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3/12

第3話 契約という名の条件

夫が戻ったのは翌日の昼すぎだった。


セリーヌはそのとき厨房にいた。

ドーネから渡された帳簿の数字と実際の在庫を照らし合わせながら、料理番のコーラと話していた。


「薪は今週中に追加発注します。保存食はこの三品を早めに使い切りましょう。補充はこちらの優先順位で」


「はあ……でも旦那様のお許しが」


「後ほど旦那様に話します。今は確認だけさせてください」


コーラは困惑した顔をしていたが、帳簿を示しながら話すと少しずつうなずくようになった。

数字は嘘をつかない。

数字を丁寧に見せれば、人はたいてい理解する。


「奥様」


使用人が厨房の入り口に顔を出した。


「旦那様がお戻りになりました」


---


応接室に通されてから、十分ほど待った。


ドアが開いたとき、セリーヌは立ち上がった。


ローゼル・ルカス・ラングレー辺境伯は、背が高かった。

それだけは式の日に覚えていた。

三年経っても、その印象は変わっていなかった。


三十に近い年齢のわりに顔立ちは若い。

ただし疲れている。

目の下に影があり、外套はまだ旅装のままだった。

戻ってすぐに応接室に入ってきたことが分かった。


短く刈り込んだ黒髪。

切れ長の目が、セリーヌを一瞥した。


「久しぶりだ」


声は低かった。感情が乗っていない。


「三年ぶりですね」


セリーヌも感情を乗せなかった。


ルカスは外套を脱いで椅子に座った。セリーヌも座った。


「母上から話は聞いている。離縁の件だ」


「はい」


「異存はない」


端的だった。

これがこの男の話し方らしかった。


セリーヌは帳簿を取り出し、テーブルの上に広げた。


「異存はありませんが、その前にいくつか確認させてください」


ルカスが眉を動かした。


「今年の薪の購入量と実際の在庫が合いません。差分が二十七パーセント。保存食は帳簿上の数と現物の数が食い違っており、特に干し肉と穀粉の記録が不自然です」


「……」


「寝具は倉庫のものにカビが多く、現在使用人たちが使っているのは修繕が必要なものです。屋敷の薪は今のペースでは二月を持ちません。補充の発注記録はありますが、実際には届いていない可能性がある」


ルカスは帳簿を見た。

表情は動かなかったが、目が細くなった。


「お前が調べたのか」


「昨日から今朝にかけて。倉庫、厨房、兵舎の備品置き場まで確認しました。兵舎の食事の質も、帳簿上の購入額と比べてかなり低い」


「……」


「物資の差分は、特定の取引業者への支払いに集中しています。グラウ商会という名前が繰り返し出てきます。市場価格より三割ほど高い単価で、大量の発注が記録されている。しかし実際の納品量と合っていない」


ルカスは帳簿のその箇所を見た。

少し間があった。


「家令のドーネが関与していると言いたいのか」


「そう疑っています。ただ、まだ証拠とは言えません。調べてみなければ分からないことが多い」


「……」


ルカスは帳簿から顔を上げた。


「ドーネは十年来の家令だ。父の代から仕えている」


「存じています。だからこそ、慎重に確認が必要だと思います」


「母上はこの件を知っているのか」


「さあ」


セリーヌは答えた。

正直なところ、義母がこれを知らないはずがないと思っていた。

王都の帳簿の不自然な送金と、この屋敷の物資不足は、繋がっている可能性が高い。


だが今は証拠がない。

証拠のないことを夫に言っても、信用してもらえないどころか、話を終わらせる口実になるだけだ。


「分かりません。ただ、王都の帳簿にも気になる箇所があります。確認するためには時間が必要です」


ルカスがセリーヌを見た。

初めて、ちゃんと見た、という感じがした。


「お前の言っていることが正しいとして」


声のトーンが少し変わった。

言葉を選んでいる、という感じだった。


「なぜお前がそれを調べる必要がある。お前は離縁しにきたんだろう」


「離縁の前に、持参金の清算が必要です。どこへ何が流れたか分からないまま署名はできません」


「……時間稼ぎじゃないのか」


「清算の時間です」


セリーヌは言い直した。


ルカスは少し間を置いた。


「ドーネからは、毎月報告を受けている。問題はないと」


「その報告書と、実際の在庫を照合してみてください」


セリーヌは帳簿の別のページを開いた。


「今月のドーネ氏の報告書によれば、薪の備蓄は冬越しに十分な量があります。でも実際の倉庫には、その三分の一しかない」


ルカスが黙った。


長い沈黙だった。


「……見に行く」


立ち上がりかけたルカスを、セリーヌは止めなかった。

止めるつもりもなかった。

自分の目で確かめてもらった方がいい。


ルカスは外套を羽織り直して部屋を出た。

セリーヌは帳簿を閉じ、静かに待った。


---


三十分後、ルカスが戻ってきた。


椅子に座り直し、しばらく黙った。


「……確かに、合わない」


低い声だった。


「薪だけじゃない。保存食の棚も。ドーネの報告書と全然違う」


「はい」


「なぜ今まで気づかなかった」


それはセリーヌに向けた言葉ではなかった。

自分自身に向けた問いだった。


セリーヌは答えなかった。


ルカスが続けた。


「……ドーネが案内するのは、いつも同じ区画だった。整った場所だけ。私はそれ以外を、自分で確かめたことがなかった」


独り言のようだった。

気づいていなかったのではなく、見せてもらっていなかった。

その差は大きい。そしてルカスには、その差が今初めて分かったのだろう。



ルカスはしばらく考えるように黙ってから、口を開いた。


「……お前の要求は何だ」


「提案があります」


セリーヌは背筋を伸ばした。


「雪解けまで、この屋敷の冬支度を私に任せてください。薪の補充、保存食の管理、寝具の整理、兵舎の食事改善、帳簿の精査。全部やります。雪解けの頃に全て整えて、その後で離縁します」


「……お前に何の得がある」


「離縁の条件として、持参金の返還と清算を求めます。現状では私の持参金がどう使われたか不透明です。それを整理する時間が必要です」


「時間稼ぎか」とルカスは繰り返した。ただし今度は、問い詰めるのとは少し違う響きがあった。


「もうひとつ理由があります」


セリーヌは続けた。


「ラヴィ様のことです」


少しだけ、ルカスの表情が変わった。

ほんのわずかだったが、セリーヌは見た。


「今年の冬は特に厳しいと聞いています。ラヴィ様は体が細い。今の屋敷の状態では越冬が難しいかもしれない」


「……」


「それから」


声が少し低くなった。余計なことかとは思ったが、言わずにいられなかった。


「三年間、義母様の王都屋敷で家政を回してきました。使用人の手配、帳簿管理、季節の物資調達。誰も礼を言いませんでしたが、私はきちんとやってきた。最後に一つくらい、ちゃんと終わらせてもいいでしょう」


余計な一言だった。

感情が混じってしまった。


ルカスは黙っていた。

長い沈黙だった。


やがて彼は立ち上がり、窓の外を見た。


「……分かった」


振り返った目が、真っすぐだった。


「雪解けまで、この屋敷の冬支度の采配をお前に任せる。ただし」


「怪しいと思うことは逐一私に報告しろ。勝手に動くな。お前一人では危ない場面もある」


「……承知しました」


「それから」


ルカスは少し間を置いた。


「三年間、王都で一人で屋敷を回していたことは、知らなかった。知らせもしなかった。それは……私の落ち度だ」


謝罪ではなかった。

ただの事実確認だった。


でも、この男が事実として認識した、ということは分かった。


「では、よろしくお願いします」


セリーヌは頭を下げた。


これが始まりだった。

離縁に向けた、奇妙な協定の。


全ての答えは、まだ先にある。

義母の計算の中身も、帳簿の送金の行き先も、ドーネと繋がる糸の端も。


でも今は、この冬を越すことだ。


窓の外で、最初の雪が、静かに降り始めていた。

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