終わる、その瞬間までも。
世界はゆっくり沈んでいる。今、この瞬間も。
* * *
窓を叩く、細かい音で目が覚めた。ベッドサイドの時計を手繰り寄せれば11時5分前。昼前なのに部屋の中は薄暗かった。
鈍く痛む頭を抱えながらリビングへ繋がるドアを開ける。そこにはコーヒーを飲む秋吉さんの姿があった。
「起きたか」
「…おはようございます」
おはようというにはあまりにも遅いことは分かっていたが、秋吉さんは何も言わなかった。あたしはインスタントのコーヒーをマグに淹れ、秋吉さんの向かい側に座る。
「アメ、降ってたんですね」
「明け方ごろからな。もうすぐ止むだろ」
言われて窓を見れば、細かい砂が降っているのが見えた。
アメ。それは天から落ちる細かい砂を指す。便宜上、アメと呼んではいるが雨とはまったく異なるものだ。
地球上で起きた原因不明の異常気象。細かい砂は一日に何回も降り、地上を埋めていった。今となっては砂のない場所など存在しないだろう。
かつては3:7だった陸と海の比率も今では7:3に逆転してしまった。湖や川は徐々に砂に埋まり、人類は慢性的な水不足に悩んでいる。
気まぐれに降る雨だけが、この世界の唯一の希望だった。
苦いコーヒーを飲み、点きっぱなしのテレビを見る。たくさんあった放送局も今ではNHKと民放が1チャンネルだけになってしまった。
空から降る砂――通称・降砂――はまず最初に交通機関をダメにした。
アメは一日のうちに何回も降る。撤去するそばから降り注ぎ、やがては砂を捨てる場所もなくなった。撤去作業が中止されるとあっという間に道路や線路などは埋まってしまった。
さらに降砂は細かいために電子機器などあらゆる機械の隙間に入り込み、それをダメにする。外で風雨に晒されていたものは軒並み壊れてしまった。
細かい砂は人体にも影響を与えた。砂を吸い込むとそれは肺にまで入り込み、蓄積されていく。やがて人は呼吸困難に陥り命を落とすのだ。
「どうした?」
「いや…買い物に行けないなぁと思いまして」
テレビと窓を交互に見る私を見て秋吉さんが怪訝そうな顔をする。曖昧に笑ってそう言ったら納得してはないみたいだけど、それ以上何も聞いてこなかった。
秋吉さんが立ち上がってマグを台所に持っていく。空になった私のマグもついでに持っていってくれた。
「番組、面白くないですね」
「再放送だからな。先月もやってたぞ、それ」
あぁ、どうりで。どっかで見たなぁとは思ったんだ。
テレビ局も最初は競ってこの異常気象を報道していたが、今では録り溜めしたものを放送するくらいやることがないのだろう。
降砂に関する情報はたまにNHKから入ることがあるが、それも真実かどうか怪しい。辛うじて生き残った情報回線はもっぱら日本政府が独占しているという噂だ。
「アメ上がったら買い物に行くのか?」
「はい。何か必要なものありますか?」
「いや。……あぁ、煙草。切れたから新しいの買ってきてくれると助かる」
食器を洗い終わった秋吉さんが手を拭いてリビングに戻ってくる。それに分かりました、と頷いて私は着替えに部屋に戻った。
秋吉さんと私は何の関係もない、赤の他人だった。同じマンションの上の階に住む秋吉さん。ただそれだけの接点だった。
たぶん降砂なんてなかったら、この先も関わることなんてなかったと思う。
大学のために地方から出てきた私は、交通機関が麻痺したことによって実家に帰る機会を失った。次々と街が陸の孤島となる中で、女が一人で暮らしていくのはあまりにも危ない。
この閉鎖的な世界では女性はいつだって弱者の位置付けだ。実際、私も危ない目に会いかけて秋吉さんに助けられた。
それ以来、秋吉さんの親切心でこの奇妙な同居生活が続いている。意外にも居心地がいいと思ってるのは、たぶん私だけなのだろう。
体の線が分からないように大きめのトレーナーとジーンズを履く。帽子はアメが降るようになってからの必需品だ。
「買い物行ってきますね」
テーブルに置きっぱなしの財布を鞄に突っ込んでテレビを見る秋吉さんを振り返る。
「一緒に行くか?」
この言葉に私は首を横に振った。外に出る度に問われること。それは私が秋吉さんと暮らすことになった過程を考えれば当たり前のことで。
「大丈夫です。近所ですから」
少しだけ眉を寄せた秋吉さんには気づかないフリをして、私は玄関に向かった。
今でも外に出るのを躊躇うときがある。秋吉さんはきっとそれに気づいていて、毎回聞いてくれるのだ。でも居候させてもらってる身でそこまで我が儘は言えない。
「莉央、」
靴を履いたところで秋吉さんに名前を呼ばれる。私は何だろうと思いながら振り返って「っ!」あまりの近さにびっくりして固まった。
いつの間にか秋吉さんは私の背後まで来ていたらしい。全然気づかなかった。
秋吉さんは固まる私のことなどお構いなしに腕を伸ばしてくる。手にはマスクを持っていた。
「風強いから着けとけ」
「あ…」
そう言ってマスクを私の耳にかけた。秋吉さんの指が私の耳に触れるのが分かって、少しだけ体が熱くなる。
ついでにサングラスもつけられた。帽子にマスクにサングラス。完全に不審者の格好だ。
「やりすぎじゃないですか?」
「どうせ誰も見てねぇよ」
笑ったら帽子を目深に被せられた。そのまま外へと送り出される。外は砂塵が舞っていた。
降砂は止んでいたが風によって地に落ちた砂が舞い上がる。秋吉さんがしてくれた防護のおかげで、なんとか砂を吸わなくて済みそうだ。
「視界は最悪だけど」
砂塵が舞っている上にサングラスまでかけている。薄暗い視界に苦笑しながら、私は一歩を踏み出した。
もうずっとクリアな世界を見ていない。それをまた見る日は来るのかな。
歩いて15分のところにあるスーパーに行くのに30分もかかってしまった。中に入ると予想外に客が居る。
店内には決して多くはない野菜などが並んでいた。これでも多い方らしい。
国内自給率が最低ラインを割った日本では、各地の配給を揃えるだけでもやっとだ。ましてや輸送手段をことごとく絶たれている今、それを届けるのも難しいのだという。
ここが品揃えが良いのは本店が外国に存在し、輸入品を直で取り揃えることができるからだ。その代わり、値段は張るのだが。
「えーと、じゃがいもとにんじんと…たまねぎと……」
あれ。どこかで聞いたような材料が。私はもう一度カゴの中を見る。じゃがいもとにんじんとたまねぎ。……うん。カレーが作れる。
そこはいい。ただ問題があるとするならば。
「…昨日もカレーだったんだよね」
というよりここ三日、カレーだったりするのだ。秋吉さんは何も言わないが、さすがに飽きていると思われる。
こんな時代だから贅沢を言えないことは分かっている。だけどこんな時代だからこそ、食事くらいに楽しみがあってもいいと思うのだ。
悩んだ末に私はシチューを作ることにした。材料、そんなに変わらないし。ついでだからパンもあったら買っていこう。
「これで全部かな?」
カゴの中をもう一度確認してレジに並ぶ。野菜などは以前に比べて明らかに粗悪品なのに、値段は二倍だ。世知辛い世の中になったものだ。
重くなった買い物袋を片手にサングラスとマスク、帽子を被る。外に出れば太陽が陰ったような気がして、私は空を見上げた。
空は雲ひとつない。そのことに眉を寄せる。
「また降るかも」
雲もないのに太陽が陰るのは降砂の前兆だ。私はなるべく早足で家に向かって歩く。
家に着く頃には空気が少しだけ埃っぽいような気がした。鍵を開けて中に入り「っ、」立っていた人物に目を見開く。
「……秋吉さん?」
「帰ったか」
私が帰ってきたのを見て秋吉さんが微かに頬を緩ませる。心配してくれたのかな、なんて都合良すぎるかな。
秋吉さんは靴を履いていた。よく見ればジャケットを羽織り、手には帽子を持っている。
「出掛けるんですか?」
「野暮用でな。夕飯までには戻るから」
「でも……」
外、アメが降りそうなのに。
そんな私の心の声が聞こえたのか、秋吉さんが安心させるように私の頭を撫でる。
最後にマスクを着けて家から出ていってしまった。途端に家の中がなんだか広く感じる。
「……夕飯作ろう」
寂しい、と思う自分の心に蓋をして。私は荷物を床に置いて家に上がろうとした。「っ!」その瞬間、外のチャイムがなる。びっくりして固まるが、チャイムはもう一度鳴らされた。
「だれ……?」
外はアメ。そんな時に出歩く酔狂な人間は、今の日本には居ないだろう。
そこまで考えて秋吉さんかもしれない、と思った。降砂が思ったよりも酷くて戻ってきたのかもしれない。
そんなことを考えたらそれが正解のような気がした。急かされるように鳴り続けるチャイム。私は慌てて鍵を開けた。
「今あけま、――っ!?」
ドアを開けた瞬間、差し込まれる腕。それは私の肩を思いっきり押した。予想外のことにあたしは思いっきり後ろに倒れる。
痛みに顔をしかめながら玄関を見上げれば、見知らぬ男が私を見下ろしていた。その瞬間、自分が大きな間違いを犯したことに気がついた。
「お前ひとりか」
「……」
「一人だろ? 買い物だっていつも一人だったもんな」
興奮したような男の声。やっぱり遠慮なんかしないで秋吉さん着いてきて貰うべきだったんだ。
男は目だけを異様にギラつかせ、私を見る。腹が立った。馬鹿な自分に。
法とかモラルとかそんなものが通用する時代はとっくに終わっていたのに。こうなったのは無用心な自分が悪いのだ。
「帰ってください」
ありったけの勇気をかき集めて言ったけど、声は震えていた。怯える私の姿に男がニヤリと笑う。
男は倒れたままの私に覆い被さるといきなり唇を押し付けられた。そのまま無理矢理舌をねじ込まれる。
嫌悪感に、全身に鳥肌がたった。同時に涙が出る。悲しいからじゃなくて悔しいから。
いつだって私は弱者。それが嫌でもそれは変えようのない事実だ。
男の手が服の中に侵入する。ガサガサの指が自分の肌を這うのを感じて、口の中に苦い味が広がった。思わず咥内にある男の舌を噛む。
「いっ!」
舌を噛まれた男は私から上半身を逸らし、口元を押さえる。それから思いっきり私の横っ面を拳で殴った。
脳が揺れるくらいの衝撃。一瞬、気が遠くなったあと、喉に圧迫感を感じた。目を開ければ男が私の首を絞めている。
「なめたマネしやがって……!」
「…ぁっ…」
「お前は黙ってヤられてろよ」
そう言ってさらに2・3発殴られた。唇が切れたのか、口の中に血の味が広がる。
大人しくなった私に気を良くした男は再び私の服の中に手を突っ込んだ。大人しくしたのは殺されるかもしれないと思ったからだ。そこまで考えておかしくなる。
犯されるのと、殺されるの。どちらの方がマシなのだろうか。
男の手がジーンズにかかる。覚悟を決めた瞬間「うわ…!?」体の上から重みが消えた。びっくりして目を開ければそこには意外な人物の姿が。
「秋吉さん……?」
「なんだ、テメェ!」
秋吉さんは黙って私の姿を見下ろすと思いっきり顔をしかめた。それから引き剥がした男の鳩尾に拳を叩き込む。
容赦ないそれに、男は一発で落ちた。秋吉さんはそれをドアの外に投げ捨て、鍵とチェーンをかける。
嫌な沈黙が部屋の中に充満した。
「……あ、の」
「なんだ」
「ありがとうございました」
呟いて、涙が出た。安心して涙が止まらなかった。
怖かった。どうしようもなく怖かった。首を絞められたとき、初めて死への恐怖を知った。
子供のように泣きじゃくる私を黙って見ていた秋吉さんは、小さく舌打ちすると乱暴に私の腕を掴んで引き寄せた。そのまま胸に顔を押し付けられる。
「バカヤロウ……!」
感情を押し殺したような、短い言葉。でもその一言に秋吉さんの想いが全て込められてるような気がした。
心配をかけたんだと思う。犯されそうになってる私を見てびっくりしたんだとも思う。
「あれほど、相手を確認せずにドアを開けるなと言ってただろ」
「ごめんなさい」
「俺が戻ってなかったらどうなってたのか分かってるのか」
小さく頷けばまた秋吉さんに抱き締められた。「……もう一発殴っときゃ良かった」そんな声が聞こえて思わず笑う。
こうやって怒って、心配される程度には好かれてるって思っていいのかな。抱き締める腕に愛を探してもいいのかな。
「なんで……戻ってきたんですか?」
「……煙草」
「え?」
「買うの、頼んだだろ」
言われて思い出す。それをわざわざ取るために? 思わず秋吉さんを見れば気まずそうに視線を逸らされた。
分かりやすい嘘。でも騙されてあげよう。心配してくれたことが嬉しいから。
秋吉さんのジャケットに着いた砂を払えば、秋吉さんが私の髪についた砂を落としてくれる。それから諦めたようなため息を漏らした。
「秋吉さん?」
「お前になにかあったら……俺が困る……」
絞り出すように言われた一言。
そんな壊れ物を扱うような手つきで、そんなこと言うなんて。――それはまるで。
「もう勝手にドアは開けません」
「絶対だ」
「買い物にも付き合ってくれますか?」
「行くよ」
「……まだ、ここに居てもいいですか?」
「……ここに居ろ」
その言葉に私は秋吉さんの胸に顔を埋めた。
たぶんこんなことにでもならなければ、出会うこともなかった私たち。他人よりは親密で、友人よりは希薄な同居人だ。
秋吉さんに抱く感情はなんだろうか。名前を付けるとするならば、それは恋なんだとは思う。
ただそう思うにはあまりにも私たちの関係は曖昧だ。
――それでも。
沈んでいくこの世界で一緒に過ごそうと思うくらいには、お互いのことを想っているのだ。それは分かる。
名前をつけるなら、やっぱり恋なのだろうか。あるいは。いずれ、恋へと成長するものなのかもしれない。
窓を叩く砂の音を聞きながら、私は秋吉さんの背中に腕を回した。
突発的な短編です。連載が書けないので逃避してるとも言います。
もしかしたら続きを書くかも。続編を望んでくださる心優しい方がいらっしゃったら、ぜひ書き込んでください。
今回は読んでくださりありがとうございました。
何かありましたら遠慮なく書き込んでくださいませ。
*藤咲慈雨*