢いで私に突撃してきた。
涙で視界を真っ赤に染めながら、狂乱状態で私に掴みかかる。
「返せ! 返せ!!返せえええええええっ!!!」
彼女の手が私の顔を引っかいた。
先ほどよりもずっと弱い、ただの子供の力だった。
けれど、その爪は私の皮膚を裂き、確かな痛みを刻みつける。
凛は私の胸ぐらを掴み、拳で何度も何度も私の身体を殴りつけた。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ただ私を殺すためだけに、
全ての力を振り絞ってぶつかってくる。
「何をしたの!? 私の、私の……!何を……!」
何を奪われたのか分からないからこそ、彼女の怒りは行き場をなくし、無限に膨れ上がっていた。敗北の悔しさと、私への純粋な憎悪だけが、彼女を動かしていた。
父親が慌てて後ろから凛を抱き留める。
「凛! やめなさい! 終わったんだ、もう大丈夫だから……!」
「放して!こいつを殺してやる! 殺してやるから!」
父親の腕の中で、凛はなおも私に向かって手足をバタつかせ、届かない爪を宙に突き立てていた。
その目は、私を命の恩人ではなく、取り返しのつかない略奪者として呪っていた。
私は一歩、後ろに下がった。
手の甲と頬の傷が、ズキズキと熱を持って痛む。
私は勝ったのだ。
彼女の頑なな拒絶を力づくでねじ伏せ、その命を救った。
数日もすれば、彼女は何もなかったかのように健やかな日常に戻るだろう。
感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはない。
けれど、涙に濡れた彼女の獰猛な眼差しには、押さえきれないほどの憎しみが込められていた。




