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見ないで

作者: あかみんご
掲載日:2026/06/12

インターホンを押すと、間を置かず、重い玄関扉の向こうで鍵が回る音がした。

出迎えた母親は、ひどく疲れた顔をしていた。


「こんにちは。千堂です」と私。

「どうも……」


それだけ言って頭を下げる。

泣いたあとらしく、目の縁が赤かった。


私も会釈を返し、玄関へ入った。


家の中は静かだった。

思っていたより、ずっと静かだった。


廊下の隅に割れたマグカップが片付けられずに置かれている。

壁紙の一部が不自然に裂けている。


だが、それだけだ。

電話口で聞いた話では、もっと酷い状況を想像していた。


「娘さんは?」

「部屋にいます」


母親はかすれた声で答えた。


「昨日の夜から、ほとんど出てこなくて……」


私は頷いた。


「まずはお話を聞かせてください」


リビングへ通される。

父親はソファに座っていた。


私たちの姿を認めると、彼は弾かれたように立ち上がり、深く頭を下げた。


「松田です。わざわざお越しいただき……」


私も手短に挨拶を済ませ、彼に座るよう促した。

改めて見ると、父親の頬に浅い傷があった。

何日も眠っていない人間の顔だった。


「お嬢さんのご様子は」


そう言いながら、懐から取り出した手帳を開く。


本当はスマホのアプリのほうが使いやすくて便利なのだが、娘の異常に心をすり減らしている親の前で画面を覗き込めば、「不真面目だ」と、余計な不信感を植え付けかねない。

あえて古風な手帳へ文字を刻んだ方が、藁をも掴む思いの依頼人に「この男はプロだ」という奇妙な安心感を与えることを、私は経験上知っていた。


父親は母親と顔を見合わせた。


「熱があります」

「正確な数値を。それと、発熱はいつからですか」

「三日前から、四十度近く……その日のうちに救急へ連れて行きました」


母親の顔が暗くなった。

私が手帳にペンを走らせる音が、静かな部屋に小さく響く。


「病院の診断は」

「検査しても、原因がわかりませんでした。血液検査も脳のCTも異常なしって……」

「それで?」

「熱が下がらないので入院を勧められました。……でも、あの子が狂ったように暴れて、病院のベッドを拒んだんです。点滴の針を引きちぎって、家に帰ると叫んで……それで……電話でお話した通り……あれが……」


母親が言葉を詰まらせ、自身の両腕を抱くようにして震えだした。

私は手帳に走らせていたペンを止め、視線を母親へと戻す。


「それで、医師が私を?」

「はい。千堂先生の連絡先を渡されました」

「その他に、何か異常は?」


それまで俯いていた父親が、重い口を開いた。


「変なんです」

「何が」

「夜になると……」


言葉が途切れた。


「夜になると?」

「誰かと話しているんです」


私は手帳を閉じた。

それ以上の説明は必要なかった。

そういう依頼だった。


「会わせてください」


母親の肩がわずかに震えた。


「先生」

「なんでしょう」

「無理に連れて行かないでください」


私は少し驚いた。


「本人がそう言ったんですか」


母親は頷く。


「先生を呼ぶなら、家から出るって」

「それで三日も放っておいた?」


父親が苦しそうな顔をした。


「……はい」


私は立ち上がった。

二階へ続く階段を上る。

突き当たりの部屋だった。


ドアは閉まっている。

ノックする。

返事はない。

もう一度ノックする。

それでも返事はない。


私はドアノブを回した。

鍵はかかっていなかった。


部屋へ入る。

少女はベッドの上に座っていた。


十四歳。


事前に聞いていた年齢より少し幼く見える。

膝を抱え、窓の方を向いている。

私が入ってきても、驚かなかった。


ただ、視線だけが動いた。

その目を見て、私は足を止めた。

熱のある人間の目ではない。


奇妙に澄んでいる。

冷たい。

こちらを観察している。

まるで、私の方が診察されているみたいだった。


「松田凛さん?」


少女は答えなかった。

私は笑顔を作った。

仕事用の顔だ。


「千堂です。お母さんから聞いているね」


沈黙。


「少し話をしよう」


沈黙。


「熱があるそうだね」


沈黙。


部屋の空気が重い。

何かいる。そういう気配ではない。

もっと単純なものだった。


強烈な拒絶。少女自身が発しているものだ。


「お父さんとお母さんが心配している」

「……余計なお世話」


初めて、声を聞いた。

思ったより普通だった。

かすれてはいるが、はっきりしている。


「病院には行ったんだね」

「行った」

「異常なし」

「そう」

「なら、私も帰ろうか」


少女の眉がわずかに動いた。

初めて表情が変わった。

私はそれを見逃さなかった。


「でも」


私は一歩近づいた。


「君から妙な気配がする」


少女の視線が鋭くなる。


「だから確認したい」

「嫌」


即答だった。


「なぜ?」

「嫌だから」


私はさらに一歩近づいた。


その瞬間だった。


机の上に置かれていたシャープペンシルが、床へ落ちた。

誰も触っていない。

少女の呼吸が速くなる。


「凛さん」

「来ないで」

「確認だけだ」

「来ないで」


今度は本棚の本が一冊落ちた。

鈍い音がした。


私は立ち止まる。

そして少しだけ安心した。


少なくとも、()()はいる。

何もないよりは、ずっといい。


「手を見せてくれ」

「嫌」

「一瞬で終わる」

「嫌」

「凛」


少女の顔が歪んだ。


怒りだった。

恐怖ではない。

少なくとも、最初はそう見えた。


「帰って」


彼女は言った。


そこで初めて、私は彼女が怯えていることに気づいた。

私ではない。私がこれからやろうとしていることに対して。


私は椅子を引き寄せ、ベッドから少し離れた位置に腰を下ろした。

無理に近づくつもりはない、少なくとも今は。


「何日眠っていない」


凛は答えない。


「三日か」


反応はない。


「四日?」


少女の視線がわずかに揺れた。図星らしい。


「食事は」

「食べてる」


嘘だ。頬は痩せていた。

唇も乾いている。


私はため息をついた。


「凛」

「……」

「君は何かを隠してる」


彼女の肩がぴくりと動いた。


「隠してない」

「なら手を見せろ」

「嫌」

「なぜ」

「嫌だから」


まただ。私は思わず笑った。

少女の顔が険しくなる。


「何がおかしいの」

「いや」


私は首を振った。


「ずいぶん頑固だと思って」


その瞬間、机の上の写真立てが倒れた。


ガタン。


大きな音が部屋に響く。

凛の呼吸が速くなる。

私は文字通り「ひっくり返った」写真立てを見つめた。


家族写真だった。

旅行先だろうか。

森の中、飛沫を上げる滝を背景に三人が仲睦まじく映っている。


写真の凛は笑っていた。

今の彼女からは想像もできないほど自然に。


「先生」


凛が低く言った。


「帰って」

「それはできない」

「どうして」

「仕事だからだ」

「お金?」


思わず眉が上がった。


「そう聞こえるか」

「違うの?」


私は答えなかった。

凛も黙る。


しばらく静寂が続いた。

窓の外で風が吹いている。

遠くで犬の吠える声が聞こえた。


「先生」

「なんだ」

「見たらどうなるの」


私は彼女を見た。

初めてだ。彼女の方から聞いてきた。


「何が」

「私の中」


私は少し考えた。

正直に答える。


「分からない」


少女の表情が固まった。

期待していた答えではなかったらしい。


「分からない?」

「分からない」


私は肩をすくめた。


「だから見たい」

「見たら消すの?」

「分からない」

「助けられるの?」

「分からない」


凛は唇を噛んだ。

私は続けた。


「でも、何もしなければ悪くなる」

「それも分からないでしょ」

「いや」


私は首を振った。


「それは分かる」


少女の視線が鋭くなる。


「どうして」

「君が怯えてるからだ」


凛は何も言わなかった。

だが、その沈黙は肯定だった。

私は立ち上がった。


「凛」


少女の身体が強張る。


「手を見せろ」

「嫌」

「一瞬だ」

「嫌」

「手だけだ」

「嫌」


今度はベッド脇のスタンドライトが揺れた。

倒れはしない。

だが確実に揺れている。

私を威嚇している。

あるいは拒絶している。


「凛」

「嫌」

「見せろ」

「嫌だ!」


初めて声が大きくなった。

その瞬間、スタンドライトが吹き飛んだ。

壁に当たって砕け散る。

私は反射的に身構えた。


凛自身も驚いたようだった。

彼女は壊れたライトを見つめている。

まるで、自分がやったとは思っていないように。

そこでようやく、私は確信した。

原因は彼女だ。だが意図的ではない。

少なくとも完全には。


「凛」


私はゆっくり言った。


「もう時間がない」


少女は顔を伏せた。

髪が揺れる。

小さく震えている。

泣いているのかもしれない。


「お願いだから」


彼女はかすれた声で言った。


「見ないで」


その一言で、私は初めて理解した。


彼女が恐れているのは痛みではない。

暴力でもない。

私に何かを見られることだ。

その理由はまだ分からない。


だが、分からないからこそ知りたくなった。

強く。どうしようもなく強く。


それは職業的な好奇心だったのかもしれない。

責任感だったのかもしれない。

あるいはもっと別の何かだったのかもしれない。

今となっては分からない。


ただ一つだけ確かなのは、この瞬間から私は、凛を助けたいのか、それとも彼女の秘密を暴きたいのか、自分でも区別できなくなり始めていたということだった。


私はドアを開けた。


「お父さん」


階下で物音がした。

しばらくして父親が顔を出す。

疲れ切った顔だった。


「なんでしょうか」

「少し手伝ってください」


凛の身体がびくりと震えた。


「嫌」


私は聞こえないふりをした。


「確認が必要です」


父親は娘と私を見比べた。

困惑している。

当然だ。

ベッドの上には十四歳の少女がいる。

痩せていて、熱があって、怯えている。

その横に私が立っている。


どう見ても私の方が強い。

どう見ても私の方が正しい。

だからこそ厄介だった。


「何をすれば」

「両手を押さえてください」


凛が立ち上がった。

後退る。壁際まで。


「嫌だ」


父親が苦しそうな顔になる。


「凛」

「嫌だ」

「先生の言うことを聞きなさい」

「嫌だ!」


本棚の本が何冊も床へ落ちた。


壁掛け時計が揺れる。

私は少女から目を離さなかった。


「凛」

「来るな」

「確認だけだ」

「嘘だ」


その言葉に私は少し苛立った。


「何が」

「確認だけじゃない」


少女の呼吸は荒かった。

肩が上下している。


「見たら終わりなんでしょ」


私は答えなかった。

答えられなかった。


実際、その可能性はある。

彼女の中に何がいるのか。

どれほど深く根を張っているのか。

まだ分からない。


「先生」


父親が不安そうに言った。


「本当に必要なんですか」


私は頷いた。


「必要です」


その瞬間、凛が笑った。

小さな笑いだった。

だが妙に耳に残った。


「ほら」


彼女は言った。


「誰も分からない」


私は黙った。


「先生も分からない」

「そうだ」

「なのに開けるの?」


私は一歩前へ出た。


「そうだ」


凛の顔が歪んだ。

怒りか。

絶望か。

あるいはその両方か。


「お父さん」


私は言った。


「押さえてください」


父親は動かなかった。

私は繰り返した。


「押さえてください」


沈黙。


その数秒が妙に長く感じられた。

やがて父親が歩き出した。

凛が首を振る。


「嫌」


父親は娘の肩に手を置いた。


「凛……」

「嫌だ」

「すまん」


その一言で終わりだった。

少女は暴れた。

想像していた以上だった。

父親の腕を振りほどこうとする。

蹴る。

引っかく。

噛みつく。

細い身体のどこにそんな力が残っているのか分からない。


私は手首を掴んだ。

熱かった。異様なほど。


「離せ!」


凛が叫ぶ。


「離せ!」


私は無視した。


「離せえぇぇぇぇぇ!」


窓ガラスが音を立てた。

ひびが入る。

部屋の照明が明滅する。

父親の顔から血の気が引いていく。


「先生……!」

「続けます」


私は短く答えた。


「でも」

「続けます」


凛の爪が私の手の甲を裂いた。

鋭い痛みが走る。

血が滲む。

その瞬間、私の中で何かが変わった。

ほんの僅かに。だが確実に。


私はここに呼ばれて来た。


助けようとしている。

時間も使っている。

説明もした。

それなのに、どうしてここまで抵抗されなければならない?


その感情が、頭をもたげた。

私はそれを押し潰そうとした。

もちろんだ。

相手は病人なのだから。

恐怖しているのだから。

だが消えなかった。むしろ強くなった。


凛は泣いていた。


涙で顔を濡らしながら、それでも私を睨んでいた。

その目が気に入らなかった。

まるで、私が何か間違ったことをしているみたいだった。

私は自分の奥から湧き上がる、その感情を認めたくなかった。

だから自分に言い聞かせた。


これは必要なことだ。

この子のためだ。放置すればもっと酷いことになる。


私は正しい。

私は正しい。

私は正しい。


そして気づけば、その言葉を、彼女のためではなく、

自分自身のために繰り返していた。


「押さえろ!」


気づけば私は怒鳴っていた。

父親がびくりと肩を震わせる。

凛は父親の腕の中で暴れている。


泣いていた。

叫んでいた。


だがその目だけは、私から逸らさなかった。

憎んでいた。心の底から。


私はその視線を真正面から受け止めた。


「先生……」


父親の声が震えていた。


「もう少し、別の方法は……」

「ありません」


私は即答した。


「今やらなければ、手遅れになります」


本当だった。少なくとも半分は。

もう半分は分からない。


だが、その時の私は、分からないという事実そのものに耐えられなくなっていた。

凛は必死に身体を捩った。


「嫌だ!」


涙で声が掠れている。


「お願いだから!」


私は手を止めなかった。

胸の奥に妙な熱が溜まっていた。

怒りとも興奮ともつかない熱だった。


「凛」

「嫌だ!」

「終わらせる」

「嫌だぁぁぁぁぁ!」


机の上の鉛筆立てが弾け飛んだ。

中身が部屋中に散らばる。

壁紙が裂ける。

窓ガラスが悲鳴のような音を立てる。


だが、もう誰もそちらを見ていなかった。


私も。

父親も。

凛さえも。

部屋の中心には、私と彼女だけがいた。


「千堂先生……!」


階下から母親の悲鳴が聞こえた。

私は無視した。

右手を伸ばす。

凛の胸元。

霊的な核へ触れるための特異な指の動きで、彼女の胸元を圧迫する。


少女の顔色が変わった。


今までとは違う。

怒りではない。

抵抗でもない。

純粋な恐怖だった。


その顔を見た瞬間、私は確信した。

そこにある。

彼女が隠しているものが。


「やめて」


凛が呟き続けた。

私は止まらなかった。


「やめて」

「お願い」

「やめて」


彼女は泣いていた。

本気で泣いていた。

私は知っていた。


ここで引くべきなのかもしれない。

一度仕切り直すべきなのかもしれない。

別の方法があるかもしれない。

もっと丁寧に話せばいい。


本当は分かっていた。だが、もう遅かった。

私は見たかった。

ここまで抵抗する理由を。

ここまで怯える理由を。

どうしても、今すぐ知りたかった。

その欲望を、私は責任感という言葉で塗り潰していた。


最後の障壁に指を押し当てる。

見えない何かが、軋んだ。


凛が絶叫した。


父親が顔を背ける。

私は力を込めた。

そして――砕けた。


何かが。

ガラスではない。

骨でもない。


もっと内側の、人格の奥にある何かが。


私は凛の内側を見た。

そこでようやく、彼女が何を隠していたのか理解した。


呪いではなかった。

少なくとも、それだけではなかった。


そこには、別の存在がいた。

ひとりの少女だった。

凛と同じ年頃の。

笑っている。

公園。

夕暮れ。

二人で歩く帰り道。

交わした約束。

名前。

記憶。

声。


その全てが、凛の魂の中心に焼き付いていた。


私は理解した。

その瞬間に、ああ、と。

そういうことか。


その少女はもういない。

死んでいる。

事故だったのか。

病気だったのか。

そこまでは分からなかった。


だが、確かなことが一つだけあった。

その少女の残滓は、彼女を蝕んでいた。

だから切除すれば助かる。

たぶん、高い確率で。


だが、それを切除した瞬間、凛は二度とその少女を思い出せなくなる。

私は全てを理解した。

そして同時に、凛も私が理解したことを悟った。


少女の目が見開かれる。


絶望だった。

あまりにも露骨な。

あまりにも子供らしい。

隠しきれない絶望だった。


その目を見た瞬間―――


私は、勝利を確信した。

彼女が必死で守っていた秘密を、私は暴いたのだ。

私は躊躇わなかった。

指先に力を込め、そこにある『何か』を掴み、引き剥がすように一気に引き抜く 。


パキン、と。 ガラスが微かにひび割れるような、乾いた音が脳裏に響いた。


次の瞬間、凛の身体から異様な熱が急速に引いていった。

部屋の空気を支配していた重苦しい圧迫感が、霧散するように消える。


ガタガタと鳴っていた窓ガラスも、嘘のように静まり返った。


「終わりました」


そう告げた私の指先には、淡く光る「死んだ少女の残滓」が、ただのエネルギーの塊となって残されているだけだった。


握りつぶすと、その光は霧散して消えた。


終わったのだ。

私は彼女を救った。

もう異常な熱に浮かされることも、怪異に蝕まれることもない。


「もう大丈夫です」


父親がほっとしたように息をつく。

だが、凛は動かなかった。


彼女は、自分の胸元に視線を落としていた。

ぽっかりと空いた、魂の中心。

そこに「誰」がいたのか、もう彼女には思い出せないはずだった。


名前も。

声も。

帰り道の夕暮れも、

交わした約束も。

すべては、ただの空白に変わってしまった。


彼女はその空白を、じっと見つめていた。

そして、ゆっくりと顔を上げた。


「……あ」


凛の目から、大粒の涙が溢れ出た。

それは、悲しみの涙ではなかった。

自分が何を失ったのかさえ分からない。


けれど目の前にいる男が、自分の命よりも大切だったはずの「何か」を木っ端微塵に踏みにじり、奪い去っていった。

その決定的な敗北の事実に対する、狂おしいほどの屈辱と怒りの涙だった。


少女は、言葉にならない絶叫を上げた。

父親の腕を振りほどき、ベッドから飛び出した。


怪異の力などもう残っていない。

ただの、痩せ細った十四歳の少女の身体だ。

それなのに、彼女は野生の獣のような凄まじい勢いで私に突撃してきた。


涙で視界を真っ赤に染めながら、狂乱状態で私に掴みかかる。


「返せ! 返せ!!返せえええええええっ!!!」


彼女の手が私の顔を引っかいた。

先ほどよりもずっと弱い、ただの子供の力だった。


けれど、その爪は私の皮膚を裂き、確かな痛みを刻みつける。

凛は私の胸ぐらを掴み、拳で何度も何度も私の身体を殴りつけた。

涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ただ私を殺すためだけに、

全ての力を振り絞ってぶつかってくる。


「何をしたの!? 私の、私の……!何を……!」


何を奪われたのか分からないからこそ、彼女の怒りは行き場をなくし、無限に膨れ上がっていた。敗北の悔しさと、私への純粋な憎悪だけが、彼女を動かしていた。


父親が慌てて後ろから凛を抱き留める。


「凛! やめなさい! 終わったんだ、もう大丈夫だから……!」

「放して!こいつを殺してやる! 殺してやるから!」


父親の腕の中で、凛はなおも私に向かって手足をバタつかせ、届かない爪を宙に突き立てていた。

その目は、私を命の恩人ではなく、取り返しのつかない略奪者として呪っていた。


私は一歩、後ろに下がった。

手の甲と頬の傷が、ズキズキと熱を持って痛む。


私は勝ったのだ。

彼女の頑なな拒絶を力づくでねじ伏せ、その命を救った。

数日もすれば、彼女は何もなかったかのように健やかな日常に戻るだろう。


感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはない。


けれど、涙に濡れた彼女の獰猛な眼差しには、押さえきれないほどの憎しみが込められていた。





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