第10話 ドーネの影
問題は、思っていたより早く表面化した。
翌朝、セリーヌが調理場に向かうと、コーラが青い顔で待っていた。
「奥様。昨日の食料費について、ドーネ様から問い合わせが」
「どのような内容で」
「食料の使用量が割り当てを超えているとのことで……倉庫の鍵を執事長室に戻すようにと」
セリーヌは一瞬だけ目を閉じた。来ると思っていた。しかし予想より早い。ドーネはよほど焦っているのだろう。
「わかりました。私がドーネさんに話します」
執事長室は、屋敷の管理棟の奥まった場所にある。ドーネ・バーナードは五十代の、神経質そうな細身の男だった。セリーヌが部屋に入ると、彼は書類から目を上げ、あからさまに不快そうな顔をした。
「奥様。食料の件ですが」
「はい」とセリーヌは穏やかに言った。「昨日から食料管理を私が引き継いでいます。旦那様に許可はいただいています」
「しかしそれは――」
「兵士たちへの食事が、予算に見合った内容になっていなかったので」
ドーネの顔が、かすかに強ばった。しかしすぐに取り繕うように微笑んだ。
「奥様はご存じないのかもしれませんが、辺境の物価は首都とは異なります。食料費は決して過剰ではございません」
「ならば、明細を見せていただけますか」
「……明細?」
「どこの業者から、何をいくらで仕入れているか。輸送費も含めた詳細を。昨年と今年の分を」
沈黙が落ちた。
ドーネは笑みを保ったまま、「少々お時間をいただけますか」と言った。
「もちろん」とセリーヌは言った。「三日後までにお願いします。それまでは現状の体制で参ります」
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廊下に出たところで、セリーヌは足を止めた。
予想通り、ドーネは資料を出してこないだろう。出せないのだから。問題は、次にどう動くかだ。
直接ルカスに告発する? 証拠が不十分なうちは動けない。ドーネを辺境の支配者である辺境伯夫人マルグリットが後ろ盾としているとすれば、半端な告発は逆に自分が追い出される口実になりかねない。
もう少し、証拠を集めなければ。
セリーヌは屋敷の地図を思い浮かべた。帳簿の怪しい項目のひとつに、「修繕費」があった。毎月一定額が計上されているが、実際の修繕記録と突合すると明らかに多い。その支払先は「グラウ商会」となっていた。
グラウ商会。一度確認してみる必要がある。
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街への道すがら、セリーヌは宿屋の女主人イーダと出会った。
「奥様、昨日は兵士たちのご飯を変えてくださったんですって? 街でも噂になっておりますよ」
「そうですか」
「うちの亭主が言うんです。兵隊さんたちが夕方に宿の飯を食いに来なくなったって」とイーダは笑った。「こっちは商売あがったりですけど、でも嬉しいんです。ちゃんと屋敷から食べさせてもらえるようになったんだなって」
セリーヌの脳裏に、何かが引っかかった。
「……これまで、兵士たちが食事に来ていたのですか」
「ええ。毎晩のように。安いのでよかったら、って言うんで、うちも薄利でお出ししてたんですけど」
それはつまり、屋敷の食事では足りなかったということだ。兵士たちは自腹で食事を補っていた。ルカスはそれを知らなかったのだろうか。いや――知らせる者がいなかったのだろう。
「イーダさん、少し聞かせていただけますか。グラウ商会というところをご存じですか」
イーダの表情が、わずかに変わった。
「……存じておりますが」
「何か?」
「表向きは雑貨と食料の卸をしている商会です。でも、街の人間はあまり好いておりません。旦那様がお着きになる前から、ここで商売をしていましたが……お代の取り方が少々ずるいといいますか」
「ずるい?」
「品物の質と価格が合わないんです。高い金を取るわりに、品質が悪い。でも屋敷の仕入れはずっとそこを使っているので……」
セリーヌは頷いた。絵が見えてきた。
ドーネは食料費を水増しし、グラウ商会を通じて差額を横領している。そしてその一部が、義母マルグリットへと流れている。
問題は——それを証明する方法だ。
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街の一角にある、くたびれた看板を掲げた商会の前で、セリーヌは立ち止まった。
直接乗り込むのは得策ではない。しかし外から観察するだけでも、何かわかるかもしれない。
「何をしているんですか」
背後から声がして、セリーヌは振り返った。
立っていたのはルカスだった。馬に乗っておらず、外套を羽織って歩いていた。どうやら巡回の帰りらしい。
「……旦那様」
「なぜここに」
「グラウ商会について調べていました」
ルカスの眉が動いた。
「グラウ商会?」
「屋敷の帳簿に、毎月定額の支払いが計上されています。修繕費の名目で。しかし実際の修繕記録と金額が合いません」
ルカスはしばらく商会の建物を見つめた。その目が、何か思い出しているように細くなった。
「……以前、副官が同じことを言っていた。調べようとしたが、ドーネが資料を出さなかった」
「今も出しません」
「あなたにも?」
「はい。三日の猶予を求めましたが、おそらく出てきません」
ルカスは小さく息を吐いた。その息が白く、冬の空気に溶けていった。
「証拠を集めているのか」
「集めようとしています。ただ――私ひとりでできることには限界があります」
沈黙。
「……副官のシクストを使え」とルカスは言った。「私の名前で動かしていい」
セリーヌは目を見開いた。
「よろしいのですか」
「ドーネが黒なら、早く片をつけたい」とルカスは言った。それだけだった。感情のない、事務的な口調だった。しかし——
セリーヌは頭を下げた。
「ありがとうございます」
ルカスは何も言わず、踵を返した。その背中を見送りながら、セリーヌは思った。
この人は、不器用なだけなのかもしれない。




