第9話 兵士たちの食卓
冬の朝は早い。
屋敷に来て十日が過ぎていた。
薪の緊急発注、寝具の洗い直し、保存食の仕分け。やれることからやってきた。ドーネの権限を少しずつ迂回しながら、実態の把握を進めてきた。
残っていた課題の一つが、兵舎の食事だった。
帳簿上の食料費と、実際の食事の質が合わない。それはルカスへの最初の報告で指摘したことだ。だが指摘するだけでは何も変わらない。今日、実際に手をつける。
「おはようございます、コーラ料理長」
夜明け前の厨房で、五十がらみの、どっしりとした体格の女性が振り返った。コーラ・ハンセンは、この屋敷で二十年以上腕を振るってきたベテランだ。セリーヌが着任してから、最も早く心を開いてくれた使用人のひとりでもある。
「奥様、またこんな早くに」
「兵士たちへの食事の支度を、直接見せてもらえますか。帳簿で確認した数字を、実際の作業と突き合わせたくて」
コーラの表情が、かすかに曇った。
「……お見苦しいものをお目にかけることになりますが」
「構いません」
案内されたのは、母屋の厨房とは別に設けられた、兵舎用の調理場だった。石造りの質素な建物の中に、大鍋がいくつか並んでいる。そこで働いているのは、年若い下男がふたりだけだった。
鍋の中を覗き込んで、セリーヌは息を止めた。
薄い麦粥。具らしい具は、干からびた根菜がわずかばかり。
帳簿の数字は頭に入っていた。食料費として計上されている額と、目の前のこの鍋の中身は、どう計算しても釣り合わない。
「これが……毎朝ですか」
「左様でございます。昼は黒パンと塩漬けの豚肉が少々。夕は芋の煮込みで」
「コーラさん」とセリーヌは言った。「今、屋敷の貯蔵庫には何がありますか」
「旦那様が秋に仕入れてくださった小麦粉と、乾燥豆が。それから、近隣の農家から買い上げた根菜類が倉庫の奥に」
「豆は?」
「レンズ豆が樽で三つほど。白インゲンも。ですが、それらはドーネ様が――」
「今日から、私が食料の管理を引き継ぎます」
コーラは目を丸くした。それから、じわじわと表情が変わっていった。長年、理不尽な状況に耐えてきた人間が、ようやく救いの手を見つけたときの顔だった。
「……よろしいのですか」
「はい。まず今日の昼食から変えましょう。豆と根菜のシチューを作れますか。香草はありますか」
「乾燥タイムとローズマリーでよければ」
「十分です。それから、黒パンを今日は倍量焼いてください。足りない食材は、明日街から買い付けます。その頭金は私が出します」
コーラが眉をひそめた。「奥様、しかしそれは……」
「数日分でいい」とセリーヌは言った。「その間に、帳簿を整理します」
持参金から立て替える形になるが、それでいい。帳簿が整えば、どこへ何が流れたかも見えてくる。食事を変えることは、問題の在処を証明する作業でもあった。
コーラは深く頭を下げた。その肩が、かすかに震えていた。
昼の鐘が鳴る頃、兵舎の食堂は騒然としていた。
騒然、といっても、それは怒号ではない。困惑の声だった。
「なんだこれ」
「シチューか? 本物の?」
兵士のひとり——二十代前半の、がっしりとした青年が、椀を持ったまま固まっていた。中には、白インゲンとにんじん、かぶ、そして塩漬け豚肉がたっぷりと入ったシチューが湯気を立てている。隣には焼きたての黒パンが添えられていた。
「食べないの?」
声がして、兵士が振り返ると、そこに立っていたのは見慣れない若い女性だった。上質だが質素な服装で、手には自分でも椀を持っている。
「あ、あんた……奥様?」
「セリーヌ・ラングレーです。冷めないうちに食べてください」
兵士は慌てて敬礼しようとしたが、椀を持っているので半端な姿勢になった。セリーヌはそれを手で制した。
「堅苦しいことは抜きで。私も一緒に食べさせてもらっていいですか。食堂の使い勝手を確認したくて」
「は、はあ……」
セリーヌはテーブルの端に腰を下ろし、シチューをひとくち食べた。悪くない。コーラの腕は確かだ。もう少しスパイスがあれば、さらに良くなる。香草の補充も考えなければ。
食堂の中が、じわじわと賑やかになってきた。最初は戸惑っていた兵士たちも、シチューの味に気づいてからは次々とパンをちぎり、椀に浸して食べ始めた。
「うま……」
誰かがぽつりとつぶやいた。その一言で、食堂に笑いが広がった。
夕方、ルカスがセリーヌを書斎に呼んだ。
「今日、兵食を変えたそうだな」
「はい。帳簿で確認していた差分を、実際に整理しました。まず改善できるところから手をつけています」
「費用は」
「当座の頭金は私が立て替えています。帳簿を整理して本来の予算が確保できれば、そこから正式に計上していただければと」
ルカスはしばらく黙っていた。窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっている。
「……兵士たちが、喜んでいたと副官から報告があった」
「それは良かったです」
「あなたは」とルカスが言った。「なぜそこまでする。どうせ春には出ていくのに」
その言葉は、刺のようにセリーヌの胸に刺さった。だが彼女は表情を変えなかった。
「今ここにいる間は、正しくありたいからです」
ルカスは何か言いかけて、やめた。
しばらく経ってから、静かに言った。
「……好きにしろ」
その言葉は突き放しているようで、どこか、許可とも聞こえた。
それがルカスの精一杯の言葉なのだろう、とセリーヌは思った。
夜、部屋に戻ると、ラヴィが扉の前で待っていた。
「セリーヌ」
「ラヴィ、こんな時間に。寒いでしょう」
「ねえ」と六歳の少女は言った。「兵隊さんたちのごはん、おいしかった?」
「え?」
「ヤンが教えてくれた。ヤンはね、門番の人で、いつも私にあめをくれるの。今日のごはんはすごくおいしかったって、初めて言ってた」
セリーヌはしゃがんで、ラヴィと目線を合わせた。
「そう。それは嬉しいな」
「セリーヌがいてくれたら、みんなが嬉しくなるね」
子供の言葉は、時として大人が思うよりずっと深く、心に届く。
セリーヌはラヴィを抱きしめた。外は冬の風が吹いていたけれど、この小さな温もりがあれば、もう少し頑張れそうだと思えた。




