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第5話 名前が広まる日

中継宿というのは、辺境への旅人や商人が使う休憩所だった。


ラングレー領の中継宿は、街道沿いに一軒ある。

辺境伯家が管理しているが、実質的には放置状態に近く、古くからいる宿主の老夫婦が細々と運営していた。


セリーヌがそこに顔を出したのは、屋敷に来て五日目のことだった。


「奥様が直々に?」


宿主のペイは驚いた顔をした。七十近い老人で、腰が少し曲がっていた。


「屋敷の冬支度を担当しております。中継宿もその範囲に入ると思いまして」


「はあ……でも、奥様がいらっしゃるとは聞いておりませんで」


「今日から知っておいてください」


宿を一通り確認した。


客室は六室。

暖炉はあるが煙突の掃除が十分でない。

食堂は席が少なく、朝食は粥と固いパンだけだった。


「朝食を変えましょう」


「でも、費用が」


「費用の話は後でします。今日は内容だけ決めましょう」


保存食の中で余っているものを確認し、近隣で安く手に入る食材を聞き、シンプルだが体が温まる朝食の献立を一週間分考えた。


具の多いスープ。卵料理。季節の根菜の煮物。

材料費を計算しながら、値段も少しだけ上げた。


「こんなに出したら、お客さんが来なくなるんじゃないですか」


「来ます」


セリーヌは言い切った。


「商人は費用対効果で考えます。同じ値段で腹が満たされないより、少し高くてもしっかり食べられるほうを選ぶ。それから口コミで広がります」


ペイは半信半疑だったが、断らなかった。


---


三日後に答えが出た。


中継宿を使った行商人が、次の宿でこう言った。

「ラングレーの宿の朝飯が変わった。旨かった」


それが伝わった。

翌々日には、遠回りしてでもラングレーの中継宿に寄る商人が出てきた。


一週間で売上が倍になっていた。


「奥様のおかげです」


ペイの妻がセリーヌの手を握った。

皺だらけの小さな手だった。


「うちはずっと、お客が来ないのは仕方ないと思っておりました。でも奥様は、変えられるとおっしゃって、本当に変えてくださった」


「大したことではありません」


「大したことです」


ペイの妻は目を潤ませていた。


セリーヌは少し困った。

泣かれるとどう対応すればいいか、少し分からなくなる。


「これからも何かあれば言ってください」


それだけ言って、宿を出た。


街道に出ると、荷馬車の御者が会釈した。


「ラングレーの奥方様ですか? 宿の朝飯、旨かったです」


知らない人に声をかけられたのは、久しぶりだった。

王都の義母の屋敷では、セリーヌは「透明人間」だった。

帳簿を管理して使用人を動かして、でも誰も名前で呼ばなかった。


「セリーヌ・ラングレーです」


セリーヌは答えた。


「旦那様によろしくお伝えください」


馬車が走り去った。


ラングレー。


三年間、使ってこなかった姓だ。

今だけ借りているような気がしていた。


でも今は、少し違う感じがした。


---


その夜、夕食のとき、ルカスが珍しく食堂に来た。


セリーヌと向かい合う形で座り、スープを飲んだ。

ラヴィが二人の間に座って、もくもくとパンを食べていた。


「中継宿の売上が上がったと聞いた」


「一週間で倍です。献立を変えて、価格を少し調整しました」


「費用は」


「初期投資は屋敷の保存食の余りを使ったので最小限です。来月からは宿の収益で賄えます」


「……なぜそれを思いついた」


「商人の動線を考えました。この街道を通る人たちが何を求めるか。寒い季節には温かくて腹にたまるものを、疲れた体には手早く出てくるものを、です」


ルカスはスープを飲みながら聞いていた。


「街道で褒められました」


セリーヌは少し付け加えた。


「商人に声をかけられて、ラングレーの奥方様かと」


ルカスがスープから顔を上げた。


「……そうか」


表情は動かなかった。

でも、何かが少し変わった気がした。


「おいしい?」


ラヴィがルカスに聞いた。


「ああ」


「セリーヌ様が教えてくれたの。スープはちゃんと時間をかけないとおいしくないって」


「そうか」


「おじ様も、おいしいってセリーヌ様に言わないといけないよ」


ルカスが少し動いた。セリーヌを見た。


「……うまい」


「ありがとうございます」


ラヴィがにこにこした。


セリーヌはスープを飲みながら、窓の外を見た。

冬の夜が、暗く深く広がっていた。


まだまだ仕事がある。

倉庫の帳簿。横領の調査。雪解け後の離縁。


やることは、たくさんある。


でも今夜のスープは、確かにおいしかった。

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