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第1話 名ばかりの妻と、仕組まれた離縁

冬の気配が漂い始めた十月の朝だった。


セリーヌ・ラングレー辺境伯夫人――旧姓フォルタン伯爵令嬢――は、嫁ぎ先の王都屋敷の食堂で、朝から帳簿を広げていた。


行儀が悪いのは分かっている。

でも朝の一時間だけが、誰にも邪魔されずに数字を確認できる時間だった。


三年間、ずっとそうしてきた。


最近、気になることがあった。


屋敷の維持費として処理されている項目の中に、宛先が不明な送金が混じっている。金額は小さくない。しかも月ごとに少しずつ形を変えながら、三年間ずっと続いている。


セリーヌは帳簿の該当ページに細い線を引いた。

証拠とは言えない。でも、気になる。


「セリーヌ」


義母の声がした。


マルグリット・ラングレー辺境伯未亡人。

白髪を高く結い上げ、今日も上質な絹のドレスをまとっている。

この女性が生き生きとした顔をするのは、誰かに命令しているときだけだ、とセリーヌは三年かけて学んだ。


「はい、義母様」


帳簿から顔を上げると、マルグリットの隣に見知らぬ令嬢が立っていた。


十八か十九。

水色のドレス。薄い金髪。

愛らしい顔立ちだったが、その目がセリーヌを品定めするように動いた。


ああ。


セリーヌは瞬時に状況を理解した。


「今月中に離縁届を用意しなさい」


マルグリットは磁器のカップを置きながら言った。

朝の挨拶もなかった。


「離縁、ですか」


「そうよ。あなたも分かっているでしょう。三年間、子もなく夫婦の実もない。ラングレー家に嫁いだ意味がどこにあるの」


「旦那様が直接おっしゃったのですか」


「手紙で合意をいただいています」


手紙で、というのは直接言ったことにはならないのではないか。

セリーヌはそう思ったが、口には出さなかった。


「そちらの方は」


「ヴァイオレット・コルベール男爵令嬢。ルカスの次の婚約者として、すでに打ち合わせが済んでいます」


ルカスというのは夫の名前だ。

ローゼル・ルカス・ラングレー辺境伯。

マルグリットはいつも息子をルカスと呼ぶ。


「初めまして、セリーヌ様」


ヴァイオレット嬢が一礼した。

声は可愛らしかった。

でもその目は、はっきりとこう言っていた。


――あなたはもうここにいなくていい。


セリーヌは胃の奥に熱いものが生まれるのを感じた。

三年間、ほとんど感じてこなかった種類の熱さだった。


怒り、だ。


ずっと黙ってきた。

勝ち目のない場所では黙っているのがいちばんいい、とそれがセリーヌのやり方だった。


でも今日は、少し違う。


「義母様」


セリーヌは帳簿をゆっくりと閉じた。


「離縁の話はお受けします。ただ、その前に確認させていただきたいことがあります」


「何かしら」


「私の持参金の管理状況と、この三年間の生活費の出所を、帳簿でご確認させてください」


静寂が落ちた。


ヴァイオレット嬢がきょとんとした顔をした。

マルグリットは表情を変えなかったが、指先が一瞬だけ動いた。


セリーヌはその動きを見逃さなかった。


やはり、この帳簿の不自然な送金は、見られたくないものだったのだ。


しかしマルグリットはゆっくりと目線をヴァイオレットに戻した。


「離縁前に帳簿を精査したいというの? ずいぶん用意周到ね」


「妻として当然の権利かと思います」


「いいでしょう。ただし」


マルグリットはカップを置いた。音が静かで、かえって圧があった。


「王都の帳簿だけでは全体は分かりません。ラングレー本領の帳簿と突き合わせなければ正確な清算はできない。どうせ確認するなら、辺境の屋敷へ行きなさい。ルカスと直接話して、納得した上で署名すること。それが誠意ある対応というものでしょう」


辺境へ行け。


セリーヌは一瞬だけ考えた。


義母が自分から辺境行きを勧めた。

それが引っかかった。


この女性が、セリーヌに有利な選択肢を自発的に与えるはずがない。

では辺境へ向かうことは、義母にとって何らかの計算のうちにあるということだ。


だが今のセリーヌには、その計算の中身を確かめる手段がなかった。


「……承知しました。では辺境へ参ります」


マルグリットが微かに笑った。

ほんの一瞬、口元が緩んだだけだったが、セリーヌは確かに見た。


あの笑みが気になる。


廊下に出た瞬間、膝が少し震えていることに気づいた。

怒りでも恐怖でもない。


三年間ずっと黙ってきた何かが、初めて声を出したときの震えだった。


行く。確かめる。そして、きちんと終わりにする。


それだけのつもりだった。

このときのセリーヌには、まだ。

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