第3話 契約という名の条件
夫が戻ったのは翌日の昼すぎだった。
セリーヌはそのとき厨房にいた。
ドーネから渡された帳簿の数字と実際の在庫を照らし合わせながら、料理番のコーラと話していた。
「薪は今週中に追加発注します。保存食はこの三品を早めに使い切りましょう。補充はこちらの優先順位で」
「はあ……でも旦那様のお許しが」
「後ほど旦那様に話します。今は確認だけさせてください」
コーラは困惑した顔をしていたが、帳簿を示しながら話すと少しずつうなずくようになった。
数字は嘘をつかない。
数字を丁寧に見せれば、人はたいてい理解する。
「奥様」
使用人が厨房の入り口に顔を出した。
「旦那様がお戻りになりました」
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応接室に通されてから、十分ほど待った。
ドアが開いたとき、セリーヌは立ち上がった。
ローゼル・ルカス・ラングレー辺境伯は、背が高かった。
それだけは式の日に覚えていた。
三年経っても、その印象は変わっていなかった。
三十に近い年齢のわりに顔立ちは若い。
ただし疲れている。
目の下に影があり、外套はまだ旅装のままだった。
戻ってすぐに応接室に入ってきたことが分かった。
短く刈り込んだ黒髪。
切れ長の目が、セリーヌを一瞥した。
「久しぶりだ」
声は低かった。感情が乗っていない。
「三年ぶりですね」
セリーヌも感情を乗せなかった。
ルカスは外套を脱いで椅子に座った。セリーヌも座った。
「母上から話は聞いている。離縁の件だ」
「はい」
「異存はない」
端的だった。
これがこの男の話し方らしかった。
セリーヌは帳簿を取り出し、テーブルの上に広げた。
「異存はありませんが、その前にいくつか確認させてください」
ルカスが眉を動かした。
「今年の薪の購入量と実際の在庫が合いません。差分が二十七パーセント。保存食は帳簿上の数と現物の数が食い違っており、特に干し肉と穀粉の記録が不自然です」
「……」
「寝具は倉庫のものにカビが多く、現在使用人たちが使っているのは修繕が必要なものです。屋敷の薪は今のペースでは二月を持ちません。補充の発注記録はありますが、実際には届いていない可能性がある」
ルカスは帳簿を見た。
表情は動かなかったが、目が細くなった。
「お前が調べたのか」
「昨日から今朝にかけて。倉庫、厨房、兵舎の備品置き場まで確認しました。兵舎の食事の質も、帳簿上の購入額と比べてかなり低い」
「……」
「物資の差分は、特定の取引業者への支払いに集中しています。グラウ商会という名前が繰り返し出てきます。市場価格より三割ほど高い単価で、大量の発注が記録されている。しかし実際の納品量と合っていない」
ルカスは帳簿のその箇所を見た。
少し間があった。
「家令のドーネが関与していると言いたいのか」
「そう疑っています。ただ、まだ証拠とは言えません。調べてみなければ分からないことが多い」
「……」
ルカスは帳簿から顔を上げた。
「ドーネは十年来の家令だ。父の代から仕えている」
「存じています。だからこそ、慎重に確認が必要だと思います」
「母上はこの件を知っているのか」
「さあ」
セリーヌは答えた。
正直なところ、義母がこれを知らないはずがないと思っていた。
王都の帳簿の不自然な送金と、この屋敷の物資不足は、繋がっている可能性が高い。
だが今は証拠がない。
証拠のないことを夫に言っても、信用してもらえないどころか、話を終わらせる口実になるだけだ。
「分かりません。ただ、王都の帳簿にも気になる箇所があります。確認するためには時間が必要です」
ルカスがセリーヌを見た。
初めて、ちゃんと見た、という感じがした。
「お前の言っていることが正しいとして」
声のトーンが少し変わった。
言葉を選んでいる、という感じだった。
「なぜお前がそれを調べる必要がある。お前は離縁しにきたんだろう」
「離縁の前に、持参金の清算が必要です。どこへ何が流れたか分からないまま署名はできません」
「……時間稼ぎじゃないのか」
「清算の時間です」
セリーヌは言い直した。
ルカスは少し間を置いた。
「ドーネからは、毎月報告を受けている。問題はないと」
「その報告書と、実際の在庫を照合してみてください」
セリーヌは帳簿の別のページを開いた。
「今月のドーネ氏の報告書によれば、薪の備蓄は冬越しに十分な量があります。でも実際の倉庫には、その三分の一しかない」
ルカスが黙った。
長い沈黙だった。
「……見に行く」
立ち上がりかけたルカスを、セリーヌは止めなかった。
止めるつもりもなかった。
自分の目で確かめてもらった方がいい。
ルカスは外套を羽織り直して部屋を出た。
セリーヌは帳簿を閉じ、静かに待った。
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三十分後、ルカスが戻ってきた。
椅子に座り直し、しばらく黙った。
「……確かに、合わない」
低い声だった。
「薪だけじゃない。保存食の棚も。ドーネの報告書と全然違う」
「はい」
「なぜ今まで気づかなかった」
それはセリーヌに向けた言葉ではなかった。
自分自身に向けた問いだった。
セリーヌは答えなかった。
ルカスが続けた。
「……ドーネが案内するのは、いつも同じ区画だった。整った場所だけ。私はそれ以外を、自分で確かめたことがなかった」
独り言のようだった。
気づいていなかったのではなく、見せてもらっていなかった。
その差は大きい。そしてルカスには、その差が今初めて分かったのだろう。
ルカスはしばらく考えるように黙ってから、口を開いた。
「……お前の要求は何だ」
「提案があります」
セリーヌは背筋を伸ばした。
「雪解けまで、この屋敷の冬支度を私に任せてください。薪の補充、保存食の管理、寝具の整理、兵舎の食事改善、帳簿の精査。全部やります。雪解けの頃に全て整えて、その後で離縁します」
「……お前に何の得がある」
「離縁の条件として、持参金の返還と清算を求めます。現状では私の持参金がどう使われたか不透明です。それを整理する時間が必要です」
「時間稼ぎか」とルカスは繰り返した。ただし今度は、問い詰めるのとは少し違う響きがあった。
「もうひとつ理由があります」
セリーヌは続けた。
「ラヴィ様のことです」
少しだけ、ルカスの表情が変わった。
ほんのわずかだったが、セリーヌは見た。
「今年の冬は特に厳しいと聞いています。ラヴィ様は体が細い。今の屋敷の状態では越冬が難しいかもしれない」
「……」
「それから」
声が少し低くなった。余計なことかとは思ったが、言わずにいられなかった。
「三年間、義母様の王都屋敷で家政を回してきました。使用人の手配、帳簿管理、季節の物資調達。誰も礼を言いませんでしたが、私はきちんとやってきた。最後に一つくらい、ちゃんと終わらせてもいいでしょう」
余計な一言だった。
感情が混じってしまった。
ルカスは黙っていた。
長い沈黙だった。
やがて彼は立ち上がり、窓の外を見た。
「……分かった」
振り返った目が、真っすぐだった。
「雪解けまで、この屋敷の冬支度の采配をお前に任せる。ただし」
「怪しいと思うことは逐一私に報告しろ。勝手に動くな。お前一人では危ない場面もある」
「……承知しました」
「それから」
ルカスは少し間を置いた。
「三年間、王都で一人で屋敷を回していたことは、知らなかった。知らせもしなかった。それは……私の落ち度だ」
謝罪ではなかった。
ただの事実確認だった。
でも、この男が事実として認識した、ということは分かった。
「では、よろしくお願いします」
セリーヌは頭を下げた。
これが始まりだった。
離縁に向けた、奇妙な協定の。
全ての答えは、まだ先にある。
義母の計算の中身も、帳簿の送金の行き先も、ドーネと繋がる糸の端も。
でも今は、この冬を越すことだ。
窓の外で、最初の雪が、静かに降り始めていた。




